⑳ 夜叉に誓う
伯母に連れられ、父の実家に行った瑞生。亡き父の部屋は瑞生にこれからの人生の淡い夢を見せてくれます。一方、夜叉の身体は次第に機能が衰え、心配な状態になってきました。
【 二〇一五年六月一九日 】
今日は金曜日だが、本永の言ったように、成績不振者が呼び出されてお説教される日になっている。だから昨日連絡がこなかった者はお疲れ様休みになるのだ。
本永が来てからというもの、早朝散歩どころか、早朝に起きることがなかった。
思うに、本永という緊張感を愛するストイックな男といると、健全に疲れるのだ。それまではこの村でこの家で、不自然な緊張状態でいる一方エネルギーを持て余していたのかもしれない。だから早朝に目が覚めていたのだ。不思議なことに、呪いの話を聞いて以降あの火災の夢を見ないのも、目覚めない理由の一つだろう。
午前一〇時、コスモスミライ村新自治会長藤森琢磨の挨拶がケーブルテレビで流された。
藤森は挨拶、就任の経緯を説明した後すぐに本題に入った。
:先日まで、この村の自治は私にとって他人事でした。私には静かな執筆環境であればよかったのです。でも気づいていた。『何かおかしなことになっている』と:
:それは村の自治が住人の幸福追求のためではなく、N不動産の利益追求のために行われていたからです。自治会長田沼さんの任期が長過ぎた弊害といえます。時代は変わり住人のニーズも変わったのに、相変わらず自由に仲介業者を選べないし、村に残るための支援も得られない。そのために若年層が入れないのでは、村の高齢化はさらに進みます。高い地価は高い相続税を生みます。今まではN不動産が横暴なほどに横槍を入れるため、相続や贈与の問題は表面化せずにきました。しかし今後は圧力を掛ける組織がないので、最悪の場合、夜逃げや相続税の物納をする住人が出てくる事態を危惧しています:
:一方夜叉がこの村にいることで、かつてないほどこの村に来たいと思う人たちがいます。何を変え何を維持すれば、魅力的で暮らしやすい村になるのでしょう? 結果ここを去る人もでるでしょうが、望む人が来られるようにしたいのです:
:最後に基本事項を確認します。夜叉が存命の間は夜叉の安全を第一とします。その間はゲートは存続しIDカードの携帯も続けます。残念ながら既に夜叉とその周囲に対し、心無い振る舞いが見られます。一旦受け入れた命です。この村が世界と交わした約束ですから、全力で守るべきだと思います:
「夜叉優先を宣言してくれて安心した」瑞生は気楽だったが、伯母の顔つきは硬かった。
「曽我さんが正式にここに住むの」隣に座るや伯母は言った。
「『旦那様のご厚意で住民票を村に移しました』ですって。宗太郎は今まで私に相談した事なんてなかったけれど、これはせめて事前に通告すべき案件じゃない?」伯母の言い方には怒りが滲んでいる。
「…それ凄い事なの? 今だって伯父さんがうちにいる時は曽我さんもうちにいるじゃない。ここ以外に住んでる家があった事の方が驚きだよ。ほとんど帰らないなら家賃無駄なんじゃない?」
瑞生の庶民的突っ込みが伯母には予想外だったらしい。
「そういう経済的な視点から見れば、確かにもったいないけれど、家族じゃない人の住民票をうちに移すということは、家族同様にうちに住むということよ。例えば首にしたからと言ってすぐ出て行けとは言えないと言うか…」
「…わざわざ住民票をここに移さなくてもいいじゃないか、ということ?」
「そう! 何故今ここに移すのか?ということなのよ」
「う、うん。確かに。あの…まさか、曽我さんは“家族”になるの?」
霞はリアドロの陶器の人形のような顔を凍りつかせた。
「まさか、そうではないと、思う」
「お、瑞生。昼飯喰いに来たのか?」
こういう雲行きが怪しい感じの時、ガンタみたいなエネルギーの塊に明るく声を掛けられると、それだけで元気になる。
食べることに関して話す時、ガンタは本当に目が輝いている。
「夜叉に食べさせてやりたいんだけどな。食えないなんて生きてる実感ないだろうな。まぁ、前みたいにバクバク食えたら、自分がゾンビだって認められないだろうから、食えないことにも意味はあると言えなくはないが」
「食べるって生きてる証し。ゾンビの自覚か…辛いね」瑞生は大きな赤銅色の鍋を見ながら呟いた。
ガンタはスパイスの入った小瓶を光にかざした。
「ゾンビになって、あいつ生きてた時とは違うものを手に入れたと思うんだ。昔のあいつは才能が炸裂していて、周囲は唖然と眺めるだけだった。ともかく速い。あの声で歌うだけじゃなく、思いつくのも習得するのも創造するのも飽きるのも、ともかく何でも速いんだ。そして速くは出来ない者のことを全く理解しなかった。それなのに、今あいつが他人を『待ってる』。驚きだよ! 今にもまた死にそうなのに。『待てる』は強さだな。多分、瑞生を待つってそういう事なんだろう」
瑞生はぱしぱしと瞬きをした。
「わかってる。今日は僕…」
ガンタは寸胴鍋にスパイスを振り入れた。「うん。…あいつ、砂でできた城みたいに崩れかかってる。話してやってくれ」
瑞生は二階に上がっていった。ガンタがキッチンにいるのだから、レコーディングは休憩中ということだ。このところ家の至る所に人がいるのに、今に限って全く見当たらない。
二階は薄暗くて、何もかもがぼんやりとしていた。後ろ手でドアを閉めると、夜叉通信を撮るセットの中で、微かな呼吸が聞こえた。
「夜叉…?」
セットを囲むパーテーションの中央に蒼い光を放つ獣がいた。
何故獣に見えたかというと、髪が鬣のように逆立ち、人間的ではない丸まり方をしていたからだ。
「夜叉?」もう一度小声で呼び掛けて、正面と思しき側に回り込んだ。
蒼さの増した皮膚に皮下出血は下瞼から更に下に移動したようで頬まで血塗られたように見える。
夜叉は体は動かさず瑞生を眼で捉えた。充血しているが蒼い光を放っている。見ていると体に震えが走るような眼力だ。
「いよいよウィルスがへたばってきたから、俺の体重に抗しきれず下側のウィルスが死ぬかと思うと、同じ姿勢で眠れないんだ。だから…身も心も休まらない。親指の時みたいに体が崩れてくる…そういう白日夢ばかり見る」
瑞生は夜叉の目線に合わせて跪いていた。「それは、つらいね」
「それで、お前何しに来た」
「僕は絶望したままこの村に来た。でも夜叉が僕の声を聞きつけてくれた。僕自身何て叫んでいたのかわからないのに、心の中の叫び声だったはずなのに、夜叉は聞きつけてくれた。それが僕のもっとも望むものだったのじゃないかって思う。父でも母でも、伯母でも。僕の望みは僕がここにいることに気づいてもらうこと。気づいて『どうしたの?ここにおいで、お前は生きていていいんだよ』って言ってほしかった。…それで、僕は夜叉のために生きると決めた。誰がなんと言おうとどんな邪魔が入ろうと、夜叉が僕に伝えたいと思うことを受け継ぐよ」
「覚悟してきたのか?」
瑞生は頷いた。
「お前が思うよりずっと…きつくて、切なくて、孤独だぞ? 世間は敵だし、誰も信じられなくなる。結婚も…たぶん出来ないだろう」
「三回も失敗した人が心配することなの?」思わず笑った。「結婚したら幸せになれると思うほどお子様じゃないよ。家族や女に関しては闇が深いから、気にする必要ないよ」
「…将来が決まってしまう。選択肢がない上に平安のない闘いの日々だけだ。正直、これが一番つらい。お前に背負わせる自分勝手にもほどがあると思う。人権的にはアウトな話だ」
「僕は人のために何かしたいと思わない。自分のためにも何もない。だから、僕が反社会的な方向に行かずに運命を定められるのは、ある意味幸せなんじゃないかと思う。少なくとも今僕は選んでいる。…夜叉、僕はゾンビになるよ」
夜叉は哀しげに息を吐いた。
「お前は人一倍美しく生まれついているのに、綺麗には生きられない。差別される…かもしれない。俺を恨んでもいいけど、その時俺は傍にいてやれない」
瑞生はまた笑った。「継がせたいの、継がせたくないの?」
夜叉が蒼く光った。おそらくゾンビーウィルスが聞いているのだ。
「お前はこれからお前が支払うその大きな犠牲の代わりに、何を望む?」
瑞生は跪いたまま、顔を上げた。自分の口からどんな言葉が飛び出すのか、不確かなまま息を吸った。自然に涙が流れた。
「僕だけの、生き物でいて。生まれてからずっと、僕だけの物が何もなかった。僕は夜叉に僕をあげるから、僕だけの存在になって」
「俺はゾンビだぞ」
「僕だけのゾンビになって」
夜叉は親指の欠けた手で瑞生を引き寄せた。ぽってりした指先で、瑞生の頬を流れる涙を拭った。瑞生は夜叉と直接触れ合うのは初めてだった。蒼い光は思っていた以上に眩しくて、目の痛みに驚いた。額と額をくっつけながら、夜叉が囁いた。
「誓うよ。俺はお前だけのゾンビだ。今から死ぬまで、お前だけのものだ」
「本当に?」
「本当だ。誓うよ」
「僕だけのもの? 絶対に、僕だけの…?」涙が止まらなかった。
それからしばらくは夢心地だった。いつの間にかキリノやトドロキがいて、ガンタのカレーを食べた。スタッフが出たり入ったり話し声の絶えない現場なのに、瑞生の耳には何も届かなかった。それなのに時折、皆の動きがスローモーションのように見える時があって、その中の誰かと、夜叉との秘密を共有しているかのように目が合うのだった。
しかし夢心地でいられたのは少しの時間だった。クマちゃんも門根も不在で、サニも見かけない。なのに何かが起こりかけている妙な空気を感じた。
案の定、一階の警察官から来訪者の連絡を受け、控室Aに行くと、なんと前島が待っていた。
「久しぶりだな。村にも学園にも馴染めたかと気になってね」
あんなに冷たい態度を取っておきながら、よく平然と話しかけてこられるな。
「僕がまだこの村にいるのが不満ですか」
前島は肩を竦めて困ったような顔をした。
「以前、君のご両親が亡くなった件で、君に厳しすぎることを言ってしまった。夜叉が行く村の危険人物をリストアップしていたんだ。弱みを握られテロリストに脅迫されかねない住人を把握する必要があるのでね。君の場合転入して間もなかったし、転居前の住所が目を引いたので調べさせた。調書を見て、君の犯行ではないのはわかっていた。夜叉邸を見ている少年がいると報告を受けた時も特に警戒してはいなかった。だが、車から観察したあの時の君は危険な闇の気配を放っていた。私は本気で鳥肌が立ったんだ。君の整った外見もセレブ環境も、もしかしたらとんでもない少年を誕生させたのか?と妄想してしまった。だからあの時、『ともかく悪事を企てたら、すぐに気づかれるぞ』と釘を刺しておきたかったんだ。人格攻撃だったと言われれば、その通りだ。…悪かったね。謝るよ」
前島は勝手に続けた。
「…君を見る機会があった限りで思うには、なかなか鋼の根性を持っている。時には絶望することもあるだろうが、生き抜くことだ。何かを出来た気がしなくても、生き抜いていれば、それは立派な成果じゃないか」
励ましに聞こえなくもないが、瑞生が無能だと言ってるようでもある。少しは本気で謝罪しているのか。それならお詫びに何か…いや前島なら別の目的が…。しかし閃いてしまった。今こそ、訊きたくても誰にも訊けなかったことを訊く、千載一遇のチャンスだ。
「前島さん! お父さん、父の死因が溺死なのは何故ですか? 僕は一度も説明を受けたことが無くて」
前島は、虚を突かれて動きを止めたが、こめかみを揉んで調書の記憶を遡ってくれた。
「そうか…。お父さんは自宅の湯船で発見されたのだったね。水の張ってある湯船で炎と熱をやり過ごせれば、と咄嗟に判断したのだろう。屋外に逃げる余裕などなかったんだ。熱風を防ごうと、お父さんは中から蓋をした。隣から二階に飛び火したために二階が焼けて一階天井が抜け落ちた。風呂場も…蓋の上に降り注いだ梁や建材や荷物がお父さんの脱出を阻んだ。身体が湯船の水に浸ったまま押されて空気を吸えない状態になり溺死してしまったということだ」
瑞生の涙腺が崩壊した。戸惑う前島のティッシュで鼻をかむ。「それで、わかった…。お父さんは火で死んだのじゃなかった。お祖父さんがモルドバで燃えた甲斐があったんだ…」
神様はいるのかもしれない。お祖父さんは呪いを自分の代で終わらせようとした。その死は無駄にはならなかったんだ。お父さんは火では死ななかった。死は免れなかったけど、他の人は黒焦げとか部分焼け残りだったのに、お父さんだけ綺麗な亡骸だったんだ。棺みたいな湯船と水に守られて。だから瑞生はお父さんに触れてお別れを言えた。こうして呪いが解かれたという事実を知ることが出来た。これは凄いことなのじゃないだろうか。
前島が驚き呆れて、「泣き止んでから笑うのが筋だろう。それに不気味だ」とティッシュを追加してくれた。
:夜叉通信も今日で第六夜だ:
夜叉の隣には今日は誰もいない。淡い光に浮かび上がる夜叉は、別の生き物になっていく感がある。肌はより蒼く内出血は赤く髪は銀髪が逆立ち、身体が縮んでもやは右への傾きは止められない。
:俺が今住んでるコスモスミライ村にはアンチエイジングセンターというピッカピカの病院がある。ここはまぁ住人の緊急時には診てくれるそうだが、その名の通りアンチエイジングに関することを研究している。ここに質問して情報開示請求もした。俺には専門的な事はわからないから、色々な分野の専門家に分析を頼んだ。…で、結論から言うと、さっきこの病院を買った:
:そこでゾンビーウィルスの研究をしてもらう。俺の体を丸ごと提供する。キューバから来てくれてる医師になら安心して任せられる。ウィルスの争奪戦なんて馬鹿げてる。研究する一方で利用は拒否する。ネットでエセ専門家が『俺の血を注射すれば不老不死になれる』とか煽ってるらしいじゃないか? 血を抜かれたら俺は死ぬのにいい気なものだ。そんなことで感染するなら世界中ゾンビだらけだろう。そういう奴って自分だけはいいとこ取り出来ると信じてるよな。いいか、俺と同じになるってことは、二度と焼肉も寿司も食えないで生きるってことだぞ。酒もケーキも無しだ。体の下敷きになっているウィルスが死ぬと思うと安心して眠れない。こんな状態で何故おめおめ生きていると思う? それは一度死んだからだ。死んで、蘇ってみて、今生きていることが有り難いからだ。この気持ち無しではおそらく耐えられない。人間ではなくなるためにウィルスを注射しようなんて、滑稽通り越して醜悪だ:
夜叉は少し間を取り休んだが、それでも最後はやっと聞き取れるほどの小声になった。
:…そう何もかもうまくはいかないだろうが、俺はゾンビとは言えロックスターだからな。流れに身を任せて生きるのはご免だ。誰かが始めなければ、俺が始めてやる。…今日はこれで終わりだ:
「そういうことか。…本当に予測不能な展開だな」真横にきていた前島が呟いた。
「ハビエル医師はウィルスの研究でかなりの経験があるようだ。第一人者抜きでは、採取もままならないウィルスの研究など無理に決まっている。真っ新で他所の医師を招聘するのは、国立感染症研究所や海外の無視できない機関が多くて非常に困難だ。しかし既にいる医師と患者本人が金まで用意して始めるなら…かなり無茶だが不可能ではない。夜叉のための儲からない病院という方針に賛同して応募してくる医師の選別には弁護士たちが手を貸せばいい…」最後は考え込んでいくようだった。
ネットでは、『夜叉がゾンビー病患者を大量生産するために病院を買い取った』『ウィルス狙いのスパイの格好のターゲット』『不死はともかく不老は魅力だ』と、この話題で大盛り上がりだ。
瑞生はあらゆる書き込みを見ようとしたのだが、ツイッターだけで頭が痛くなってきた。大人しくテレビの平たい情報で我慢することにした時、見たことのある顔が映っていた。
それは新しい村のリーダー、藤森琢磨だった。
:コスモスミライ村の自治会に事前に連絡はあったのでしょうか? 住人の皆さんにとってAAセンターという病院はどのような存在なのでしょう?:
藤森はふさふさの白髪を揺らしてきっぱりと答えた。
:ええ、夜叉サイドから説明を受けました。病院の買収自体は当事者同士の問題なので、自治会に関与する余地はありません。AAセンターは地域住人の診療を第一目的としてはいませんから:
:それで、村としては?:
:夜叉の転入と病院買収を、村の今後の在り様を決める絶好の機会と捉えたいですね。私たちは夜叉がここで制作活動を行い、最期の時を穏やかに過ごせるよう、全面的にバックアップします:
:以前は村への出入りは自由でしたよね? ゲートは今後も存続しますか? 村が“開かれた”ようには思えませんが?:
:警察と相談の結果、夜叉の身の安全を図るのにゲートは有効だと考えます。それに村の変革が“開かれた”村を目指すと決まったわけではありません。以前の状態は本当に“開かれ”ていたと思いますか? 自由に出入り出来ましたが、居住地で勝手に写真を撮る人がいたくらいでしたよ?:
村のイメージを田沼の百万倍は上げたであろう、藤森の知的な物言いだった。




