㉓ 瑞生の継ぐもの
瑞生はサニが”オルーラ”と呼ばれる特別な存在であることを知ります。サニは青山の今際の際の願いを果たすためだけではなく、ある目的を持って来日したのでした。
【 二〇一五年六月二五日 】
「なんだよ、言いたい事があるのなら言えばいいだろう」
本永は言葉ほどにはイラついていない様子だ。
「いや、別に…」本当は一日中、週末の話をしたものかどうか迷っては思いとどまる、を繰り返していた。
本永に、自分は夜叉の側に行くのだ、と言わないのはアンフェアな気がする。でも週末の移送を漏らすことになるのは困る。本永は口の軽い奴ではないが、学校とはどこに耳があるのか油断ならない場所であるのは確かだから。
「いよいよ明日だな! 外様が学校に来るの」
少し先を歩く本永のごつい顎が引き締まって、口元がほころんでいるのが見えた。
「そうだね。楽しみだね」
「少し話せる?」
夜叉邸に着くなり伯母が言った。昨日の狼狽状態から脱し、今日は朝から何か言いたげだったのだが、ずっと待っていたのがこのタイミングだったのだろう。
「昨日、瑞生が伝えようとしていたことをちゃんと聞いていなかったようなの。それで肝心の夜叉の何を受け止めるのかがさっぱりわからなくて。『もう決めた』『止めることは出来ない』と言っていたけれど、それは私が止めようとすると思うからよね?」
伯母にしては早口でまくし立て、瑞生の返答を待っている。
「…僕は、何がしたいか、どう生きたいか、思い描く事無く生きてきた。ある意味、母の望む通り僕の人生は破壊されたと言える。僕はお父さんにいつも同じように感じていた。働くのは僕を育てるためで、自己実現とかやり甲斐のためじゃない。僕は貧乏でもいいから、お父さんにはやりたい事をして、もっと楽しんで生きてほしかった。…僕が選んだ生き方をお父さんは分かってくれると思う。僕は楽な方に流されたのじゃない。困難な道を選んだんだから」
「随分、抽象的な言い方ね。観念的にわかってほしいの? それとも具体的に話せない理由があるの?」
鋭いな。そう、自分がどうなるのかわからないんだ。それに、可能な限り具体的に伝えた場合、拒絶か激怒を呼びそうな気がするから。
「私は保護者として、知る権利があるわ。未成年者の契約は保護者の申し立てにより解除できると法律で決まっているのよ」
「そうくると思ったから、『もう止められない』って言ったんじゃないか。知り合ってまだ三ヶ月だから、伯母さんと分かり合えるとは思わないよ。でも、杓子定規に『保護者だから止める権利がある』なんて言わないでほしい。僕は母とお父さんの関係や顔色を見て生きてきた。僕はようやく自由になったんだ。例えこの選択に将来後悔する時が来ても、それは自分のせいだと胸を張って言える。だから伯母さん、邪魔しないで。あなたがしようとしているのは『止める』じゃない。僕にとっては『邪魔』だ」
一息に思いの丈を言い立てると、伯母の表情に虚を突かれた。
伯母は怯えていた。
前島言う所の虐待された子供の闇が出てしまったのだろうか。よく夜叉たちにもブラックと言われたから、自分には人を怯えさせる何かがあるのか。
暫しの沈黙の後、伯母は立ちあがった。が、ふらついた。咄嗟に瑞生が手を差し伸べると、一瞬ビクついたものの、「大丈夫」と手を振った。
「大丈夫よ。…確かに、存在すら知らなかった伯母さんに、保護者面で云々口出しされたら嫌よね。瑞生は考え悩んだ末に決めたのでしょうから」
瑞生と伯母は立ったまま見つめ合った。少し、ほんの少し、瑞生の方が見下ろすようになっていた。
「ちょっと考えさせてほしい。私は物わかりのいい伯母さんになればいいのか、苦言を呈する口煩い伯母さんになればいいのか。本当はどういう関係を作っていくか考える必要があったのに…」
最後は従来のクールな眼差しで、「夜叉の件だけど、あなたが雪生の話を持ち出したのは、生き方の部分は本音でも、基本詮索されないようにしたかったのよね」と指摘していった。
一人残された瑞生は、とりあえず英語のテキストを広げた。全く頭に入ってこないアルファベットの羅列を目で追い続ける。
「結局、言いたいことはわかったけど、認めるとは限らないってことだよね…」
考えを声に出したら、少しすっきりして宿題に取り掛かった。伯母らしい。
そのまま控室Aで寝ていたらしい。目が覚めて慌てて二階に上がると、夜叉通信が終わったところだった。
「初めて見逃した…」これだけ近くにいながら、夜叉の生の声と表情を見逃した事が、思いの外悔やまれた。
それでも、スタジオから出てきた夜叉とキリノと二言三言言葉を交わすことが出来たのが救いだった。
夜叉とキリノをそれぞれの部屋に送り届けてから、サニと瑞生は面会室に戻った。スマホを見ると、午後七時過ぎ。伯母とやり取りして、帰宅はタクシーにすることにした。
二人でガンタの店から届いたカレーを食べた。サニは、カレー皿の中でメープルシロップと蜂蜜と砂糖を掛け分けて食べる余裕を見せていた。瑞生は背が伸びるようにと念じながら牛乳を飲み干した。
サニは上品にナプキンで口元を拭い、瑞生に向き直った。
「とても大事な事を話したい」
サニはタブレットに地図を出して見せた。「これはカリブ海、この辺りが大アンティル諸島。ミズオはどこがキューバかわかる? そう。学習したね。ではすぐ南東のこの島・イスパニョーラ島のここ、何という国か知っている?」
首を横に振ると、「ここは日本語ではハイチ。現地では『アイティ』と発音するハイチ共和国だ」と教えてくれた。
「歴史の授業で大航海時代の事、習った? 一四九二年コロンブスがこのイスパニョーラ島を“発見”した時、そこには紀元前に移住していたタイノ人(アラワク人とも言う)が住んでいた。つまりタイノ人の国だったわけだ。ヨーロッパに比べたら遙かに見劣りする文化しか持っていなかったとしても。それから僅か四半世紀の間にタイノ人は入植したスペイン人のために絶滅させられた」
「絶滅? 動物じゃなくて人が人を?」瑞生が驚いて口を挿むと、サニは手で制した。
「そう、スペイン人が持ち込んだ疫病と苛酷な労働でね。労働力を失った強国が西アフリカから奴隷を調達したのは以前話した通りだ。黒人奴隷の酷使の上にサトウキビ・コーヒー農園は大成功を収めた」
「マカンダルの話を覚えているね? 黒人は何度も蜂起し、ついに一八〇四年独立を宣言した。しかし世界初の黒人による共和国・ラテンアメリカ最初の独立国はどの国からも独立を承認されず、奴隷蜂起の連鎖を恐れた支配国から冷遇され、いばらの道を歩むしかなかった。独立と引き換えに負ったフランスへの莫大な賠償金にも苦しんだ」
「内戦・クーデター、ハイチは混乱し続けた。二〇世紀前半にはアメリカ軍が三〇年に及び軍政を敷いた。アメリカは映画を使い、ゾンビやブードゥー教を貶め、ハイチのイメージダウンを図った。その後、選挙で選ばれた人民の信任厚い医師が大統領になった。ところがこの男は突如独裁者に変貌し、ブードゥー教を利用、自ら『バロン・サムディ(土曜男爵)』と名乗り扮装し、ブードゥーの呪術を恐怖の背景に用い、秘密警察を操り恐怖政治を行った。ハイチ=ブードゥー=ゾンビというイメージが定着したのにはこういった理由がある」
「繰り返される軍事政権の圧政とクーデターに、国連もハイチ安定化ミッションを設立した。二〇一〇年にマグニチュード7.0の大地震が起きた。首都ポルトープランスは壊滅的被害を受け、死者は三一万六千人にも及んだ。しかもコレラが大流行した。世界中の不幸がハイチに集まって来たかのようだった」
「当時はハリケーンがもたらした洪水で衛生状態が悪化し、コレラが蔓延したと言われた。だが島国ハイチにコレラ菌はいないと考えられていた。しかも流行はPKO部隊の宿営地付近から始まっていた。二〇一一年、調査の結果ネパールから派遣された平和維持軍がコレラの発生源と指摘された。でも国連は二〇一五年になった今でも平和維持軍の免責特権を掲げて非を認めていない」
*著者注 二〇一七年に認めました*
サニは少し昂ぶった神経を休めるようにお茶を飲んだ。
「何故キューバではなく隣の国の悲劇について延々と語るのか、不思議だよね。もうすぐ核心に辿り着くから」
「ハイチが被った被害の最大原因は政情不安に起因する。政府機能は麻痺、諸外国の助けが必要だったのも確かだ。それでも、コレラで一万人の死者が出る必然などはなかったはずだ」
「ミズオ、初めて知った国の話で感想を求められても困るかもしれない。でも、おかしいと思わないか? 瓦礫の山を漁って飢えを凌いでいる彼らは、本来そこに住んでいるはずのない人たちなんだよ? 魚を獲るように人を捕らえて、窓一つない奴隷船の船底に詰め込み、自分たちの富のために過酷な労働を強いた。解放を求めた者は虐殺した。独立した国の安定を妨害し、東西冷戦の駒にした。徹底的に差別し文化を嘲笑のネタにした。…これは人が人にして許される事なのか? もし人を人たらしめるものが良心なのだとしたら、大国は真っ先に、あらゆる人的経済的支援をして罪滅ぼしをするべきだったのじゃないか? 彼らの何がいけなかったんだ。黒人だから? 文明の発達が遅かったから? アフリカに住んでいたから? 異質な者への非寛容。最下層による弱者差別。宗教的優越感。様々な分析がなされた。でも僕にはわからない。ミズオ、僕にはわからないんだ。…でも、こう思う。過去は変えられない。僕に言えるのはこれからどうするかだ。『もう、同じようにはさせない』とね」
瑞生はサニがどういうつもりで話しているのか、相変わらずわからなかった。だから黙っていた。
「欧米の人たちが、ハイチやブードゥーを蔑む簡単な材料がゾンビだった。今ではゾンビはヴァンパイアやエイリアン同様むしろ愛されている。でも以前は、呪術で墓場から抜け出してきた“腐った死体”と恐れられた。一部地域の風習・まじない・呪いを、奴隷を酷使した側がおどろおどろしく取り上げた。政治的には故意に、民意的には『面倒くさいからそう言う事にしておこう』というハイチ像。直接ではないけどコレラの流行事件にも反映されていたのじゃないかと僕は思う」
「ゾンビの話に戻ろう。真面目に研究もされている。ハイチでは、知的障害のある人を外見が親族に似ているというだけで、『死者が蘇った』と考え、自宅に連れ帰ってしまうからという説がもっとも説得力がある。実際、自宅に戻った時点で『蘇った』と言われるが、『蘇り』を目撃したケースはない。DNA鑑定でも赤の他人と判明している。ブードゥーではゾンビパウダーなる秘薬を用いて、人をゾンビにすると言われてきた。これもテトロドトキシンを含むと言われたが、検証し直すとごく微量で効果なしだった。だから人々の言うような“ゾンビ”というものは、おそらくクリーチャー(創造物)なんだ」
「映画のゾンビと夜叉たちが全く違うわけだね」
サニは頷いた。「僕はウィルスは宿主の死の兆候を察知し、完全に死ぬ前に活動し始めると考えている。そうでないと生前の状態に戻せないと思うんだ。他方、完全な死を迎えてからじゃないとウィルスは活動できないのではないか、と考える人もいる」
サニはさっきの地図を示した。ハイチのあるイスパニョーラ島とキューバの東端はウィンドワード海峡で隔てられているが、ごく近いように見える。
「この海峡を渡って、“マカンダルの息子”はキューバに入ってきたと僕たちは考えている」
「え?」
「偶然かもしれない。だが、必死の脱出行だったかもしれない」
「何故そう思うの?」
サニは天井を仰いだ。珍しく口をへの字に曲げている。
「ハイチでは生き延びられないから。折角生きて辿り着いたのに、こう災害と無秩序に晒されては宿主がいつ死ぬか偶発的要素が多すぎて回避できないから。…残念ながら僕の推測だ。相手が口をきいてくれたわけではないから」と肩を竦めた。
「ハイチ語がわからないから?」
サニが微笑んだ。「ミズオ、違うよ。“マカンダルの息子”はイグアナだよ」
瑞生は右手でテーブルを打った。「緑の?マカンダルの化身ってそういう意味だったのかぁ。僕はてっきりサニの事だと思ってた」
サニが一瞬呼吸を止めたのがわかったので、瑞生は続けた。
「サニがマカンダルの息子で、緑のイグアナを飼っているのだと思ってたんだ。イグアナを操って夜叉に感染させたのかなって」
「そう、そうだよ。君は勘がいい」
瑞生は改めてサニを見つめた。サニの身体には瑞生の知らない神秘的なざわめきが詰まっているようだった。
「地図のここ、ハイチから一番近いキューバの街はバラコアという緑豊かな古い街だ。バラコアの近くにアレハンドロ・デ・フンボルト国立公園がある。世界自然遺産に登録された動植物の固有種の多様性を誇るキューバ屈指の公園だ。ここの『見た目は普通だが、見える者には特別に見えるイグアナ』の噂が司祭経由で伝わってきた。僕は南東部には行ったこともないのにイグアナの夢を毎晩見ていた。しかも夢はそのイグアナを救うよう伝えていた。僕は父に打ち明けた。そこで初めて司祭の間で広まっていた噂と夢が繋がったんだ」
「日本人には想像もつかないだろうけれど、キューバでは国内移動が自由に出来ないんだ。ハバナ州から出てバラコアまで、車の調達に、欠勤の調整、役人への賄賂、やっと公園に辿り着き、広大な敷地内で途方に暮れた所にイグアナは向こうからやって来た。特別な、ただの緑色のイグアナ」
「国はゾンビ現象を隠蔽し、かつ収集していた。キューバはファミリードクター制で配置された医師が地域住民の健康管理をしている。好きに医師を選ぶことは出来ない。医師は迂闊に“蘇り”を報告すると役人に厳しく追及されるから、ゾンビ化の報告は闇に葬られてしまう。そこでサンテリア司祭にきたお浄めのまじない依頼が有力な情報源になった。ファミリードクターも家族もお浄めを必要とするからね。でも内外問わず、イグアナの関与は確認できなかった」
「そのイグアナがどう特別なのか、僕が知った経緯は省くよ。多くの悲劇と許されざる行為の果てに、ゾンビ化を把握したんだ」
瑞生はサニの憂いを湛えた瞳を捕らえて言った。
「ねえサニ。僕はどうして夜叉からウィルスを引き継がなくちゃいけないの? そろそろ核心に入ってよ」
「…あのままキューバがキューバのままなら、僕は日本に来ることはなかった。去年二〇一四年、キューバとアメリカは国交回復交渉を本格化した。多くの者は危惧している、アメリカはまたキューバを踏みつけるに違いないと。いい物は買い叩いて奪い去り、労働力を使い倒し、利益を吸い取るシステムを置いていく。…当然ウィルスも狙われる。これを研究してノーベル賞をもらうのも、創薬に成功し莫大な利益を上げるのも、ともかくキューバではなくアメリカだ。あの国が絡むと結局そうなる。それじゃ、マカンダルの息子が海を渡ってキューバに逃れてきた意味がなくなる。何故“ゾンビウィルス”ではなく“ゾンビーウィルス”なのか。感染によるゾンビ現象を調査した連中が、“ゾンビウィルス”だと映画のゾンビのような悪いイメージになってしまうから、“ゾンビーウィルス”とわざと伸ばして言う事にしたんだ。将来このウィルスから薬を作る可能性があるので悪い印象にならないようにしたって」
強い語気で語るサニは珍しかった。
「サニは白人が嫌いなの? これは白人対黒人の話なの?」
「違う。僕の話は極端過ぎたね。ミズオには不思議に映るかな。人種として虐げられた歴史に対する怒り、何の自覚もなく先人同様の差別をしてくる人の鈍感さに対する怒り、また繰り返される搾取と屈辱を防げない事への怒り…」
「少しだけど、わかるよ」
「…ありがとう。何故オルーラは夢を見せるのか? 僕とイグアナを結びつけ、ウィルスの特性を知るチャンスを与えた。何故? 誰のためのチャンス? いつか、いずれか、黒人が自分の国で拾った宝物を自分たちの未来のために使うことが出来るのではないか? 『他の誰かに渡さなければ』ね」
「なるほど、もっとわかってきた気がする」
「だが、国交正常化だ。キューバにウィルスを置いておくのは賢明ではない。僕たちはウィルスの分散を考えた。理想では世界中に宿主を作りたかった。だがそう簡単ではない。宿主のいる環境は治安のいい文教地区が適している。僕の考えでは、今は誰もウィルスを良い方向では使いこなせない。宗教家でも名医でも。別の悲劇か大迷惑を引き起こすだけだ。だから、ウィルスはいつかその時が来るまで、覆い隠されて生き延びなくてはならないんだ」
「日本で…?」
「そう。試す価値はある」
「夜叉を、青山も、ウィルスの運び屋にしたの?」
「…そう」
「じゃ、夜叉たちと同じ飛行機に、他にもウィルスを保有している人が搭乗していたの? だって、一気に死なないとウィルスは働かないのでしょ? 飛行機事故はおあつらえ向きの死体を大量生産できるいいチャンスだものね」
「バロン・サムディみたいに言うね。誓って言うけど、飛行機を衝突させてはいないよ、僕たちは。むしろ犯行声明を出したISがウィルスを狙っていなかったかわからなくて恐ろしい。彼らなら死者の軍団を作りたがるだろう」
「ともかく自分じゃないと言っているんだね。死神は手を汚さないって事?」
瑞生とサニは睨み合った。
「今頃、非難するの」
「何となく。異を唱えないとそのやり方を認めたみたいになるのが気に喰わないんだ」
「…」
「サニの考え方もわからなくはないんだけど。何故日本人なのか、何故夜叉たちだったのかわからない。黒人対白人の争いに黄色人種を巻き込みたいの? 学校の教科書を見たけど、資本主義対社会主義なんて昔の話じゃないか。それに僕はハイチなんか知らない。それにさ、ずっと引っ掛かってたんだけど、ウィルスって、最初の患者の国の物なの? コレラは最初に感染した人の国が『うちの物だ』って言ったの?」
瑞生はサニを見た。サニは見つめ返してはこない。瑞生の無理解に困惑しているのか、狭量に呆れているのか。
「僕は確かにバロン・サムディ、生と死の神格ゲデの使いだ。ヤオーマに死が迫っている事を知らせ、ゾンビーウィルスに運命を託さないかと持ちかけた。僕に見えていたのは飛行機が事故に遭うことだけだった。だから蘇った二人に付き添って来日し、ヤオーマは復讐を果たし、ヤシャもやりたい事をすればいいと思っていた。ところがヤオーマはバラバラになって死んでしまった。僕は彼の想いを果たすために必死だった」
「何故、日本人なのかと聞いたね? キューバのテレビでは日本の古い映画をよく放映するんだ。僕は日本語の音に惹きつけられた。だから勉強した。オルーラが見せた夢じゃない。僕が自分で選んだ。大学のネットで各国に友人が出来た…だが民族の闘いには理解を示すけれど、圧倒的に虐げられた黒人の嘆きはスルーする。頼み込めばウィルスを保管してくれそうだが、その身に受け入れるなど拒否するだろう。そんな中で僕が感じたのは、日本人の持つ共感性だ。人の痛みを自分の事のように感じ取る感受性。他国ではまず自分をグイグイ出してくる。理解し合えるのは部分だけと割り切っている。日本人の自分を抑えて他人を丸ごと理解しようとする懐の深さは、他民族にはまねできないと思う」
「ちょっと待って、サニ。サニは何をもって日本人に共感性があるなんて言うの?」瑞生は腑に落ちない思いだった。日本人にそんな素晴らしい特性があるのなら、もっとこの国は暮らしやすいはずではないか。
「『おしん』『男はつらいよ』『ナウシカ』『トトロ』『任侠…』…」
「ああ、サニ、映画やドラマと現実はちょっと…」瑞生はキラキラ目を輝かせて語るサニを見て、胸が痛んだ。
「…日本をいい人のいる国だと思って、ウィルスを託そうと来たの? 現実の日本人は自分勝手で無責任で金儲けが好きで、外国からの評判を気にするしょうもない国民なんだ…申し訳ないけど」大人気ないと思ったが思わず言ってしまった。「夜叉も門根も僕も日本人だよ? あまり共感性に優れているとは思わないけど」
サニは目をパチパチした。
「う~ん? 僕は思っていた通りの人たちだと思っているよ? ミズオだってウィルスを引き受けてくれるじゃない。これからの人生を犠牲にして」
「僕は…夜叉のためだけだ。サニの仲間の苦しみのためじゃない。がっかりさせて申し訳ないけど。いい方に誤解されているのも心苦しい…。サニ?」
瑞生は驚いて腰を浮かせた。サニが泣いていたのだ。
「…ミズオ、言い訳だ。僕は、僕たちは極悪人だ。ウィルスをアメリカに、白人に、誰にも渡したくなくて君の人生を蹂躙するんだ。日本人の共感性にすがろうとしたんだ。優しくて気の毒な誰かの人生を乗っ取ろうとして来たエイリアンだ。君は僕を非難して当然だ。そして、言いたくはないけど、今ならこの運命から逃げ出すことが出来る。だって、僕たちがすることは酷い事だからね」こう言うとサニは声を上げて泣き出した。
目の前でテーブルに肘をつき肩を震わせ涙にくれる黒人の、針金のような痩身の体躯を瑞生は呆然と見ていた。
『今なら後戻りできる』サニが言ってくれたじゃないか。
仕方ない。事態が事態だ。お前は高校生なのに、人生の楽しみを全て放棄する覚悟が本当に出来ていたのか? 修学旅行も大学生活も女の子とのセックスだって出来ないかもしれないんだぞ! ウィルスの奴隷になるのか?キューバ人のために?黒人の復讐のために? 全然理解できないくせに馬鹿にもほどがあるだろう。
でも、僕は約束した。夜叉に…
考えが浅かったんだよ。お前は自分の能力が低い事を知っているから、“ウィルスの宿主”という“生きてるだけで価値のある存在”に収まろうとしたんだ。それがここに来て、責任の重圧や青春の思い出惜しさに揺らいでいる。
ほら、後に一歩下がれよ。本永や立和名と高校生らしい生活が待ってるぞ。お前が欲してたのは平凡な幸せじゃなかったのか?
お父さんはどう思うだろう?
瑞生の問いかけに心の瑞生は答えなかった。
「夜叉?」
夜叉は柔らかなランプが灯る部屋の真ん中にポツンと置かれたベッドに横たわっていた。珍しく仰向けで、すぐに瑞生に気付いた。
「どうした、こんな時間に珍しいな。サニは?」
瑞生は泣いているサニを面会室に置き去りにして勝手に来てしまっていたので、説明のしようが無かった。
夜叉が手招きをしたので、瑞生は近寄ってベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
「あの、仰向けでいいの? 背中は…」
「お前は運がいい。たまたまだ」
会いたかっただけで、話がしたかったわけではない。沈黙の中、瑞生は夜叉の顔とシーツの皺を眺めていた。
「心が揺れたのか? 無理ないよな。怖いだろ。『ゾンビになる権利』を手に入れると言えば聞こえはいいが、『どんなに努力していい仕事・いい人生を送っていても、最期はゾンビになって人々の記憶にはそれしか残らない人生』を押し付けられるんだからな。俺も…人に押し付ける主義じゃないんだが。ウィルスがせっかくあの島を出られたのだから、引き継いでもらいたいのも確かなんだ」
瑞生は椅子の背に寄りかかって少しだれた。「僕は…黒人の歴史が理不尽に悲惨なのはわかったけど、サニのしようとしていることがよくわからない」
夜叉の声は小さいけれど、はっきりしていた。そしていつになく優しい響きを持っていた。
「俺もわからなくて考えた。サニの弁で気になるのは強烈な白人に対する被害者意識だ。奴隷の歴史を考えれば已む無きことなのだろうが、ともかく『ウィルスは渡さない』に凝り固まっている。一方、キューバは世界で類を見ない程人種差別がなくて、黒人白人ムラートがそこそこ上手くやってる。むしろあるのは“外国人差別”だ。例えば…洗濯機すら配給されるのを待つだけって意味わかるか? 待ってる奴にも待ってない奴にもある日突然届く。機種も機能も全く選ぶ権利はない。“新機能付き”でも“トリセツ”がないからを使いこなせずに壊してしまったりする。国民は政府に情報管理をされているが、国外に住む親族からアメリカや世界の情報は入って来るんだから自分たちが世界から取り残されている事、わかっている。凄いフラストレーションだろ? でも不満をぶつける先が無い。矛先は観光客や物好きにキューバに移住してきた外国人に向く。奴らにしてみたら『外国人から金をふんだくって当たり前』。無気力でラテン系で明るくてしたたか。サニの希望の無い悲壮感とはずれているんだ」
「それにウィルスってあんなに個人の物と考えるのは変じゃない? インフルエンザウィルスの所有権を主張する人なんていないよ」
「まぁ、ウィルスの希少価値ゆえだろうな。俺にもサニとマカンダルの息子たちが何を考えているのかはわからない。ISのように破壊願望に憑りつかれてはいないと思うし、ウィルスで儲けたり脅迫する気はないようだ。俺が聞いたのは、『ウィルスを地下に潜行させたい』ってことだ。表舞台から姿を消して地下で脈々と生き続ける。サニは頭がいい。『今は誰もウィルスを正しく使えない』は名言だ」
瑞生の脳裏に、涙に暮れるサニの姿が浮かんでいた。「僕が気になるのは『国に居られなくなる』お告げの夢を見た話だ。サニはお父さんの提案で医者になった。家族で必死に突き進んできたみたいだ。サニはオルーラの夢で、ウィルスがキューバにあった場合の悲劇を見てしまったのかもしれないね」
「あいつは夢に縛られてる、それが頑強にウィルスを隠そうとする理由なのかもな」
「…サニは泣いてた。きっととてつもない重荷を背負っているんだよ。僕は、サニが何故ハイチの話をしたのか、ずっと不思議だったんだ。アメリカは昔、ゾンビ話でハイチのイメージダウンを図ったんでしょう?」
「ああ、スパイ映画なら知ってる。あれはゾンビというより、ブードゥー教の呪術師怖いって感じだな。それで?」
「うん、ハイチの画像見た。地震にコレラ、五年経つのに全然復興してないんだね。でも地震はアメリカのせいじゃない。サニみたいに賢明な人が一緒くたに話すのに違和感があった。…それで“アメリカのせい”で何か起こると想像してみたんだ。『ウィルスを体内に持つ人々を特定したアメリカは、秘密裏に人体実験をハイチで試みる。瞬殺して蘇りを促すんだ。発見されても世間はゾンビの国だからと妙に納得しちゃうし、コレラの経験から国連は部隊を送りにくい。そこに人道支援と銘打って緊急医療チームを派遣し、患者を隔離しウィルスを採取するためにあらゆる非道な手段を試みる。死体を焼却しても不自然じゃないし、エボラや未知の感染症にビビる他国に口出しされることもない。チームは堂々とハイチに居座り、感染源としてイグアナ狩りをするかもしれないし、実験を続けるかもしれない』こんな予見があったら、ウィルスを安全な所に隠さなきゃと思うよ」
「お前の友達の金髪なら『頭大丈夫かよ』って言うな」夜叉は少し笑った。「だが、いい線いってるかもな」
「お前が俺の後を継いでゾンビになると知ったら、あいつは本気で怒るな」夜叉はもう笑っていない。「キューバやハイチの件とは別に、俺はこのウィルスのお蔭で本当に救われているんだ。もう一度音楽を創りたかった。キリノに会いたかった。こんな身体だって生きてるし、曲が創れる。今聞かれたら『蘇りサイコー』なんだ。前に否定したし、これからも否定するけど。生きてる間は死は一度きりであるべきだと思うことに変わりはない。でももし本家で生き延びることが不可能なら、このウィルスを日本で密やかに存続させるべきだと思う。瑞生、俺を見て、自分で決めろ。俺は蘇ったThe Axeの夜叉のまま死ぬ」
「夜叉、それは夜叉だから出来る事? 自分を保つのは辛い?」
夜叉は天井を見つめて、つらつら検証しているようだ。
「…自分が自分じゃないみたいな感覚は無い。だが仮に脳を浸食されていても本人にはわからないだろう。もし身体がずっと長く持てば、脳にウィルスの影響が顕著に出るかもしれない。脳が真っ先に駄目になるケースもあるかもな。“人間”で死ぬためにはそんなに長く保たない方がいいのかもしれない」
「お前の伯父さんなら『なんとか脳だけ活かせないか』と言いそうだな。俺が会った事ない俗物の資産家の事を覚えているとは思わなかったろう?」
瑞生は正直に頷いた。
「俺だって、お前がどんな家庭にいるのか、気にしたよ。それなりに家族に守られて幸せに暮らしてたら…俺の家の前で叫んだりしないがな、そうしたらこんな話持ちかけたりしない。今とは別の意味で、お前は爆発寸前だったんだろう」
瑞生は夜叉のベッドに突っ伏した。ぎゅっと閉じた目の奥に、浮かぶものを掴み取ろうとした。父の生き方、伯父の生き方、夜叉の生き方…。
いつの間にか、瑞生の頭にぽてっとした夜叉の掌が乗っかっていた。「いつか僕が辛くなった時、傍にいてくれるよね?」
「約束したろう、俺はお前の物だ。灰になっても、空気中の塵になってもな」




