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㉑ 大きな買物とジェンベに籠めた想い

八重樫家では、伯父の宗太郎がヘルパーの曽我さんの住民票を村に移したことが仮面家族のバランスを崩したようです。夜叉がゾンビーウィルスの研究のために、村のAAセンターを買収した事も周囲に波紋を呼びます。村の自治会長の座を追われた田沼はどうでるのでしょう?

【 二〇一五年六月二〇日 】


 以前同様早朝から伯父がリビングで大画面のテレビを点けている。その横に曽我さんが座って伯父の洗濯物を畳んでいる。

それだけで朝からげんなりくる光景だ。

瑞生は伯父に挨拶もせずに、キッチンに行った。今朝はリビングに居場所のない伯母が瑞生の分の朝食と共にそこにいた。


家庭崩壊は瑞生にとって経験豊富な分野だ。瑞生は『カメラ復活かもしれないね』と書き、伯母は『宗太郎の味方しかしない家族が増えたと思って』と書いてきた。



 「君は日々違う苦悩を抱えてやってくるようだなぁ」前島は気の毒そうに言った。

「前島さんこそ、僕に対する態度、変わり過ぎじゃないですか。最初は犯罪者扱いだったのに」同情に反発して不機嫌そうに言った。

前島は口元をほころばせた。

「君が結構捻くれていて、心の奥に棘を持っていると今でも思っているよ。だが、君はその棘を自分から他人に伸ばしていったりはしない。私はそれは、お父さんが君を優しく育てたからだと思っている」


 瑞生はあんぐりと口を開け、まじまじと前島を見た。

あの、前島が、こんな風に見ているとは。驚き桃の木だ。いや、このところ毎日驚いてばかりいるけど、最大級の驚きだ。


 そこにクマちゃんが現われた。前島はAAセンター買収の件で来ていたらしい。

 「いつものように夜叉が突然言い出したのよ。『あそこの病院買えないかな』って。オークションは借金返済のためだけではないと思っていたけど、まさか病院を買うなんて。慌てて専門家に依頼してデューデリ…デューデリジェンスと言って買主が買収対象医療法人の財務・法務などの内容を精査することをして、交渉を申し込んだ。AAセンターは金銭管理に関して非常に杜撰だった、とだけ言っておきましょう。病院と言うより暇過ぎる高級サロンみたいだし。建村時に協力した政治家や財界人が雲隠れする病院として利用してきたらしい。ここできっちり整理というか断舎利ね。人も物も」とカラカラ笑った。

「やっぱ黒金さんは凄いっす」門根が呟く。前島はそれを楽しそうに見ていた。

 

 「夜叉は夜叉通信で匂わせていたように、自身のウィルスの研究室と、得体の知れない病気の駆け込み医院にしたいの。今年の一月に難病法が施行され、指定難病数は五六から一一〇に、五月からは三〇六になった。国の指定難病というのは人口の0.1%に患者数が達していないという要件がある。でも夜叉が目指すのはもっとレアで、得体の知れないケースだそうよ。だから当面は開店休業ね」

 前島は「テロとの関連性は低い話で安心した」と安堵した様子だ。


 先ほどの前島の発言に気をよくした瑞生は、八重樫家の忌々しき事態を相談した。

「家庭問題の範疇を出ない話だな。君がそのきっかけを“住民票”と見ている所に興味を惹かれるが」と前島。

「宗太郎氏の身体の事、残念ながら両親も誰も『あなたは可愛いうちの子。愛してるよ』とは言わなかったんだな。辣腕投資家になってみせても腫れもの扱いは変わらなくて、絶望と孤独であんなになったわけだ。それにヘルパー。『世の中の女性は、旦那がマザコンなのは嫌がるが、自分の息子はマザコンにしたがる』と言うだろ。曽我さんが徹底して自分無しでは生きられないよう仕込んでいたら? 曽我さんは母兼姉兼恋人だったかもしれない」

「確かに不自然な夫婦だったけど。食事はいつも伯母さんが作ってたし、伯父さんは伯母さんを…しょっちゅう見てた」

「わかるわ」瑞生の証言に恋心を感じたのか、クマちゃんがうんうんと頷く。

「それが退院した途端、曽我さんが片時も離れないで世話してる。伯父さんは僕の知る限り伯母さんとほとんど口をきいていない」

「住民票の移動で、曽我さん的には『これで自分は正妻の完全代行が出来るようになった』と判断したのでしょうね。美貌・家柄・年齢何を取っても勝ち目のない霞さんに対し、『勝てた』気がしているのかも」とクマちゃん。


 あの家では何もかも伯父の思うようになる。でも伯母は伯父の思うようにならない唯一の存在だった。美しい妻が自分のために美味しい食事を作ってくれる…この事実だけで伯父は満足なのじゃないか、と思ったことがある。

 でも、仮面夫婦に心の拠り所など伯父は端から求めていなかったとみる方が妥当なのかもしれない。伯父は何でも買ってもらえる環境に育ち、今はもっと何でも手に入る生活なのにとても飢えていたのか…。飢餓感というのは『欠乏・不足』を認識したことからくる感覚だ。それは『自分だけの物がない…』とずっと思っていた自分と似ていなくはない。決定的な違いは、前島が言ってくれたように、父の愛、だ。

そして今、瑞生には夜叉がいる。



 「え?」

 厚労省の役人は、眼鏡の奥の目を点にした。スタジオのソファ横のテーブルに置かれたレコーダーが、虚しく沈黙を記録する。

「もう一度、言ってください。夜叉さん」


 「俺は緑のイグアナに遭っただけだぞ。今思い出しても、あのイグアナはゆったりと神々しく構えていて、如何にも特別な存在だった。だからってそれで『感染うつされた』かどうか、俺の知った事か。この前警視庁の係長が下っ端と来て三カ月間の行動を聞き取りに来てたが、その続きにしては遅すぎるだろう」

 眼鏡は苦々しくメモを胸ポケットにしまい、不甲斐ない後輩に、席を立つよう促した。だが、下っ端は使命感に燃えて質問した。

「あの、どんなイグアナでしたか?」

「…緑。特別な、高貴な雰囲気の」

メモる後輩に、眼鏡はイラついて質した。「そんなこと聞いて何になる」

「捕獲しないと。保菌というか宿主ですよ。キューバ政府に連絡して…」

「真っ赤とか虹色とか言うのならともかく、緑なんてありふれた色のイグアナを探せるわけないだろう。それにその辺にいるイグアナだとしたらキューバはとっくにゾンビだらけだ」


厚労省一行が去った後、居合わせた者のくすくす笑いは止まらなかった。


 気の毒そうに傍観していた前島が、サニに近づいて話しかけた。

「藁科は起訴される前に、国立感染症研究所宛てに報告書を送っていた。『ウィルスの採取はほぼ不可能』と納得せざるを得ないような代物だ。その中に“親指事件”というのがあって、少し聞かせてほしい」

 サニは溜息交じりに答えた。「僕は採取の邪魔、してない。ワラシナさん勘ぐり過ぎ。ヤシャが鍵盤を叩いて指がボキッとなって叫んだ。ウィルスの異常が第二関節より上にいかないように、指を切り落としたら、燃焼して」

「切り落としたぁ?」「燃焼?」皆が一斉に反応した。

「処置としては最善。切り落としたから、切断面にウィルスが集中できたし、細胞のバランス異常が伝達しないで済んだ」

 クマちゃんは若干戸惑いながら訊いた。

「直前まで繋がっていた指をどうやって焼いたの?」

「ウィルスは役目を終える際に全エネルギーを放出する。僕たちの想像を超越したレベルのエネルギーだ。憑りついている細胞の全ての力も使わせる。短時間に急激に温度が上昇して発火するんだ」

「自然発火? Xファイルみたいな?」と門根。

「ジェイコブ弟の時にもそんな記録はないわよね?」クマちゃん。

「それには仕掛けがある。あの短い時間に僕が何を使って焼けると思うの? 自分で言ったでしょ?『直前まで繋がってた指を』って。自然発火と考える方がよほど理に適っている」

前島は「道具もオイルも燃えさしも何の痕跡も見つからなかった…と。なるほど、訊くほどに謎だ」と困惑気だ。


クマちゃんが腕時計を見た。そろそろ夜叉通信だ。



 :やあ夜叉です。今日は七夜目だ。病院の件では、今までで一番色んな種類の意見をもらったな。『難病指定を受けられないでいる病気を研究してほしい』とか、『クラウドファンディングで投資してもらって、村の他の研究施設も全部買い取って、ウルトラ難病研究村にすれば難病間の不公平感が無くなると思う』とか。『村の空き邸宅をCMや映画の撮影用にして稼いで病院経営に使うといいよ』とか。…思うに、みんな優しいな。俺が思ってた日本人のイメージより遙かに優しい。こういう風に知恵を出してくれるなんて思ってもみなかったよ:


:キューバの話をしようか。撮影やツアーで世界中に行った。オフも結局誰かのお膳立てで。何もかも一人で準備したのは、キューバが初めて…最初で最後だったな。目的地を決める条件は、行ったことがなくて、音楽が溢れてる場所。で、キューバだ。昔の俺が行ったのなら、特に感じなかったかもしれない。今回は特別だった。風が違う。太陽が違う。匂い、喧騒の…手触りが違った。誰も俺を見ていないのに、俺にメッセージを発しているんだ。ガンタに言わせれば、『着いた途端、もう病んでたんだな』ってことになるか:

姿は見えないが、ガンタらしい笑い声がスタジオに響いた。

:そう、日本とは違う、あまりにも違う。空腹と抑圧と音楽、大国アメリカへの反目・羨望、社会主義国の均一感、無気力、独立の歴史、アフリカの残像、中米の香り。キューバ人の目は虚無ではないがどこか覇気がない。カストロ以降の政治的安定は彼らにとって幸福なはずなのだけど。夜になるとギアが入るナイトクラブの音楽。豊かで情熱的で、したたか。…あそこならゾンビーウィルスがいても不思議はない:



【 二〇一五年六月二一日 】


 病院買収の件がひと山越えて、クマちゃんは自由に仕事が出来る筈だった。ところが村の新自治会執行部から呼び出しが掛かった。これが門根からの要請だったなら「冗談じゃないわよ、この忙しいのに!」と一蹴していただろう。だがクマちゃんは一言の愚痴もこぼさずに、真っ赤な口紅を塗り直して出かけて行ったのだ。

瑞生は呟いた。「『クマちゃん、恋の予感』かぁ」



 ビジターセンターの小会議室に一歩足を踏み入れた黒金真樹子はその淀んだ空気に珍しく一瞬怯んだ。真樹子に気づいた苔田満が手を振って合図した。「…どうしたのですか? 雰囲気悪いけど」

「ミライ村は自治会だけが全体の意思決定機関になりうる。つまりは村の在り方まで考えなきゃならないから、バラバラな住人の要望に荷が重くなっているわけ」苔田は相変わらず飄々と答えた。「おまけに、田沼さんが『夜叉と直接話させないと、引継ぎの書類を渡さない』とごねるし…」


 「ふん。お前たちのようなど素人がコントロール出来るほど、この村の住人は甘くないんだ。我儘で常識知らずで無能なんだよ。建設的な意見がでるはずないだろう。セレブ心をくすぐって木に登らせ、恐怖を喚起して禁止事項を守らせる。こういうお守りの仕方が相応しい連中なんだ」

 突然、濁声が響き、皆が驚いて振り向くと、小会議室の入り口に田沼が立っていた。

「田沼さん、どうして?」

田沼は藤森の問いかけには答えずにずんずんと入ってくると、ストンと議長席の横に座った。

「作家先生、私のアドバイスが必要なのじゃないかね? 持て余しているのだろう?」田沼は蝶ネクタイをいじりながら探るような目つきを見せた。


 「自治会の会計帳簿や議事録を見られると困るから渡さないのだと思われますよ。もちろん私たち興味津々です。管理費の流れを精査して備品などの購入先を見直したいです。ビジターセンター職員の採用記録やAAセンター開設時の会計処理も拝見したいし」と真樹子が実務的にとどめを刺すと、「田沼さん…世代交代ですよ」と七十歳で新執行部最年長の役員が穏やかに引導を渡した。

 田沼はちらりとその役員を見た後で、真樹子にも目をやったが、以前のように憎々しげにギョロ目で睨みつけては来なかった。

 ふん、ふんっ

馬鹿にするように鼻息を吐き散らすと、藤森の前に小さな鍵を置いた。

「自治会長室の机の鍵だ。中に帳簿類とUSBメモリーが入っている。金庫はダイアル式だ。開錠番号は帳簿の最後のページに書いてある。通帳とカード、常に現金百万ばかりが入っている。…私は不正はしておらんよ」

「田沼さん、あなたが高額の管理費を流用したなどとは、新執行部の誰一人として思っていませんよ。あなたは長年この甘ったれたセレブ達をリードして村と言う架空の自治体を作り上げてきてくれた。その功績は過小評価すべきではありません。…ただ、時代の変化、住人の老いに対応できなかった。あなたが社長・会長として高度経済成長期に拡張し続けた会社にあなた自身が囚われてしまった。…そう思います」藤森の言葉には誠意が滲み出ていた。


 田沼は宙でぶらつかせていた足を床に着けると音もなく立ち上がった。

ふんっ ドアは小さな音を立てて閉まった。


 「さて、まずは脱N不動産だ。リフォームと転売に関して誠実に働く気がある仲介業者を募ってみようか。N不動産以外に二社くらいは選択肢を用意したいね」と藤森は役員たちを見回した。

「黒金さんが言っていたように出入り業者を考え直そう。ここのトイレットペーパーなんて高級ホテル並みですよ。無駄を排して共益費を下げることを検討しましょう」応じながら皆席を立って散会となった。


 「私は何のために呼ばれたのかしら」

クマちゃんは階段を踏み外さないよう注意しつつ、苔田に疑問をぶつけた。

「あなたのお蔭で田沼さんから帳簿一式引き継ぐことが出来たのですよ。田沼さんに負けない、侮られない空気を作ってくれた」と長身を屈めて真樹子に微笑みかけた。



 「苔田さんになんて言われたの?」瑞生は鎌を掛けただけなのに、相手はいとも容易く引っ掛かった。

「え、え? 瑞生君何で知ってるの? あの場にいたの?」クマちゃんは巨大トマトみたいになっている。

「なんだ、それは。初耳だぞ。クマちゃん、何?誰?どうした?」通りがかったガンタが喰いついた。「クマちゃん、話してみなよ。これだけいれば、いいアドバイスできる奴もいるって」ガンタに促されて、クマちゃんは両手で自分の膝をがっしりと握った。

夜叉がいなくてよかったかも。クマちゃんが現実に恋を実らせるには、夜叉の存在は微妙だものね、と瑞生は思った。

 

 クマちゃんを称賛した後、苔田はこう言ったのだ。

「僕、本当は美術館や博物館を造りたかったのです。でも…結局はイベント施設のデザイナーになりました。わくわくするようなイベント会場の施設を作るのは楽しいですよ。でも終了後は跡形もなく撤去される…儚い造り物です。だから、僕はがっしり、どっしりした人が好きなんです。ゆるぎない存在と内に宿る知性の同居が僕の理想です。…子供の頃から“変わり者”と言われてきましたが、独身なのにこの村に家を買った時は“変人”呼ばわりされました。僕は五〇歳目前にして、理想の女性に巡り合ったのです。夜叉に仲人を頼みたいくらいです。…あ、先走ってしまった。あの、まずは一対一でお茶からお願いできませんか? 僕は本気です」


 「クマちゃん、なんて答えたんだ?」トドロキが唾を飛ばす。

「イエスだろ?クマちゃん。思い切って行っちゃえよ、嫁に!」ガンタも負けじと興奮状態だ。

「それが…」

「それが、何?」思わず瑞生も身を乗り出した。

「覚えてないの。自分がなんと答えたか」

「ええ~?」


 「一番いい所で、録画ミスったドラマみたいだな」とガンタ。

「今はおまかせ録画だから、それはないでしょ」と瑞生。「どうするの? まさか『私なんて答えましたか?』って聞く?」瑞生の問いに、「それはないだろ」とトドロキが往なした。

 恋する(?)乙女のクマちゃんは、おかっぱ頭を掻きむしって首を振った。「舞い上がり過ぎたのか、記憶がすっぽりと抜け落ちてるの。ただ、『イエス!』と言ったわけではない気がするのよ。…つまり、私のタイプとはその、違うものだから…」


 確かに、酷い目に遭いながらも夜叉をずっと支えてきた歴史が物語るように、クマちゃんは美形、しなやかで強烈で迸るような才気煥発型の美形が好きなのだ。善人とか品行方正とかは必要ない。…苔田は頬がこけていて細長い鉛筆か藁みたいな外見だ。夜叉の纏う唯一無二のオーラとは次元の違う凡庸な世界の住人だ。人の価値はビジュアルじゃないと言っても、好みは重要だろう。


 「クマちゃん、簡単。まずは一緒に住んでみればいい」

今まで黙っていたサニが突然話に入ってきた。

「…」

サニ以外の全員が思っていたことをクマちゃんが代表して口にした。

「だから、彼女の家を追い出されるのよ。彼女のママに嫌われて」



 :こんばんは、夜叉です。今夜で八夜目だ。見てくれている人、この時間の番組を盗られて迷惑してる人、どっちもありがとうね:

:お前がそんな殊勝なこと言うと、具合が悪くなったのかと皆心配するだろ、俺もだけど:ガンタが慌てる。

 夜叉が少し微笑んだように見えた。

:今日は音楽の話をしようと思って:


 それからはバンドメンの音楽への熱い思いが語られたので、疎い瑞生はぼんやりと聞いていた。その中で解散前にトドロキと夜叉の関係が悪化しほとんど口もきかない状態だったことが明かされた。

:あれは一体なんだったんだ?:とガンタが当事者に聞く。

:わかんない。喧嘩なんかしてたっけ?:と夜叉。

:出たよ。夜叉の『俺それ知らない』が。しでかす奴は平気で忘れて、喰らった奴はずっと恨みに思ってる構図。もう、揉め事は清算した方がいい。トドロキ、話しちゃえよ:ガンタが憮然としているトドロキを促す。キリノは風に吹かれる柳のように静観している。


 :お前、解散前にさ、ソロで積極的に海外アーティストとセッションしていただろ? セネガルのジェンベ奏者キング・ジェド・ロザロザと二〇〇四年にセッションライブをやるはずだった。…覚えてるか? 俺、参加したかったけど、バイクの事故で左手の中指骨折しちゃってて断念した。キングはあまりアフリカから出ないから、最初で最後の全米ツアーの最中で、お前がハワイまで行って合流する予定だった。それを、お前が、破綻したスーパーフルーツの無限工場投資の保証人になったか何かで出国できなくなって、お流れにしてしまったんだ。あの後、キングは足止め喰ったシェラレオネの空港で暴動に巻き込まれて死んでしまったんだぞ。あのキングとお前の歌声が共演するたった一度の機会を、お前の音楽外の失策で潰したんだ。俺がどれだけ楽しみにしてたか、わかるか? あのジェンベのリズムにお前はどう載せていく? 唸る低音か得意の高音か、きっと乾いた大地に沁み込む水のような澄んだ声を響かせるに違いない…って。そのチャンスをお前は台無しにした。他人がどんなに望んでも手に入れられない声を持ちながら、音楽の神に対して不遜な態度を取り続けたお前を俺はずっと許せなかった。解散後一〇年経って、お前がキューバで死ぬ羽目になったと聞いた時は正直複雑な気持ちだった。キューバ音楽の根っこは、セネガルのある西アフリカの音楽だ。奴隷として連れて行かれた人々の音楽だから。でも、蒼くなったお前の小さな声を聞いて、もう怒りなんて保てなかった。だから俺はジェンベを持ってきたんだ。無菌の儀礼用のになっちゃったけどね:

 一〇年も胸に秘めていた怒りを吐き出して、トドロキはすっきりしたと笑った。対照的に、夜叉は叱られた動物みたいに、しゅんとして見えた。


 瑞生はウィキで調べものをした。

ジェンベは丸太をくり抜いて杯型にし山羊などの動物の皮を張って作る、西アフリカの太鼓だった。

太鼓の音。トドロキの敲く太鼓の音は体の中の何かを揺さぶる。ジェンベの名手の演奏はどんなに凄いのだろう。死者の霊を呼ぶほどの力。それはこの日本でも可能だろうか?



自宅に居たたまれなくて、伯母と瑞生は『大叔母の見舞い』を口実に、霞の実家に避難した。


「瑞生、客室で寝る? 雪生の部屋で寝る?」

「あ、お父さんの部屋にする…」

伯母はさばさばと支度をしているが、瑞生はこの家に馴染んでおらずお客さん状態だ。しかし、ずっと空き家だった割には、昨年に発売されたテレビが置いてあることに気づいた。

 父の部屋のドアノブを握ったものの回すのに勇気が必要だった。この前は突然で、心の準備が出来ていなかった分、あっさりと入ってしまったのだが、今回は『さぁ父の部屋に泊まるぞ』という気持ちが出来ている。瑞生は手汗を拭い、深呼吸して、「お父さん、入るよ」と言ってドアを開けた。


 瞬間 父が見えた。


―瑞生、よく来たね。入ってー


 瑞生はその場にしゃがみこんで泣いた。



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