⑱ アフリカの魂
衝撃的な夜叉通信の第一夜、第二夜を終えて、反応する事すら躊躇うほど半信半疑だった世間が一斉に反応しだしました。そんな中、夜叉邸にキューバで青山陽斗と親しかったと言う人物がやって来ます。
【 二〇一五年六月一六日 】
本永は端からそうなのだろうが、瑞生にとっても夜叉邸で日々引き起こされる想定外の事件こそが、エネルギーを注ぐべき対象だった。
ということで、二人は昼食後には夜叉邸にいた。午前中に夜叉が警察の聴取を受けて、二時には青山とキューバで会ったと言う人物がやってくることになっている。
「彼は毎日地元のバーで演奏し子供にギターを教え…日にちや時間の記憶がほとんどないんだ。感染時と場所を特定するために、入国記録から順に三ヶ月間辿って…ほとんど成果無し。当の本人はレコーディング中ときてる」係長がこめかみを揉みながら言った。
「キューバでは街にイグアナがいるってありふれたことらしいです。海岸とかウジャウジャですよ」若い刑事がタブレットを見せる。
「彼は『見た』と言っていたが、実際は見かけた後に噛まれたのかもしれない。失神して記憶が曖昧だとも考えられる。青山さんとの行動の被りもでないし、感染経路を解き明かすのは厚労省に任せて深入りするのはやめよう」と係長。
言いながら巨大テレビを点け、「あの爆弾動画の話でもちきりらしい。昨日は夜叉のゾンビっぷりに衝撃を受けて、動く腕動画に更にパニックになっていた反応や、これはドッキリではなくまともに反応していいのか?といった半信半疑が圧倒的に多かった。今日はさすがに昨日の第二夜を見て、動画の信憑性はあるものと捉えての反応が多い。当然名前の挙がった人間は追い回されている。皆うちの連中が張り付いてる。二係は提供してもらった資料を徹夜で分析、裏取りに走り回っている。ここでデータ以上の成果が期待できないのならば、我々も戻らないと」と午後のニュースワイドに目をやった。
:夜叉のマネージメント会社Woods!には問い合わせが殺到しています。昨日は『子供が怖がって眠れなかった』『軽薄なドッキリ動画を真面目ヅラして流すな』といった抗議が、今日は『青山陽斗とは何者なのか』『犯罪が行われたのではないか?』という問い合わせも多く寄せられているようです。アメリカCDC(疾病管理予防センター)は『ゾンビーウィルスの特性から言って、短時間ならば可能なのではないか』という意見を寄せています。今日は国立感染症研究所から研究員をお招きする予定でしたが、夜叉邸に派遣されていた研究員の規約違反が発生し、研究所としては経緯と今後の安全対策を、政府と神山県、夜叉側に提出し了承されてから、再び夜叉の生命維持チームに加わりたいとのコメントを発表しています:
:先生、あれはやらせですか? 本物ですか?:とコメンテーターが招かれた医師に質問した。
:常識で考えれば、あんなもの冗談動画に決まってます。ですが、ゾンビーウィルスですからね。そもそも何故“ゾンビーウィルス症候群”と呼ぶか諸説あるのですが、ゾンビそのものだけでなく先程の映像のように“腕”などのパーツだけが“生きている”“蘇った”ケースも含めてカテゴライズされたからと言われているのです。そうなると、なんとも言えません:
:あんな動画わざわざ作るメリットがないですよね。自分たちを嘘つき集団だと宣伝してるようなものですから:
:つまり夜叉たちは、『動画は真実』『一緒に公開した詐欺グループのマネーフローデータも真実』と言っていると?:
:そういう狙いで夜叉自ら登場したのではないですかねぇ:
:ここで関連したニュースが入ってきました。警視庁は今朝、関原喜一、ワールドコンサルト株式会社社員の自宅を家宅捜索しました。セミナー詐欺共謀の嫌疑に基づくものです。関原氏は二日前自称セミナー主催社従業員と揉み合いになり互いに怪我をさせた疑いで四葉警察署に留置されています。捜査二課は『今回の家宅捜索は昨年からの地道な内偵調査を経て予定されていたものだ。夜叉が公開した動画によるわけではない』とのコメントを発表しています:
:…なるほど。警察も捜査中だったということは犯罪が行われた疑いが濃いわけですね。あの告発も動く腕も真実である可能性が高いと。青山と言う人の動画をもう一度見てみたくなりました…:
午後二時。現われた人物は、体育会系の体躯でスーツを着こなした三〇代前半のビジネスマンだ。
戸上というエリート商社マンは、五月に日本の外務大臣が商社・金融・医療などの企業代表を引き連れてキューバを訪問した際に同行したのだという。
「正確には会談に参加する上司のサポート要員です。キューバ高官との懇談会が始まり、ようやく自由時間を得た下働きの若手でハバナに繰り出したのです」
「日本企業の先駆けという自負の反動で、敢えて地元民の行く店を選びました。しかし、キューバ人ウェイターを白人黒人ムラートで差別した者がいたためにトラブルになってしまいました。その時仲裁に入ってくれたのが青山さんだったのです」
「エリート軍団としては、ここで騒ぎになったら出世どころか外交問題になりかねないと肝を冷やしたので、感謝の気持ちを込めて皆で青山さんにご馳走すると申し出たのですが、固辞されてしまいました。店の者が『ヤオーマに免じて無礼な日本人を許したんだ』と言っているのが聞こえました」
「私は青山さんの暗い影に惹かれていました。そこで、次の晩一人で同じ店に行ったのです。私は商社の中で熾烈な出世競争に疲れていましたから、彼の執着のなさに惹かれたのかもしれません。『日本では人を騙すような事をしてきたから、俺と知り合いなんて言うと出世に響くよ』と笑っていました。どうして現地の人に信用されたのか尋ねると、『死ぬ前に騙される側を守りたくてね』と答えました。この辺りラムを飲みながらだったので、私は半信半疑だったのですが、昨日の夜叉の動画を見て、このことだったのか、と思ったのです」
「上司は外相と一緒に帰国しましたが、私はスペイン語が堪能なのでオフィスの候補地や手続きの確認に一人残りました。キューバの公務員は接待よりは袖の下を好むようで、夜はいつも青山さんと食事をしました。初めはストレスもあって私が話してばかりいましたが、青山さんも自分の話をするようになりました」
「帝大・一流商社というエリートのレールをひた走ってきた私には、想像もできない世界の話でした。彼は育ての親がヤクザだそうで、『憎んでも憎み切れない相手なのに、どこか情もある』間柄だったと言ってました。そのヤクザが『キューバの写真を撮って来い。妹のたむけに』と日本から送り出してくれたとか。『そのまま逃げていい』とも言われたと。彼は、妹さんを救えなかったことをとても後悔していました。そして、海外の資本がキューバの美しい海岸線の観光業を駄目にすることを憂えていました。日本人の紹介で現地の司祭に会うのだと出掛けて行きました」
「その後黒人がよく青山さんと一緒にいました。イファ占いで『あんたはもう死んでる。花に囲まれているよ』とでた、と笑っていました。私の帰国日が迫った日、青山さんは上機嫌でこう言いました。『妹は恋人に報復したい一方で迷っていた。だから遺書にパスワードが書いてなかった。俺はずっとそれを考えていた。それが解けた! 俺と妹は小学校からいつも一緒に帰っていた。母が交差点の花屋まで迎えに来てくれるのが嬉しかった。二人で花屋の看板にある電話番号に節をつけて歌いながら待っていた。それだったんだ…。嬉しいよ、妹ともうすぐ会える』こう言って微笑むものだから、私は不安で仕方なかったのです」
「キューバは、黒人の国というイメージがありますが、人口比率では白人やムラートの方が多い。黒人は観光客向けに『キューバの黒人像』を演じる傾向があると思っていました。彼の周囲にいる黒人の影響で彼が今にも死ぬような事を言うのだろうと私は思い込んでいました。焦った私は以前読んだ本の話をしました。『知ってる? 黒人は幽霊を見ないのだってさ』と」
「もちろん彼は喰いついてきました。そこで私は浅い知識を披露しました。『キューバやハイチの黒人って、皆奴隷としてアフリカから連れてこられただろう? だから根っこはアフリカなんだ。アフリカじゃ死は全ての終りじゃない。生と死は永遠に続くサイクルなんだ。死者は誰それの霊ではなく、単に“先祖の霊”になる。だから“祟り”がない。この世に未練を残して、とか地縛霊とか言った感覚はないんだ。死んだら“村を守る先祖”になるだけ。だからお化けや妖怪はいるけど幽霊はいないんだって』。こう言うと彼は『初めて聞いた。へぇ~』とラムを啜ります。『面白いよね。代わりに予知夢や虫の知らせはあるんだって。アフリカの死者には個性がない。キューバで根付いたサンテリアでは、アチェというエネルギーの波によって交流し、死者の霊は夢に現れ、トランスを通して生者との関わりを保つこともあるが、普段は交わらないのだって。貞子の国から来た者にとって、まさに異国だ』私は日本を強調しました」
「青山さんはこう言いました。『殺されてもそうなのかな? 非業の死を遂げても…?』。『君もいずれは日本に帰るだろう? 日本でまた会おうよ』と言った時、彼を迎えに来た黒人がドア越しに見えました。立ち上がった彼は封筒をテーブルに置きました。『どうしても捨てられなかった。よかったら、捨ててくれないか。読む必要はないから』と。私は必死に呼び止めました。『わかった。わかったから、死ぬなよ』。最後に青山さんは笑いました。『俺は祟らないよ。アフリカの魂を持ってるから。最後に君と知り合えてよかった』」
戸上は鞄から封筒を出した。「捨てられなかったのです。五月二〇日にあの事故があって、死亡した二名の日本人の中に彼の名前を見つけてからずっと、処分しなくてはいけないと思いながら持っていました。昨日彼の腕の映像を見てから、初めて読みました。妹さんの遺書でした。…警察にただ渡してしまうと、捜査に使わない場合、単なるお蔵入り書類になるのでしょう? それならば私はまず、青山さんの最後を看取り証拠を託された人にこの封筒を渡したい。彼の遺志を汲んで発表すべきだと判断したら、どうぞ実行してください、と」
係長と前島は揃って顔を見合わせた。
「ヒネメス先生に渡すのは止められないが…読ませてくれませんか?」係長が言いながら、壁際のサニの方を振り向いた。
サニは立ち上がってゆっくりと戸上の方に歩み寄り、「初めまして」と言った。
「あなたが…」戸上は蚊の鳴くような声でそう言うと俯いた。封筒を持っていた手に力が入るのが見えた。
顔を上げた戸上とサニは暫くの間見つめ合った。
やがて戸上は凝視したままサニに封筒を渡し、安堵したかのようにほっと息を吐いた。
瑞生は、戸上の硬い表情を係長たちが見逃すはずがないと思った。戸上はキューバでサニを見ていたに違いない。青山とよく一緒にいた黒人がサニだったのかもしれない。
帰ろうとする戸上に、係長らは青山が薬物を服用していたか訊ね、完全に否定されていた。「感情の高ぶりや落ち込みなどなく、いつも明晰で悟った感じでした。でも負け犬ではない。私は負け組の匂いをさせてるような人間に惹かれたりしませんから」と述べて去って行った。
サニは椅子に腰かけると、皆が遠目に見ている前でおもむろに遺書を読んだ。
難解な箇所をクマちゃんと門根に訊きながら読み終えると、遺書を警察の手に委ねた。
瑞生と本永が勉強していると、クマちゃんが来てざっと遺書の話をしてくれた。
「気になっていると思って。ええと、まゆりさんのお腹の赤ちゃんは育っていなくて、残念ながら病院で処置をすることになったのね。入院準備に家に戻ったところに関原の婚約者が現われた。散々暴言を吐かれて、彼女が去った後まゆりさんは自殺をした。一人暮らしを始めて数か月でのことだった。元組長たちと同居したままだったら、高飛車な婚約者も押しかけては来なかったでしょう。その点は悔やまれるわね。後は兄へのお礼と、例の物の隠し場所が書いてあった。…あなたたちは読まなくて正解。女の業、情念の滲む文章だから。まゆりさんのナイーブな部分とそれだけではない凄味も現れている。怖いわよ。中途半端な理解力で読んでも、プラスになることは何もない」
「遺書は捜査に役立ちそう?」と本永。
「まゆりさんとの関係で関原の犯罪行為を問えるかと言うと、無理でしょうね。でも記された事から、関原の行動の裏を取り供述との矛盾を炙り出すことは出来るかもしれない。だからじっくりと分析する必要があるのよ」
瑞生が引っ掛かった。「あのさ、元組長は何故引き取りに行かなかったのだろう? まゆりの骨壺だって代わりに納骨していてもおかしくないのに」
瑞生の疑問はあっさり解決した。顔を出した前島が急いでファイルを捲ると答えてくれたのだ。
「元組長とは養子縁組していないから、引き取りの連絡が行かない。それでもニュースを見たら、引き取りには行っただろうに…。ああ…なるほど、行かなかったわけだ。亡くなってる」
「え? いつ?」思わずため口をきいていた。
面会室にいた面々も思わず前島のファイル周辺に寄ってきた。
「まゆりの自殺が二月二日。不審死だから解剖して、自死と判明、葬儀をして…。陽斗がキューバに向けて出国したのが二月一〇日。考えてみれば、非常に慌ただしい出国だ」
「なにせ、関原にとってまゆりの持つメモリーは致命傷になる証拠だからな。当然陽斗が所有していると疑い、何らかの解決を諮っていたはずだ。脅して回収するとか、殺害を図るとか」
本永が突っ込む。「元組長は青山をキューバに逃がしたってことか」
「そうすると、この元組長の死は何か不自然だな。タイミング良すぎないか?」と係長。慌てて若い刑事が「調べます。所轄に連絡してきます!」と立ち上がった。
「もう一度、時系列に見よう。二月二日まゆり自殺。一〇日陽斗出国。三月三〇日元組長死亡。その前の三月初旬に関原が結婚したはずだ…。五月二〇日事故で陽斗が死亡」前島も係長も手元のファイルに目を落として多くは語らない。
本永がごくりと唾を呑んだ。と思ったら、自分だった。
「捜査が始まる? 元組長、青山の居場所を教えなかったせいで関原に殺されたのかな…?」
「これは警視庁の仕事だ。皆さんがこの件について口外する程愚かだとは思わないが、くれぐれも“うっかり”に注意してください」前島も席を立った。
夜叉たちもスタジオから出てきてお茶の時間となった。屋敷内に常駐する人数が増えたものだから、台所の機能を復活させる必要が生じていた。今は目の前にいい香りの紅茶とクッキーが並んでいる。カレー屋で成功を収めているというガンタが「いい香りだろう? スパイスと紅茶はスリランカから直輸入してるんだ」と勧めてくれた。
トドロキは夜叉の得体のしれない飲み物を横目で見ながら、「変わったなぁ、夜叉。前は、レコーディングっていうと、もうぶっ倒れるまで走り続ける感じだったよな。夜叉が喉潰しかねない勢いで歌って、ず~っとキリノの歌詞を呪文のように呟きながら曲をいじってて、とんでもない緊迫感で、俺らも休めないというか追い詰められて。レコーディングに楽しい思い出なんてないもんな。それが『休憩しよう』だもの。びっくりしたよ」と紅茶を啜った。
夜叉はぼぅっと蒼く光りながら口元をほころばせた。「まだ電池切れを起こすわけにいかないからな。この体、想像以上にボロッちいんだよ」
:今日は第三夜だ。みんなに報告がある。身辺整理の話だ。知っての通り俺は三回結婚して離婚してる。子供がそれぞれの元奥さんに一人ずついる。婚姻関係上俺が父親ってことになってる。俺の結婚って、婚姻届を出してツアーに出て戻ってきたら別居になってたとか、ほとんど結婚生活がなかったのばかりだ。惚れっぽくて凄く盛り上がるけど俺の性格上、すぐに興味が他に移ってしまう。でも相手は周囲共々結婚する気満々だから届は出すんだよ。共に人生を…なんて妄想なんだ。結局どちらも幸せにはなれなかった。…それで元の奥さんとその家族に協力してもらって、親子鑑定をしたんだ。結果、俺には子供はいないことが判明した:
:俺の子供と言われて苦労したかな? 俺は何も知らない。悪いけど、最初から違うなって思っていたから認知しなかったんだ。それでも推定で俺の子ということになるのは、弁護士から聞いた。生まれたのは悉く離婚後だった。抱いたこともない。抱いてやってと言われたこともない。名前を付けてくれと言われたこともない。…それでね、すでに払った養育費の返還請求はしない。本当の父親には文句言いたいけどね。『身重の妻と離婚するのか、ろくでなし』ってさんざん言われたのは姿を隠した不倫野郎のせいなんだから。堂々と名乗り出て育ててやれよ、と思うけど。もう面倒くさいから損害賠償請求もしないでやる。その代り、今後一切俺と俺の遺産関係に口出しするな、という覚書を交わした。そういう報告だ。以上:
その後テレビやネットでは、この『三人とも実子ではなかった!』という衝撃報告で持ち切りだった。子供の話はある程度予想されていたので、結婚・離婚騒動の映像などを交えて、コメンテーターの口も滑らかに動いているようだ。
また今日から夜叉の保有する不動産物件のオークションが始まったので、その話題でも盛り上がっていた。不動産に関しては、キューバに行く前から準備していたらしい。
「六本木の隠れ家も売っちゃうの? 俺買えばよかったな」とガンタが残念がる。「夜叉の隠れ家カレー店にできたのに」
「入札すればいいだろ」とキリノが言うと、ガンタは笑った。「あのね、店舗の購入にお金かけてたら、どんだけカレー売っても黒字にならないじゃないか。カレーなんて薄利多売な物なんだから」
「何店舗やってるんだ? 儲かってるの?」と夜叉。
「二店舗。それで十分。俺のは『体調整う美味しい』カレーだから。変な話だけど、朝、大が出ると一日が気分よく始まるだろう? 俺思うんだ『腸は人を支配する』って。ツアー出ると便秘になる。それで楽しめない事が多々あった。学生も勤め人も悩んでると思った。だから翌朝すっきり出るような食物繊維たっぷりの美味いカレーを食べさせたくてさ。一店は渋谷で、昼も夜も人気だよ。夜はアルコールも出すから、酒のつまみを作るのも楽しい」
「ゾンビになる前に…ガンタのカレー喰っとけばよかったな…」つまらなさそうに夜叉が言う。
「せっかくだから今日はうちのカレーを食べてもらおうと思って、一号店から運んでるんだ。もう着く頃だと思う。夜叉には気の毒かな、と気にはなったんだが」ガンタは頭をぼりりと掻いた。
この家でこんなに美味しそうな匂いと湯気が立ち籠めるのは初めてじゃないだろうか。『食』に対して前向きな人がいると同じ食卓がこんなにも違ってくるのか。
ガタン
椅子を後ろに倒して立ち上がり、呆然と口元を手で覆っているのは、サニだ。
大きな目を充血させ、小刻みに震え、顔からは汗が噴き出していた。
「サニ」夜叉までが腰を上げた時、サニは大きく頭を上下させ、ゴクン、と誰の耳にも聞こえるほどの音を立てて、口の中の物を飲み込んだ。そのまま崩れるように座り込むと、「よかった、やっと呑めた。…死ぬかと思った」と弱々しい声を出した。震える指で皿を指し、「これ、カレー? こんな辛い物、生まれて初めて食べた。口の中がどうにかなるかと思った。ふー」グラスの水を一気に飲み干した。
「カレーを食べるのが初めて?」驚いて聞き返すと、「メキシコは唐辛子を使った辛い料理が多いよな。カリブ海周辺でも…国によって違うのか?」不思議そうに言う本永はすでに二人前は食べている。
「日本人にとって国民食の一つと言われているけど、馴染みのない国もあるんだなぁ」とガンタ。「ラッシーを用意してあれば、喉が楽だったかな」
サニが恨めしそうにカレーを見ていた。「辛くさえなければ…」
ガンタがついと消えて、砂糖と蜂蜜を持って戻ってきた。「お茶の時にと用意した物だ。誰も使わなかったから…」
砂糖を見て、サニの顔がパッと明るくなった。「ガンタさん、シュガー? ありがとう!」受け取った砂糖をガンガンとカレーにかけた。隣のトドロキが固まる程に。
そしてスプーンでよく混ぜると、何の躊躇いもなく口に運び、満面の笑みで言った。「美味しい。僕、カレー好きだ」
タブレットを見ていた本永が、「わかった。キューバは砂糖の産地だろ? 国民一人当たりの砂糖の年間摂取量はキューバが世界一だ。日本人の約四倍だ。料理も甘いのが当たり前なのかもしれない」と言うと、夜叉は「そう言えばバナナのフライが料理に沿えてあったな。後はラム…そう爺ちゃんたちはモヒートに砂糖入れてたな」と滅多にしないキューバの話をした。
「ふうん。糖尿が心配だね」瑞生が言うと、大人が皆笑った。
「瑞生はアイドル顔なのに、感覚が年寄りじみてるな。結構大人しいし、美形以外は一五歳の頃の夜叉と全く重ならないのに、何が琴線に触れたかな」とトドロキが夜叉を見る。
「むしろ金髪。こいつの方が俺っぽい。気合が入ってるしな」と夜叉。
「そろそろ名前覚えてくれるといいのに」スタジオに入っていく後姿に呟く本永に、トドロキが太鼓を運ぶのを手伝うよう声を掛けた。「変わった太鼓ですね」「ドラムセットは持ち込めないし、使い込んだのは除菌が不十分だってうるさいし。楽器は別スタジオで録ることにしたんだけど、ちょっと音が欲しかったから。この儀礼用の太鼓、大きさがちょうどいいし、除菌仕様なのはこれしかなかったんだよ。俺、通販の会社やってるから」
夜九時まで夜叉邸にいたが、クマちゃんも門根も戻ってこなかった。今日は親子関係の爆弾報告だったので、子供の人権や保護の問題や訴訟の話、メディア対応もしなくてはならないのだろう。青山の動画の件だって尾を引いているはずだ。




