⑪-2 動く腕
瑞生の家で食事をすることになったキューバ人医師サニと夜叉の弁護士クマちゃん。サニはある物を持っていました…。
【 二〇一五年六月一二日 後篇 】
午後七時三〇分、黒塗りの車が夜叉邸を出て、八重樫家へと向かった。
珍しい訪問者を出迎えた伯母は、その多岐に渡る面々に言葉を失った。サニとクマちゃんと本永は伯母の美貌に息を呑んだ。
「お綺麗ね~」クマちゃんは感嘆の声を漏らした。「ビューティフルッ ミズオのお母さん、美人。タイヘンウツクシイ」とサニ。本永も「すっげ~。八重樫の血筋は凄いな。うちの親とは大違いだ」。
「そんな、本永のお母さん、優しそうだったよ」
「甘いな八重樫。人間結局は見た目だ。そういう本があったろ?」
そして手放しの絶賛に困惑しつつ喜んで立ち尽くしている伯母の周囲をいつまでも三人が観賞するという光景に、「馬鹿らしいから、早く入りなよ」瑞生はイラッと来て皆を促した。
それから小一時間は和やかで楽しい夕食となった。美味しいのはいつものことだけど、この家で楽しい食事と言うのは初めてだ。最初で最後かもしれないけど。
サニとクマちゃんで伯母を挟んで座り、舌鼓を打ちながら食材や作り方をあれこれ質問していた。本永は大喜びでガンガン食べていたので、伯母は嬉しそうだった。
「凄い食欲ねぇ。瑞生は男の子にしては少食だったのね。うちには基準になる人がいないからわからなかったわ…」
「ご心配には及びませんよ。この金髪パンクが化け物みたいに食べてるだけです。瑞生君くらいお上品に食べる方がいいに決まってます」クマちゃんは本永に若干キレ気味だ。
瑞生は、女性を好きになっては相手の家に転がり込むというサニが、伯母の手を握ったりはしないかと、気が気ではなかった。伯父の宗太郎が見たら、たとえ手を握らなくてもウルトラ不機嫌になるのが目に浮かぶ光景だ。
宗太郎が見たら…見たら? なんだっけ、前にタブレットの説明をしてくれた時、『ここに居ながら、二階の洗濯機の予約も玄関の訪問者とも話せる』とか…。結婚前、二階の曽我さんと話したり、メイドの働きをチェックしていただろう。それなら結婚後は? 美しい妻が浮気していないか、あの伯父が疑いもしないという方が疑わしい。八分割された画面をチェックする伯母の指が止まったのは、伯父の監視が暗に語られた時ではなかったか?
それなら今は? この五人の楽しい夕げを病院のベッドの上で見ているのでは? 瑞生は手を止めて考え込んだ。デザートは買い置きのアイスクリームだった。冷凍庫に格納されている高級アイスの列を見た時、アイスに“買い置き”があると知り、瑞生は驚愕したのだった。
サニのキューバの路上アイス屋の話を聞きながら、突如瑞生の背中を冷や汗が流れた。この前こっそり伯母の部屋を探ったところを見られた可能性がある! せっかく本永とのじゃんけんに勝って手にしたキウイのアイスは全く味わう余裕なく舌の上で溶けた。
ふと、会話が途切れた。寄せ集めのメンバーでの会話は、弾んでいてもネタ切れを起こすと水を打ったように静まり返る事がある。クマちゃんとサニが目でコンタクトを取っていることに気づいた。しかし気づいたのは瑞生だけではなかった。
伯母は席を立ち、クマちゃんを化粧室に案内していった。残された男二人は満腹の腹を擦りながらお気楽トークをしている。
二階で物音がしたので瑞生は「本永、英語教えてくれるんだろ? 徹夜も辞さない覚悟でやるって言ったよね」と本永を二階の自室に誘った。結局瑞生の部屋でお茶を飲むことになった。
バタバタとデスク周りに椅子を配置した。本永は村の侵入者の捕り物帳を聞きたがった時のように目が輝いている。瑞生は英語ヒアリング教材のCDをかけた。“ボビーとケイコの英会話”が始まる。
サニはポケットからUSBメモリーを取り出した。「キューバの疾病センターからノートパソコンを支給されているのだけど、党の目的は監視だ。帰国後に回収されて履歴や使用内容を徹底的にチェックされるんだ。だから僕のノートでは見ることが出来ない。セキュリテイソフトが導入されているならミズオのパソコンで開けさせてほしい。お願いだ」
メモリーを持ったまま日本式に頭を下げたサニに、瑞生は顔を近づけた。「ウィルスバスターは入っているから大丈夫だけど。伯父さんのカメラが撮ってるかもしれない…」
クマちゃんも頭を寄せた。「伯母様は結婚後すぐにカメラを発見し叩き壊したそうよ。強烈なメッセージは伯父様に通じたらしい。瑞生君入居前にこの部屋のも破壊したと言っていたわ」
パソコンが立ち上がり、サニがUSBメモリーを差し込もうとして、手が震えて何度もやり直すのを皆黙って見ていた。
瑞生もこっそり震えていた。この部屋が今までもこれからも伯父の監視から守られているのは実に嬉しい。でも何より伯母の部屋に侵入したことがばれていないとわかって本当にホッとした。変な話だけど被害者である伯母に感謝しなくては。
画面に出てきたのは、経理の帳簿のようだ。そのうち瑞生にもわかるような表題が出てきた。『有資格者を籠絡するテク二〇一五年版』『出し子マニュアル』『投資セミナー』…。
横に座る本永がビクンとして貧乏揺すりを始めた。久しぶりだと感動している場合ではない。“セミナー”って言葉が出てくるけど、まるで詐欺のお金の流れみたいだ…。何故キューバ人のサニが持ってきたメモリーに、日本の詐欺記録が?
サニは日本的すぎる内容を理解できないのか、ただ黙って画面を見ている。
膨大な資料も尽きたらしく画面が真っ黒になった。サニはメモリーを取り出し、別の物を差し込んだ。画面が明るくなった。
光を放つ画面に引き寄せられて見入ると、そこは砂浜、波音のする海岸の明るい青空と白い砂浜だった。でも動画を撮っている人物は心乱れているようで、荒い息遣いとぶれる画面が息苦しい。足元が映ったり急に方向転換したり、何かを探しながら撮っているのだ。
突如駆け出した。何か外国語で叫んでいる。瑞生にはその声がサニのものであるように思われた。
「!」クマちゃんが息を呑み、本永が「ぐっ」と引き攣った。駆け寄った人物が映し出したのは、砂浜に転がる右腕だった。半袖シャツがちぎれた腕の付け根を隠しているが、繋がるべき胴体は見当たらない。
腕が映し出された。手首に女物の腕時計をしているが、どう見ても男の腕だ。「~~」涙声で何か言う人物が、手袋をはめた手で転がる腕に手を伸ばしたところ、腕が蒼くぼんやりと光を帯びてきた。
「これって」クマちゃんは呟けたが、瑞生も本永も声すら出せずに口を開けたままだった。
見る間に腕は全体がほの蒼く輝きだして、やがて微かに動いた。「~?」撮影している人物は夢中になってスマホを落としたらしい。幸いにもスマホは落ちて砂浜に刺さり、画面がやや斜めになったものの撮影はそのまま続けられている。
「わかる? ヤオーマ。僕、わかる? ハビエルだよ。ヤオーマ。ああ、君の頭や体はどこなんだ?」悲痛な声で日本語を話すのは、やはりサニだ。ハビエルと名乗ったサニは更に腕以外の体を探した。が再び戻ってきて蒼く光る腕に、跪いて報告した。「だめだ、ヤオーマ。ごめんよ、君の頭を見つけられない…」するとちぎれた蒼い腕の指先が動いた。夜叉の指よりずっと細く見える。
ちぎれた腕の蒼い指は、指示を出すように人差し指を伸ばして、何度も空を切る。「何? ヤオーマ、何?」取り乱したサニが繰り返し訊くが、指は答えようがない。ここでサニが気づく。「指で字を書くの? もしかして…」手袋を嵌めた手で、腕をそっと持ち上げるとひっくり返して、砂に字が書けるようにしてやった。
果たして掌で砂を感じると、手は喜んだように指を広げて砂を平らにし、人差し指で砂地に字を書き始めた。目があるわけではないので、自分の感覚のみで書いているのだろう。字間の空いた頼りない文字だった。
『hana33?87?1』
「ヤオーマ、これ意味なに?」
サニことハビエルの問いを無視して、指は続ける。
ぼくは あおやま はると
いもう との まゆり を しに おいやった せきはら きいちを けし てゆる さ な
「ヤオーマ! 死んじゃダメ しっかりして!」サニの声が悲鳴に近くなる。腕も指も痙攣しているだけで、もう文字を書くことが出来ないようだ。やがて腕は動かなくなり、蒼白くぼんやり光るだけになった。
サニは座り込んで声をかけていたが、諦めて腕を持っていた箱に入れた。
映像はここで終わった。
瑞生は呆然とサニを見た。他の二人もそうだ。しかしサニは再びメモリーを入れ替えた。
先程の続きの真っ黒な画面にはこう表示されていた。
『パスワードを入力してください』
サニが震える指で打ち込む。『hana33?87?1』
反応があった。また別の映像が始まった。
今度のものは明らかに室内の隠し撮り映像で、一面ガラス張りの高層階、洒落たオフィスのようだ。
スーツ姿の若くて押しの強そうな男が白い歯を見せて笑った。
「紹介されたのが君で正直驚いてる。帝大でゼミを競り合った君が、ゴールドプリースト証券でヘマして日本に逃げ帰ったとは聞いていた。その後闇の金儲けで成功していたとは。派遣社員の身分を隠れ蓑にして、粉飾決算や裏帳簿のアドバイザーをやる傍らセミナー詐欺を運用させているとはね」
「全くよく考えたよ。税理士の資格を取って登録すれば“士”としての倫理や義務が生じるが、君は大企業の監査も出来るほどの知識を持ちながら無資格だ。何にも縛られない。その知識をどんな企業のために使おうと、何にも抵触しない」座ったまま身振りで椅子を勧める。示された椅子に座したのは細身の黒いスーツを着た男だ。カメラの位置からは後ろ姿しか映らない。
「知っての通り、僕の妻の父は県議会議員だが、二〇一六年の夏の参院選に打って出ようとしている。空いた県議の椅子には僕が座ろうと思う。必要なのは資金と賢い参謀だ。地方は相変わらず不況で資金さえあれば義父の後釜に納まれる。義父には器用な友達がいて人物の過去をそっくり別のものに換えることが出来るんだ。手始めに君のグループの稼ぎを一塊運用して、キレイな金を捻出してくれ。選挙が近くなれば身近で手伝ってもらうと思うが、その前に妻の従妹と結婚して姻戚関係になるのはどうだ? 金をすぐ動かせないなら、婚姻届でこの話の覚悟を証明しろ。魅力的だろう? 名実ともに陽の当たる生活を送れるんだ。堂々と帝大卒を口にできる時がまた来たんだよ」
陰の男は黒縁眼鏡のフレームを上げて肩を竦めた。「俺に選挙参謀は無理だ。経験がない」
「大丈夫だよ。選挙は金がすべてだ」
「オオハシ、選挙前に奥さんの苗字にするのか? サカガミショウゾウの後継者、サカガミキョウタロウって」
「いや、後援会の年寄りどもに下に見られるのはごめんだ。セキハラ、この話受けるだろ? 嫁の従妹、派手さはないけどまあ普通の女だよ。芯の強そうな顔してる。人生のリセットに賭けてみるだろ?」
この後オオハシがセキハラに期限を切って回答を求め、セキハラが鞄を手にすると同時に映像が揺れて終わる。
「これは…検索して出たまんまだとすると坂上逍造と言う県議は来年の参議院選に立候補する予定で、娘婿の大橋京太郎は県議に立候補するのに、セキハラと言う男が詐欺で得た資金を運用させて当選するつもりでいる…という証拠よね? 本物なら。サニ? それともハビエル?」クマちゃんが促す。
サニは「僕はこれを託された。ヤオーマは多分この瞬間のために生きていた。だから彼の腕は…動いたんだ」と悲しそうな顔をした。「ヤオーマはキューバ人のために働いてくれた。短い間だったけど…」
瑞生はスマホで調べた。夜叉と同じ航空機事故で命を落とした日本人が青山陽斗だ。「サニは青山って人と友達だったんだね」瑞生の言葉にサニは小さく頷いた。
本永は「悪いんだけど、この腕が青山って人のだと証明できるんですか? 伊勢志摩あたりのきれいな海で撮ったおふざけ動画じゃないって証明できるんですか?」と緊張を緩めない。
クマちゃんも冷静だ。「そうね。色々解決しないと信用していいか判断できないわね。夜叉は私に『サニを助けてあげてくれ』と言った。サニがいたずら動画を見せたとは思わないけれど、青山さんが命を賭して主張しても勘違いだったり、精神を病んでの言いがかりならば、これは公表出来ない。見たところ、選挙や暴力団やお金の話のようだから。至急、調べるわ」と荷物をまとめ始めた。
クマちゃんにコピーを取る間、本永は「もう一度見たい。映像に不自然なところがないか検証してみよう」と張り切っている。
「すぐにメモリーを公表しなかったのは、夜叉に止められたから?」精力的に動く皆の流れから取り残された瑞生は、することのないサニに訊ねた。
サニは頷いた。「僕には日本の事情が分からない。本当はすぐに公表する方がインパクトがあるし、遺族に喜んでもらえると思った。でもヤシャが止めた。ようやくクマちゃんが現われて、ミズオの家にも来られて、本当によかった」
「もしかして、これを見る場所が必要だから、僕を話し相手に望んだの? 部外者を仲間にして家を利用するために?」
サニは反射的に小さく叫んだ。「ノー! ミズオ、それは違う。ヤシャは歩いて来ては窓を見上げる君に興味を持った。『あいつ今日も来た』って嬉しそうに。『ゾンビの家にカメラも持たずに来るなんて、変な奴だな』って。僕とは無関係だよ。君があの家に来るようになってから、ヤオーマのメモリーを見せてもらえるといいなと、僕が勝手に考えたんだ。ヤシャを誤解しないでほしい」
映像を見直していた本永がディスプレイを指しながら言った。「人物の動きで特に不自然な点はないな。マニアックな画像解析スキルを持っているわけじゃないけど」
瑞生は「セキハラが裏社会なら青山って人も?」とサニに訊いた。
サニは暗い顔をした。「五月初めに日本の大臣や日本企業の団体がやってきてカストロ議長と会談していた。日本人にとってキューバはビジネスチャンスに満ちて見えるのかな。…それはともかく、キューバの不動産取引は自由ではない。土地は国の物だ。国営企業が主体の合弁会社に出資を募り、観光客向きのカサ・パルティクラル…民泊宿にしてキューバ人も手数料を稼いでいる。そういうのかと思ったら…ヤオーマは、詐欺の準備をしに来たと言った」
「でもサニはさっき青山はキューバ人のために働いてたと言ったよ?」
「うん。『こんな遠くの国に来てまで悪事を働く義務なんてないさ』って。『中国マフィアが北の国の労働者にやらせる工事は悪質なものが多い。基準を無視した素材と工法で環境汚染を引き起こす。工事でチェックすべき箇所は…』と教えてくれた。お蔭で有害物質で壁を塗られるのを防げたし、排水設備の嘘も暴けた。皆感謝してた」
「そのいい人が腹の中では『妹を死に追いやったセキハラを許さない』と思ってたわけか。一体何なんだ?」本永も加わる。
クマちゃんは逞しい腕に着けているえらく華奢な腕時計を見て「キリノが着くまでに戻らなきゃ」と腰を上げた。
すかさず本永が「俺たちに出来ることないですか? キリノが来た時に夜叉の家に居てはマズイですか?」と食い下がった。
クマちゃんはカラカラと笑った後にこう言った。
「解散から一〇年、二人の再会は二人だけにしてあげたいの。それに一度スクープ対象になった人間に世間は甘くない。あなたの夜間外出は『やはり愛人』『素行不良』なんてコメントを付けて投稿される可能性大でしょ? 『君子危うきに近寄らず』、予定通りにまた明日来てね」
二人で組み立てた簡易ベッドに寝転がり、本永は瑞生の部屋の天井を見ていた。瑞生は自分のベッドに寝ている。
「本永、僕が夜中にうなされても叫んでも気にしないで。少なくとも君のせいじゃないから」
「お互い様だ。俺を心配して近寄ってくるなよ。投げ飛ばすかもしれないからな」
「…慌ただしくて、すっかり忘れてた。こんな村まで無理して来てくれてありがとう…」
「おお、俺も忘れてたよ。…今思えば、よく来たな。引き籠ってたのにな。学校から逃げてることで、俺はお前に負い目を感じてた。今日ウェブでお前が晒し者になった時、これ以上追い詰められたらお前がどうなるかと思うと心配で、ともかく駆け出してたんだ」
瑞生は感情の動かない金属のような自分の心に気づいた。
「追い詰められたらどうなると思った? 自殺するとか?」
「う~ん、その心配はしてなかった。どっちかっていうと…事件的な何かだな」
「例えば? 通り魔とか、爆発物の製作とか?」笑い話になるようにおどけて言った。
「う~ん、本人にそう言われると言いにくいな。その…交番の警察官を襲い拳銃を入手して乱射するような、激烈なことだな」
横たわったまま、本永と目が合った。「そうきたか」瑞生は呟きながら、向きを戻した。「それって、どっちかというと本永的な事件だね」
「おお?」天井を仰いで本永が一瞬動きを止める。「…そうか。気付かなかった。じゃ、お前的なのはどんなのだ?」
「僕は体も大きくないし、あまり人を襲うのに向いた資質ではないと思う。でも何かやるなら…周到に周到に準備して、この村にフィットした事件を起こすな。家族全滅作戦だ。ある日、西の端の三世帯が自宅内で殺されてる。毒殺や練炭、ガス…。この村は気取っていても優しくないから、きっと何日も気づかれない。それから半年くらいして今度は東の四世帯が…」
「おい、怖いからやめろ」




