⑮ 月夜の晩に
夜叉とキリノがレコーディングに励み、夜叉邸の警備が手薄になった晩、想定外の訪問者が。願望は情報によって肩を押され、悲劇に突き進んでしまうものなのでしょうか。
【 二〇一五年六月一三日 その四 】
交渉事を済ませたクマちゃんが経過報告に立ち寄ってくれた。
「空港にもその後も、青山の親族は連絡もしてこなかったそうよ。住民票があった区が遺品を受け取ったらしい」
「今更ながらに元夫人たちの無理解に呆れる。ミュージシャンの光と影を理解して支える覚悟など皆無だったのに結婚した。安易な結婚の責任は夜叉にもあるから、彼女たちが予定通り“夜叉ブランド”を要求するのは当然なんだけど。もうすぐ鑑定結果が出揃うから、それからが勝負ね」
門根も「マネージメント会社として成すべきことを成すまでだ。ちょっと色々回るから、お前ら夜叉を頼むぞ」と出掛けて行った。
夜叉とキリノはスタジオに籠った。森山が休みで藁科が不在では、キリノの健康状態にも注意が必要で、この屋敷が人手不足な印象は免れない。「夜叉邸を手薄には出来ないから、警護が必要な時は事前に知らせてくれる方がいい。これ、俺のスマホ番号。緊急時は一一〇番に。迷った時掛けてきていいよ」立ち寄ったジョガー警察官は小さな名刺をくれた。
夕食にサニとキリノには“安全な”弁当が届くらしい。回収予定の容器を見ると、AA製だった。瑞生は自分をネタにしたおさげ髪の小学生が『近いし空いてるし綺麗だしご飯おいしいし』と言っていたのを思い出した。
伯母に頼んでおいた三人分の弁当を持ち帰り、サニも一緒に夕食を始めたところに夜叉とキリノが加わった。
「いいな。サニの弁当を見た時は羨ましいと思わなかったけど、瑞生の家のは懐かしい味覚ってのを思い起こしそうだ」と夜叉。「お前、匂いわかるの?」とキリノ。
「いや、嗅覚・味覚はゼロだ。触覚なんとか。視覚と聴覚が大丈夫なだけ、俺はラッキーなゾンビなんだろうな」
明るく話す夜叉の横でサニはおにぎりを美味しそうにほうばっていた。
瑞生はしげしげと夜叉を見つめた。
「キリノが来てから蒼みが増して、顔色がいいというのも変だけど、発色がいいなぁ」
「老中田沼意次が言ってたみたいに、顔色を窺うって?」と本永。
「蒼い色はゾンビーウィルスの濃度や元気度を表してるから、それを比較して夜叉の状態を推し量るってやつ」
「へぇ、そんな基準で見てるのか。…夜叉の状態はゾンビーウィルスが元気かどうかに掛かってるってことだもんな」本永は感心したが、夜叉は「瑞生は一度も俺の顔色を窺ったりしたことないだろ」と冷ややかだった。
「お前、機嫌とってほしいの? 自分が他人の顔色も機嫌も窺ったことないのに、ずうずうしいだろ」とキリノ。
いつの間にか食べる物は手つかずのサニ用AA製弁当だけになっていた。「ある意味興味深いな。この弁当は」こう言うと本永はきっちり三等分した。見た目はやはり病院食に見える。
「おお、だし巻き卵をよくここまで無味乾燥に作れたな、ある意味技術だ」「カスミのご飯食べたら、これはマシン製だと思う」
横で普通の食事の摂れない二人が愉快そうに聞いていた。
その時、インタフォンが鳴った。いつも仕切ってくれる森山がいないので、サニがパネルに向かう。
家の玄関前で警備している警察官だった。「アンチエイジングセンターから弁当の配達だと言ってます」
「え? 先ほど届きましたが?」
あいにくジョガー警察官はいないようだ。
サニは一階除菌部屋のテーブルに警察官から渡された弁当を袋ごと置いた。
「さっき食べた弁当はいつもの時間にいつもの人が持ってきた」とサニ。
「開けたらサソリとかタランチェラとか入ってたらどうするの?」と瑞生。
「これ、爆発物検査、X線で見てないよな? インフルエンザウィルスだって夜叉には致命的だろう? 俺たちこの部屋にいるべきじゃないぞ」警戒心も顕わに本永。
三人は室外に出ると、AAセンターに問い合わせた。
思いつくことと言ったらこれだけだったので、瑞生はジョガー警察官に電話した。
「いつもの弁当に不備は無く、持ってきたニシカタという医師は午後休を取ってるそうです」
:ドアは開けずに外の警察官に知らせるんだ。弁当は開けてはダメだが証拠なので捨てないように。俺も駆け付けるが三〇分はかかる。それまでドアを開けるな:
ピンポーン
手持無沙汰な静けさが突然破られ、瑞生は飛び上がって驚いた。サニはしなやかな豹のように音もなくドア前に移動していた。本永が瑞生を制して「夜叉のとこに居ろ。スマホを通話中にしておこう」と言った。
:はい:
本永のスマホから応答するサニの声が聞こえる。瑞生が二階に上がると、まだ面会室にいた夜叉とキリノが訊いてきた。「さっきから弁当がどうしたって?」
「うん、トラブルかもしれない。スタジオにいてもらった方がよさそう…」と二人を送っていった。スタジオは夜叉がこの家を買った時に作っておいたもので、器機がずらりと並んでいた。
一昨日にサニとピアノを弾いた部屋は撮影スポットになっていた。グランドピアノはやむなく隅に寄せられている。
:はぁ?:サニの声だ。
:ですから私は医師です。具合の悪い方がいるのではないですか?:甲高い女性の声。
:おい、何してるんだ。勝手にこの家に近づくな:さっきの警察官だ。
:私は必要とされています。中に病人がいます。二人の日本人医師は不在で、一人残ったキューバ人の医師が急病なんです。早くドアを開けて入れてください:
:こう言ってるが、病人は大丈夫ですか? 救急車を呼びますか?:
:僕がそのキューバ人医師ですが、元気です。その人先ほど弁当を届けた人ですよね? ということは僕の弁当に何か毒物を入れたということになりますよ:
:私を入れなさい!::動くな、このっ:
鳶の一啼きのような笛の音が響いた。
後はもう、想像で十分だった。駆け付けた警察官らの怒号が聞こえた。
瑞生が安堵の吐息を付いた時だった。
時刻は八時過ぎ。この屋敷はベランダはないけど窓がやたらと多い。今、がりがりっと妙な音が聞こえた部屋は面会室だ。
:おお、安心しろ。犯人の女が捕まった…:
「本永、二階の窓に誰かいる…」
瑞生は盾になる空のトレーを掴むと中腰で音のする方向に進んだ。
面会室は大きなテーブルと、ばらばらにたくさんの椅子がある他は、部屋の隅に例のカラスみたいなカメラの乗った飾り棚があるだけだ。西側に常にカーテンが閉まっている大きな窓があり、カーテン越しに月明かりが見える。
そのカーテンに今、はっきりと人影が映っている。警察官に丸見えのメイン道路側ではないが、街灯もあるし強い月明かりで姿が浮かび上がってしまっている。ヤモリのように壁面に張り付いて、がりがりと音を立てている。
そういえば、今日は屋敷内に警察官がいない。いつも内外の警察官で安全確認をするのに。それに外の警察官は初めて見る顔で明らか不慣れた。
「おい」
後ろから肩を掴まれて、心の中で絶叫した。
「何してんだ。スパイダーマンは?」
「がりがり音を立ててるからガラスを切ろうとしてるんじゃない?」
「このトロさ加減はテロリストやプロの泥棒じゃないな。このまま、ガラスを壊されるのを待つのか?」
「だって、ガラス越しに写真を撮られてもマズイだろう?」
「確かにお前は出ない方がいいな」
本永は低い姿勢を保ったまま前進し、窓枠の下へと到達した。
瑞生が本永と通話中にしていたスマホを切った途端、ブルブルっと振動が来て、再び心臓発作を起こすかと思うほど驚いた。
ジョガー警察官からで、:無線で夜叉邸に侵入を企てた女が逮捕されたと聞いたけど、大丈夫かい? もう着くのだけど…:と言う。
瑞生は天の助けとスマホに唾を飛ばしながら告げた。「二階の壁面に張り付いて窓ガラスを破ろうとしている人がいます。今家の中は手薄で…本永?」
本永が突然窓の前で立ち上がりカーテンを開けた。
:お、見えた。ヤモリみたいだ。緊急連絡、ひさご亭に侵入者、別件!:ジョガー警察官の緊急連絡が聞こえた。
突如現れた本永に驚いた侵入者が何か叫んだ。叫んで手を放して、瑞生たちの視界からいなくなった。
:身柄確保! 生きてる! けど救急車!:
できれば駆け下りて騒動の顛末を見たかったけれど、茂みをライトで照らしたりしてたから諦めた。
外のざわめきも落ち着いた頃、ジョガー警察官が説明に立ち寄ってくれた。
二階外壁から落ちたのは村の住人で、自治会議で夜叉の具合が思わしくないと聞き、なんとしても本人に熱き想いを伝えたいと行動を起こしたらしい。お手製のダイヤモンドカッターで窓を切る予定が、カッターの先端すなわちダイヤが落下の衝撃で取れてしまい、落ちた時より大騒ぎだったのだ。
「それで、ライトで照らしてたのか」本永が嬉しそうにお茶を出す。
「本当にはた迷惑な話だ。ネコババする者が出ると困るので結局庭木の中を這いつくばって探したのは警察官だ。…先日来県警に『たった一人のゾンビのために警察官を多数配備しておくのはおかしい。県民の安全は二の次なのか。そもそも夜叉が税金払ってるのは県にでなく帝京都にだろう!』という抗議が多数寄せられて。県警と自治会の田沼爺さんが会合した結果、自治会で警備員を雇い警察官を減らすことになった。それで俺も県警に呼び戻されたんだ。その隙をついて二件も立て続けに騒ぎが起こったというわけだ」ジョガー警察官はズビッとお茶を飲んだ。
「それで、家の中に警察官がいなくて、外は不慣れな人だったんだ」瑞生は得心した。
「ああ、交通安全課から急遽駆り出された奴だ。弁当医師に引っかかれて気の毒だった。テロリストに対応できない者が配置されるなんて酷いものだ。二件も騒動が起きて再びフォーメーション変更だ。危機はもう起き始めてる…」ジョガー警察官は少し休んで、言葉を探すように遠くを見た。
「“情報”というのは通常ならしないような物騒な事を起こす原動力になると改めて思い知らされたよ。素人がスパイダーマンみたいなこと、出来るわけないのに。『今行かないと一生後悔する』と焦ったみたいだ。名前は出さないでくれと懇願していた。腰の骨にひびが入って一生の後悔だと思うけど。弁当の医師も、AAで森山さんの有給休暇を知り、偶然感染症研究所に藁科さんが呼ばれた話を聞いてしまった。邪魔なキューバ人医師を排除すれば、自分が夜叉宅の常駐医になれると考えた。弁当に盛ったのは筋弛緩剤だと。サニ先生が食べないでくれて本当によかった」
夜叉に想いを伝えたからと言って、受け入れてもらえるとは限らないのが恋愛だ。弁償と腰の治療、社会的信用の失墜。医師たる者が犯した狂気の工程を想像するだけでぞっとする。医師免許剥奪ではないか。
その情報さえ耳にしなければ、ただの願望だったのに。
瑞生はポケットの名刺を取り出した。ジョガー警察官が渡してくれたスマホの番号が書いてある。「あの、お名前、なんて読めばいいんですか?」
「朏って読むんだ。読めないよね?」ジョガー警察官は笑った。
「ミカヅキさんかぁ。カッコいい名前ですね」瑞生は素直に感嘆した。ミカヅキが月夜に救ってくれたのだ。日中も救ってくれていたが。これまで勝手に“ジョガー”と呼んで名前に興味すら持たなかった自分が恥ずかしかった。
「弁当医師とヤモリ男は連携してたのでしょうか? ロハス女との関係は?」本永が真剣に突っ込みを入れる。
「イマドキは一見無関係そうな者同士がネットで繋がっているから、慎重に調べている。誰かがどえらく派手に禁忌をやってくれちゃうと、『自分はあれほど酷くないから』と罪の意識が軽くなることもある。『夜叉が死ぬ前にやっておかないと』という動機づけが今後もファンを駆り立てる可能性は無視できない」と引き締まった顔で帰って行った。
「知ってるか? 近隣トラブルって殺人事件になる確率が高いんだと。ローン組んで家建てて、そう簡単には引っ越せない…というがんじがらめな拘束感が事を拗れさせるんだと」
本永は続けた。「あのさ。二軒先に不倫相手とお母さんが暮らしてる状況をさ、なんで八重樫のお父さんは放っておいたんだ?」
沈黙が流れた。ドライバーの警察官の呼吸音ばかりが聞こえる。ついに耐えられなくなった警察官が、「パトカーの中で、なんでそんな深刻な話を子供がするんだ?」と早口で抗議した。あの弁当女の捕り物帳に係わった交通安全課の人だ。
申し訳なく思いながら警察官を無視して、瑞生は本永の方に向き直って答えた。
「それはね、お父さんが母をケシ粒ほども愛してなかったからだよ」
交通安全課の警察官は唾を呑み損ねて咽ながら必死にハンドル操作をし、覆面パトカーは八重樫家に辿り着いた。
瑞生の答えにノーリアクションで本永は言った。
「俺、テスト中は一緒にいてやるよ。それで事態がどうなるというのでもないが、話し相手にくらいなる。お前の伯母さんがいいって言ってくれるかわからないけど」
「僕が三月まで住んでいたのはそこいら中が小さな工場で、常にプレスマシンやモーターの音がしてる街だった。機械の騒音が止んだ途端、どこかの家のテレビの野球中継が響く、そんな場所だ。…こことは大違いだ」
紅茶のいい香りがする。伯母がドアの前で固まって聞いているのだろう。今すぐ飲みたい渇きを感じるが、伯母に聞かれるのも運命かもしれないと思い、そのままにした。
「ここに馴染めないせいか、僕はふわふわしてる。金持ち学校でも居場所はないけど、少なくとも小・中と違っていじめの心配がなくて正直有り難いと思ってる。想像つくだろ? 僕みたいに貧乏で親が歳の差夫婦で体も小さい奴がターゲットにならないわけない。…結論から言って、子供の家でも学校でも僕はヒモになって生き延びた。守ってくれたのは高学年の強い女子で、『あんたは私の物だから』的な発言を食らう。なんとか誤魔化しているうちに相手が卒業。四月にまた別の女子が現われる…この繰り返し。小学校のうちは『キスして』くらいだからよかった。でも中学になるといじめもキツイし女子からは肉体関係を迫られる。どちらも不思議なくらい邪魔が入って難を逃れた」
「後から子供の家で一番大人しい女子が裏番張っててちくったりマフラーずたずたにさせてたと知った。この子は初めてだっていうのに『妊娠させて』って迫ってきた。この時は何故か父の予定が急に変わって助かった…。悪夢だろ?『でき婚狙い』なんて母みたいで。その子は直後に養子縁組が決まって去った。学校のしつこい子も親が転勤になった。お蔭で僕は童貞を守ったわけだけど。女子に対する歪みはこうやって培ったんだ。スタートは母だけど。…何故こんな話したか、わかる?」
本永は貧乏揺すり抜きで聞いていた。質問を向けられると、揺れ始めた。
「僕のために一週間もここに泊まってくれるという案は、君の親切心から出てると思うんだ。でも僕は今話したように軽く歪んでるんじゃなくて、醜く捻じ曲がってる。来る者拒まずで女に庇ってもらってた。その上、感謝もしてなければ童貞も捧げなかったんだから、相手の女子にしてみたら詐欺にあったようなものだ。…僕は君に『あいつに係わって俺の人生台無しだ』みたいな思い、してほしくない。こんな僕のために駆け付けてくれた友達だから。このまま夜叉の件に深く係わっていったら、途中では離脱出来ない気がするんだ」
「正直言って、夜叉やクマちゃんたちの話とミライ村で次々起こる事件に心惹かれてる。面白くて興味津々だ。それが、八重樫に対して失礼なのかもしれないとは思ってる。人間てさ、『追い詰められて本性見せる』って言うだろ? まだ追い詰められてないからだ、という解釈も成り立つが、俺にはお前の性根がそう腐ってるようには見えないんだ。だからお前が恐れるほど酷いことを俺にするとも思えない」こう言い切って瑞生を見つめる吊り上り気味の目は、内面に怯えを隠しているようには思われなかった。
「僕には頭のキレなんてないから、いっぱいいっぱいだ。外様みたいに頼りがいのある友達にはなれない。どっちかって言うと、君が面倒見なきゃならないお荷物だ」
本永は椅子の背もたれに寄りかかって遠くを見た。
「…あの日、外様が声を掛けてきた日。外様はクラス委員だから動いたとはいえ、俺には俺たち二人の周りの結界を破ってくれたヒーローみたいに思えた。そしてあいつは、前後の席なのにお互い興味もないし話す必要も感じてなかった俺たちを、週番をきっかけに結び付けてくれた。…だから特別な存在なんだと思う。まだ自分の存在が揺れてる時に学校に繋ぎ留めておいてくれるあいつがいなくなるなんて…と、思考停止になった。今思えば、まだ被害者意識に浸って俺はケアされて当然だと思ってたんだ」
「お前が買い被ってるほど、俺の人生は真っ直ぐでも光に満ち溢れたものでもないよ。今この状況から離れたら、安全な所に一人逃げたって、一生後悔すると思う。お前を見てると、仕方ねぇなとか、馬鹿じゃねぇのと思うんだけど、俺はどんどん生き還ってきた。ゾンビネタに引っかけてるわけじゃなく、感覚として一番合ってる表現なんだ。俺の中から生きる力を湧き上がらせるのは、守ってもらうのじゃなくて誰かを助けることなのかもしれない。それでいいよ。俺、もう死んでるみたいに生きてるの、嫌だから」
「じゃそういうことで、いいな? 伯母さんをトレーを持ったままずっと立たせておくの、申し訳ないしな」
はっとする気配がした後、ドアが開いて伯母が入ってきた。
「…ごめんなさい、冷めてるから淹れ直してくるわね」とトレーを持ったまま引き返そうとするのを、瑞生が止めた。「そのままで大丈夫。待たせてごめんなさい。『一緒に聞いて』って言えばよかった」
それから、夜叉の家で立て続けに起きた、侵入未遂事件の話を伯母にしたのだった。




