表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/32

㉒ オルーラ

瑞生と本永の学園生活に変化の兆しが。伯父の宗太郎も不審な動きを見せ始めます。

【 二〇一五年六月二二日 】


 睡眠不足で頭が痛かった。さんざん泣いた後、机の引き出しの一つを開けてみた。まだ学生のまま部屋から消えた父の残した物は、今の自分と五年も違わないのだと思うと、不思議な感覚に囚われて見続けることが出来なかった。



 本永は約束通り、登校していた。 

瑞生が“夜叉の愛人”として写真流出した件が学校中に浸透しているらしく、刺すような視線を浴びている感じがした。

 授業後に東が聞こえよがしに、「女子のヒモやって公立中を生き抜いたてきた男子なら、ゾンビの相手だって喜んでするでしょうよ」と言ったのを、本永が殴りかかる寸前に留めたのは佐々木だった。

「自分は正義みたいな気がして言ってるのだろうけど、ワイドショーを信じて目の前の本人を信じないなんて、情報処理能力ゼロ、愚民て言うかもう既にクソババアだね」

温厚な佐々木の怒りを忍ばせた冷厳な一声に、瑞生ですら自分の耳を疑った。


 凍りついたクラスに榊先生が声を張り上げた。「成績優秀者が渡り廊下に張り出してあるから帰りがけに見るように。高校からはテストだけでなく総合評価だ。個人成績表は親御さん宛に電子メールで送られているから、誤魔化せないぞ」


 部活に行く者、掃除当番の者、クラスがばらけてほっとした。

「さっきは助け舟ありがとう」

佐々木は照れて栗色の髪を掻き上げた。「いや、東は昔から他人のミスや欠点を見つけると容赦ないんだ。相手を言葉でボコって、自分を肯定してるんだろうけどね。…そうだ、成績優秀者の張り出しを見ていこう」と渡り廊下の掲示板に連れて行ってくれた。


 「僕らは中一から志望路線別にクラス分けされてる。推薦でも何でもちょっとでもいい大学を狙ってる者はA組。スポーツ系芸術系はB組。はっきりしないのがC組。僕なんかC組四年目だ。多分卒業までずっと。だから張り出しはもっぱらA組が占めてるんだ」

「…王道のスポーツって大学の付属中から上がらないと入れないだろう? 僕らは幼児期の闘いに敗れた系の集まりだから。その中で個人で資金があれば続けられるスポーツで頑張ってる。B組は遠征で長期欠席なんてざらだよ。吹き矢の大会でヨーロッパ回ってたり。舞台俳優してたり。その点C組は、パチンコ王や家具屋の子供…兄弟の中で一人だけね。だから家庭ではアウェーなのが多いよ。うちも姉と妹はS大付属に行ってる。父は僕以外のどちらかに継がせると言ってるよ。…誰も他人の秘密を暴く権利なんてないと思うよ」

如何にもいいとこのお坊ちゃん然とした佐々木の風貌の下に、人知れぬ葛藤や気苦労が隠されていると初めて知った。


掲示板の前に人だかりはなかった。

「…本永、君ぶっちぎり一位だ…」佐々木が唖然とした顔で振り向いた。瑞生も開いた口が塞がらない。

「おう」本永は一人、当然という顔をしていた。


 「ふう」

瑞生はようやく感情を表に出せるので一息吐いた。さっき成績優秀者の張り出しを見てからというもの、二人には申し訳ないが、話は全部上の空だったのだ。

「そりゃ、A組だと聞いてはいたけど」

一位の本永の下に、『二位立和名紗琉』とあったのだ。

「頭、いいんだなぁ」

 顔がにやけるのを誤魔化しながら、伯母の待つ車に乗り込んだ。

 


 :夜叉です。今日で九夜目。俺の私物のオークションの準備が進んでる。病院の為の寄付だと思って参加してくれると嬉しい。こういう事って言い出した奴は気楽で、実際に運営するスタッフは凄く大変なんだよな。オークションで詐欺や不正が起きないといいな。言っておくけど、『Woods!スタッフが知り合いだから落札できるようにするから振り込んで』は詐欺だよ。俺はその頃死んでいないから、余計申し訳なく思う。開催経費は売り上げから支出する。知っていてほしい:



【 二〇一五年六月二三日 】


 榊先生が声を弾ませて入ってきた。

「外様の復学が決まった。薄い色つき眼鏡を掛ければ通常生活が可能になった。来週にも試しに戻って来るぞ!」

 クラス中がわっと沸いた。

その中で本永だけが、「外様を危険な目に合わせないように皆で態勢を整えよう。誰かがやるだろうって、何もしないのは不作為の悪意、悪い結果が出るとわかっているのにそのままにしておく悪意…になると考えるべきだ」と意見した。

「さすがに学年一位の奴は言う事が小難しいな」と誰か。

 始業のチャイムが鳴った。副委員は、「本永の意見、ちゃんと考えよう。『クラスに戻らなければよかった』事態だけは避けなきゃ。どんなヘルプがいいのか外様本人と相談しよう」とまとめた。


 変化は起きていた。数学の先生が、本永を解答者に指名したのだ。おそらく本永のメンタル事情を考慮して避けていたのだろうが、A組を差し置いて一位を取った以上もう遠慮は要らないと判断したのかもしれない。

 想定外の事態に本永の頭は衝撃的な反応に揺れて、瑞生までビクッた。だが本永はゆっくりとホワイトボードに向かい、応用問題を難なく解いてみせると、どよめきが上がった。


 昼休み、佐々木が本永に数学の質問をしてきた。瑞生は知っているが、ぶっきらぼうだけど本永は教え方も上手い。佐々木がふんふん頷きながら聞いている姿は、いつもこうであったかのような光景だ。


 「本永君…?」

教室のドア付近から聞き覚えのある声がした。

 もちろん、本永は静かに永久凍土化した。

瑞生は俯き加減になりながら、鏑木の様子を窺った。ドアに手を掛け立ち尽くしている。反対手に何か袋を持っている。


 すいっと鏑木は下がると、180度反転して姿を消した。


 「…」

本永も佐々木も瑞生も、鏑木登場に固唾を呑んでいた数名も、何も言わなかった。このクラスを訪ねてきた者などいなかったように、再び時間が動き出した。



 「なんか、俺、燃え尽きたわ。…キャパ越えのしゃべりだったよな?」帰り道(学校の駐車場までだが)、本永は空気の抜けた風船のように萎んでいた。

「そうだね。本永があんな複数の人と話す姿を、夜叉の所以外では見たことなかったものね」

 本永が立ち止まった。

「夜叉かぁ。なんだか懐かしいな。夜叉にキリノ、クマちゃん、門根、みんなに会いたいな。お前の家に泊めてもらうのっていつならいいんだ?」

 今度は瑞生が立ち止まった。「それが…泊まるのは無期限で無理そう。あの家にもう戻らないかもしれないから」

「おお? 何があったんだ? 霞さんも一緒か?」

「…本永、人の伯母に当たる女性を名前で呼ぶのって、どうなんだよ…」


 「でも大丈夫? 今日は酷く疲れてるように見えるけど」と瑞生が聞くと、「お前関連の話ってドーパミンを放出させるんだよ。興奮の連続で、薬物効果の心配をした方がいい位だ」とハイテンションだ。残念ながら、意味がよく解らなかった。



 「なんだ。金髪。ご無沙汰だな」

夜叉は開口一番、本永にジャブをかましたのだが、本永は臆することなく、「これを機に“本永”って名前を覚えてくださいよ」と売り込んだ。

でも夜叉は呟きながら車椅子でスタジオに入ってしまった。


 八重樫家の異変の話を聞くと、本永はさらりと「離婚の話は出てるのか?」と聞いた。

瑞生が首を傾げると、「曽我さんが正妻の霞さんと対等を主張しだした以上、もう元鞘はないだろ。別居を止めないのに離婚の話が出ないのは、おそらくお前の事があるからだ」と指摘した。

「僕?」

「仮説だが。伯父さんも一〇代から住込み家政婦してる曽我さんも、家庭に恵まれていたとは思えない。だが金はある。二人は昭和の価値観を持ってる。となると『家族経験が無いのに家族幻想を強固に築いている』と推察される。子供がいて後を継いで円満な老後ってやつだ。あの二人に欠けているのは“子供”つまりお前だ」

「で、でも投資家の後を継ぐなら優秀な養子でないと困るのじゃ?」

「甘いな。八重樫みたいな“美しい子供”が身近にいるのに、平凡な容姿の子供に基準を下げられると思うか? あの不細工ペアにとって美貌の妻の美貌の甥を養子に出来れば願ったり叶ったりだろう」

思ってもみない話に瑞生は言葉も出ない。さらに本永は追い打ちをかけた。

「未成年だし、後見人である霞さんの養子になるには家裁の審判がいる。宗太郎・霞夫妻の養子にした後、霞さんをお払い箱にしてお前を手元に残す作戦だろうな」



 第一〇夜目の夜叉通信が始まった。夜叉はだるそうに椅子の背に寄りかかっていた。

:俺、ワールドツアーとかね、海外に行くたびに日本人であることを強く感じた。それは“違い”を意識した時や日本食を喰いたくなった時だった。でも、キューバに居た間はちっとも日本人を感じなかったんだ。現地食は口に合わなかったのに、日本食が恋しいとは思わなかった。通じない言葉の中で、色んな人種の中で、俺は孤独を手に入れて凄く高揚したし、人種的な感覚より動物的に自分は人類なんだな、と強く感じた。今はもっと『ナニジンか』は重要じゃない。何かを分ける必要を感じない。“生きてる”“死んでる”すらな:

 今まで全く絡んでこなかったキリノがすかさず、「お前を目の前にして、俺たちにとっても“生きてる”“死んでる”は重要な線引きじゃないぞ」と笑った。

「確かにバンド組めるなら、どっちでもいいか」とトドロキ。


“今だから語れる話”はファンには堪らないようで、本永は前のめりで聞いていた。



 夜叉通信が終わると、本永は明らかにガス欠で、夕食は自宅で摂る方がよいと判断し、すぐに伯母の車で村を出た。隣で爆睡する本永の高い鼻を見ながら、無理して来てくれたんだな、と思った。

 

 伯母の実家に帰る途中、二人で巨大なSCショッピングセンターに立ち寄った。そこで伯母は新品のスマホを買ってくれた。

 天ぷら定食が来るまで、伯母がアプリを安全にインストールする方法や、ウィルス対策を詳しく教えてくれた。伯父は極めて高いスキルの持ち主なので、ネット上では『いいね!』をするのも慎むよう念を押された。

 「今日宗太郎は『家にはいつ戻る?』と探りを入れてきた。『瑞生君は? 幼いわけじゃないんだから君と一緒でなければならない事はないだろう』と本音を言ってきたわ」

「伯母さん、なんて答えたの?」

「瑞生はこちらの生活を気に入ってるみたいよ、と」霞はいたずらっぽく片目をつむってみせた。

その仕草が父そっくりで、胸がきゅうっとなった。



【 二〇一五年六月二四日 】


 伯母と話をしたからではないだろうが、夜中に伯父からメールが来ていて、寝起きにパンチを浴びたような朝になった。

:瑞生君、五〇位おめでとう。入学時の成績から大幅アップしたのは努力の成果だね。今度一緒に食事でもしてお祝いしよう。:

 

 すっかり忘れていたが、榊先生の言っていた個人成績表が伯父の手元に届いたようだ。

「ど真ん中の五〇位ってお祝いする価値あるのかな?」瑞生は戸惑いを隠せない。

「アホか。お前の懐柔作戦に決まってるだろ。ご馳走を餌に呼び戻して、村の家に住むように説得だか強制だかするつもりなんだろ。入学時のお前の成績は最下層だろ? それに比べりゃ超努力の証しだから、お祝いの価値が無いとは言えないけどな」気楽に揺れながら本永は答える。

「あのさ…『カイジュウ』って『怪獣』?」

 金髪の揺れが停まった。本永は瑞生に向き直った。これはお説教モードだ。

「おい、五〇位で満足してるんじゃないぞ。と言うか今のやり方とマインドじゃ永遠に五〇位止まりだ。お前は今、小学一年生が初めて計算ドリルを与えられて、〇の多さに有頂天になり夢中でドリルに取り組む姿と同じだ。頭を使い始めた事は評価に値するが、真の勉強ではない。まだ入り口に立つ準備段階だ。お前には『何故』が足りない。自分で『何故』を見つけて自分で『答え』を出していかないと、本当の勉強にも本当の人生にもならないぞ」

 「…」本永の言わんとするところはまぁなんとなくわかる。でも頷くのも癪に障るので、「ふぅん」と言いながら、廊下一周の旅に出た。ぐるっと回って教室に帰る頃には、腹立ちも治まりいつもの八重樫瑞生に戻っているのだ。


 思いがけず、廊下で立和名と鉢合わせした。

瑞生が声を掛けるより早く「ごめんなさい、ごめんなさい」と立和名が繰り返すので、とりあえず人のいなそうな通路に引っ張っていった。

「どうしたの?」

 立和名は今にも泣きそうな顔で、「八重樫君から『二度と俺に近づくな』ってメールをもらったけど、信じられなくて顔を見たくて、つい…ごめんなさい」と俯いた。

「え? 僕メールなんてしてないよ」


 二人で立和名に届いたメールを見てみた。

「『二度と俺に近づくな。俺に話しかけていいと思うな。』…う~ん、これを僕のメールと思ったの?」

立和名はパチパチと瞬きした。「八重樫瑞生、と名乗ってるので。それにメアド教えたばかりだから」

「わからないでもないけど、普段、“僕”を使う人間がメールの時だけ“俺”は変だと思ってほしかったな」

「そう思った。それに…“俺様”風でしょう? そこにも引っ掛かったの」

“俺様”、まさしく瑞生を騙った人物の性格が投影されている。本永のアドバイス通り、新しいスマホを買ってもらっておいてよかった。


 「ごめん。身内の犯行だと思う。知ってるかもしれないけど、ちょっとごたごたしているものだから。…学校でこうして話をするのが一番安全だな。僕の名前でいく電子物は信用しなくていいよ。言いたいことは僕は直接言うから。ああ、でも、噂を君が気にして、もう僕と係わるのはご免だと思っているなら、僕の方こそ話しかけないから、そう言って」

 立和名は「もっと話したい。私は自分の目と耳を信じることにしているの」こう言うと、柔らかく微笑んだ。

瑞生はその可愛らしさに舌を巻きながらも、立和名も芯のしっかりした、気の強いタイプだと確信した。



 夜叉邸には、予想外のメンバーが揃っていた。

「サニ! 久しぶりだね」瑞生はサニに会って単純に嬉しかった。

「今日は病院はいいの?」瑞生の問いに、サニは伯母へのアプローチで返した。「カスミ! 会えて嬉しい。相変わらず咲き誇るバラのように美しいね」

 その後ろに森山を見つけて驚いた。「森山さん!」

「おお、どの面下げてこの家の敷居を跨いだ、って感じか?」本永は鋭利な刃物だ。

 森山は神妙な面持ちのまま、「やあ」とぎこちない挨拶を返した。


 「丁度いいか。燻ってた疑問に答えて貰おう。国立感染症研究所は何故藁科を焚きつけるほどウィルスに涎を垂らしていながら夜叉を手元で隔離しなかったんだ? 今回の病院買収も静観してるだろ」本永節全開だ。

 森山はサラサラヘアを傾け、少し間を取り、語り出した。

「ゾンビーウィルスは実はWHOに正式に認められていない、俗説的なウィルスなんだ。ゾンビも本当にゾンビなのか、死亡診断を誤っただけか、仮死状態が解けただけか、科学的に認められた診療記録はない。わかりやすく言うと、都市伝説みたいなものなんだ」

「それって、まさか、科学的に存在を立証されていないから、建前的に国立研究所が乗り出すわけにはいかないってことか?」本永が結論を先取りして驚く。

森山がうん、と頷く。

「つまり、今度夜叉が作る独立系で企業や宗教や外国の尻尾がついていない病院に任せることが出来て、実は万々歳してるってことか?」

またしても、うん。

 サニは、不起訴になったもののAAセンターを解雇された森山に新しい夜叉の病院を手伝ってもらうことにしたと説明した。

「モリヤマさんにアメリカ機関の嘘について納得してもらった。例の指の件。僕はウィルスの最後の発火現象を知っているから、ジェイコブ弟について記述がないことに納得いかなかったんだ。それで関係者の告白文献を調べたら、何人かが『遺体が燃え上がった』と記していた。『レントゲンで殺してしまった上に遺体の解剖も出来なかった』と。機関は隠蔽したんだ。『科学的に信用できる診療記録は無い』事にした」



 伯母が用事で不在なので(ダシに使ったら本当に大叔母さんの具合が悪くなってしまったのだ)本永はタクシーで帰宅した。レコーディングが佳境らしく、スタジオの方には近づき難いピリピリ感が漂っていた。

面会室で珍しく二人きりになった。サニは黙って瑞生を見ている。この時間も運命の導く必然の一つなのだろうか。


 「ハ、ハビエル?」口にしたことのない呼び方なので、声が震えてしまった。サニは、なぁに、とばかりにこちらを向いて次の言葉を待っている。

「本当の呼び名は“マカンダルの息子”なんでしょう?」

サニはアーモンドのような瞳で瑞生を捕らえている。

「…そう呼ぶ人もいる。自分から名乗った名前ではない。もっと親しい人は、僕を“オルーラ”と呼ぶ。僕には大切な名前だ」

「…サニのお父さんが付けたのはどの名前?」


 ここでサニの表情が緩んだ。「ミズオ、そう、君に言った通り、父は僕に“ハビエル”という名前をくれた。ヒネメス家の長男に多くつけられる名だ。本当は父は“オルーラ”とつけたかったのだが、安全のために“ハビエル”にしたそうだ。サンテリアでは、オロドゥマレという宇宙を司る全知全能の絶対神は、人間には姿が見えないし直接触れ合うことはない。オルーラのみが絶対神の知ることを人間に伝えることが出来る。司祭は占いでオルーラの知ることを聞き出すから“オルーラの手”と呼ばれるんだ」

「サニは司祭なの?」

「いや」

「サニは何故“オルーラ”と呼ばれているの?」

「イファ占いで告げられたから。僕には…見える力があって…」

「何故医者になったの? 司祭になろうとは思わなかったの?」

「告げられたんだ。別の仕事を持ち、隠れ蓑にしなさいと。僕はいずれ追われる身になる。だから父は必死に考えて、将来国外に脱出できる職業を選んだんだ。そして、僕はここにいる」

「待って、サニ。サニは追われて、逃げて日本に来たの? 誰に追われてるの? 国に?」


 サニは穏やかに笑った。「追われる前でないと出国できないよ。キューバには秘密警察もあるし密告制度もある。…まぁ国家も何を追えばいいのかわかっていないから」

「“マカンダルの息子”を追っているの? 夜叉や青山と出会ったのは偶然? もしかしてお告げで何もかも知っているの?」

サニの瞳が揺れた。それを見た瑞生の方が動揺した。「オルーラだかマカンダルだかを逃がすために、夜叉たちが死ななきゃならなかったのじゃないよね?」

「それはないよ。ミズオ、旅客機双方で三七二名の死者が出たんだ。それを謀る程僕たちは狂ってはいない。しばしば宗教集団は狂気に駆られるけどね」

サニのつれない物言いは、濃密な哀しみと苦悩に満ちた過去が言わせているようだ。


 そのままサニは黙って瑞生を見ている。

瑞生は、夜叉と交わした誓約がサニとの関係も特別なものにするのだと、初めて思い至った。じんわりと恐怖が背中から這い上がってくる。自分は何を誓ってしまったのだろう。



 その時夜叉邸のインタフォンが鳴った。やってきたのは朏巡査部長だった。

 「前島さんから伝言で、監視していたテロリストが行方をくらませたそうだ。用心に越したことはないって」

「そんな危ない人がいるのなら、予定より早くヤシャを病院に移すべきかもしれない。外傷に耐えられるとは思えない…」サニは工程表を見ながら眉間に皺を寄せた。朏は表を覗いて、メモしている。

「ヤシャのレコーディングは終わったと聞いている。東京のスタジオで他のメンバーが録り、仕上げるだけだと。入院したら、外部の人と触れ合う機会は格段に減ると思う。それもあって七月まで猶予を見込んでいたのだけど、本人の体調も厳しいからこの週末になるかもしれない」


 また二人きりになった。サニは厳しい顔をしている。

 「ミズオ。…レコーディングは致命的だった。創作はアーティストそのものを消費する。基礎代謝がぎりぎりな上に更に体温が下がっている。いつ機能不全に陥る内臓が出ても不思議ない。覚悟していて」

「サニの経験上、夜叉はもう…長くないの?」

「僕たちには情報の蓄積が少しあるだけだよ。ゾンビーウィルスをコントロールできると考えてはいけない。僕たち人間とこのウィルスの共存関係はそんなに長くはないんだ。ウィルスに意思はないと考えられているけど、それだって人間にわからないだけかもしれない。何故存在するのかもわからない。ただ、…ただ、あるから使う。それが人間だろう? 僕たちはそこに勝機を見た。踏みにじられた歴史を投影した。…ああ、儀式を急ぐなら君にも話す時間を作らなきゃ」



 その日夜叉を見たのは、夜叉通信でだけだった。

:今夜で一一夜目。大した意味は無くても数字が増えていくのって嬉しいな:

傍らにはキリノがいた。ガンタとトドロキは東京のスタジオに詰めているらしい。

:質問をもらった。『夜叉の蒼い色は染色剤を盛られたのではないですか?』 人って青く染まるものなのか?:と夜叉。撮影ギリギリ光度の照明の中、夜叉だけがホタルイカのように発色して別の生き物らしさを醸し出していた。

:さあ。ホタルイカを喰って光る人間を見たことはないけど。何を食べたかが重要かもしれない、という指摘だな:

夜叉が濃度の増した蒼い瞳で遠くを見る。:特別な記憶はない。俺をこんなにも簡単に染められるなら、世の中もっとブルーな奴がいてもいいはずだよな:



 伯母は今日も侵入者の形跡がないか、点検を抜からなかった。定点としている家具や小物が動かされた節はないか、一通り確認しないと気が済まないので、話しかけても無駄なのだ。瑞生は伯母がキッチンに戻るまでお茶のお湯を沸かして待っていた。

 着替えた伯母がようやく戻る頃、キッチンはアッサムティの香りに満たされていた。


「夜叉が病院に入ることにはどういう意味があるの?」

「…今までのように外部の人と会ったりはもう出来ないって」

「そう。つまり…冷徹なようだけど、夜叉は終末期に入るということなのよね?」

返事の代わりに頷いた。


 「…そういえば、聞いたことがなかったわ。突然夜叉に話し相手にと望まれた時、あなたは『何故自分なのか、さっぱりわからない』と言っていた。今はその理由がわかった?」

 

 瑞生にとって、思いがけない質問だった。

瑞生が心の中で叫んだ声を夜叉は聞きつけて、呼んでくれた。あのままだったら、誰からも気づいてもらえないままどうなったかわからないから、呼ばれて救われたのは自分の方だ。  

 しかし、こういった気持ちの説明が伯母に上手く伝わるかはわからない。伯母の立場は瑞生のとも本当の親のとも違うから。

 おそらく伯父とは離婚するだろう。瑞生は自立できるまでちゃっかり伯母のお世話になるつもりでいたけど、夜叉との誓約を受け入れてもらえない場合ここを出て夜叉の家か病院暮らしになるだろう。やっぱり伝えておくべきだ。伯母に嘘を付いたり、真実を隠して一緒に暮らすことをお父さんは喜ばない。


 「うん。…伯母さんは、ゾンビーウィルスに纏わる青山の話を信じている?」

「ゾンビーウィルスの疫学的な話はよくわからないわ。瑞生の言うのは、所謂霊的な体験のことよね? 私は『霊が見えた』とか言うのは全く信じないわ。少なくとも私には見えないでしょうね」

なるほど伯母らしい、と瑞生は思わず頷いた。

「じゃ、占いやお告げの類は?」

限りなく同じ目をしているのに、伯母は父が決してしたことのないガラス球の瞳のような冷たい視線を返してきた。


 「伯母さん、夜叉は僕を選んだ。そして僕は喜んでそれを受けることにした。もう決めたんだ」

今度は怪訝な表情が返ってきた。

「信じてとか、そういう無理は言わないよ。お父さんはよく『人を変えるのは無理だ』って言っていた。でも、お世話になっている伯母さんには、僕が納得して夜叉の世界に飛び込んでいくことを伝えておきたかったんだ。逆に伯母さんが僕を引きとめようと、止めさせようとしても、僕は説得されない。そういう所を、お互いわかっている関係になりたいんだ」


 伯母はぼんやりと口を開けていた。あまりに予想外の事を言われたからかもしれない。

「僕はこの家においてもらいたいけど、出ていくことになるかもしれない。迷惑かけているくせにずうずうしいと思っている、本当だよ。それも先に伝えておきたいと思って。僕は、お父さんが伯母さんのことを大好きだったのを知っているし…」

「雪生が私の事をって、どうして…?」


 瑞生は息を吸って、吐き出すと同時に告白した。

「ごめんなさい。一度だけ伯母さんの部屋のドアが開いていたのをいいことに、部屋に入って、お父さんと伯母さんと…僕が映っている写真を見つけてしまった。しかもそれを持ち出して持っているんだ」

伯母は息を止めて瑞生を見た。衝撃を与えてしまったと知って慌てて補足説明した。

「僕はあんなに幸せそうに笑うお父さんを見たことがない。お父さんは撮影者、つまり伯母さんを見ていた…」


 伯母は何も言わない。両手の指先が白くなるまで神経質に指を絡めている。その狼狽と言ってもいいほどの動揺が瑞生には理解できなかった。

「続けるね? 詳細はわからないのだけど、夜叉とその…運命共同体みたいな関係になる。伯父さんならきっと『詳細もわからず契約するなど愚の骨頂だ』とか『未成年を騙して将来を棒に振る誓約をさせた』とか言いそうだから、一緒にいなくて本当によかった。僕はお父さんと似ていると思う。この選択をお父さんなら理解してくれると思うんだ。伯母さん、聞いてる?」


 「あなたは雪生なら賛成すると思うの?」少し震えた声だったが視線を落としたまま言った。

「うん。そうは言っても、夜叉の期待に応えられるか、想定外の困難に最善を尽くせるのか、不安だらけだけど」

この言葉に、伯母は顔を上げ、瑞生を真直ぐに見た。

「そう」


 今夜の話はそれで終わった。瑞生はベッドで天井を見つめた。

自分なりに筋は通せたと思うのだけど。伯母はわかってくれたのかな。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ