⑫ ミライ村自治会議・疑惑
夜叉に呼ばれてバンドリーダーのキリノがやってきます。クマちゃんは瑞生の伯父の要請でミライ村の自治会議に代理出席します。そこでは現実離れした自治会トップによる専制政治が行われていました。
【 二〇一五年六月一三日 その一 】
朝の散歩はクマちゃんの助言もあり、取り止めた。朝食を食べながら「せっかくキリノが来てるのに会えなくなったら勿体ないからな」と本永が言うのを伯母が聞いて、トレーを落としそうになった。
「キ、キリノが来ているの?」
「伯母さん、キリノのファンですか」
「え? いえ、そういうわけではないけど…」伯母は突っ込まれ慣れていないので動揺著しい。そんな伯母をさっさと忘れて、試験範囲の話に移ってしまう強靭なところが、瑞生には羨ましかった。
「保健体育のレポート、お前のコピペしたらバレると思うか?」
「バレるに決まってるじゃないか。提出するのは僕たち二人だけなんだから」
門根から、午前九時(伯父の指定)に伯父の病室にお詫びに行くと連絡が来た。瑞生も本永も同行することになった。クマちゃんはその時に、臨時の自治会で宗太郎の代理人として質問する内容を承ることになっていた。
「なんで、本永が緊張するの。門根ならわかるけど」瑞生は後ろをついてくる馬鹿でかい外車の中の門根にはぜひ緊張してほしかった。伯父の逆鱗モードをオンにしないために。
「なんでって、俺は堅物の大人受けが悪いんだよ。見りゃわかるだろ?」本永は貧乏揺すりを止めずに答えた。
宗太郎は不気味なほどに穏やかだった。短期入院なのに居住空間としてのクオリティが半端なく整っている。伯母ではなく付き添いの曽我さんの淹れてくれた紅茶のカップを抱えて「俺の家のどの部屋よりゴージャスだな」本永が呟いた。
「今後は瑞生に害が及ぶようなことがあったら、即刻訴訟です。もちろん夜叉の家に行くのもお断りします。黒金さんに私の代理で自治会に出席して頂く際に、問い質してほしい項目をリストアップしてあります。事後報告待っていますから」
これで終わりだった。夜叉邸訪問を禁止されなくて、瑞生はほっとした。病室に入ってすぐに判明したのは、ノートやパソコン類がここには五台はあるということだった。そして、本永を初めて見た伯父の反応は『初めてではなかった』。
帰り道、瑞生は重苦しい感覚に囚われていた。
伯父は本永を知っていた。監視カメラは壊れているのに? いや、待てよ。本永の姿は食堂や玄関の映像でも十分見られたはずだ。なんとか気分を持ち直して、昼食後に夜叉の家に行くまで、本永がレポートを書いている横で数学に取り組んだ。
夜叉邸を訪問した時、夜叉とキリノはちょうどスタジオから出てきて休憩をしていた。
夜叉のいたバンドThe Axeのリーダー・キリノのことを瑞生は知らない。夜叉が門根に呼ぶように頼むということは、自分では連絡を取れないということだ。夜叉が死んだ時、キリノは空港に迎えに行ったのだろうか。バンド仲間なら呼ばれなくても、この村にお見舞いに来るのが当たり前ではないのか。世界的バンドのリーダーは、背が高くて痩せていて黒い服と長い黒髪で、風にしなう柳の木のようだ。
「遅くなっちゃって…。キリノ調子はどう?」クマちゃんがドンとドアを開けて入ってきた。村の自治会議に出ていたのだ。
門根が投げ出していた足を下に降ろしながら「黒金さん、昨日の熱き再会に居合わせたんでしょう? どんなだったんです? 往復運転して、ようやく戻ってトイレに行ってる間に感動のシーンが終わってて、二人ともさっさとスタジオに籠ってた! 俺だけ見そびれたんですよ。誰も教えちゃくれないし、感謝されないし、まったく」
クマちゃんはあっさり、「誰も感動しなかったわよ。キリノが『曲できたんだって? どんな?』夜叉が『こんな』って言いながらスタジオに消えてった、それだけよ」と片付けた。
「一〇年ぶりなのに? あんなに揉めたのに? それだけ?」門根は頭を抱え込んだ。「だからアーティストってのは嫌なんだ。凡人はいつも振り回されるだけなんだ」
当の本人たちは、隣り合って座っていて、キリノはミネラルウォーターを、夜叉は例のジェイコブレシピのドリンクを飲んでいる。
「そういえば、お前蒼いな」
「まぁゾンビだからね」
突然藁科が夜叉に近づいてきた。壁に溶け込んでいたサニが影のように移動したのに瑞生は気づいた。
「唾液は固形物が摂れない原因になるほど少量しか分泌されないが、涙なら採取できるかもしれない。今の“感動の再会”で思いついた。泣いてみて」手に試験管を持って藁科は迫った。
部屋中が静まりかえった。森山は休みの日だからいない。
「ガキの頃から一緒にいるけど…泣いてるのを見た記憶がないな」キリノが夜叉に確かめるように言う。
「確かに。簡単には泣けない程負けず嫌いなんだな、俺は」
「夜叉は泣くと生命の危機になるの?」瑞生が聞くと、サニが「ヤシャの体の水分は危ういところで恒常性を保っている。涙一粒でどうこうならないけど、泣きじゃくるのは危険だろうね」と応えた。
「私はこの状況を前向きに考えただけだ」と言うと藁科はそっぽを向いた。
「ちょっといい?瑞生君。伯父様に説明する内容を吟味してほしいの」とクマちゃんに呼ばれた。
クマちゃんの参加した自治会議は、想像を絶するものだったらしい。「“超老人対老人対壮年バトル”だった。開村した時からの住人を“老人”、その子供世代は“壮年”、そしてただ一人別格なのが“超老人”田沼よ」
*黒金真樹子の自治会議レポート*
私は一番後ろの席で、この興味深い金持ち村の最富裕層であることを臆面もなく露わにした連中の、生態観察の心境だった。
田沼は夜叉誘致を自画自賛するが、積極的に再開発を推進する流れがあるわけではない。夜叉ファンと野次馬目当ての仮設店舗のカフェとうどん屋が村のゲート付近の土地使用許可を申請しているだけだった。
これには壮年層から失笑が漏れた。「介護ヘルパー専用住宅を建ててヘルパーを確保した方が賢明だ」「結局親を都心のいい介護マンションに移すよね」「別荘としての保有を認めた方がいいのじゃないですか?」
老人層は渋い顔だ。「これ以上老人だらけになれば、本当に“シニア村”だ」「今はいいが、五年後はこうはいくまい」
田沼は目をぎろりと光らせると、咳払いをして皆を黙らせた。
蝶ネクタイ。薄い頭髪に真っ白ふさふさ眉毛でギョロ目が水墨画の達磨のよう。
「別荘保有を認めないのは、セキュリティが崩壊するからだ。別荘をシェアする奴が必ず出る。IDが又貸しされていくとどうなる? そういう連中がここの細かなルールを守るわけがない。住人が減ればごみの回収日を週一回に減らされるぞ」
〈あら意外とまともなこと言うじゃない〉
田沼は強いトーンで力説した。「だから夜叉が重要なんだ。私は村の中を自由に散策して過ごしてもらおうと思っている。ウィルス? 入り浸ってる少年がいること自体安全な証拠だよ。私は夜叉に『薬と女と金まみれのロックスターが死ぬ前に愛した村はここです』と言わせたいのさ。“夜叉の村”に住みたいセレブが殺到するぞ。外国人も審査をクリアすればオーケーだ。そしてあの家を記念館にする。神山県の新名所だよ。生きているうちに、『生誕地よりこの村に来ないと夜叉を語れないよね』とファンが思うように仕向けるんだ。ここを去りたい住人は去ればいいさ。だが、夜叉に不動産価値を上げてもらってから売却する方がいいと思うがね。あんたたちのすべきことは、ゾンビの機嫌取りをして、村を気に入るよう仕向けることだ。夜叉を追い出した四葉区に吠え面かかせてやればいいんだよ」
〈何が“薬と女と金”よ。クソじじい。夜叉がまみれたのは金と女だけよ。夜叉をただのツールとして利用し倒すつもりね〉
「最初からそう言えば、夜叉受入れ委員会を立ち上げたのに」「今からでも遅くはない。ゾンビの顔色を窺うためにゾンビが喜ぶような物を揃えて歓迎会はどうだ」
「“夜叉のお宅訪問”とか、どうだ? 最後に村の住人の温かさに触れるっていう…」
さすがに壮年層が声を荒げた。
「夜叉が何で世界的な存在なのか、知りもしないで意見しないでくださいよ。偉大なのは彼の音楽です。それを売れない芸人の旅番組みたいにして何が楽しいんですか。金のある夜叉が金のある綺麗な家を訪問するなんて、視聴者の反感買うだけでしょう」
〈その通りよ。夜叉が『村の住人の温かさに触れて』なんて言うわけないでしょ? 『こんな村燃えてしまえ』なら言うでしょうけど。だからあんたたちは二流なのよ〉
しかし、夜叉のことを少しはわかっている壮年層から代替案が出ることはなかった。
〈だからあんたたちは二流の二世なのね〉
「では、ゾンビ主賓の懇親会を企画する方向で進めなさい…」あくまでも村の王として采配を振るう田沼に、もう我慢できなかった。
「ちょっと待ってください」
そもそも自治会議に一人の女性もいないことが、この村の時代錯誤を象徴している。自己紹介をした私にぎろぎろと不快な値踏み光線を浴びせてきたが、そんなもの慣れっこだ。田沼は肩を竦めて話の続きを促した。
「少年の写真を流出させた住人と田沼さんは会合を持ち、決裂していますね。今後情報流出の心配はないのですか? 野放しなのですか?」
他の参加者にとっては俗っぽい興味を刺激する話だから、皆静かに聞いている。
田沼は暫し会議室の天井を仰いで沈黙した。もしかすると相手は私ではなくうるさ型の宗太郎だと肝に銘じて、内容を精査しているのかもしれない。
「あのバカ女に対してとった私の対抗措置は有効だったがな。大方、転居費用を脅し取りたかったのだろう。少年は上手く夜叉に気に入られてるようだから、我々のための橋渡し役を担えるかもしれない。今後は村としても気を遣うべきだと思っている」
「あなたの、他人を自己利益の道具としてしか捉えない考え方に、寒気がします。大人の都合で強制的に少年に苦役を課した、とみなした時点で法的措置をとりますよ。それと、あなたが特に酷いですが、皆さん誤解しています。夜叉を映画のゾンビのように捉えるのは間違いです。夜叉は存命当時と同様の記憶と意思を持ちます。そして身体的には良い状態ではない。いつ死ぬかわかりません。外出は難しいでしょう」
夜叉の容態について知ると、男たちはざわついた。「死にそうなら計画がまるで違ってくるじゃないか」「ゾンビって白痴なのだろう?」
私は有象無象には目も呉れず、田沼の表情の変化を観察した。案外村の中の情報が集まらないのかもしれない。田沼の人徳故ということか。夜叉が制御不能のアナーキーなゾンビであることも、容態が思わしくないことも、まるで初耳のように眉毛を上下させている。
壮年者が声を上げた。
「僕はかなりのThe Axeファンなんです。夜叉がここに来ると知って万歳三唱したくらい。夜叉の記念館が可能なら出資したいと思います。人工森のてっぺんに上映施設を建てるのも面白いかな、とも。最近アーティストはドキュメンタリー映画やライブDVDをよくリリースするけど、コアなファンでも全部は買い切れないでしょう。そういう上映施設もいいじゃないかと。例えば“夜叉ウィーク”と銘打って上映作品を日替わりにして、記念館や村の研修施設に泊まるパックを組めば、ファンは来ると思う。そうすれば必ずレストランや土産物屋が周辺に出来ますよ」
「いいですね。国内外を問わず解散しているバンドや貴重なフィルムの上映は評判になりますよ」思わず答えてしまっていた。「記念館は可能だと思います。あの家をどうするのかは遺産相続人の意思によりますが。遺品の展示などの協力は得られるでしょう」
「そうなると、現状できることはなんだと思いますか?」老人層から質問が出た。
「夜叉はそっとしておいてほしいのです。彼はミュージシャンです。航空機事故で死んだ時、運命だと思って普通に死んだと思いますよ。なのに蘇ってしまった。まだ彼の命運は尽きていないのかもしれません。でもそっとしておいてあげてください。『村の一軒にゾンビが住んでいる。ただそれだけのこと』なんて、皆さんらしくて素敵じゃないですか? お金に困っていない人たちだけですよ、金づるをそっと見守ることが出来るのは」
この言い回しは参加者のセレブ心をくすぐったようで、会はお開きになった。田沼はこちらを忌々しげに睨んでいたが、私の周りには名刺交換の人の輪が出来ていた。
目の前で名刺を差し出し穏やかな笑みを浮かべている男に気づいた。さっき唯一建設的な記念館の意見を言った壮年者だ。
「『イベント コケタ』 はぁ?」私が間抜けな声で読み上げると、相手は笑った。「裏を読んでください。“苔田 満”です。実は建設会社なんですよ。ドーム型やガーデンタイプなどイベントのための施設建設を世界中でやってます。僕は夜叉が『いいね』と言ってくれるような上映施設を建てられると思ってるんですが」
「ああ、とても面白いですね。でも『イベント コケタ』なんて縁起でもない名刺を平気で配ってるところがもっと面白いです」
苔田と一緒に村のビジターセンターの階段を下りた。
「今日は黒金さんが来て下さってよかった。いつもは田沼さんの独壇場だから、皆腹を立ててカッカしながらこの階段を下りるんです。あなたの話で皆の夜叉を見る目が変わったと思います」
嬉しかった。ここ何年も味わったことのない満たされた気持ちで夜叉の家に戻った。
「ふ~ん」夜叉と瑞生が親子か兄弟のように、同じトーンで息を漏らした。「クマちゃん、恋の予感かぁ」夜叉が小さな声で茶化す。「恋の予感かぁ…」水色のメモが瑞生の脳裏に浮かんでいた。
「何よ、二人とも。ケンカ売ってるの」クマちゃんは怒りながらも話は進める。「これを伯父様に報告したら、どう反応するかしら?」
「聞いた感じでは、田沼の方がロハスより強そう。そこは気に入ると思う。村全体のことや夜叉のことを伯父が本気で考えているとは…正直思わないな」
「なるほど、じゃこれでいくわ」と席を立った。
「相変わらず、クマちゃんは切れがいいな」キリノも立った。「続きいけるか? 休むか?」夜叉は「いける」と続いた。
一瞬、二人の関係が見えたように思えた。夜叉はキリノが好きなんだな。慕ってるという方がしっくりくるかな。瑞生は門根が口走った言葉を思い出した。『あんなに揉めたのに』『一〇年ぶりなのに』…ミュージシャンという生き物はどうも凡人には理解しがたい次元にいるようだ。
瑞生の思考はガタンゴトンという家具を動かす音に中断された。「何?」人の声もするので、隣のグランドピアノのある部屋を覗くと、門根とマッスルな男たちがピアノを動かしていた。いつもほとんど生物がいないような家で、Tシャツに汗を滲ませ数人が肉体労働していると部屋に汗の臭いが籠っていた。
「お、いい所に少年二人が来た。ここにスタジオを作るんだ。手伝ってくれ」壁にするボードのような物を顎で指して門根が言った。
「スタジオはもうあるでしょ? 夜叉たちが使ってるのが」
「あれはレコーディング用。これは動画撮影用。奴らは画像を発信したいんだと。言葉がカットされる心配がないようにしたいらしい」門根はなんだかんだ言っても夜叉の理解者だ。
「ここの自治会煩いんだろ? 改築には許可がいるとかさ。だからこっそり自力でやってるんだ。おい、金髪兄ちゃんも中に入れよ」
ここで初めて瑞生は振り向き、本永が入り口付近に止まっていることを知った。
「どうし…」言いかけて本永の顔面が蒼白になっていることに気づいた。
「ごめんなさい。僕は火傷が引き攣るし彼も学校休んでたから…」
門根は反射的に口を開きかけたが、曖昧に閉じて、「あ?そうだったな。大事な預かり物の具合が悪くなったら車椅子の資産家に怒鳴られちまう。んじゃ、いいからあっちの部屋で待ってろ」首に回したタオルで汗を拭いた。
そう言われても、本永の状態をどうしたらいいのか、わからなかった。小刻みに震えて顔を苦しそうに歪めている。喉を押さえて部屋の中央でついにうずくまった。「…息…」「本永?苦しいの?」
瑞生の大声にサニも藁科も飛んできた。サニは体脂肪ゼロみたいな体なのに、本永を抱きあげてソファに連れて行き、藁科はどこからか茶色の物を持ってきた。見ると茶封筒で、藁科は封筒を膨らませると本永の口に当てて、「過呼吸。やったことある? 初めて? 苦しいだろうけど、過呼吸で死ぬ人はいないから。信じて封筒の中の空気を吸っていれば落ち着いてくる」本永の脈を取りながら言った。そして、クマちゃんの腕とは対照的な棒切れのような腕の時計を見ると、「立山から呼び出された。夜叉周辺のスキャンダラスな報道は真実か報告せよってね。ヤンキーの友達の体は大丈夫。サニがいるし。問題があるのはここ」と胸を指さして出かけて行った。
瑞生はというと、鈍色になった本永の顔色に、ただ茫然と、泣きそうになっているだけだった。
一〇分ほど経つと、本永の呼吸は穏やかになり、顔に血の気も戻ってきた。茶封筒を膨らませたり凹ませたりする耳障りな音が止み、本永の手が封筒を持ったままだらんと下に落ちた。ソファの横に犬のように座り込んでいた瑞生は床に落ちた封筒を拾おうと手を伸ばした。目の端に捉えた本永は上を真直ぐに見ていた。やや吊り上った切れ長の目を見開いて、頬に涙の筋がついている。「本永?」
そのまま視線を動かすことなく天井を見ている。
「俺、どうなるんだろう…。こんなんで大人になって、生きていけるのかな。普通に…将来を夢見ることなんかできるのかな」
瑞生は途方に暮れた。性的暴行の被害者がどれだけ辛い思いを抱えているか、想像しかできないが、安易に言葉をかけるのはむしろ失礼に思えた。受けた傷が心の奥で闇となって、やがて暴れ出し制御不能になりはしないかという恐怖を抱えている点では同じなのだが、『僕も一緒だ』なんて何の意味もない。
「前に言ったよね。外様も一緒にいた時、ある時点を境に何もかも変わってしまうって。その時点でもう“普通”ではない。だから“普通に”生きる必要はないんじゃないかな」
本永は動かなかったが瑞生は続けた。「普通=幸せというわけでもないよ。本当は一人一人標準が違うんだし。可能ならば、同じ標準の人と友達になったりすれば、心安らぐのじゃないかな」
「それはお前が俺に同じ標準だとアピールしてるように聞こえるぞ」
「へたってる割にへこたれないね。…本永、初めて口をきいた日に、何で僕なんかに打ち明けたの?」一緒に週番になった日、本永はNYでの悲惨な体験をあっさり打ち明けたのだ。
本永は天井を見つめたまま答えた。
「…俺にもわからん。何でだろう。…瞬間思ったのかも。『こいつらなら受け入れてくれる』って。今にして思えば、お前たちの醸す負のオーラを嗅ぎ分けていた、俺の勘は正しかったわけだ」
「そこの自画自賛の意味が解らないよ」
「今、ちょっと気になる子がいる。…多分僕の中の『普通の恋愛がしてみたい』欲が刺激されたんだ。普通のふりくらい、わけないだろ? まぁ演じてるだけ…なんだけど」
「八重樫?」
「僕の女性観って、絶望的なくらい歪んでる。母親を皮切りに、女の子、女は、僕の人生で祟り続けてる。円満な関係が築けるわけないよ。そうわかってるのに、なんで心が動くのかな」
本永は頭を起こして瑞生の顔を見た。「お前って、擦れてるんだか、素朴なんだか、怖いんだか、可愛いんだか、わからんな」
「このままずっと何事も起きずに何年も経ってさ。三五歳くらいで、二人で会ってね。お互いの変態な所を告白し合ったら、面白いね。『やっぱり普通に生きられなかったな~』なんてね」瑞生はかなり本気で言ったのだが、本永は「冗談にしてはリアル過ぎる」と取り合ってくれなかった。
クマちゃんが伯父の病院から戻った。「『自分も棺桶に片足突っ込んでるくせして、ゾンビの顔色を窺うと得意げに言ってるのか、お笑いだな』ですって」
クマちゃんは鞄から分厚いファイルを取り出した。「青山陽斗のこと、関原喜一のこと。現段階で集められた資料を持ってきたわ。やはり裏社会の人間ね」机の上のファイルを本永と瑞生は手を出さずに眺めた。
スタジオから夜叉とキリノも出てきて、夜叉はいつもの椅子にふわりと収まると少し微笑んでクマちゃんを見つめ返した。
「お前、キューバでも何かやったのか?」とキリノ。
「で、どうだった? 見たんだろ?」キリノには答えずに夜叉はクマちゃんに訊いた。クマちゃんは黙って夜叉を斜めに見上げた。
「わかった。悪かった」
驚いたことに夜叉はあっさり謝った。何に対して謝ったのか瑞生には見当がつかなかった。
夜叉がファイルに手を伸ばした。昨日見た青山陽斗の蒼い指先とはやはり違う。その手をクマちゃんが止めた。
「いい。その手で書類を捲るのは無理よ。普通の人でも紙で切ると血が止まりにくいのに」と言うと、椅子にどかっと座って書類を分け始めた。
「ごめんよ。クマちゃん、あれもこれも頼んで、何も手伝えなくて」さすがに夜叉も申し訳なさそうだ。クマちゃんは手を止めて聞いていた。
「あなたは昔っからそう。曲ができるともうそのことしか頭になくて、法廷をすっぽかされたこともあったわね。今回は、あなたが最期にしようとしてることを支えてこその私だと思ったから頑張ってきた。でも、さすがにこんな太い体でも一つでは無理。まず自称子供たちの親子鑑定。買収されない機関を探して依頼した。元夫人も三者三様気が抜けない。嫡出否認の訴えは今からでは出来ない。でも親子関係不存在確認訴訟を起こしたいのではなく、遺産に関する取り決めのために親子ではない事を証明したいだけよね? 借金は債権回収業者相手にすでに圧縮済み。四葉のマンションや隠れ家数件の売却は不動産だからやりやすい。それと無駄な外車を売れば借金は返済出来ると思う。だってあのフェラーリ、三億でしょ? いずれにしても元夫人連中は貰う気でいるだろうから、無事に親子鑑定が済むまでは水面下で準備したい。この上、よくわからない腕だけの人の身辺調査や捜査情報までなんて、とても手が回らない。夜叉、私が先に死にそうよ」
いつの間にか門根が戻っていて、「もっと俺も手伝うよ。Woods!から手伝いを呼ぶよ」と考え考え話す。
「手は欲しいだろうが、頭悪くちゃ使えないだろ」とキリノ。
「書類を見てどうすればいいの? 僕たちで手伝えることするよ?」瑞生が言うと、「何言ってるの。テストでしょう」とクマちゃん。
「黒金さん、うちのスタッフの桃田と梨本、法学部出身なんだ。要領はいまいちかもしれないが情報処理能力は高い。最終判断は黒金さんとして、そこまでは手伝わせられるでしょう」
門根とは思えない程、いい意見だった。クマちゃんは決断が速い。
「お願いするわ。桃と梨に元夫人側との連絡係を頼みます」
「あ!」座った途端に思いついたのだ。「青山陽斗の調査書類を読んで、重要そうな箇所をピックアップすればいいのでしょう? 伯母さんに頼んだらどうかな? 口は絶対堅いよ。僕の様子もわかるから一石二鳥と言えば伯父さんも許可するよ」
「常識もあり頭の回転も速いし…。それも採用」
「警察関連は、前島さんに打診してみようかしら。詐欺の捜査状況を知りたいし」
「前島って警察庁の偉いさんだろ? キャリアって善意で動くもんじゃないだろ」と門根。
「瑞生はしょっ引かれたこと、あるよな?」と夜叉。この家を見上げていたら、前島に黒塗りの車に乗せられたのを、夜叉は窓から見ていたのか。
あの時の不快な記憶が蘇った。「僕はあの男は嫌いだ。威圧的で、人を見下して…」
本永が「警察の人間てみんなそうなんだろう? 夜叉も俺も結構上から目線だけどな?」と宥めようと冗談ぽくした。
しかし瑞生は込み上げる不快感を抑えられなかった。「あいつは僕を疑ってるってはっきり言ったんだ。僕が両親を殺すために放火したって!」
瑞生は怒りが爆発して荒い息遣いをしていたので、すぐには気づかなかったが、その場にいた者は凍りついたように固まっていた。
「そうではないからここにいるのでしょう?」とクマちゃんが声を出した途端、魔法が解けたように皆動き出した。本永は力が抜けたように椅子に座った。門根も大袈裟にブーツの足を組む。
「もちろんだよ。入院先に警察官が来て聴取をしたけど、僕はその時学校にいた。アリバイは立証されてるって言われた」
「その時火傷をしたって言ってたよな…?」本永は元気のない声で確認してきた。
「そうだよ。家が火事だと知ってお父さんを助けようと野次馬を掻き分け進んでる時に爆風で飛ばされた。僕は病院のベッドの上で、両親が死んだことも、出火元が母と愛人の家だったことも聞かされた。警察官に聴かれたのは主に母と愛人の事だった。両親はようやく離婚が成立して、これで母から解放されてお父さんと二人でやり直せるはずだった。今みたいな金持ち学校じゃなくて定時制だけど、僕は楽しみにしてた。やっと他人になれたのに、なんで殺す必要があるんだ。ましてお父さんを巻き込むなんて、絶対ありえない」
「愛人宅って、すぐ近くなのか?」とキリノ。
「うちの二軒先の裏」
「じゃ、ないな。延焼する可能性を考えると近所に自宅があれば、まず放火はしない」何故かほっとしたように門根が言う。
「じゃ何で前島はお前を疑うなんて言ったんだ? 言いがかりにも程があるだろ」と本永。
俯くと自分の足先が見えた。四月に買ってもらったスニーカーが新品にしか見えないのは、歩行範囲の全ての道が綺麗な上に、水溜まりに浸けられたりゴミ箱に隠されたりしたことがないからだ。
つい自分の気持ちに負けて口走ってしまったのが悪いんだ。これから先、事実を小出しにして疑念を抱かれるより、はっきり曝け出してしまった方がまだマシだ。
「僕には母を殺したいと思う理由があった。…虐待された。何度も殺されかけた。でも、信じてくれるかな。母を殺したいと思ったことは今までで一度きり。母のせいでお父さんが死んだと聞いた時だ。いつかぶん殴りたいとは思ってたけど、殺したいと思ったことはなかった。…でも前島はもっと酷いことを言った。僕が貧乏生活から脱出して裕福な伯母の元に行くために、両親を殺したんじゃないかって…」
「いやらしい。勘ぐれば捻り出せない説ではないけど、根拠はないのでしょ? 目撃証言とか時限発火装置があったとか」
「そんなのないよ。母と愛人の喧嘩を止めに入った近所の人と揉めて天ぷら鍋をひっくり返したのが火事の原因だよ。皆死んでしまったから最終的には誰がひっくり返したのか特定できなかった。それに僕は葬式の日に生まれて初めて伯母という存在を知った。父方の親戚なんて話を聞いたことすらなかった。何にしたって金のためにお父さんを殺すなんて、お父さんが何より大切なのに、ちぐはぐじゃないか」
「そりゃ、嫌な奴だな」と夜叉。「クマちゃんにロハス女の話を教えてくれたのは向こうから?」
クマちゃんは真っ赤な唇をへの字に曲げて頷いた。そして鞄から薄いクリアファイルを出した。
門根もキリノですら見ようと近づいた。「これはロハス女の家だな?」
「あ」皆の手が止まった。「八重樫瑞生(火浦瑞生)の調査報告」本永が声を出して読んだ。瑞生より先に腹を立て、憮然と「なんで、こんなのクマちゃんに渡すんだよ」。
「俺たちの中にさざ波が立つように、仕込んでるな」キリノが呟いた。誰もファイルに手を伸ばさない。
門根は「黒金さんが芸能事務所専属の弁護士だから、軽く見たのかもな。軽い奴なら瑞生のプロフィールを見て何か言ったり、下手すりゃ皆で回し読みだ。周囲に疑惑の目で見られて瑞生の居場所が無くなるようにする魂胆か? 黒金さんが賢明だから、読みが外れたな」と真面目に言う。
門根はチャラくない時はいい奴かもしれない。少なくともクマちゃんのこと尊敬してる点は評価できる。いつの間にか“瑞生”と呼び捨てしているけど。
「クマちゃんは瑞生のファイルを読んだの?」夜叉の問いにクマちゃんはきっぱりと頷いた。
「親子鑑定の根回しで元夫人たちの下種な弁護士とやりあってる最中に、『夜叉が愛人を連れ込んでる』って正直ショックだったのよ。夜叉に取り入った子がどんな海千山千の性悪か調べる時間がなかったから、知りたかったし。瑞生君、見てみて。どこに前島さんの作為があるか、読み解いてみましょう」
瑞生は黙って受け取り、読んでいった。他の者はロハスの書類を見て待っていた。瑞生の人生はまだ一五年だからそう時間はかからない。
瑞生の目は定時制高校の入学予定者名簿のコピーの上で止まっていた。
「何だよ」本永が突っ込む。
「僕はお父さんに念を押したんだ。入学式では“笹宮”になってるよね?と。でも“火浦”のままだ。伯母さんに苗字を変える手続きは簡単には出来ないから薫風学園では納得していたけど、考えたら何故定時制の手続きが火浦のままだったのかなぁと…」
「八重樫で入学してるんじゃないのか?」
「ああ、八重樫は通称なんだ。学校側から提案があって。火災が“火浦”だと検索されるから、高校三年間は“八重樫”で通った方がいいのじゃないか、と」
「それ、そんなに深刻なのか?」と門根が聞いた。「今は八重樫で通学してて、検索もされないからめでたしめでたしなんだろ?」
「…お父さんは僕の望みを適当にあしらったりしない。ダメならダメで必ず理由を説明してくれた。何故なのだろうなって改めて思う。…ともかく不審なことは何もない、正しい調査書だよ。僕の母のクレイジーな歴史と言うべきかもしれないけど」
「口では自虐的に言うしかないだろうけど、心の中まで自虐しないでいいんだよ」キリノがぽつんと言った。
まだ打ち解けて話したことのないキリノの言葉に、瑞生はぽかんと口を開けて見上げた。キリノは俯いて目を合わせてはくれなかったが、キリノを見つめる夜叉と目が合った。
「名前のことは聞いておいた方がいい」突然サニが話したので、皆驚いた。「ミズオ、お父さんが名前を変えなかったのには、きっと理由がある」
「そういえば、サニって…」本永が言いかけると、珍しく夜叉が割って入った。「サニと呼び始めたのはどうも俺らしいんだ。よく覚えてないんだけどな」それで名前の話は終わってしまった。
【 六月一三日 その二に続く 】




