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⑭ 腕の持ち主の過去

クマちゃんと瑞生たちは、サニに今際の際の願いを託した腕の持ち主、青山陽斗の過去を調べていきます。

【 二〇一五年六月一三日 その三 】


 「解決はしないけど、瑞生君にまつわる二つの疑問に答えてもらったのよね?」クマちゃんが瑞生の顔を見た。瑞生は頷いた。

 「では、超常現象について検討するのは有志で後にしてもらいます。今は時間制限のある問題に取り組みましょ。八重樫さん、このファイルを読んでこの人物の人柄、特記項目をピックアップして」

「夜叉もスタジオに籠る前にしていってもらう用事がある。トランクルームに預けっぱなしになってる美術品。絵とか貰い物の壺とか。将来絶対『入れたはずのアレがない』『勝手に誰か持ち出しただろ?』という展開になるから物を出し入れする時にリストを作っておいたでしょう? だからリストを見て選別して。ここに残したい物には赤丸、贈呈するなら相手の名を記入して。借金返すのでしょう? 借金作った本人が活躍して。いいわね?」


 こうして各自取り組むべき課題をあてがわれた。

「つまらんな。子ども扱い=保護、なんて成長の芽を摘むだけだろ」本永はお冠だ。

「もしかすると『テスト中なのに酷いや』と言う羽目になるかもしれないでしょう? 出来る時にしておくのが勉強というものなのよ」クマちゃんはあっさりと片付けて出て行った。


 思ったよりずっと早く瑞生たちの手が必要とされた。伯母の霞が、クマちゃんの依頼通りまとめたレポートのチェックを頼んできたのだ。

「いやぁ、伯母様を手伝いたいのはやまやまなんですが、資料を読まない事には判断できないですよ」本永は罪深い男だ。まんまと全資料を手に入れ、瑞生にこう言った。

「いいか。せっかくの俺のファインプレーを無駄にするなよ。お前はあの腕男とどっぷり関わる可能性大だ、まとめだけで最善の判断ができるわけない。直に資料を見て、人となりを掴んでおくべきなんだ」

 


 青山の実家は都内下町で代々不動産業を営み、一階が事務所の自宅ビルに家族で住んでいた。

バブル期には企業を裏で支えて甘い汁を吸うだけでなく、各暴力団が勢力拡大の資金源とするために競うように地上げ対象の土地を探した。

転機は駅前再開発だった。駅前ロータリーを整備する話が、あっという間にショッピングモール、ホテル…と大規模になっていった。既にバブルも中盤、品も経験もない三流の土建屋、信金などが群がり、その背後にいる暴力団に青山不動産はあっという間に乗っ取られてしまったのだ。自宅住居には怪しい風体の人間が入り浸り、両親を囲んでいた。

 陽斗一一歳、妹のまゆり八歳、ある日一階の事務所で父は首を吊り母は睡眠薬を大量服用して死んでいた。いつの間にか養子縁組していた組員が陽斗の兄になり、兄妹は全てを失った。


 瑞生にはバブル期の地上げに関する知識などない。手書きメモに、『青山不動産の夫婦心中事件は、警察の捜査が及び腰で、兄妹がヤクザに取り込まれたことを不憫に思う者もいた。だが再開発に失敗した土地は日本中に溢れ、ゴーストビルも珍しくないバブル後の不況下で、兄妹に手を差し伸べた者はいなかったようだ』とあった。

後は断片情報。兄妹は高校を卒業している。ヤクザが兄妹を育てたということだろうか? 確か、セキハラキイチは帝大卒だったが。

小さな新聞記事のコピーもあった。『三〇代女性自宅で自殺か』…青山まゆりは賃貸アパートのバスタブの中で睡眠薬を飲み手首を切って自殺していた。親族宛の遺書があり侵入者の痕跡がないため警察は自殺と断定した、とあった。

 これが青山の言う『妹まゆりを自殺に追いやったセキハラキイチを許さない』か。


 関原喜一は静浜県出身。学生服の写真は、世界中が馬鹿に見えるとでも言いたそうな顔をしている。進学校から現役で帝大に進み、就職はゴールドプリースト証券の米本社採用ニューヨーク支店配属だ。瑞生にはさっぱりだが、“米本社採用”に赤で二重線が引いてあるから多分凄いのだろう。

しかし三年で自己都合の退職。これが『ヘマでクビ』なのだろうか。現在は派遣会社に登録している。隠し撮りの会話に出てきた詐欺会社云々はこれだけではわからない。これで関原のレポートは終わってしまう。トラブルの前面に出たり事件を起こしたりしていないので、記録がないのかもしれない。

次いで出てきたのが大橋京太郎なる人物のレポートだ。帝大で一緒だったとか、奥さんの親が県会議員だとか、自慢げに言ってた態度も顔つきも気に食わない奴だ。興味が湧かないので雑に読んで終わった。

最後は坂上逍造。大橋の義理の父と言う男だ。県議を辞めて参院選に出るとか言ってた。髪を不自然なほど黒く染めている。

 そういえば、大橋は関原に奥さんの従妹と結婚するように勧めていたな。『普通だけど芯の強い娘だ』と言っていたっけ。


「青山陽斗と関原の接点は、やっぱり暴力団かな?」瑞生が訊くと、「それしかないだろ」と本永。「青山はキューバにリゾート詐欺の準備のために行ったんだったな。わかることで考えよう。八重樫の家で見た青山のメモリー、詐欺集団の金の動きとか。あれきっと関原の息の根を止めるための証拠だ。で、あの関原の隠し撮りは、関原が自分の保身のために撮ったものだろう。大橋は関原の経歴を十分知った上で、詐欺で得た金を自分の選挙資金にしようと企んだことが全部語られている。関原が捕まった時、これがあれば大橋は知らぬ存ぜぬが出来ない。わからないのは、この爆弾級の証拠を、青山がどうして持っているのかだ。関原は頭いいけど性格暗い。暗い奴が隠し撮り証拠をあっけらかんとその辺に出しておくわけがない」


 肝心の伯母のまとめは、常日頃のクールさを活かした仕上がりだ。これを一読すれば青山の事情は呑み込める。


 「担当は組対か捜査二課知能犯係か。でも警察が本気で捜査しているのかわからないな」本永の組んだ足は揺れ続ける。

「よくわからないけど青山のメモリーがないと、それは難しいんじゃないの?」

「青山のはとっておきの内部資料だ。警察を信じて渡したのに証拠を握り潰されてしまうのが怖い」金髪も揺れる。


 サニが突然発言した。「それは困る。ヤオーマの哀しみ、伝えたい」

「そうだね。あの蒼い腕に復讐を託されたサニとしては、ルビーの呪いより、余程リアルに祟られそうだよね…」瑞生にしてもルビーの呪いはあまり実感がない。父は母に殺されたのだ。呪いではない。愛のない結婚による暴走という方がまだわかる。

「…」本永の動きが止まった。瑞生もサニも、またヤバイ状態になったのかと慌てて近寄る。身長一九〇センチ超のサニが背を丸めて顔を覗き込むと、本永はすっと視線を合わせた。

「それだよ…、サニ。基本に忠実。青山はサニになんて頼んだ? たぶん『これを公開してくれ』だろう? 『復讐してくれ』じゃなかっただろう? さすがにキューバ人のサニに『日本に行って俺の代わりに復讐してくれ』とは言えないもんな」


「僕がヤオーマと最後に会ったのは出発の前の晩だった。彼はメモリーを僕に託した。『見つかれば俺は速攻で殺される。俺が死んでも代わりに公開してくれる人を見つけて必ず知らせる』って。僕に望むことは『公開する』ことだと思う」

 本永は頷いた。「だから、難しく考える必要はないんだよ。青山の代わりに公開してやればいいんだ。関原を有罪にするとか、大橋を立候補できなくするとか考える必要はない。夜叉のために付き添って来日した、知日家の青年に責任取れなんて言うか? 日本人の大好きな“いまわの際の願い”を叶えてくれたんだ。内容に関してはサニが『約束だから無修正で』と言えば全世界納得じゃないか?」


 パシャ パシャ

 夜叉の拍手だ。「お前、想像以上に俺と感性が一致してるな」本永の金髪が感動で逆立つように見えた。瑞生の見たところ、夜叉はクマちゃんに命じられた美術品の振り分けに飽き飽きして、こちらの話を聞いていたようだ。

 夜叉はポケットファイルを押しつけてきた。折り癖の付いたページを開けて見ると、綺麗な卵の写真が並んでいて“インペリアルエッグ”とある。そこに“ミズオ”“キンパツ”と殴り書きのポストイットが張り付けてある。

「夜叉、これ…」

「最後に世話になるからな。なんかお前らにお揃いの形見をやろうと思ったんだよ」

「インペリアルエッグって何?」

「ぐっ」本永が鳩尾にパンチを食らったような声を漏らした。「インペリアルエッグを知らないのか? 卵の殻アートだ。ヨーロッパの貴族社会で流行した、卵の殻をベースに…オルゴールになっているのや人形が入っているのまで色々ある。繊細で美しい工芸品だ」と説明してくれた。

 壊れ物=母に破壊される対象、でしかなかったが今は違う。「確かに綺麗だね」


 夜叉は懐かしそうな顔をした。「俺、不器用だから、繊細な職人芸に憧れてたんだな。ヨーロッパ公演の時に嵌った。成功すると、爆買いや大人買いが出来るからな」

「からくり時計。お前我慢できなくて触った途端に壊れて、ヨーダみたいな爺ちゃんに杖で殴られそうになったっけ」キリノが樹木の幹が擦れあうような声で笑った。夜叉も小さな声で笑う。この二人が仲たがいをしてバンド解散後一〇年も音信不通だったとは思えない。



 思いがけずストレートにキリノに見られたので、瑞生はただ見つめ返した。

「瑞生は、母親の虐待だろ? 俺は父親だ。理由なく蹴る・殴る。母ちゃんは俺を庇っては殴られた。俺を連れて何度も逃げた。DVシェルターに保護してもらっても、親父は犬みたいに俺たちを見つけるんだ。何度目かの逃亡で、母ちゃんは疲れ果て、俺なんか裸足だった気がする。冬だってのにさ。そうしたらくたびれた飲み屋のおばちゃんが拾ってくれた。何とか持ちこたえて生き抜いていれば、助けてくれる人もいる。辿り着いたあの町に、こいつとガンタとトドロキがいた。途中のシェルターで落ち着いて学校に行ってたら、こいつらと出会わなかったんだから」

 

 「母ちゃんは無理が祟ってあっけなく癌で死んだ。でも繰り返し俺に言った言葉がある。『手を出してはダメ。暴力の魔力に取り込まれては父親に屈したのと同じ』。 俺は母ちゃんの願いに反して成績はどん底、ギター弾いちゃ授業をさぼってた。でも手を出したことは一度もない。一発殴って止められる自信なんてあるか? 俺はない。だからどうしても相手を殴りたくなった時、おれは拳をぱぁにして、相手を許すことにしてる。俺が親父の意図した通りになるくらいなら、全てを許す方がましだ」

 瑞生はキリノの言葉が自分に沁み込んでくるように感じた。

「仕事はペースが出来てくるとそう衝突は生じない。仕事に集中できるようになる。でも、結婚して家族を持つのは耐えられない。家に帰っても支配欲と闘わなきゃならないなんて、まったく休まらない。だから俺は独りがいい。三人もの女と結婚・離婚を繰り返すなんて怖いし馬鹿らしいし、あり得ない無駄だよ。夜叉、俺の言ってること正しかったろ? お前はパートナーシップを理解していない結婚で何を得たよ」

 「全面的にキリノが正しかった。大概の事は相手が折れて上手くいくと思ってた。結婚したら相手が折れないとは思ってもみなかったんだ。…でもさ、確かに殴られたことはないが、キリノから殺気を感じたことはあるぞ」と夜叉。

「それは殺気じゃない。殺意だ。…お前が二年ぶりのニューアルバムの発売直前に、保証人になった奴の夜逃げで被った一億の債務不履行で、アルバム発売が無期限延期になった時。ワールドツアー直前に離婚問題で、プロモーションにかけた金が無駄になった時。それから…」

「そりゃ殺意も湧きますね」本永が同情した。


「あの……解散して一〇年も活動はおろか音信不通だったというのは本当ですか? 今の二人を見てると、凄くいい関係なのだと俺は思うんだけど」本永が遠慮がちに切り出した。


 夜叉の体の放つ蒼い光が、ぽうっと増したように見えた。

「ロックスターの俺は恰好よくぶっ飛んで生きてるはずなのに、控えめなトドロキにまで『音楽に集中しろよ』って言われた。自分を取り巻くキラキラした何かに、追いたてられていたんだ。解散後、映画や投資に事業展開をしたつもりが、潤ったのは自称コンサルタントだけ。俺には新曲を出せばどんな借金でもすぐ返せるというのが、確固たる信念としてあった。しかしコンサルタントのせいでレコード会社と拗れ、マネージメント会社からは見放され、まだ書いてもいない曲の版権に二重・三重の抵当権が設定される事態になって、音楽活動が出来なくなってた。音源を盗られる夢にうなされ、浮かんだメロディから逃げた。長年の酷使が祟り喉の不調に苦しんだ…人生どん底とはこのことだ。喉の治療をしてる間に、クマちゃんに少しずつトラブルを清算してもらった。音楽活動が再開できる見通しが立ったのが、去年くらいだ。その間にトドロキは通販会社の社長で成功してるし、ガンタはカレー屋になってるし。キリノはスナフキンみたいに放浪してた。…会いたい瞬間が何度かあったのは事実だけど、会わないまま一〇年経ったのは、成り行きというか、自然だな」


「業界のジャーナリストでもこんな凄い話聞けないぞ。俺たち凄い内輪話聞いてるぞ」と今更本永が興奮して耳元で囁く。


 キリノは少し疲れた表情で水を飲んだ。

樹木には水が命の糧だ。本当にそんな風に見える。

 「俺は夜叉の迸るエネルギーを音楽だけに向けさせるのは無理だと思っていた。俺と夜叉とは違うから。俺、毎日暴力喰らってただろう? 蹴られた腹に水が溜まったり腹膜炎起こしたり何度も救急車の世話になってた。でも治療費の当てが無くて放置していたんだ。バンドが成功してから医者に行った時には、手遅れだって言われた。いずれ内臓が機能不全になるって。既に腎臓は一つ潰されてたし。俺はメンバーに言った。もうツアーは無理だ。もう少し生きていたいから、レコーディング参加くらいにしたい。俺の代わりに誰かに加入してもらっても俺は構わないよ、と。バンドの結論は解散だった。その話をした時、夜叉は泣いて泣いて…もう大泣きだったな…」

「あれ? 藁科さんが涙を採りたいと言った時、『泣いたの見たことない』って…」瑞生が突っ込むと、キリノは笑った。「こいつ泣き虫なんだ。何かってよく泣いたよな。…でも気が狂うほど泣いたあの日以来見てない、本当に」

「きっとあの時一生分泣いたんだ。今の俺は泣くことも思うに任せない」夜叉は投げやりに言った。


「なぁ、お前俺がもう永くない話をしてから、余計他に活路を求めたのか? 例の事業とか。あれは俺がいなくなってから、一人でなんとかしようと思ったわけか?」

 「…不安で気が狂いそうだった。人並みに結婚すれば世界が変わるかと思った。事業が成功したら、気軽に音楽が楽しめるかと思った。結局俺のやりたいことは音楽だと思い知った。そして誠心誠意魂を捧げて創ってこその音楽なんだ」小さな声で夜叉は続ける。

「喉の治療で入院した時、胃を取ってるキリノはおかゆ食べてたな、と思い出した。目をギロつかせて路地に立つことすら出来ない奴も、本当は内に炎を燃やしてる。俺は色んな人間の心の炎を讃えたいと思った。そうなると今まで歌ってきたロックとは少し違う。異質な音にどっぷり漬かって揺蕩ってみたかった。『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』のキューバに行ってみることにした。アメリカと国交回復交渉をしてるから今のキューバは失われると読んだのも理由の一つだ。地元のバーで日がな一日音楽を浴びて…、メロディが湧きだすのを待ちたかった」

「それでキューバに?」

「ああ、三ヶ月弱。手を回して向こうの大学の音楽振興団体から推薦状もらって、通常は滞在三カ月が限界だから」


 「そうだったんだ」本永が旧知の友人のような感想を漏らす。

「俺は宣告から一〇年、ちゃんと生き抜いてるのに夜叉はなんでゾンビになってるんだよ。キューバのインスピレーションがお前に何をもたらしたのか、久しぶりにわくわくするのに、アルバム作れるのか?」キリノは身体を傾け、夜叉を覗き込んだ。

夜叉がニッと笑った。「一曲だけど、面白かっただろ? あれに詩を書いてほしいんだ。それからアルバム分の詩を書いてほしい。曲は幾らでも出来る」

 「…俺がか? 俺の健康問題以外の解散の最大要因は、ひとえに“詩”にあると思ってたが?」キリノの落ちくぼんだ眼が精霊の力を宿し輝いていることに瑞生は気づいた。


 「…そうだ。バンドを始めた頃から、俺はキリノに詩を直されるのが気に喰わなかった。俺の体の血液が沸騰するみたいな熱い気持ちをメロディに乗せて歌いたいのに、キリノは哲学か天文学か、そんな感じの詩を乗せて歌えって言うから」

「そればかりじゃ中学生にも飽きられる。それに夜叉は堂々と『家に火を放て!』なんて詩書いてくるんだ。実際放火する奴が出かねない、それがロックだ。感情の沸騰は一過性だ。血が滾る感覚を音で表わせば、感情のうねりを共有できる。自分を投影できる物語を聴けば孤独に苦しむ者も鬱屈した心を開放することが出来る。お前の曲はライブを盛り上げるけど、使い捨ての曲を作りたいわけじゃなかったろ?」キリノは愛想なく話すが冷たさは感じられない。

夜叉はふんと鼻息を漏らした。「わかってたよ。キリノの詩を理解したくてキリノの読んだ本を追って読んでたんだ。でも不満は募ってた。うちは詩が先だったから自由がない気がしたし、俺の馬鹿が際立つみたいで」

「それが、一〇年経つと『詩が先でいい』になるのか?」

「うん。俺、今度は楽しんでメロディに乗せていけると思うんだ。キリノはキューバに行ったわけじゃないけど、あの土地の空気・住人、ゾンビの俺の感情、俺たちの行き着く場所…たぶん同じようなものを感じてると思うから」


 キリノは枝のような腕を伸ばし、夜叉の蒼い額を、頬を、顎をそっと指で触れた。

「俺の理屈っぽい詩はただの詩なのに、お前が歌うと宇宙になる。俺のつまらない声では起こせない奇跡を、お前は何万人ものオーディエンスの前で易々と起こしてみせるんだ。俺はお前以外の人間が歌う詩を書いたことはない。だから二度と自分を馬鹿みたいなんて思うな」


 夜叉の顔が歪んだ。神々しい蒼い光を放ちながらも、こんなにくしゃくしゃに歪むものなのだと、瑞生は驚いた。しかし、夜叉は涙を流さなかった。

「意外とつらいもんだな。泣きたいのに、心は泣いてるのに、涙が出ないってのは」

「自分で言ってたろ。限界値まで泣いたから、涙の生涯生産分はもう終了したんだよ」キリノも泣きはしない。

「キリノを卒業するどころか、先に浮世からも卒業しちゃう。もう一度はあっちに逝ったことある身だからね」

「そうか、完全に先を越されたな」こう言うと樹の精霊は笑った。



               【 六月一三日 その四に続く 】




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