㉕ 衝撃の告白
たった一人、夜叉からゾンビーウィルスを引き継ぐと決めた瑞生。外様のために夜叉にウィルスを請うた本永、異を唱える伯母・霞。刻一刻とその時は近づいています。
【 二〇一五年六月二六日 後篇 】
夜叉通信以降、邸内はひっそりと静まり返っていた。
一階のキッチン横の部屋で夕食を一人食べた。今日と言う日に孤食というのが、如何にも自分なのかな。
その後、形ばかりの勉強ポーズも苦痛になり、誰かに会えないものかと夜叉の部屋の方に行った。サニは驚くこともなく寝室手前の部屋に入れてくれた。もちろん夜叉はいない。
サニはインスタントココアの瓶を振って見せた。「僕のは砂糖を足さなくてもいいよ」
その時インタフォンが鳴った。午後八時過ぎに誰が来たのだろう。サニは玄関モニターを見て、警察官に訪問者を中に入れるよう指示した。そして何故か、瑞生を引っ張って、無理矢理ウォークインクローゼットの中に押し込んだ。
「サニ、なんで?」
何の説明もなくドアは閉ざされ、瑞生は暗闇の中にとり残された。
「八重樫?」
スマホのライトに照らされて本永の顔が出てきたので、腰を抜かした。
「も、本永? なんで夜叉の家のクローゼットにいるの?」腰砕けで聞くと、本永はしゃがんで「外様の件は我ながら独善的だったと思うし、夜叉と話した事に浸りたくもあったから、去り難くてうろついてたんだ。そしたらここ、広いものだから寛いでた…。しっ、誰か来た」
「サニ、お願いだから夜叉に取り次いで。…どうしても、どうしても話さなければいけない事があるの」
「カスミ、わかっている。だから座って」
「あの、サニ。あなたと夜叉は瑞生に何かしようとしているのよね? 事業を継承するなどではなく、『身体に』」
「抗議や非難のために来たの?」
「いいえ。そうではなく、確認したかったの」
「夜叉、夜分にすみません…」
サニが夜叉を車椅子で連れてきたようだ。
「で?」一段と声が小さい。瑞生と本永ははドアにへばりついた。
「瑞生から『夜叉と何かを受け継ぐ誓約を交わした』と聞きました。夜叉は病院を買った。サニは夜叉かウィルスを守るために来日した。それなら瑞生にウィルスを託すと考える方が自然です。…どうでしょう、違いますか?」
伯母の問いにジェスチャーで回答してもクローゼットからは見えない。
「やはりそうなのですね?」
「カスミ? 何を言いに来たの?」伯母の念の押し方をサニは訝しんだようだ。
「今更、瑞生の親ぶるつもりはありません。瑞生は私にきっぱりと言いました。『自分が決めたのだから、夜叉との誓約を誰も妨げることは出来ない』と。それはいいのです。でも、瑞生の知らないところで、誓約は実現不可能なのです。私の、私たちのせいで…」
「なんだ?」夜叉の声は聞き取るのがやっとで、焦れているのかまではわからない。
「…特殊なウィルスの被験者になるのは、普通の人が適しているでしょう…」伯母の声が妙に低い。
「まさか、ルビーの呪いの事気にしてるのか? 雪生の子だから? 俺が押し付けるのはゾンビーウィルスだぞ。呪いよりよほど悪質なのを承知であいつは引き受けると言ってくれたんだ。そんなもの、気にする必要はないね」夜叉はキレそうな声だ。
「カスミ?」
「お願いします、…お願いします」声がくぐもっている。伯母は土下座をしているのだ。
「瑞生から手を引いてください。あの子を被験者にして採取したデータを、貴重なウィルスの基準や指標にするのは無理、いえ、するべきではないんです。あの子は陽の元に出るべきではない、日陰でひっそりと生きる宿命なんです」
ぞくりとした。
ドア越しに伝わってくる。得も言われぬ負の気配。
瑞生には夜叉の怒りが見えるようだった。夜叉と共に、ウィルスには感情がないからマカンダルが地の底の深い闇の中から怒りを湧き上がらせているかのように、蒼い光を発しているに違いない。
「カスミ、わかるように、全て話して」サニの声は震えていた。
この事態に? それともマカンダルの怒りに?
「…瑞生は私の子供です。私と雪生の子供なんです。私たちはあの家で、子供の頃からずっと愛し合っていました。他人など必要なかった。両親が亡くなり、私たちは呪いの不安と濃密な愛に酔いしれました」
「そんな中私は妊娠しました。狼狽する私に雪生は堕胎を許しませんでした。雪生が見つけた外人街の怪しい産婦人科を受診し、無記名の母子手帳を渡されました。そして突然、信じられない事に、雪生は火浦麻佐子さんと結婚すると宣言したのです」
「雪生は人が変わったようでした。品行方正・姉の私に従順だった雪生は、結婚して小さな町工場に養子に行きました。『生まれた子はすぐに養子に出す』という言葉を信じて、私は孤独に耐え出産しました。母子手帳と赤ちゃんを保育器に置いたまま、先に私は退院し、それきり会うことはありませんでした」
「雪生は一八歳も年上の火浦さんとどうやって知り合ったか、決して教えてはくれませんでした。雪生は、モテましたから真意を伏せて情報収集に人を使ったかもしれません。“結婚”を餌に、話を持ちかけたのではないかと思います。麻佐子さんに妊娠したふりをさせ、出産時期を合わせて赤ちゃんを自分の子として育てるという提案です。婚期を逃しそうで焦り、工場の跡取りを欲していた、自分の容姿に引け目を感じる一方イケメン好き、麻佐子さんの望みの全てが叶うのです。雪生の出した条件は、妊娠に纏わる芝居と、雪生の実家に一切係わらないというものでした。“仮面夫婦”である事を麻佐子さんが承知していたのかは不明です。雪生は断片的にしか話してくれなかったので。その辺りに思い違いがあったために、後年瑞生を虐待したり愛人に走ったりしたのではないでしょうか…」
「わけがわからない」ぶすっとした夜叉の声。
「どのような未来を想定して雪生があんな大胆な行動をとったのか、今でもわかりません。もしかすると、授かってしまった私との子の命を守る、その一点で謀った事で、後々まで考えてはいなかったのかもしれません。哲学科でおよそブルーワークに不向きの雪生に工場の仕事は想像以上に習得困難だったようです。また雪生は母性本能を読み誤っていました。後継ぎが欲しいと言っても、それは建前です。麻佐子さんは実際妊娠はおろか男性と交際した事も無い女性でした。生後二週間の赤ちゃんを育てられるわけがなかったのです。彼女にしてみたら条件とは言え、赤の他人が産んだ子供です。愛情が湧く以前に、夜泣きおむつミルク…育児パニックだったのではないでしょうか。雪生は子供に愛情を注ぐけれど麻佐子さんには見向きもしない。…瑞生を虐待した人に理解を示すのもおかしな話ですが、お父さんや職人の手前、雪生にもっと演技してほしかったでしょう。高齢出産だから子供に愛情が湧かないのかと、お父さんや周囲が思っている事に気づいて、弁解したかったでしょう。最初から上手くいくはずの無い賭けだったのです。麻佐子さんは荒れ狂い、愛人に溺れ、家庭崩壊が火災を生みました」
沈黙が支配した。瑞生はドアに額を付けたままかろうじて呼吸していた。
「話の端端に、容姿と家柄に恵まれた女の鼻持ちならない傲慢さが滲み出ていたな」と夜叉。
「それでカスミ、カッコウのように自分の産んだ卵を他の鳥に抱卵させ育てさせて、今何を言いにここに来たの? 『授かってしまった』なんて平気で口にするなんて」
「…今更瑞生の親面をするつもりはないです。麻佐子さんの精神が崩壊していく家で、子育てするのは想像を絶する困難だったでしょう。でも雪生は全身全霊で瑞生を愛しました。私は『雪生に免じて瑞生の人体実験を止めてくれ』と言いに来たのではありません。…近親婚では虚弱体質や精神異常が出やすいと読んだことがあるので、ウィルスの被験者には適さないと伝えに来たのです。逆に瑞生を卑下して、貴重なウィルスに申し訳ないなどと言う気もないですけれど」
「さすが“氷の女”。さりげなく“人体実験”呼ばわりしやがった」夜叉がぼやいた。
サニは「これはデータを録るための実験ではない。ウィルスを守り継ぐための犠牲。本人が納得して行うのだから、あなたの語った戯言は何の支障にもならない」と冷徹だ。
「でも、瑞生は自分が近親婚の子供だとは知らずに受けたのよ。 ウィルスを引き継げない可能性があると知ったら、真面目なあの子は断ったかもしれないわ」伯母は食い下がった
「ふん、あんたが虐待女に理解を示すのは、瑞生の受けた痛みと哀しみが他人事だからだ。実の親だと信じる人間から暴力を受ける事が、どれほど逃げ場のない絶望の淵に立たされる事なのか、考えてもみないんだろう。全てあんたが起こしたってのに」夜叉が吐き捨てた。
「子供は両親の遺伝子半々で作られる。病気の因子を一方が持っていても多くは二つ揃わなければ発現しない。近親者は当然似た遺伝子なので病気や障害の発現率が高い。でもカスミ、このウィルスが必要とするのは器としての人体。ワインと器は混じりあわないね? 互いに影響を及ぼさないんだ。だからこんな酷い事をミズオに申し込めたんだ。死んでゾンビになることはあっても、生きているうちにウィルスのせいで変化が起きることはない」
「夜叉のように感染してすぐ死んだ人は影響はなかったでしょうけれど、瑞生は死ぬまで何十年もウィルスを抱えていることになるのよ。途中で影響が出るかもしれないじゃない」
「ウィルス反応はその部位の死滅が引き金になるのだが、例えば癌などに対する反応は予測不能で難しい。これを問題にするかしないかは、ミズオが決める事」サニにこう言われ、伯母は切り返した。
「そんな不確かな知識しか持たないのに一五歳の子供を騙していないと言えるの?」
「ミズオは大体理解している。カスミこそ、一五歳の男の決断に横槍を入れるなんて恥ずかしい事、やめた方がいい」
瑞生の肩に本永の手がそっと載せられた。二人はドアに体重を預けたまま床にへたり込んでいた。
「“マカンダルの息子”は各地で古くから存在していた。SNSの無い時代、人々の口の端に上ることもなくひっそりと受け継がれていた」サニが語りだした。
「“キューバ危機”を知っている? 東西冷戦の一触即発の舞台がキューバだった。一九六二年、ソビエト連邦から核ミサイルと九十九個の核弾頭がキューバに運び込まれていた。アメリカに対する核攻撃のための配備が進んでいたのさ。一三日間のケネディとフルシチョフの息詰まる攻防の末、すんでのところで核戦争は回避された。カストロ、米ソ首脳の非は今更どうでもいいけど、焦土と化す危険に晒されたのはキューバ国民だ。この経験からマカンダルの息子たちは症例の共有化に舵を切った。今まで闇の存在に甘んじていたが、手探りで情報交換を始めたんだ。それでも誰もイグアナが本当にハイチから来たのか知らないし、死者が蘇ると言う現象を説明できなかった。イグアナを“マカンダルの息子”と捉える一派は革命の日が来るまでウィルスを絶やさず市井に潜伏すべしと考える。イグアナを“ゾンビパウダーの素”と考える一派は闇市場で感染を請け負う。要するにマカンダルによってカラーがあると言う事さ。お蔭で僕たちの手元にはそれなりの症例がある。サイエンステクノロジーがやりたがるウィルスのデジタル解析とは無縁のレベルでね。ミズオには被験者として期待しているのではない。長く宿主であること、ウィルスと人類の進むべき道を模索しながら共に生きていくことを期待しているんだ」
「…私に出来る事は何もないということね」伯母の声は沈み込んでいく。
「それはどうかな。あいつの人生はまだまだ続く。これからあんたの助けが必要となるだろう。…ただ、あんたの助けをあいつが求めたいかは別だがな」夜叉は救いつつ突き放すように言う。「今まではなかった“親子”としての葛藤が芽生える。出生の秘密を知ったあいつがあんたをどう思うか」
「…どういうこと?」
瑞生たちの目の前にあるはずのドアがなくなった。
始めのうちは焦点が合わなくて、目の前のサニの足がぼやけた。ゆっくりと視線を上げると、部屋の中央で口に手を当てている伯母、左側に夜叉が見えた。
伯母は息を呑むのに疲れると、サニと夜叉の方に非難がましい目を向け、「わざと瑞生に聞かせたのね?」と抗議した。
「僕たちに知らせないとアンフェアだと思ったのなら、ミズオにこそ知らせないのはアンフェアだ。たまたまミズオは居合わせただけだ。モトナガ君が何故いるのかは僕にもわからないけど…。ここまで衝撃的な告白だなんて思うわけないでしょう」
瑞生は伯母を睨みつけた。
「誰だってこんな屑な話聞く羽目になるとは思わないよ。…せめて真実を教えてくれていたら、僕はあの気のふれた女を母親だと思って愛されない事に苦しんだり、あの女の遺伝子で自分の半分が出来てる事に悩んだり、狂気が遺伝することに怯える必要もなかったんだ! 僕があの女に殺されかかってた時、あんたは何してた? 信じられない。産むだけ産んどいて。ふざけるな、お父さんも、あんたも最低だ!」
罵詈雑言を怒鳴り散らした後、瑞生はゴミ箱を引っ掴むと胃の中の物を全て吐きだした。涙と鼻水も出放題で、苦しくて肩で息をした。
サニはティッシュを箱ごと渡してくれ、本永は臭うゴミ箱をクローゼットの中に入れドアを閉めてくれた。
「『曲がりなりにも母親に対して失礼だろう』なんて言わないの? みんな」
「言わないね。もっと言っていいと思うよ」と夜叉。
「僕も。ミズオの苦難はあまりに割を食っている。カスミはしたことの罪深さに対してあまりに容易く生きているように見える。もっと罵倒してもまだ足りないと思う」サニも淡々と言う。
「誰を庇うつもりもないけど…、小さい頃から知っていたら知っていたで、八重樫は自分と言う存在に苦悩したと思う…」と本永は床に胡坐をかいた。
皆の視線は伯母に向いていた。
「あんたがゴミなのは、瑞生という命に対して自分で向き合い自分で考えなかったことだ。あんたは常に『この責任は雪生が取るべきもの』と思っていたんだろ? だから、雪生が苦労していても、幼い瑞生が虐待されていても、他人事だったんだ」夜叉が蒼いオーラを放ちながら、小さな声で淡々と断罪した。
伯母は部屋の中央で、陶器の人形のように立ち尽くしている。
「あんたが今日話しに来たのは、自分可愛さか、瑞生にせめての救いの手を差し伸べたのか、雪生への義理か。まぁどうでもいいがな。瑞生にとっては、あんたが遅過ぎてよかったのかもしれない。瑞生が母親を必要としている時にクレイジーな麻佐子からあんたにスイッチして、あんたが愛してるのはあんただけ、と知ってしまうよりは残酷じゃない」
夜叉の声を聞いているうちに、瑞生は自分が蒼い光に徐々に包まれていくような気がした。ウィルスのもたらす光なのに暖かさを感じる。目を開けて自分を見てみたが別段蒼くなっているわけではない。ウィルスを引き受けるってこう言う事なのかな。憑りつかれると言うより溶け込んで一つになるようなものなのかもしれない。
瑞生は怒りの感情が鈍り、冷めていくのを感じた。
「もういいよ。一瞬怒りが押し寄せたけど、今は心が動かない。もちろん、思い出す全ての事の根源が父と伯母の関係にあったと思うと、はらわた煮えくり返るよ。自分の存在理由を知ってしまって、ますます生きる意味がわからない。…でもなんて言うか、僕が悪いんじゃないとわかったと言うか。責めたい人間は死んでいるし。それより、僕には夜叉との誓約がある。誓約を果たす方が…僕には希望のある事だと思えるんだ」瑞生には、他の者は瑞生を気遣うあまりこの話を終わりに出来ないとわかっていた。
伯母に去るように告げようとした時、強い視線を横に感じた。
「…」吊り上り気味の切れ長の瞳にいっぱいの涙を溜めて、本永が口をへの字にしていた。
「俺が外様の事でいっぱいだった間に、また何か背負ってたんだな。ウィルスの宿主? 夜叉と誓約? だから『さようなら』なんて握手したんだな。八重樫…わかるよ。決めたんだろ? 踏み出したいんだろ? クローゼットの中では『八重樫の無謀な暴走を止めよう』と思った。でも、想像を絶する話を聞いていたら思い直したんだ。せめて俺くらいは無条件で肯定してやろうって。八重樫が重荷とわかっていながら夜叉の願いを叶えたいと思うのなら、それを重荷じゃないようにフォローするのが俺の役割じゃないのかって。外様のために出来る事はもう俺にはあまりないみたいだ。でもお前のためにはまだまだいっぱいありそうだ。と言うか、間抜けな八重樫には俺の頭脳が必要だ。お前が蒼くなろうとイグアナになろうと、俺が支えてやる」
「え、英語教えて?」こんな時に冗談が口を衝いて出たのには自分でも驚いた。
本永はちょっと不意を突かれた顔をしたけど、「おお。そうさ、英語教えて、だ」ニヤリと応じた。
パタン、とドアの音がした。伯母とサニの姿がない。慌てて瑞生が膝立ちすると、夜叉が「サニが送っていった」と教えてくれた。
本永はゆっくり立ち上がると、夜叉の正面に移動した。
「質問いいですか?」
「金髪は立ち直りが早いな。いいぞ」夜叉は口とは裏腹に大儀そうに右への傾斜を直した。
「八重樫を話し相手に望んだ時から、ウィルスをバトンタッチするつもりだったんですか?」
夜叉の蒼い光が強くなった。
「瑞生を話し相手にと言ったのは、窓の下でこいつが叫んだからだ。心の叫びというのかな。わざわざ人が避けて通る俺の家に毎日来るから興味を持ってたんだが、救いを求めるなんてどんな奴なんだろう、とな。俺はサニから一度だってウィルスを委ねる相手を探せと言われたことはない。ここに来てから思いついたんだ。ウィルスの活かし方はわからないが、この日本で乳酸菌飲料みたいに“日本株”として残していく意味はあるのじゃないかと。白人主導で世界が回るのはもうすぐ終わるのかもしれない。人口比率ではスパニッシュやアフリカンやチャイニーズ…つまり有色人種が多数派なんだから。でも覇権交代の際に揉めない訳がない。その時、このウィルスはワンチャンス与えてくれるかもしれないだろ? 災いの林檎になる可能性も捨てきれないが、切り札になる可能性もある」夜叉はふぅと息をついた。
「それで、瑞生だ。個人的に面白い奴じゃないんだが、見てれば見てるほど他人とは思えない何かを感じた。俺は瑞生じゃなかったら頼まなかったし、断られたらそのまま終わりにするつもりだった。今の世の中で、この日本で、どう受け継ぎどう守るか。これは瑞生自身と、サニを代表とするマカンダル一派と、金髪、お前みたいな友人が背負うことだ。こいつは家族に恵まれていない。体調面ではサニがいるとしても、メディアは煩いし、ネットでどんな目に遭わされるか、考えるだけで罪悪感に襲われる。警備も永遠に朏や前島が守ってくれるわけじゃなし、テロリストもヤバイが、ユーチューバーや身代金目当ての誘拐の方が悪質かもしれない。ともかく宿主でいる期間が長い予定だけにお前たちの負担は大きい。そこは本当に、申し訳ないと思ってる。俺の残せる金はそのためにも使ってくれ。クマちゃんに法律的に有効なように頼んであるから。お前と話せて本当によかったよ。本永、だったな。瑞生を頼む。お前がいるからこそ、瑞生に託すことが出来る」
サニが戻ってきた。皆に注視され説明の必要を感じたのだろう。
「話すこともなく送っただけ。僕が思うに、カスミは愛されるというスタンスしか知らないんだ。自宅で弟と愛し合う一番安易な設定から出ようとしなかった。離れたユキオがミズオと苛酷な状況に陥った時こそ、ユキオを本当に愛するチャンスだった。非難されても痛い目に遭っても、ユキオへの愛を貫けば全く変わっていただろうに…」
本永は同席を申し出たが、夜叉にきっぱりと拒否されてタクシーで帰宅した。
夜が更けるにつれ夜叉の蒼さは増していき、蒼さが毒を含んでいるようにすら思えた。真夜中、瑞生はサニと地下室に降りた。サニはジェンベを敲いた。儀式が始まるのだ。
瑞生はサニが用意してくれた生成りのパジャマ姿で、裸足の足が震えていた。差し出されたグラスに入った透明な液体を飲んだ。水道水だって匂いを持っているのに、無味無臭の正体不明の水だった。
如何にも儀式めいた白いシーツを敷いた台に横たわり、ただ天井を見つめた。
照明の光度が落ちたようだ。薄暗くなりサニの姿は見えない。ただジェンベの音がずっと響いている。瑞生の意思とは別に、身体を構成している細胞がリズムに呼応しているのを感じた。
いつの間にか眠っていたようだ。腹の上に重みを感じて、重い瞼を開けた。
夜叉の顔があった。あまりに蒼くて、一言言おうとしたのだが、口が思うように動かず声も出ない。次に目の焦点が合った時、目の前にあったのはイグアナの顔だった。緑ではなく蒼かった。
夜叉?
瑞生は自由にならない身体で真直ぐに上を見ていた。イグアナか夜叉の目から溢れ出るように涙が迸った。瑞生は自分が涙で溺れるのを感じた。人は涙で死ぬこともあるんだ。
夜叉は今は泣きたくても涙が出ないと言っていた…。人が生涯で流す涙には総量が決まっているのだとも。この時のために取っておいたのかな…。




