第13話 天使の声
前回のあらすじ……ジェーンの寿命が半年だと、診断されました。
「お兄ちゃん」
俺は天使の呼びかけで目を覚ました。
太陽が窓からまばゆいばかりの光を差し込んでいる。いつの間にか朝になってしまったようだ。
俺を呼び起こした声の持ち主は、もちろんジェーンだ。
「お兄ちゃん」
玄関の外からもう一度呼ばれる。
「もう、起きてきて平気なの?」
ジェーンは、微笑んだまま何も答えてくれない。
俺は、もう少し寝かしてくれと言う体を強制的に動かして、ジェーンに歩み寄ろうとする。
どんなことよりも、ジェーンは最優先事項なのだ。
しかし、ジェーンは、俺が近づくのに合わせて、一歩、また一歩と、遠ざかって行ってしまう。
「その先は、井戸があるから気を付けて!」
それでも、ジェーンは、俺から離れていくことをやめてくれない。
「本当に危ないから、そこから動いちゃダメ!」
俺は、ジェーンに向かって走り出した。けれども、ジェーンとの距離は、いっこうに縮まない。それどころかさっきよりも離れてしまっている。
病弱なジェーンが俺よりも速く走ることなんてできるはずがないのに。
「待って! 止まって、ジェーン!」
「バイバイ、お兄ちゃん」
「何、言ってるの、ジェーン!?」
ジェーンの後ろに突如として異形の馬車が現れる。髑髏でできた車をこれまた骨だけの馬が引いている。
御者の席から出てきたのは、真っ黒のローブに人の背丈よりも大きな草刈り鎌を担いだ骸骨だ。まさに、死神そのもと言ったところだ。
ジェーンは、死神に導かれるままに馬車へと乗り込んでいってしまう。
「おい! クソ骸骨! ジェーンをどこに連れて行く気だ! 答えろ! クソ骸骨!」
ジェーンを馬車に乗せ終わった死神は、俺を挑発するかのように骨をカタカタと鳴らせて笑う。
「待ちやがれ!」
俺は、クソ骸骨からジェーンを奪い返すために、さらに体を加速させるべく力強く足を地面に踏み出す。
しかし、俺の体は加速しない。
俺の足元から地面が崩れ落ちていく。そこにあるのは、ただの暗闇。
新月の闇夜を連想させる暗闇が地面の代わりに俺の足元から広がっていく。
俺は、暗闇の中にどこまでもどこまでも落ちていく。
「行かないでくれ! ジェーン。必ず助けるから……どんなことでもしますから……ジェーンだけは……」
俺は、既にはるか遠くにほんの少しだけ、砂粒のように見える馬車に向かって右手を伸ばす。
俺の願いは聞き届けられることはなく、周りは完全に暗闇へと変わってしまう。
「……お兄ちゃん」
遠くでジェーンが俺を呼ぶ幻が聞こえてくる。
「……お兄ちゃん」
段々とその声は大きくなってくる。
俺は、声のする方に微かな希望をもって向かって振り向いた。
「おはよう、兄ちゃん」
目の前には、ベッドの上に座ったジェーンが心配そうに俺のことを見ている。
「大丈夫、お兄ちゃん? 顔色、悪いよ?」
確かに体中から変な汗が吹き上がっていて、なんだか気持ちが悪い。
でも、そんなことよりもジェーンがいる。
ジェーンがそこにいる。
ジェーンが俺の目の前にいる。
俺は、迷わずジェーンに抱き着いた。
「どうしたの!? お兄ちゃん!?」
ジェーンに触られる。
ジェーンの匂いがする。
ジェーンの鼓動が聞こえる。
幻覚でも幽霊でもない、本物のジェーンがいる。
「良かった! 本当に良かった!」
思わず力ずよく抱きしめてしまう。
「お兄ちゃん、痛いよ」
俺の瞳から俺の意志とは関係なく、とめどなく溢れ出る涙が頬を伝って、ジェーンの質素な白いワンピースに染みを作っていく。
極度の緊張から解放された心は、涙を一向に止めようとはしてくれない。
「えっ! えっっっっ! 本当にどうしたの?」
ジェーンが心配そうに背中をなでてくれる。
「ジェーン、どこにも行かないで、ジェーン」
もう俺に残っているのは、ジェーンだけなのだ。
「大丈夫、大丈夫だよ。私はここにいるよ。どこにも行かないよ。ずっと、お兄ちゃんのそばにいるよ」
俺を慰めるようにやさしく包み込んで語りかけてくれる声は、もはや聖母そのものだ。
でも、この声を聴けるのもあと半年しかない。
ジェーンは、あと半年しか生きていられない。
ジェーンを救うために残された時間は、あと半年。
こんなところで泣いている場合じゃない。一瞬一秒すら無駄にすることはできない。
俺は、ゴシゴシと涙を拭きとるとジェーンから体を離した。
「ごめんね、ジェーン。もう大丈夫だから。朝ごはん作ってくるね」
「泣きたくなったら、いつでもきていいからね。お兄ちゃんが泣き止むまで一緒にいてあげるから」
「ありがとう。ジェーンは、優しいね」
俺は、ジェーンの頭を優しくなでる。
「朝ごはん出来たら持ってくるね」
「私も行く!」
ジェーンがベッドから立ち上がろうとするのを、俺は優しく止める。
「ダメだよ。病み上がりなんだから今日一日はベッドでおとなしくしないと」
これからは、今まで以上にジェーンの体に負荷がかからないように気を付ける必要がある。
今までが畑の野菜だとすれば、今日からは温室の観葉植物を育てるようにジェーンを守るのだ。観葉植物を育てたことはないけど。
キッチンに向かうと珍しく師匠が起きている。
「おはようございます」
「おはよう。少し待っていろ。もう少しで出来上がる」
師匠の手には、包丁がしっかりと握られ、竈の上では、コトコトと赤銅の鍋でスープが煮込まれている。
なんと、師匠が早起きした上に朝食まで作っている。
今日は、大嵐になるかもしれない。洗濯物は、部屋干しするしかなさそうだ。
「どうしたんですか? 頭でも打ちましたか?」
「朝から失礼な奴だな」
鍋の中を覗き込むと真っ赤なトマトスープができている。
俺は、トマトスープを盛りつけるためのお皿を食器棚から取り出す。
「儂だって一人暮らしの時は、これぐらいやってたんだぞ!」
「騎士団の人が毎朝師匠を起こしに来ていたと思っていました」
と言うか、その光景しか想像できない。
「そりゃ、まぁ、時々は起こしに来てもらっていた気がしないでもないが……」
「実際は、ほとんど毎日ですよね」
「一週間のうち2日ぐらいは、一人で起きて詰め所に通ってたわい!」
それを普通の人は『ほとんど毎日』と言うのである。
俺はとぼけたことを言う師匠を置いといて、匂いだけでもおいしいことが分かるスープを鍋からお皿に盛りつける。乾燥バジルを振りかけることももちろん忘れていない。
とりあえず一口だけ、スプーンですくうと味見をしてみる。
「っうま!」
長時間煮込み続けられたであろう真っ赤なスープの中には、牛の骨からとられた旨味がこれでもかというほど凝縮されている。さらに、いくつもの野菜が形の無くなるまで煮込まれたのだろうか、複雑な味わいがハーモニーを奏でている。
逆にマカロニは形が崩れないように絶妙な硬さを保つように計算されている。まさにアルデンテの噛み応えだ。
まさか師匠がこんなにおいしいスープを作れるとは、露ほども知らなかった。青天の霹靂だ。寝耳に水だ。
「うまいじゃろう!」
師匠がしたり顔で覗き込んでくる。
「確かにおいしいです! 師匠もやればできる子だったんですね!」
素直に感心する出来だ。
「朝から本当に失礼な奴だのう。儂だって飯ぐらい作れるわい」
「そうなんですか。他に何が作れるんですか?」
師匠の食事のレパートリーは、これから何かの役に立つかもしれない。
「他には、目玉焼きが作れるぞ!」
「それ、焼いてるだけじゃないですか!」
「あと、ゆで卵も作れるぞ」
「それは、ゆでただけですよね」
うん。師匠に期待した俺がバカだった。
「話は変わるがさっそく短期の働き先があったぞ」
「本当ですか!」
グリーメル辺境伯に払う400ユニオンを早急に見繕わなくてはならない。
「400ユニオンぐらいは前払いで払ってくれるそうだ」
どんだけ気前のいい雇い主なのだろうか。
おいしい話には、裏があるのが世の摂理と言うものだ。
「どんな仕事内容ですか?」
そこまで稼げる仕事となると、大体の予想はつく。
過酷な肉体労働でさらに空気までもが汚い鉱山での採掘作業員。
魔導士が新たに開発した安全か分からない回復魔導の治験。
闘技場で世界中の猛獣と戦う剣闘士。
どれもが自身の命を削って大金を得るものだ。さらに、この家を長期間空けていなければいけない。ジェーンの調子が悪い今、天変地異が起ころうとも俺は必ずこの家に帰らなければいけない。
「仕事の詳細は、よう分らん。でも、ジャックが思い浮かべているような仕事じゃない事だけは確かじゃよ」
「どうしてわかるんですか?」
「どうしてって、雇い主がランスロットじゃからのう」
黄金獅子魔導騎士団が雇い主ならば、戦場で肉の壁にでもされない限り命を削るような仕事ではないことだけは確かだ。
「いつの間に連絡を取っていたんですか?」
お金が入用になったのは昨日の夜中のことだ。
「夜のうちに伝書鳩を帝都に飛ばしたんじゃよ。まぁ、こんなに早く帰ってくるとは思わんかったがの」
黄金獅子魔導騎士団も何か急ぎの仕事があるのかもしれない。だからこそ割のいい仕事になっているのかもしれない。
「分かりました。今日、向かっても大丈夫ですかね?」
早いとこ仕事を終わらせてジェーンと一緒の時間を増やしたい。
「ランスロットもできるだけ早くと書いてあったからのう。問題ないじゃろう」
「朝食を食べたらすぐに帝都に向かいます。夕食までには帰ります」
「ジェーンのことは、任しといてくれ」
「お願いします」
俺は、ジェーンと自分の分のスープをお盆に乗せ、ジェーンの部屋に向かう。
「ジェーン、師匠特製のトマトスープだよ」
可愛らしい木札のかかったドアをゆっくりと開ける。
ジェーンは、ベッドの上に座ったまま窓の外を眺めている。いや、眺めているというよりは何かと話しているように見える。
「ありがとう、お兄ちゃん。本当にお師匠様が作ったの?」
振り返って返事をするジェーンの後ろの窓には、特に誰かがいたというようには見えない。
俺の見間違いだったのだろうか?
「そうなんだよ。あの師匠が作ったトマトスープだよ。これがびっくりするぐらいおいしいから驚きだよ」
ベッドのすぐ横にある机の上に二人分の器を乗せる。ジェーンが食べやすいように机は、ベッドに腰かけた時にちょうどいいように調整された俺の特製品だ。
「いただきます」
ジェーンは、スープに長い真っ白な髪の毛が付かないように耳の上に髪の毛をかき上げてからスープを口に運ぶ。
「おいしい」
スプーン一杯分のスープを十分な時間をかけて飲み込んだジェーンがぽつりと漏らす。
「だよな。師匠が作ったとは、到底思えない出来だよ」
「でも、お兄ちゃんの作るスープの方がおいしいよ」
「ありがとう」
うれしいことを言ってくれる。お兄ちゃんはジェーンの期待に応えられるようにこれからも頑張ります。
久しぶりのジェーンと二人っきりの食事に会話が弾む。師匠と3人で食べるのも楽しいけど、こうしてジェーンと向かい合って食べると、いつもジェーンの顔が見れる。それだけでもおなか一杯になりそうだ。
「あ、そうだ、ジェーンは、レイク騎士団長のこと覚えている?」
「……レイク……騎士団長?」
ジェーンが人差し指を顎につけ、首をかしげる。世間一般では、あざといポーズと言われるようなことも、ジェーンなら素朴でかわいらしい。
「ここにも何度か来たことがあるんだけど。いつも金ぴかの鎧を着ている人なんだけど」
「ごめんね、お兄ちゃん。全然、思い出せない」
「大丈夫だよ。謝らなくても」
ジェーンが覚えていないのも無理はない。レイク騎士団長がこの小屋に来ていたのは、俺とジェーンが拾われてきてすぐのことだ。まだジェーンは、4歳だったのだから。
「それで、今日からレイク騎士団長のところで仕事をすることになったから、日中は帝都に行かなきゃいけないんだ。まだ病み上がりなんだから、くれぐれも無理はしちゃだめだよ」
「うん。分かった」
「それと、何か欲しいものがあったら言ってね。お兄ちゃんが買ってきてあげるから」
「ありがとう、お兄ちゃん。でも、大丈夫だよ。たまにはお兄ちゃんが自分の欲しいもの買ってね」
ジェーンは、昨日まで高熱にうなされていても、自分のことよりも俺のことを気遣ってくれる。
本当に俺には勿体ない妹だ。ジェーンよりもよっぽど死ぬべき奴はいっぱいいるはずなのに……。
「何かあったら言ってね。夕方には必ず帰るから」
俺は、ジェーンと自分のお皿を重ねてお盆に乗せ、席を立った。
「うん。行ってらっしゃい、お兄ちゃん」
「行ってきます」
「バイバイ」と手を振るジェーン、マジ天使。はい、マジ天使です。
お読みいただきありがとうございます。
意外な師匠の調理スキルが発覚しました。この料理を覚えた時の話もかけたらいいな。
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