ホットミルクfor時久
とある夜、時久は自室にて書類とにらめっこしていた。会社で済まそうと思っていた書類が、終わらなかったのだ。本来ならば残業、となるはずだったのだが、時久自身が残業を断り、今に至るのだ。
時計を見ると、時刻が午前を回っていた。時久は眉間をもみほぐし、再び書類と向き合った。そして、どうにか書類を完成させることのできた時久は、ベッドへと潜った。それから何時間経ったろうか。
――眠れない。ベッドの中にいても、時久の鋭い目は冴えるばかりだ。仕方が無く、時久はベッドから起き上がった。再び時計を見てみる。午前四時。カーテンを開けた。空はまだ暗い。はあ、と時久は溜息をついた。
そう、時久は不眠症なのだ。
最初は仕事が忙しいからか、と思っていたが、どうやら違うらしい。つまり、原因不明なのである。
「これから仕事か……。はあ、疲れた」
思わず独り言を呟いていた。鏡を見れば、切れ長の瞳の下に、どす黒いクマができていた。
軽く着替えを済ませ、キッチンへと降りていくと、妻である吉乃がいた。
「おはよう、吉乃」
時久の声に、吉乃は少しだけ驚いたような表情をし、
「と、時久様。おはようございます。随分お早いですね」
「最近、不眠症気味なんだ。夜もあまり寝られなくて、早朝に目が覚めてしまうんだ」
説明するような口調で時久が言うと、
「今日はお仕事を休んだ方がいいんじゃないですか? お命に関わったら大変ですよ? 時久様?」
心細い、吉乃の声だった。そう、時久の仕事はボディーガード、要人警護だった。注意力が散漫になると、それだけ己や護衛対象の命の危険が増す。
「大丈夫だよ、吉乃。だが、心配してくれてありがとうな」
時久は微笑み、吉乃の頭をぽんぽんと触った。置いてあったサンドイッチを手に取り、時久は再び自室へと戻った。
サンドイッチを食べながら、ニュースを見る。だが、どの番組も時久の頭に入らない。時久は頭をぶんぶんと振る。
「(俺は九条家の当主。こんなところで弱音を吐いていてはダメだ)」
ぐっと拳に力を入れた。サンドイッチを食べ終わり、適度に時間が空いていたので、読書をした。ふと時計を見ると、出社時刻になっていた。時久はスーツを着ると、玄関へと歩いて行った。
「時久様!」
吉乃の声が聞こえた。くるりと時久は後ろを向くと、
「吉乃? どうした?」
すると吉乃は肩で息をしながら、
「時久様……。あまり無理をしないで下さいね? ご気分が優れないときは早退してきて下さい」
吉乃なりの、励ましだったのだろう。時久はにっこりと笑い、
「行ってくるよ、吉乃」
あえて吉乃の耳元で時久は囁くように言った。瞬間、吉乃の頬が真っ赤になる。そんな吉乃を楽しそうに時久は見やると、玄関のドアを開けた。
仕事場へ着くと、同僚であり、上司でもある藤堂昌也と、いとこにあたる一条克己がいた。
「おはようございます、藤堂さん。それと、一条」
時久が昌也に頭を下げた。だが、克己には頭は下げない。するとへそを曲げた克己が、
「おいおい、時久。オレには頭を下げないのか?」
「当たり前だろう、一条。お前は俺の上司じゃない」
「ま、まあそうだけどよ……」
そこまで言って、克己は言葉に詰まってしまった。そんな二人の会話を見ていた昌也が、
「おい、九条……」
じっと昌也は時久の顔を見据える。
「な、何ですか、藤堂さん」
蛇に睨まれたカエルのように、時久は昌也の瞳から目を離すことができない。
「お前……、顔色が悪いな。今日の仕事は俺と一条でやる。だから、お前は帰れ」
先輩である藤堂昌也は時久の具合を見きった。
「俺、そんな調子悪そうに見えますか? 調子が悪いのならば出社しませんよ」
軽く笑いながら時久は言うのだが、昌也は大きく首を横に振る。
「それは、”空元気”というものだ。俺達の仕事は命に関わるんだ。体調がすぐれないボディーガードじゃだめだ。だから、九条。今日は家で休んでろ」
機嫌の悪そうな顔をする昌也を見た時久は小さく頷いた。
「……分かりました。藤堂さんの言うとおり、俺は帰ります。それにしても、藤堂さんの観察力はすごいですね。一体どこで俺が調子悪い、と分かったのですか?」
すると昌也は時久を見上げ、時久の瞳を指差した。
「お前の瞳が俺に、語りかけてきた。体調がすぐれない、とな」
「すごいですねー、藤堂さん。時久がいなくても、オレがその倍働きますよ!」
克己は元気そうに昌也を見下ろす。昌也は、ああ、と答えた。
「一条……。お前は元気の塊だな。仕事の方も楽に片付きそうだな」
そう言って、薄ら笑いを昌也は浮かべた。
「じゃ、藤堂さんに一条……。仕事、頼みます」
軽く時久は二人に一礼すると、帰社することにした。
確かに出社前から体調がすぐれないことは分かっていた。それにしても、後輩の状態を見極める藤堂昌也に時久は舌を巻いた。だんだん九条邸が見えてきた。さて、吉乃には何て話そうか。そんなことを時久は考えつつ、家路を急いだ。
玄関を開けると、心配そうな表情をした吉乃が時久を見上げていた。
「時久様。お帰りなさいませ」
「吉乃の言うとおり、俺は今日、仕事を休めばよかったよ。藤堂さんに帰れ、と言われてしまった」
「藤堂様が?」
吉乃が小首を傾げた。
「ああ。何でも、俺の”目”が、体調が優れない、と言っていたそうだ」
そこまで言って時久は、苦笑いを浮かべた。
「じゃ、俺は部屋で休むよ」
吉乃にそう言い残すと、時久はネクタイを緩め、玄関を後にした。
ベッドへ時久はダイブした。そして、大の字になり、瞳を閉じる。――眠れない。そう、時久は不眠症に悩まされていた。
「(どうせベッドでごろごろしていても俺は眠れない)」
頭を掻き上げると時久は、デスクへと向かった。深く椅子に腰掛け、本に手を伸ばす。そして、近くにあった銀縁フレームのメガネをかけた。
「(推理モノでも読むか……。これで眠くなればいいが)」
そんなことを考えつつ、時久はページをめくり始めた。
それから数時間過ぎただろうか、時久は頭痛がしてきた。本にしおりをはさみ、デスクに伏せる。
と、そのときだった。誰かが時久の部屋をノックした。
「誰だ?」
時久がドアに向けて声をかける。すると、
「吉乃です。……時久様に、ホットミルクをお持ちしました」
声の主は、妻吉乃だった。
「入ってきていいよ、吉乃」
すると、ゆっくりとドアが開き、ブラウス姿の吉乃がホットミルクを手に持ってやって来た。
「時久様。ホットミルクです。どうぞ、召し上がって下さい」
軽く吉乃が頭を下げた。
「俺にホットミルク? 随分似合わないことをするんだな」
若干だが時久は苛立っていた。そんな時久を見た吉乃は、寂しそうに、
「時久様は、ホットミルク、お嫌いですか?」
妻の表情に時久は完敗した。
「別に、嫌いではないが、なぜホットミルクなんだ?」
吉乃はぱっと知り顔をしながら、
「ホットミルクには、神経をリラックスさせる効果があるんですよ。だから、時久様の不眠症にもいいかな、と思いまして」
ホットミルクからは、温かなミルクの香りが立っている。時久は少しだけ困ったような笑みを浮かべ、
「俺にはこういうのも効かないんだがな。だが、吉乃の気持ちはとても嬉しいよ。ありがとう」
時久の頬が朱に染まる。そんな時久を見た吉乃はくすりと笑う。
「時久様でもそういう表情をするんですね」
「べっ、別にそういう意味じゃない!」
一回り以上年下の妻、吉乃にからかわれてしまった時久の顔は相変わらず赤い。
「じゃ、時久様。私はこれで退出します。今日はよく眠れるといいですね」
小さく含み笑いをすると、吉乃は去って行った。
時久はホットミルクを一口飲んだ。優しげな味が舌に伝わってくる。ホットミルクを飲みながら、推理小説を読む。だんだんと眠気を催した時久は、ベッドへと歩いて行った。ベッドに潜り込むと、あっという間に眠気は襲ってきた。
朝日が、時久の精悍な顔つきを照らした。目を擦りながら、時久は大きく伸びをした。時計を見ると、午前六時だった。
「そうか……。俺は眠れたのか」
そう言って時久はほころんだ笑みを見せた。喜びが、ふつふつと身体の奥からみなぎってくる。
「吉乃が持ってきてくれたホットミルクのおかげだな」
と、そのときだった。とんとん、と誰かが時久の部屋のドアをノックしている。
「……誰だ?」
「吉乃です。おはようございます、時久様」
声の持ち主は妻である吉乃だった。入ってきていいよ、と時久は促した。
「時久様。昨晩はよく眠れましたか?」
首を傾げながら、吉乃が問う。時久は大きく頷き、
「ああ。吉乃が機転を利かせてくれたから、眠れたよ。あのときはありがとな」
ぶっきらぼうに時久が言うと、吉乃は微笑んだ。
「それはよかったです。ホットミルク、効き目があってよかったですね、時久様」
「だが何故吉乃はホットミルクがいい、と知っていたんだ?」
若干だが訝しげに時久が聞いた。すると吉乃は、
「私も眠れないときにホットミルクを飲んでいました。だから、時久様にもいいかな、と思いまして……」
そこまで言って、吉乃は少しだけ頬を赤らめる。
「……ありがとう、吉乃。お前のおかげで少しだけだが、不眠症が治った気がする」
時久はそう言うと、吉乃のさらりとした黒髪を撫でた。
「じゃ、俺は仕事へ行くから、吉乃、悪いが」
退出してくれ、とは言わず、
「あ、ごめんなさい……。私がいたら、邪魔ですね」
吉乃の方が気を利かせて部屋を出て行った。
時久は着替え終わり、キッチンへと来ていた。
「あら時久。随分と顔色がいいわね」
艶やかな声を出したのは、時久の実母であった。
「母さん……。不眠症が治ったみたいですから。じゃ、俺は仕事へ行ってきます」
軽く実母に一礼すると、時久は家を出た。
近くの喫茶店で、新聞を広げながら、時久はパンケーキを食べていた。いつもより少し早く、家を出たからである。バッグの中に入っているスマートフォンを器用に操り、愛妻吉乃にメールを送った。
「吉乃。お前のおかげで助かった。本当にありがとう。――愛している」
と――。
吉乃が、救ってくれましたね。ホットミルクには、人を癒す効果があるんですね。時久とうんと年は離れているけど、いい奥さんですね。時久も不眠症が治ってよかったですね。




