㉔ ウィルスをください
ハイチの壮絶な歴史を知り、マカンダルの息子を守るサニの思いを理解しようとする瑞生ですが、サニの頑迷な考えに戸惑うのでした。そして本永の待ち望んだ外様の再登校の日がやってきます。
【 二〇一五年六月二六日 前篇 】
本永の方から朝の挨拶をされたのは、知り合ってから初めてなのじゃないだろうか。
本永の前向きな態度の原因は、外様の登校にある。夜叉との誓約を隠したまま最後の二日に突入したことを後ろめたく思っていたので、もごもごと挨拶を返すのがやっとだった。
選択科目を二コマ終えて、教室内は移動する生徒でざわついていた。「お、外様」目ざとく見つけた生徒が声を上げた。
教室のドアから頭を出した外様に、以前の日焼けしたスポーツマンの面影はなく、脱色気味の肌と遮光のためのサングラスが異彩を放っていた。
「大名、お帰り!」副委員の掛け声を合図に皆が外様を迎え入れた。後ろのドアから榊先生と外様のお母さんが入ってきて、臨時のホームルームが始まった。
“登下校、授業、宿題、教室移動、行事”各項目について、外様のサポートを検討した。
「あのさ、例えば俺がトイレ行く時大名を誘うとするだろ? その時一声、『山田行きま~す』って大声だせばいいじゃん。それは『トイレ行って戻るまで俺が責任もって同行する』って合図なわけ。そうしたら週番も他の奴も、自分の用事すればいいんだよ。そうやって気楽にやっていこうや」山田の意見に皆、そうだそうだ、の合唱。
外様は「なんか、俺…本当にみんなのお荷物で、嫌になるな…」と呟いた。
「何言ってるのよ、大名らしくない」と副委員。再びそうだそうだ、の合唱。瑞生は一瞬外様がビクッとしたのを見てしまった。
チャイムが鳴り、榊先生が締め、外様のお母さんがお礼を言い、皆が一斉に椅子から立ち上がった時、外様が激しくビクついたのを今度はクラス中が見てしまった。外様は挨拶もそこそこに退出してしまった。疲れた様子で壁に手を当てながらの足取りだったため、外様が出て行った後のクラスは騒然となった。
「大名、あんなので復帰できるのかなぁ」
「もう顔色悪くなっちゃってたよ」
「厳しいんじゃない? 四方八方音刺激だからね、学校は」
瑞生は本永が心配で表情を窺った。本永は口を真一文字に結んでテキストを鞄に放り込んでいた。そこに一旦教室を後にした榊先生が戻ってきて本永と瑞生を呼んだ。
「…しんどいな。クラスのみんなの中にいると、もう自分はそんな元気には振る舞えないと実感する」外様はベッドの上でもサングラスをしていた。「お前らと医務室にいる方がしっくりくる」
「年寄りじみたこと言うなよ」と瑞生は回転椅子を引っ張った。本永がとっくに手近な椅子に座っていたからだ。
窓側の隅のデスクにパンダと外様のお母さんが座って話していた。ふいにお母さんが泣き出して、瞬間瑞生たちは息を潜めた。
「…尽力してもらって悪いけど、戻れるか、俺自信無いんだ。ちょっと家で検討させて」
保護者用駐車場まで、本永は一切口をきかなかった。瑞生の中でも色々な想いが湧き上がってきて、掛けるべき言葉を見いだせないでいた。
本永の乗った車を見送り、ふと、自分は誰の車に乗ればいいのだったか、思い当たらない事に気づいた。「今朝は門根が乗せてくれたけど、帰りの話は出なかったんだよね…」
視界の端で、Gジャンを着た男がダッシュしてきたので、身を固くした。「…あれ、朏さん?」
朏の案内する小型の外国車に乗り込んで、もっと驚いたのは運転席に前島がいたことだった。しかもこちらも私服でポロシャツなんかを着ている。「嘘でしょ」
笑いを噛み殺している朏の横で、前島は「あまりミライ村に入れあげていると上から嫌味を言われるので、休暇を取ったんだ。朏を対テロ組対に引き抜こうと画策中で、交渉しに来たんだよ」と教えてくれた。
「前島さん、そういう話を部外者の前でするのは如何なものでしょう」引き攣って朏が意見する。
瑞生はこの二人の話を聞いているのはとても興味深かったのだが、「あのう、何故僕を迎えに? パトカーをタクシー代わりに、なんて一番怒られそうだけど」と聞いた。
「これは私の車だから、パトカーではない。従って警察官が迎えに来たことにはならない」と前島が即答した。
「夜叉邸に寄ったら、誰が君の迎えに行くか、都合がつかないようで揉めていた。ちょうど前島さんから連絡があって、瑞生君が下校時に一人になるのは避けた方がいいということで、動ける者が動いたわけ」助手席の朏が身体を捻って説明してくれた。
「この村がターゲットになっていない事を祈っているよ」
前島の言わんとすることがよく掴めないまま、夜叉邸で朏と瑞生は降ろされた。村内を巡回して車を停めてくるらしい。
前島の気遣いと同時にピリピリしている空気も感じた。
そうだった。この週末で今までの自分じゃなくなるんだ。いよいよだ。…さよなら、本永。
周囲を慎重に検めた朏に続いて、秘めた覚悟を抱いて夜叉邸に足を踏み入れた。
瑞生はスマホの画面を見た。伯母に『夜叉が話せる間は出来るだけ傍にいたいから、今日から二・三日泊まる』と送ったのだが、返信は無い。
夜叉邸は静かだった。
四時になり、一人でティーバッグの紅茶を淹れていると、スマホがブルった。
:八重樫? 村のゲートにタクシーで来てるんだ。入れてくれ:
「本永?」
例によって突然の来訪だが、瑞生は朏に掛け合い、臨時の許可をもらうことに成功した。
朏から身体検査を受けている間も、本永は思い詰めた表情を崩さなかった。
「どうしたの?」
「夜叉に会わせてほしい」
「え? だって夜叉通信まであと…三〇分しかないよ」
本永は瑞生の話など聞いてはいなかった。ずんずんと階段を上がり最近立ち入り禁止のスタジオエリアに着くと、躊躇うことなくノックした。
朏は本永が狂った場合に備えて強い口調で本永を止めた。追う瑞生からは本永と最低限の距離を確保しようと苦労している朏しか見えない。
ふいにドアが開き、サニが顔を出すと瑞生を手招きした。いるとは思っていなかったので瑞生が驚いて駆け寄ると、「モトナガ君、ミズオの同席が条件。時間は一〇分。ミカヅキさんは外。ただし聞き耳は拒まない。いいね?」と本永に言い渡した。本永が頷くと、二人は中に通された。
スタジオは三〇分後に控えた夜叉通信のための準備が行われていた。夜叉の寝室手前の部屋に入ると、夜叉はもう車椅子に座っていた。
本永が一歩前に出て、いきなり土下座した。
「…夜叉に頼みがあって来ました。今日、俺の恩のある友達が久しぶりに登校した。そいつは失明の危機にある。ようやく登校できたのに様子がおかしかった。俺は納得できなくて放課後家を訪ねた。そうしたら、今まで思うように動けた自分ではもうないと言う現実を突きつけられて、すっかり落ち込んでいたんだ。自宅ではなんとかなっても教室では至る所で皆が動くから、聴力の限界を感じて、毎日登校したら神経が擦り切れると思ったそうだ。夜叉、ゾンビーウィルスがどんなものなのか、俺はよく知らない。でも、事前に感染していたら、そこが死んだ時蘇るんだろう? 頼む、夜叉、外様にウィルスをください。学校や医者のせいで失明なんて可哀想すぎる。一時的に視力が回復したら、好きなだけスポーツさせてやりたいし、お母さんや家族の顔を見に行くチャンスだけでも確保してやりたい。非常識で厚かましい頼みだとはわかっている。でも…お願いします。夜叉、お願いします」
「本永…」瑞生はあっけにとられて、名前を呼ぶのがやっとだった。
本永は大理石の床に額を擦りつけて、夜叉にウィルスを請うたのだ。
「時間ないから顔を上げろ」
正座のまま顔を上げた本永を、貴族みたいに見下ろした夜叉は「サニが説明するからちゃんと聞け」と言った。
サニは苦い顔をして、「モトナガ君、ウィルスは失明には有効ではない。例えば網膜が不具合とか伝達する神経の麻痺とか、その組織が死んだのではなく不具合になっているんだ。それでは宿主が死を迎えた時にスイッチが入るゾンビーウィルスは稼働しない」
本永がどんな表情を見せているのか、後からではわからない。
「それじゃ、ウィルスをもらっても無駄なのか? 外様の目は蘇らないのか?」見る見るうちに肩を落としていく。
「ソーリー。夜叉が完全体で死に、五体満足で蘇ったのは奇跡に近い。ヤオーマのように部分で蘇ったのは部分が完全に一気に死んだからだ」サニは酷な事を告げる残酷な天使のようだ。
「切れ者の金髪らしくないな。そういう使い方が出来るなら、“部分ゾンビ”が世界中でポピュラーになってるはずだろう。お前が繊細で優しい奴なのはわかるが…、どうにもできない。悪いな」夜叉の声は静かで優しかった。
二人が出て行った後も、本永は正座したままだった。
サニの言っていた共感性ということがわかる気がする。この本永の、外様と外様のお母さんに対する思いやりが、まさにそれなんだろう。
瑞生は時間になってから声を掛けた。
「本永…夜叉通信見よう」
:今日で一三夜目だ。キリノもスタジオに行ってるから、久しぶりに俺一人だ。…手紙をもらった。『僕の友達は病気です。友達が死んだら家族は本当に悲しむと思います。だから、夜叉のウィルスをもらって、蘇らせてあげたいです』…ゾンビーウィルスで蘇ったと想像してみよう。友達が蒼いのはドラえもんの仮装じゃない。俺から感染したのなら彼から君に感染するかもしれないぞ。怖くないか? 誰かが『気持ち悪い。あいつは死んだ人間だ』と言い出した時、彼を最後まで守れるのか? 彼に『ゾンビになんか、なりたくなかった』と言われたら君は責任を取れるのか? もしゾンビになった彼を家族が拒絶したら、君は最初に死んだ時よりも辛い思いを彼にさせてしまうことになる。…死は一回でいい。俺が『蘇りも悪くない』と思えるのは、俺が恵まれた環境にあるからだ。隔離病棟以外に住む場所があり、友人がいて義理堅いスタッフがいる。幸い喰うに困らないし、皆に給料を払う事が出来る。…もし家族がいたらいじめに遭うだろう。『蘇らなければよかった』とそれぞれが後悔するだろう。幸せは一概には言えないから色んな意見があるだろうが。ロックスターらしからぬ平凡な結論で悪いが、生も死も一回限り、全力で駆け抜けるのがいいんじゃないか。これが俺の答えだ:
本永はテレビ画面を見たまま放心している。隣のスタジオで生で見られなかったのは、本永が泣いてその声を拾ってしまう恐れが濃厚だったからだ。
今本永は泣かずに…きっと噛み締めているのだ。夜叉の思いやりや、自分の母を外様の母に投影していた事や、友への想いが自分を狂気のように駆り立てたという事実を。
瑞生は下手に慰めるのは止めて、ただ傍らにいる事にした。
前もあったな…。過呼吸になった本永の横にペットの犬みたいについていた事が。もう何年も昔の事のように思える。全て六月の事なのに。
「俺の独りよがりだった。外様が望むとは限らないもんな。それに縁起でもないけど、突然交通事故で死んだりしたらゾンビになってしまうもんな。夜叉くらい精神の強い人間でなくちゃもたない。望まないのにそうさせてしまうなんて、独善もいいところだ」
こう言うと、本永はドアに向かって歩き始めた。
「も、本永!」瑞生は必死に呼び止めた。
「おお、…振り回して悪かったな…」詫びる長身の同級生に近づいて、右手を差し出した。
「本永、握手して。あの、あのさ、…さようなら」
「なんだ、お前、何言ってるんだ?」
「いや、別に。普通の挨拶だよ」取り繕いながら、さっと本永の手を握り、さっと放した。この“普通の”感触を忘れたくなかった。
本永は首を捻りつつ階段を降りて行った。瑞生は見送らなかった。泣いたらばれるし、今夜起こる何かに向けて、気持ちを切り替えたかったのだ。
【 六月二六日 後篇に続く 】




