㉛ 最終話 一年後
夜叉が亡くなってから一年。夜叉の記念館オープンの日。瑞生と本永は、新しい一歩を踏み出そうとしています。
【 一年後 二〇一六年六月二七日 】
瑞生は面会室の窓辺から部屋全体を見渡した。自分のお気に入りの椅子を定位置に置く。今日は“夜叉記念館”別名“ひさご亭”オープンの日だ。同時に苔田シアターのこけら落しの日でもある。
もうすぐThe Axeドームツアーライブの一回目の上映が終了し、完全予約制の客三〇名(プラス関係者三〇名)、招待客がこちらに移動して来て、ひさご亭のオープン記念式典が始まるのだ。
瑞生は初代館長として挨拶をすることになっている。グランドピアノの横のユーカリツリーの鉢にコアラの人形を付け、キリノの写真から見えるようにした。スーツは窮屈なのでゆっくり階段を降りていくと、かつての自分の控室にのそっと入っていくイグアナが見えた。
ここでイグアナを見かけるのは五回目くらいだろうか。「夜叉」と呼んでも振り向きもしないが、当たり前のように夜叉の椅子に座るから、あれは夜叉なんだろうな。僕が一人の時にしか見ないけれど、今度クマちゃんや本永に見えるのか聞いてみよう。
「抜群の音響だ。苔田さん、金掛けたなぁ」上映会を抜けてきた本永が入ってきた。「もうネクタイしてるのか。窮屈だろ」と慌ててポケットからネクタイを取り出した。カウンターラウンジのガラスに自分を映しスマホで締め方を調べながら、本永は話し出した。
「サニの言ってた通り、去年の暮にキューバは医者の海外渡航制限の法令を出した。サニは即座に亡命申請をしただろう? 今年二月の医師国家試験に一発合格してもう日本でも医師だから、日本政府も亡命を認めると決定したそうだ。さっきクマちゃんから連絡があった」
「ふうん」瑞生は挨拶を諳んじていたので少し上の空だった。
「俺さ、ずっと腑に落ちない事があったんだ。…ウィルスの事。サニが人生を掛けて日本に来たのはわかるよ。国外脱出してウィルスの潜伏を図るなんて極端な行動に出たのは、サニが見たくもない過去や未来のビジョンを見る男だからこその反応だよな。飛行機事故から発生した一連の事件は、夜叉がもたらしたものだと思われているけれど、俺はサニが起こしたものだって思っているんだ。それはつまりこれからも起こっていくということだよな。立和名なんか、お前のためにウィルス研究の第一人者になるって張り切ってる。外様は法的整備は自分がするってロースクール申し込んだ。先月拉致られかけたお前と俺が朏さん推薦の道場に行かされてるってのは何とも締まらないんだが。…まぁオルーラが日本に希望を見たんだと思えば、虚しくはないな」
本永はネクタイを締め終わった。が、裏側が長くてやり直しだった。
瑞生はそれを黙って見ていたが、カウンターに肘をついて話し始めた。
「僕も一つ。苦手の生物の話だ。サニはウィルスの宇宙生命体説を信じていると思う。僕もウィルスの反応や意思を時々感じる。その根拠に、メキシコ、ユカタン半島の小惑星衝突跡を挙げていたよね? チクシュルーブ・クレーターって言うの? その時の巨大津波で運ばれた岩石がハイチの山地やカリブ海で発見されているよね。ウィルスが海底やハイチの山で生き延び、陸イグアナや海イグアナに食べられて体内に入り、やがて宿主となったのだとしたら…。夜叉がキリノに言っていたように、ゾンビが炭化した後空気中に漂い、やがて雨になって降り注ぐ。それは宿主の記憶を持つ事もあるし、感情に共鳴することも、ウィルス同士で集合体的意識を共有することもあるのじゃないかな。ウィルスがサニを突き動かしたように、他の宿主も世界中に散らばって、やがて雨となって降り注ぐ。地上の生物、人間や犬やキリンや…他の生物も宿主となる。もしかすると、そう言う事なのかなって思う」
絡まるネクタイにブチ切れそうな本永の傍に行き、瑞生は黙々と締め直してやった。二〇センチ以上あった身長差は少し縮まっている。
「クマちゃん、忙しそうだけど今日来れるかなぁ」
「来るだろ。真っ赤な新しいドレス新調して」
クマちゃんは一回りスリムになってしまっている。昔のドレスでは布が余ってしまうに違いない。
言わずとも二人はわかっていた。それほど、この記念館とゾンビーウィルス解析センター(旧AAセンター)と瑞生とサニを守るのは苦難の連続なのだ。
「早く大人にならなきゃ」瑞生は呟いた。
「ああ、やっぱり降り出したな。天気予報通りだ」
窓の外にはスタッフやオープニングセレモニーの招待客が集まり始めていた。その中に目の覚めるような赤い人物を見つけて、瑞生は笑みをこぼした。
「“夜叉雨”だ」瑞生は笑った。
「お前、六月の雨をそう呼ぶのか?」
「日によるね。今日は血が騒ぐ、と言うか、細胞が騒ぐから“夜叉雨”だ。確かに六月に多いね」
「“梅雨”って言葉を知らないだけじゃないよな?」
完
キューバの航空機事故に端を発したゾンビ・夜叉の物語は瑞生と友人たちに引き継がれていきます。ウィルスを体内に抱えて生きる瑞生。それを守ろうとするクマちゃん、バンドの面々、本永や外様、立和名、サニ、警察庁の前島や朏…。一方、ゾンビーウィルスの幻影を追い求める人々、夜叉の遺産に群がる輩、伯父の存在も影を落とします。無力だった伯母・霞は本当の母たる闘争をやり抜くことが出来るのでしょうか。ウィルス発生源の謎、キューバ政府の方針、ハイチの不幸も何らかの影響をもたらすでしょう。彼らの前途は、厳しく困難に思われますが、きっと希望はあります。
そう、英語の勉強して、生き抜いていけば、勝機はきっとあるのです。
長い物語に最後までお付き合いくださいまして、有難うございます。感謝の気持ちでいっぱいです。読者様のお目に触れてとても幸いに、光栄に思います。




