表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/32

⑩ 晒された個人情報・最強弁護士登場!

夜叉は指を失ったにもかかわらず音楽活動に傾倒していきます。一方、セレブ村の中で遂にメディアに情報を売り渡す輩が現われて…。

【 二〇一五年六月一二日 前篇 】


 夜叉のことが気になって、飛ぶように帰宅した。瑞生の気迫が周囲に通じたか、今日はクラスメイトも話しかけてこなかったし、鏑木とも遭遇しなかった。残念なことに立和名とも。


 約束の四時まで机に向かい、ふと、何のために勉強しているのかと思った。

本永や外様といられるのが嬉しくて必死にやっていたけど、二人とも一緒にいてくれないじゃないか。自分のためとは言うものの今は虚しく思える。それより、死にかかっている夜叉のためにもっと夜遅くまでいてあげたら、夜叉は喜ぶのじゃないか?

 腰を浮かせかけた。 ポーン。

 あのドの音が聞こえた。

慌てて部屋の中を見回すが、音を発する物など何もない。でも、頭の中で蘇ったにしては鮮明に聞こえた。


「そうか、曲だ。夜叉は、曲を作りたいんだ」

座り直して、考えをまとめた。

 夜叉はピアノを弾いて、指を負傷した。利き手の親指が潰れたのに、夜叉にとって指は二の次だった。多分夜叉は音と戯れたかったんだ。それなのに、指はなくなり、どんどん人が来ては騒ぐ…、邪魔されずに曲作りをしたくて怒ってたんだ。

急遽呼ばれた門根が夜叉のために曲作りができるソフトとかを起動させてあげたのに違いない。あの家にいるのはゾンビと医者と警察官だけだったから。

 それで、あのドなのか。


 「じゃ、手伝えることなんて、ないな」

恥ずかしながら、レはドの隣だよな、と考えないとレには辿りつけないレベルの弾き手なのだ。。

瑞生は再び問題集に手を伸ばした。



 瑞生を迎え入れたのは、サニだった。いつも通りの身支度をする時に、藁科も森山も来ていると知って驚いた。しかも、雰囲気は相当悪い。

 「あれ?夜叉は?」

いつもの部屋に夜叉はいなかった。サニが「籠ってる」と言って、小部屋のスタジオを示した。

瑞生の思った通り、夜叉は曲作りに没頭しているらしい。推測が当たって嬉しいような、手の届かない音楽の世界に行かれてしまって寂しいような、妙な虚無感が胸に広がってきた。


「じゃ、呼ばなきゃいいのに」

自分の言い方が口惜しそうに聞こえた。仕方なしにサニの向かい側に座ると、珍しく他人に対して興味が湧いてきた。「サニは日本食食べられるの? キューバの食事とは全然違うんでしょ?」

サニは立ち上がってお茶の用意をしてくれた。サニの動きは常に静かで、動物的しなやかさを感じる。目線で、飾り棚の上に設置されたカラスみたいなカメラを教えてくれた。

 「この家でしか食べたことないから、あれを日本食と言うのか、よくわからない。モリヤマくんとワラシナさんと同じ箱に入った物を食べてる」

「え? そうなの? きっと家に黴菌を入れないような衛生的な弁当なんだろうね…」

サニが気の毒になった。主賓が食べないのだから、お付きの医師陣の食事を豪華にしようとは誰も思わないのだろう。この屋敷で食べ物のいい匂いが漂っていたためしがない。

ふと、瑞生の脳裏に伯母の手料理が浮かんだ。伯母の作る食事を食べるようになって、“美味しい”という言葉を体感した気がする。 


 思えば、ありとあらゆる食のシーンでお父さんが『違うんだよなぁ』という顔をしていた理由はこれだったのではないか。母の作る何でもとどめはケチャップ料理が瑞生は大嫌いだった。もちろんお父さんも。だから可能な限り作ってくれていた。瑞生はそれで美味しいと思っていたのだが、お父さんは『違う』顔をしていたのだ。

サニに美味しい思いをさせてあげたくて、家に誘う言葉が喉まで出かかったが、カメラの存在をアピールされたばかりなので思いとどまった。

代わりにこう頼んでみた。「サニ、僕にピアノを教えてくれない? 夜叉は僕に弾かせたがってたでしょう?」と。これなら、一階で聞いている藁科たちも変だとは思わないだろう。夜叉の我儘を叶えるためなのだから。

 サニと二人で、隣のグランドピアノのある部屋に行った。瑞生の読みでは、ここは夜叉の音楽のための部屋で、(本人は隅に設けられたスタジオに籠っているが)夜叉の音楽活動は著作権が絡むので、勝手に録画・録音・盗聴することは禁じられているはずだ。


 サニは軽く弾いた。瑞生には聴き覚えのない曲だった。

「知らない? 有名なサルサだよ。ああ、君には『星に願いを』とかがいいのかな…」

「願っても、叶わないじゃない。それなら願わない方がマシだよ」

「ミズオ、死んだ人は戻らない。君の願いは、間違っている」サニは鍵盤から手を放して、瑞生の顔の前に人差し指を突き出した。「例えば、トックガワ・イヤヤスに会いたいと願っても、叶わないでしょ? それは当たり前、願いが間違ってる」

「それ、徳川家康のこと? そりゃそうだよ。昔の人だもの」

「ノー、ミズオ、君もそう変わらない。江戸の人も君のお父さんも。死んでるのは一緒」

「そんな! それは…そう、かもしれないけど…」

「そう。ミズオ。自分で叶えるものを願うのが願い」


 数日前に知り合ったキューバ人に、叶うはずのない“願い”を見抜かれるなんて思ってもみなかった。

 サニがどいた後にどかっと座り、ピアノに向かった。鍵盤を見ると、自分が昨日したかったことを思い出した。三本の指でそぉっと“和音”に挑戦した。

柔らかい三音が部屋に広がった。和音だ。

ピアノ椅子に座ったまま、瑞生は天井を仰ぎ見た。音が見えるわけではないのだが。そして気づいた。後ろに立つサニに、「サニはここで夜叉とピアノを弾いたりしてたの?」と訊いた。

「いや。一昨日ヤシャは突然弾いて一音目でああなったんだ。それまで曲を聴いたことも、音楽の話をしたこともなかった。…まさに音楽の神が降りてきたんだね」

 今の返答で、確信した。俯いて鍵盤を見ながら言った。

「サニは航空機事故の前から、夜叉と知り合いだったんだね?」

サニは眉間に皺を寄せて答えない。


 ガチャ、突然スタジオのドアが開いて、夜叉が出てきた。秘密めいた話の最中だったから、それだけでびっくりだったのに、夜叉の蒼さが薄れふらりふらり歩いている姿に驚かされた。

それに座った時の音や存在感の変化。歩く古い毛布みたいだ…。

 サニは医療用手袋を素早く身につけて、気遣わしげに夜叉の首や目の状態を調べて、「ちょっと休もう。ここから出ると、モリヤマさんたちがほっておいてはくれないけど、仕方がないよ」と言った。

 身体の色褪せた感じと真逆に情熱がほとばしる目力が発散されていて、瑞生は釘付けになってしまった。

 

 すぐに森山たちが聴診器やらカメラやらを持ってやってきた。サニと森山は夜叉を撮影して、タブレットを覗き込む。

「毎日皮膚の色を比較して、一平方センチメートル当たりのウィルスの分布数を推測するんだ」

 

 「森山」夜叉が蚊の鳴くような声で言った。「門根を呼んで」

森山は一瞬動きを止めた。けどすぐ「あーはい」と言いながら出て行った。



 二時間後に門根が来た。東京から約九〇KMもの道中、おそらく地球温暖化に貢献する程の排気音と排気ガスを撒き散らしながら。


 「なんだよ、もう曲ができたのか? たった一日でなんて、昔みたいだな、おい」

今日の門根は、紫色のパンツと白いシャツに鳥の羽の付いた変な帽子を被っていた。シャツにはキラキラのウロコが張り付いている。もうこの村の上品さに合わせる気は無いようだ。

「ジェームズ・ブラウンのステージ衣装みたいだなぁ」森山の呟きは他の誰にも通じなかった。


夜叉は傍にきた門根に、「キリノに連絡を取って」と言った。

門根はチャラっぽい動きを止めて、改めて夜叉を見た。「具合悪いのか」

 ドサンと夜叉近くの革張りの椅子に腰を下ろし、しばらく思案していた門根は、おもむろに「キリノには連絡を取るよ。『夜叉が会いたがってる』でいいな? 俺の方には『お前に会いたい』って連絡が来てる…、元夫人連中から」言葉を切って夜叉の顔色を窺う。

「…と子供たちも」


 夜叉に子供がいるとは、聞いたような聞かないような…。瑞生も思わず夜叉の表情を見ようと首を伸ばした。

 ところが夜叉は全く構わない様子だった。「自称、俺の子だろ。今まで会ったことないし、会いたいと言われたこともない。遺産分割の取り決めなら女どもで十分だろうが」 

小声で言うには随分込み入った話だ。瑞生は夜叉がただのカリスマではなく、非常に問題の多いカリスマなのだと、思い出した。


夜叉は続けて、「俺は今独り者で、あの女どもとは正式に離婚して慰謝料も支払った。養育費もお前らスタッフがネコババしてなきゃ払い込まれてるはずだろ? この上俺の遺産の取り分を主張するってのはずうずうしいだろ。いいか、第一に『俺のこの家に入れる人間を決めるのは俺だ』、第二に『親子鑑定を請求する。DNA鑑定で俺の子だと証明してみせろ。証明できないなら支払った養育費の返還を求めるし、本当の父親に損害賠償を請求してやる』と連中に伝えろ。この件でクマちゃんも呼んで」と指示した。

門根は電話を掛けながら出て行った。


 部屋に沈黙が戻った。負のオーラを醸し出している藁科が部屋全体をガン見していて、話しの弾む雰囲気ではなかった。

 瑞生のポケットのスマホが振動した。もしかして伯父の具合でも…? 不穏な思いつきに慌てたので、表示された発信元の番号を見もせずに通話に出た。「もしもし?」

:おお、その声は八重樫か?:

全く、思いもよらない相手の声だったので、思わず椅子から立ち上がった。「も、も、本永?」

:おお。お前、大丈夫か?:

「大丈夫かって、学校来ないのは本永の方じゃないか。僕は…」

情けないことに、感極まってしまった。本永の声だ。聞きたかったよ、その声を。

:俺は元気だよ、大体のところは。それよりお前だよ。大丈夫なのか?:

「大丈夫だよ。学校行ってるからね、一人で。バスに乗って」

:…やっぱり知らないんだな。そこの金持ち村の誰かがネタを売ったらしいぞ。『夜叉邸に通う美少年、夜叉最期の愛人か?』って、スクープ誌が明日発売の中吊り広告に出したのがウエブに出てるから明日には朝のワイドショーでガンガンやられるぞ:

「え?ウェブ?スクープ?」

瑞生は固まってしまったが、森山の動きは早かった。

「酷いな、目だけ隠して犯罪者みたいじゃないか。肖像権の侵害だ」

森山から差し出されたタブレットには、デカい文字が躍っていた。

『コスモスミライ村に幽閉されても夜叉は夜叉? 夜叉邸に通う美少年を激写!』


:おい、八重樫聞いてるか? 見たか?:本永の声に我に返った。

「うん。今見た…学校行けるかな…明日」

:学校の心配なんかしてどうなる。…というか、明日はテスト前の土曜日だから学校ないだろ:

意外なことに本永は学校の予定をしっかり把握していた。瑞生の方がすっかり忘れていて、明日登校するところだった。

「よくわかってるじゃん。来ないくせに」子供みたいな拗ねた口調になった。

:おお、若干強気になってるじゃないか。俺はテストには行く。単位は落とさない:

「ふーん。…そう、じゃ月曜日に」


 通話の切れた手の中のスマホを見ていると、皆の視線を感じた。瑞生にしてみれば大人の顔色は見定めやすいから、大して気にする必要はない。気になるのは夜叉だけだ。夜叉は、森山のタブレットを見ていた。

「お前が、俺の最期の愛人か」ふっと息を吐いた。

 ポーン

頭の中で、ドの音が聞こえた。夜叉は話し相手を求めた。それは伝えたいことがあるからだ。一体何をだろう。何故自分なのだろう。


 門根が戻ってきた。「やられたな。ま、セレブ村も一枚岩じゃないってことさ。瑞生、家の人は? うちの弁護士でいいか? いやお宅の実業家は子飼いの弁護士じゃないと了承しなそうだな。考えてみたらうちとは利益が相反することも考えうるから、別がいいな。家の人に連絡は?」

「弁護士ってなんで? さっきの肖像権?」

「ああ、未成年の人権侵害かな? …見ろよ、拡散してる。『夜叉の隠し子なんじゃないか?』だと」その場で誰かに電話し始めた。「ネットで未成年の写真が拡散してるの止められますか? 夜叉をこの村に押し込んだ連中に『感謝を示せ』ってかましてもいいそうです」

 「門根、クマちゃんに今の隠し子話を利用して、元妻どもにDNA鑑定を承知させろ、と伝えて」

「呆れた。あんた、ゾンビでもやっぱり夜叉だな。どうした。本当の子供だけに相続させたいとか、出てきたのか、気持ちに」ちょっと不思議そうな口調で門根が聞いた。夜叉は返事をしない。


 またポケットのスマホがブルった。ナーバスになった矢先だったので瑞生は飛び上がって驚いた。伯母からだった。

:宗太…伯父さんがね、退院するってきかないの。ウェブの記事を読んだものだから。先生方が説得して下さってるのだけど。もし退院したらその時あなたは家にいた方がいいから、そうなったら走って帰るつもりでね:

 誰に言うでもなく、「伯父さんが退院するって言ってるらしい。この記事を見たんだって」とがっくり椅子に腰を下ろした。

先の尖がったブーツを大きく組んだ足で揺らしていた門根が「そうだ!」と膝を打った。「瑞生の伯母さん、そこらのモデルよりよっぽど美人だろ? 下手すると不倫だの隠し子だの、そのためにここに家を買っただの、書き立てられるぞ。あの気難しい伯父さん、激怒するぞ!」


 瑞生は足が震えるのをぎゅっと手で押さえた。「伯父さんにあの家から追い出されたら、行くとこがない。だから、ここに来るのを禁じられたら従うしかない。あの人、伯母さんが浮気してたとか言われたら、どう反応するか想像もできない。怖いよ…」

瑞生の脳裏に、美しすぎる妻を見る伯父の姿が浮かんだ。


 チャイムと門根のスマホが鳴った。やがて、除菌スプレーを煙幕のように身に纏わりつかせてドタドタと現われたのは、ドラム缶のような立派な体格のおばさんだった。 

「あんたって、死ぬまで碌でもないことしかしないのね」汗を拭きながら真っ赤な唇を大きく開けて「ほんとに蒼くなって、夜叉ったら」と笑った。

 「クマちゃん」小さな声で夜叉が笑った。


 「早いな。黒金さん。その体重でそのフットワークの良さは驚異的ですね」言いながら門根が背筋を伸ばしているように見えた。

 クマちゃん、と呼ばれたおばさんは門根を一瞥して、それから瑞生に近づいてきてしげしげと見た。「ネットのガセはいくらでもあるけど…、夜叉の最期の愛人にふさわしい美少年だわ」それからサニに近づいて握手を求め、最後に夜叉の前に行った。

「本当に、ゾンビになっちゃったの? あんた蒼く光っててこの世のものじゃないみたいよ。元々この世のものとは思えない美貌だったけど」

夜叉は自分の一〇〇倍くらい質感のあるクマちゃんに驚くほど優しい笑顔を見せた。「会えて嬉しいよ。ゾンビでも一応生きてるうちにまた会えて。…ハグしたいけど、禁じられてるから勘弁ね」

 クマちゃんがどんな顔をしたのか、大きな背中しか見えないからわからなかった。ちょっとの間肩を震わせていたクマちゃんが振り向いて言った。

「会議を始めましょう」


 クマちゃんは、全員を名指しで着席させ、その場を取り仕切った。

「黒金真樹子です。夜叉とは中学で同級生だったの。職業は弁護士。The Axeの法務は私が担当してるわ。ここに来る途中、警察庁警備局警備課の前島さんから現在までの調査報告を受けたわ…」

 これには血相変えて藁科が噛み付いた。「冗談じゃない。私は派遣されただけの医師だ。ウィルス以外のゾンビの生前整理にこき使われるなんて、ごめんだ」

「別にあなたに頼んでないわよ。業務外と言うことなら、席を外してもらって丁度いいわ」口紅と同じくらい真っ赤な眼鏡のフレームを指で下げて藁科の顔を裸眼で見た。

藁科は怒り狂って部屋から出ていき、森山は暫く迷って椅子に座り直した。


 森山が「夜叉との関係を訊いてもいいですか?」と聞いた。

 クマちゃんは笑顔で答えた。「小学校も一緒だったんだけどクラスが違ってね。でも中学で同級生になって、よくもまぁ神様はこんな綺麗な少年を作ったものだ、と思ったわ。そしてあっという間に夢中になった。中一の春よ。私は夜叉にプロポーズしたわ。『結婚して。一生幸せにするから』って。その頃この人は中三のお姉さんと付き合ってる悪ガキだった。夜叉はこう言ったの。『悪いけど一生かかっても、クマちゃんのこと好きになるとは思えない。でも俺の役に立つ女になるなら一生友達でいてやるよ』って。私は考えたわ。その頃からこんな体型だったから、夜叉の愛を勝ち取るのは無理そうだな、やむを得まい、と。それなら夜叉の役に立つ女になって、一生傍をうろちょろすることを許してもらおう。友達でいようって。そこから猛勉強してストレートで弁護士になったわけ。案の定、この人ときたら弁護士が必要な事ばかりしでかして」

「あなたがついてたのに、借金とか、離婚とかしてばかりだったんですか?」思わず訊いてしまった。クマちゃんはキョトンとした後、爆笑した。「聞いてた通りね! さすが夜叉の眼鏡に適った子だわ。突っ込んでくるわね」

夜叉はくつろいだ笑顔を見せた。「だろ?」


「バンドがメジャーになる前は起こす問題もかわいいもので、私の意見も聞いてくれた。押しも押されもせぬビッグバンドになると四人はバラバラ、起こす問題も冗談抜きでキツイものになった。特に夜叉は、考えが浅はかで尻が軽くて経済観念がなさ過ぎた。ハニートラップに幾つ掛かったことやら。で、私もいい加減尻拭いに腹を立てて、あれこれ私生活に口を出した。いわゆる小言ババアね。夜叉は露骨に私を避けるようになって…その間に、口車に乗せられて保証人になるわ、詐欺に引っかかるわ。結婚して離婚して…そんなのばっかりよ。三人目の人と離婚した時、ついに泣きついて来て『クマちゃんの言う通りにするから、助けて』って。それ以降また仕事をしてるわけ。背負った借金は、自分で返してもらうしかないけどね」

 クマちゃんの話に聞き入っていると、夜叉がこちらを見ていた。「お前が、『法律を使って生きたい』と言った時、クマちゃんを思い出してさ。お前の思いつきとクマちゃんの人生かけた覚悟とじゃ比べものにならないだろ?」

夜叉の話に素直に頷いていた。だってクマちゃんの夜叉への愛ときたら、凄すぎる。

「それで、いいんですか?」

「あはは、私がこの人を独り占めするのなんて無理。事実他の美人だって無理だったじゃない。この人の声、歌の凄さときたら、宇宙規模だもの。その歌の凄さが九割だから、後の一割が難ありのろくでなしでも仕方がないのよ。私はそっちのお守りをしてあげてるの。本人は一割の方が本体だと思って、やらかしてしまったようだけど」


 突然門根が割り込んできた。「アーティストにはありがちなんだ。スポットライトを浴びてる自分が、他人の妄想で作り上げられた虚像に思えてしまう。本人は冴えないオフの自分がクリエイターの本体だって。パフォーマーとしての自分を持て余しちゃうというか。大概は統合していくんだ。それがThe Axeは圧倒的な世界観で、夜叉がまたロックスター以外の自分を強く求めて…まぁ、マネージメントとして失敗したということだな。違う道を模索した時にもっとフォローしてやればよかったんだ…」

気障でチャラくて感じの悪い門根のキャラ外の悔悟の言葉に、当の夜叉は特に反応を示さなかった。

 クマちゃんには見えているようだ。「マネージメント会社として反省してるなら、せめて夜叉を守ってあげてほしいわ、最期くらい」

 

 「前島さんからの報告ね。少年の写真をネタとして流したのは、この家の住人、自称ロハスマスターの女性」地図上の赤い印が付いた家は、見たことも前を通った記憶もない海寄りの区画にあった。この前ブラインドを下ろした反応の方がこの村の住人らしいだろうに。わざわざ家からはずっと上の区画に来て隠し撮りしていたわけか。

「警察は介入せず静観することにした。一方自治会もすぐに犯人を把握して…田沼って妖怪みたいなお爺ちゃんが、『この新参者の成金が村を貶めるとは何事だ~』って、怒鳴り込んだ。その音声をロハス女に投稿されて、『金持ち村自治会横暴』と炎上したの」

「実はロハス女は自分がお上品ではない言葉をがなっている部分を加工していた。対する自治会長田沼は無加工のを投稿した。これでネットではもう“売名ロハス”で大炎上中。夜叉のニュースに飢えていたメディアが飛びついた。ネット民からは“スーパーお爺ちゃん”扱いだけど、メディアは違う。何せ田沼は村を作ったN不動産の元社長。過去を色々穿り返されてN不動産もやぶ蛇で大慌てよ。それで今度は田沼が逆ギレ。…ということで今ネット上では三つ巴の大騒ぎ。既に拡散したものはどうしようもないけど、テレビが未成年の写真を使う心配はないでしょう」


 瑞生は自分がどうなるのか、正直よくわからなかった。伯父や伯母に迷惑がかかるのは避けたかったのに、こんな騒ぎになってしまって。そういえば伯父は退院したのだろうか。伯母から連絡はないが。それに、前島がクマちゃんに報告とはどういうことだ。瑞生にはこれっぽっちも好意を抱いている素振りは見せなかった男が。


「警察もロハス女の動きに呼応して、村への侵入が企てられるのじゃないかとピリピリしてる。村の防御が崩れるのはマズイわけ。公安がマークしてる北の工作員がトッタン半島をうろついてるという情報も入ったらしいわ」

「それと、元夫人方はそれぞれ弁護士やらに入れ知恵されていて手強かった」クマちゃんはボリュームのある足を組み替えた。

「プラスだけでなく夜叉の借金も相続する旨は想定済みで『全て売却すれば借金は無くなり十分プラスになると試算してある』とか言ってるの。全て相続する気でいるのよ! 頭に来ちゃった。『これだけ世間が注目している中、夜叉最期の望みのDNA鑑定を拒否した挙句、夜叉の遺品から版権から全てを売り払って散逸させるつもりですか! 夜叉ほどのアーティストの相続人は、記念館を建て遺品をファンに公開する義務があると考えるべきです』『他の夫人とお子さんが鑑定を受けた場合お宅だけ拒否ってのは、晒し者になるでしょうねぇ』って」

「さすが、クマちゃん。攻め方がえげつないね」夜叉が楽しそうに囁いた。「で?」

「で、呑ませたわよ。当然でしょう。『子供が夜叉に会いたがってる』と言ってきたのは、無論子供の意思ではなく相続権主張のジャブね。元夫人とそれぞれの子供と会ってきたけど、まるきり似てない。『夜叉の子を自称し養育費を貰っている父親不明の子』というレッテルが子供をどんなに傷つけるか、あの女ども全く分かっていない。はっきりさせることは子供たちにとって最善の選択だと思う。夜叉は優しいわ。予想外に」

「まさか、子供たちのために? あんたが? そりゃ意外過ぎるぜ。やっぱり人間、死を前にして善人になるもんだな!」門根の軽口は、全員の顰蹙を買った。


 瑞生は「これでロハス女の発信は止みますよね?」と希望を抱いて訊いた。

「どうかしら。彼女の狙いが村で優雅に暮らすことなら大人しくなる。この村を見限り派手に外でデビューするつもりなら、止めないわね。このネタを最大限知名度アップに使おうとするでしょう」クマちゃんは話を進めた。「ロハスに対処する事はこちらにはないわ。八重樫君の問題を解決する話に戻しましょ。伯父さんの怒りを解くには怒りの原因を見極めなくては。どう思う?」

「伯父は…つまりは自分が舐められた気がして怒っているのだと思う。クマキさん、夜叉側が対策を示せばいいと思うけど」

「クマキじゃない。クマちゃんかクロガネマキコさんか、どっちか正しく呼べ」夜叉がおかしそうに言った。

クマちゃんは手を振って「呼び方なんてどうでもいい。きっと伯父さんも芸能界を胡散臭いと思ってるでしょう。新しい対策は門根が考えること。誠意を持ってね」

「僕は…」

「まず伯母さんに電話して?」

クマちゃんはやることなすこと素早くて、瑞生はついていくのがやっとだ。

「八重樫君の伯母様ですか? 私、夜叉の顧問弁護士の黒金と申します…」瑞生から紹介されるや否やクマちゃんは本題に入り、宗太郎の様子を聞き出していく。「凄いなぁ」思わず呟くと、夜叉が嬉しそうに「瑞生の件はクマちゃんに任せよう」と言った。



                【 六月一二日 中篇に続く 】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ