第六話 ニート廃業届
第六話 ニート廃業届
やっぱさ、ネクタイって良いと思うのよ。
なんていうのかな、大人の男って感じがして気が引き締まるのよ。
昔フンドシ、今ネクタイ。まぁ、そんな感じなわけ。
だからさ、ネクタイが緩んだり歪んでたりすると良くないわけ。
緩んだネクタイはさ、だらだらした警備員みたいなものなんだよ。
「ほら、ツネ。俺がやってやるから」
「いやいいよ」
「俺がやってやるって言ってるだろ?」
「だから、良いって。兄貴の手は借りなくても大丈夫だって」
俺が首にネクタイを結ぶってことは、つまり、これから勝負に行くってことだ。
もう、兄貴の手は借りないよ。大丈夫だから。
それじゃあ、なんで俺がネクタイをしてるのか、その説明をするよ。
これはどこまで遡れば良いのかな。
まずはね、兄貴が言ったのよ。
「ツネ。家に帰ってこないか?」
「いや、いま俺ん家に居るんだけど?」
場所はアパートね、シチュエーションは携帯電話で兄貴とラブってるとこね。
「そうじゃなくて、実家に帰ってこないか?」
「ねぇ兄貴、これ、なんかの実験?」
まぁ、こう答えるのがニートとしての道理だよな。
俺という動物をつかった何かの実験を、まずは疑うよな。
餌を与えるだけ与えて、奪うみたいな実験な。
「なんだよ実験って。アパートに居ても無駄に家賃とかが掛かるだけだろ。なら、ウチに来い。そのほうが、おまえも生活するの楽だろ?」
「あのさ、兄貴。兄貴の家には春奈ちゃんが居ること忘れてない?」
「……まぁ、もう大丈夫だろ」
「なにが大丈夫なんだよ?」
「春奈もな、大人になったってことだよ。女の子はすぐに大きくなるよな……」
「ごめん兄貴、そういう独りよがりなとこ、すっげぇ春奈ちゃんに嫌われてるよ」
文学青年ってなんなの。
ポエムな発言してわかれって言われてもね、こっちはわかんねぇから。
「もう帰ってくんな」
のくせにさ、すぐ拗ねんのよ。
「言えよ。ちゃんと理由を言えよ」
「あのな、お前を家から追い出した理由なんだけどな。……良いから帰ってこい」
「言えって。美奈さんが俺のこと追い出したって、ちゃんと言えって」
「仕方ないだろあの場合は」
「まぁ、仕方ないとは思うけどさ」
「ツネ。いいか、一回だけだからな。一回だけしか言わないからな?」
「いいよ。覚悟できてるよ。もうさ、いまさらなんだよ」
「ツネを追い出したのはな、母さんなんだよ」
「なんで? なんでいまさら母さんなんだよ!?」
意味がわからなかったね。
わけがわからなかったね。
母さんだけはさ、最後の最後まで俺の味方だと思ってたのにさ。
ホント、裏切られた気分だよ。
……なんてね。まぁ、わかるよ。母さんにとっても苦肉の策だったんでしょ?
俺の部屋の荷物を空にした兄貴ほどじゃないけどさ、俺に立ち直ってもらいたくて荒療治にでたんでしょ?
そうでしょ? そうだと言って?
「あのな、春奈がな、妙におまえに懐いてた時期があっただろ? あれな、初恋なんだよ」
「は?」
なんの話?
いきなり春奈ちゃんの恋バナとかされても困るんだけど?
いや、困らないけどね? 聞きたいけどね?
「で、美奈と母さんがな、これはヤバイと思ったわけだ。ほら、おまえってニートだろ? ずっと家に居るだろ? 子供の面倒みるだろ? ゲームとかで一緒に遊ぶだろ? だから、春奈のなかじゃ面倒見の良い優しいお兄さんなんだよ。それって悪循環だろ? そのままこじらせちゃったらマズいだろ?」
「……まぁ」
あ~、お子様基準だとね、ニートじゃなくてそう見えるよね。
そうそう、駆けっこが早いだけでクラスの女子にモテちゃう年頃だもんね。
女の子が人生で一番にチョロい時期よ。
もちろん、手を出したら犯罪一直線なんだけどね?
「だから、お前に引っ越してもらったんだ。いまならな、もう春奈もお前のことを普通にダメな人間だって理解してるから。安心して帰ってこい」
「えっとさ、話をまとめると、春奈ちゃんが俺に恋しちゃったから、俺って家から追い出されたの?」
あれ、もしかして俺、母さんに期待されてなかった子なの?
息子より、孫娘の貞操観念のほうを大事にしちゃった系の話なの?
母さん、ちょっと母さん、天国から降りてきて。話あるから。
……ま、良いんだけどさ。そんな小さなことはさ。
「簡単にまとめるとそうだな。こんなくだらない理由で追い出されたなんて、おまえだって聞いてて嫌だろ?」
「いや、全然。いま、すっげぇ嬉しいんだけど。兄貴、ごめんね? 春奈ちゃんの初恋を奪っちゃってごめんね? すっげぇゴメンね? ホント、ごめんね~?」
なんかね、すっごい嬉しいの。
兄貴に勝ったって気がして嬉しいの。
俺、ニートなのに、兄貴に勝っちゃって、ゴメンねっ!?
「ツネ。帰ってこなくていいぞ。そこで死んでろよ」
帰ったよ。
帰りましたよ。
帰りましたともさ!!
「ツネちゃん、お帰り~」
「春奈ちゃん、ただいま~」
もうね、兄貴がね、すっごい目で俺のこと睨みつけてんの。
あれはね、俺のことを送り返そうとしてる目だったよ。
あの世に送り返す気でまんまんだったよ。
そういう目はさぁ、娘さんの彼氏に向けようよぉ、まぁさぁ、春奈ちゃんの初恋の相手はさぁ、この俺なんだけどさぁ?
「ツネ。おかえり」
「兄貴、ただいま」
でもさ、やっぱ兄弟なんだよね。
やっぱ、一緒にいると安心するんだよね。
「さっさと就職して、さっさと出てけよ。三日ぐらいでな」
「そういうことばっか言ってっから春奈ちゃんに嫌われるんだろ? 兄貴は!!」
あ、これね。俺は春奈ちゃんに嫌われてないアピールね。
いてぇ、この兄貴、スネを蹴ってきたよ。
そんなことされたらさ、お返しに齧っちゃうよ? 兄貴のスネ。
「もう、お父さんもツネちゃんも遊んでないで、今日は引っ越しするんでしょ?」
「うん、終わったよ」
「おう、終わったぞ」
言うやいなやズボンを脱ぎ始めるんだから、兄貴もフリーダムな生き物だよね。
俺の荷物といったらノートパソコンと、服と、黒ずんだ蛍光灯くらいなものだから、兄貴のミニバンの後部座席を倒せば一回で運べたのよ。
冷蔵庫とか電子レンジは家に二台も要らないから、倉庫も兼ねた車庫に置いて、ブルーシートを被せておしまいだ。半年前に購入したブルーシートが妙なところで役に立ったもんだ。
「春奈ちゃん、なんでジャージ? それ部屋着?」
いてぇ、スネを蹴ってきたよ、この娘。
そしてなんで兄貴は羨ましそうなんだよ。娘に蹴られたい年頃なの?
なら、その毛脛を隠せ。ズボンを履け。
そんな他愛もないやりとりでも、やっぱ、泣けてくるのよ。
でもさ、こんなところで泣いちゃ駄目だから、俺は我慢するわけよ。
俺の部屋、そう、俺の部屋に帰るまでは泣いちゃ駄目なわけ。
「兄貴、ちょっと疲れちゃったから、昼寝してても良い?」
「構わんけどな。ツネ、おまえちょっと体力なさすぎだろ?」
「18年間もニートしてたんだから仕方ないだろ? 無いものは無いんだよ。時間も、金も、体力もさ……」
「そうやって良いこと言った風にすれば、相手が納得すると思うなよ?」
「いやそれは、兄貴にこそ言ってやりたいセリフだよ?」
「あ、ツネちゃん良いこと言った。お父さんのたまにでてくるポエム、キモイ」
兄貴と美奈さんって、漫研の小説版みたいなサークルで出会ったんだよね。
小説を読むのが好きなのと、小説を書くのが好きなのを勘違いしちゃって。
結婚式の馴れ初めの話で聞いたわ。
俺もさ、大学時代、どこかのサークルに入ってたらさ、何かが違ったのかもね。
んで、俺は寝るわけ。
まだ元気ピカピカの蛍光灯を黒ずんだ蛍光灯と取り換えて。
明日のためのその一、よく休むを実行するわけ。
そう、明日は頑張る日だったからさ。
「志望の動機をお聞かせ願ってもよろしいですか?」
これ、面接官の人の言葉ね。
願ってもよろしいですかって疑問形だけど、「やだ」って言ったらどうなるんだろうね。まぁ、十中十、落ちるんだろうけどね。
さて、これが俺の答えね。
「ニートだからです」
これ以上ない最高の答えなわけよ。
「ニート……俗称ですが、経歴を見せていただいたかぎりでは、確かに」
「ひとつだけアルバイトを挟んでいますが、18年間働いていません。そして、そんな人間を雇う企業もありません。職歴として書けるものは何一つなく、資格として書けるものも何ひとつありません。ですから、応募させていただきました」
そう、ここは職業訓練所だ。
最近ではポリテクセンターなんて小洒落た名前をなのってる。
椅子、俺、机、面接官、椅子、それから黒板。
ちょっとしたパーフェクトワールドだ。
「CAD科を希望した理由をお聞かせ願いますか?」
「はい、私は18年間ニートをしてきました。そのあいだにしてきたことと言えばパソコンに触れてネットを見ることばかりでした。ですがその分だけ、パソコンの操作には慣れています。新しいソフトウェアへの対応にも慣れています。私のなかで人よりも長けているところがあるとすれば、このことばかりになります。自分の強みを活かせるとしたら、パソコン操作の多いCAD科だと思って希望しました」
我ながら、ずいぶんハキハキと答えられているもんだと思う。
内弁慶なら得意だけど、他人が相手となれば挙動不審のこの俺がだよ。
これはさ、小坂さんに教わったことだ。
背筋を伸ばす、正対する、そしてしっかりと話す。これは全部、自分のためだ。相手に媚びようなんて気持ちは一切ない。ただ、適切な態度をとってるだけだね。言ってしまえばただの礼儀なんだよね。
あと……強く望まなければ、苦しみも少しで済むってことも教わったね。
面接なんて、最初から落ちると思って挑めばいいわけだよ。
実際に不合格を食らえば心が折れるんだろうけど、受験の機会は一度じゃない。
「仮の話ですが、もしも不合格となった場合はどうされますか?」
「はい、次回も受験します。それでも不合格ならその次も受験します。もちろんその次も受験します。合格するまで受け続けます。その際は何度となく顔を会わせることになるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「それは……ん~」
まぁ、こんなことを言われれば困った表情になるしかないわけよ。
でもさ、公務員だからね。
俺が応募してきたなら面接しなきゃいけない立場だからね。
落ちるたびに俺の心は折れるんだろうけど、再受験が可能なんだから、望みが絶たれる心配もない。完全に絶望する心配もないわけ。
そう考えると、少しだけ心が楽になるの。
ごめん、嘘。
背中では汗がダバーしてるところよ。
ニートってさ、人格否定に滅法弱いんだよね。だからさ、一度の不合格でも人間失格の烙印を押された気になって、心が折れちゃうかもしれないわけ。ただ、人の心って、折れても折れても、わりと立ち直れるものだって俺はもう知ってるわけ。
まぁね、立ち直れなかった人も知ってるんだけどね。
でも、俺はさ、まだいけるわけよ。
まだ立ってられるわけよ。
「18年間のブランクがあるわけですが、合格した場合、他人と上手くやっていく自信はありますか?」
「正直に申し上げますと、まったくありません。ですが、それを含めての訓練期間だと思い受講に努めたいと思っています」
「そうですか。確かに……そうですね」
また、難し気な表情を浮かべてさ、悩んじゃうのよ。
そんな顔されるとさ、俺まで不安になって顔に出さないのがつらいのよ。
感情をOFFってなきゃ、もうすでにオロオロしてるところだね。
「では、自己PRを3分でお願いできますか?」
「はい。私は18年、ニートをしてきました。部屋を飛び出してきた理由も情けないものです。母を喪い、父も定年を迎え、年金ばかりが頼りです。そこまで切羽詰まって、ようやく飛び出してきました。私にはもう後がありません。ですから、もう頑張るしかありません。頑張れるだけ頑張るしかありません。すでに職歴を持つ方々なら、それを頼りに再就職することも適うでしょう。ですが、履歴書の職歴欄が空白である私では、その道が無いことを知りました。50以上の会社へ応募し、ニートが求められていない人材だということを知りました。面接の場でどれほど熱意をアピールをしたとしても、面接官の目は職歴の欄の空白を重視するのだと知りました。訓練所への入学、そして卒業、この二行が加わるだけで、私の就職活動が大きく前進することを知りました。たった二行が加わるだけで、私が言葉で語るよりも履歴書が私の熱意を大きく証明してくれます。私から言えることといえば、人よりもパソコン操作が得意です。前にすすむための熱意はあります。それから、ただひと言、どうか私に前へ進むためのチャンスをください。私が言えることはこれだけです。これが、私の自己PRになります」
言ったさ。
言ってやったさ!!
俺が持つ全身全霊の想いをぶつけてやったさ!!
もちろんさ!! 結果は不合格さ!!
あ、心、折れそう。
いや、もう折れてるわ。
あの黒ずんだ蛍光灯が輝きを止めたとき、俺の命もきっとなくなるんだ。
でも、最近は三食をちゃんと食べてるから、餓死も出来ないんだ。
あはは、世間の風はニートに冷たいな。
あ、今って九月だから、クーラー代わりになって良いんじゃない?
エコだね。ニートはエコだね。
究極のエコロジー、それはやっぱり自然に還ることだよ。
海が良いかな、山が良いかな、谷底なんかも素敵かもしれない。
そして10月、俺はスーツを着ていた。
なんでかって?
世の中にはさ、補欠合格ってものがあるわけなのよ。
世間の風はニートに暖かいねぇ。10月にもなると冷えこむ日もあるからねぇ。
正規の合格を狙ってなかったわけじゃない。
でもさ、職業訓練所のほうにも色々と都合があるわけよ。
感情としては融通を利かせてやりたい、でも、職員としては駄目ってことがさ。
だけど補欠合格ってのは正規の手順じゃないから、ある程度は融通が利くんだろうね。
面接官に窮乏を伝えた、感情に訴えかけた、熱意を見せた。
だから、顔と名前を面接官の人が憶えててくれたんだろね。
人間が30人とか40人とか集まると、1~2人くらいは辞退する人が出てくるものなのよ。空席ができたその時、最初に浮かんだ顔が俺だったんだろうね。
そういうわけで、俺はいま、春奈ちゃんに身を任せてるわけ。
どういうわけかと言えば、見てればわかる。
「春奈ちゃん、まだ?」
「長さがね、良い感じにならないの。もっかい」
「そっか、もっかいか、もうね何回でも良いよ」
俺さ、親父の気持ち、わかっちゃった。
女の子にネクタイ結んでもらうのって、なんか良い。
こうね、俺のために女の子が頑張ってくれてる感があってすごく良いの。
なんて言うのかな、バレンタインのチョコじゃなくて、チョコを頑張って作ってるところを後ろから眺めてる気分? もちろん俺のためのチョコだよ?
これはねぇ、良いものだわ。
「おい、ツネ。遅刻するだろ?」
「え? まだ50分もあるじゃない。余裕余裕」
なんかね、春奈ちゃんと兄貴がね、また喧嘩したらしいのよ。
あ、もう喧嘩の理由なんて、もうね、どうでも良いんだよ。
たとえば、美奈さんが買ってきた新しいボクサーパンツがフィットしすぎてて、とっても強調されてたって理由とかでもさ。
んでさ、春奈ちゃんが俺のネクタイを結んでくれてるの。
その辺の因果関係はね、多分、春奈ちゃんにしかわかんないことじゃないかな?
なのに、兄貴が割り込んでくるのよ。
「ほら、ツネ。俺がやってやるから」
「いやいいよ」
「俺がやってやるって言ってるだろ?」
「だから、良いって。兄貴の手は借りなくても大丈夫だって」
ほら、春奈ちゃんって職人気質だから完璧を目指しちゃうのよ。
そんな事実は知らないけど、たぶん、職人気質なんだよ。昨日の夜から。
まさか兄貴への当てつけに、俺のネクタイを結ぶなんてことあるわけないのよ。
「お父さん、うるさい。ちょっとツネちゃんのネクタイに集中させて」
「…………。」
あ、この無言はね、殺意を表現した無言だから。
まったく、俺のネクタイを結んでる姿くらいでなにをカッカしてるんだか。
でも考えてみると、ネクタイを結ぶ仲って、チュウとか通り越してるよな。
まぁ、チュウはしちゃってるんだけどね、0歳児のときに、すでに。
自分の娘が彼氏のネクタイを直してるとこなんて目にしたら、そうだな、俺なら殺しちゃうかもね。なんていうか、チュウよりも胸にくるものがあるわ。
こうね、夫婦的なラブラブ感があって、心臓に悪いわ。
もうね、嫁に行ってしまった娘を見るような、殺意のこもった目をしてるのね。
この後さ、兄貴に車で送ってもらうんだけど、俺、辿り着けるのかな?
ほら、行き先が急遽、人気のない山奥の穴のなかに変更になるかもしれないし。
「うん、できた。ツネちゃんカッコいいよ。頑張ってね」
「うん、頑張る。っても今日は入学式だけなんだけどね」
「ほら、お父さん、さっさとズボン履いてよ」
まぁな、他人のネクタイのこと言う前に、ズボンぐらい履いておこうぜ。
んで、無事に入学式。
んで、無事に卒業式。
あ、入学と卒業のあいだには半年あるんだけど、基本的にはすっごくヌルイの。
お役所仕事って言うのかな、一番できない子に合わせてるって言うのかな。
18年、パソコン弄ってた俺からすると、テトリスの方が難しいレベル。
マジで。
人間関係も良好だったよ。
普通の学校でもさ、出来る子って尊重されるじゃない?
ちゃんと自分は元ニートなんだぞって謙虚な心を忘れなきゃ、みんな優しいの。
俺、ニートのはずなのにさ、なんでか出来る人あつかいなの。
前は何してたのか聞かれたときはね、ネット関係って答えてた。
あ、面接官の人がそのまま先生だったんだけど、ちょっと笑ってたわ。
でもね、嫌なこともあったさ。
たとえば、紙。
どんな紙かって言うとね、小切手みたいなものかな。
雇用保険っていう失業保険があるんだけど、職業訓練所に入ると、その受給期間が伸びるのよ。つまり、お金もらいながら学校に通えるわけよ。
じゃあニートはって言うと、貰えないの。
貰えるんだけど、貰えないの。
ちょっと理屈を説明するとね、親が食わせてくれるなら要らないだろって理屈。
わかるんだけどね、わかんないの。
理性ではわかるんだけどね、心がね、わかってくんないの。
それからね、紙。
どんな紙かって言うとね、小切手みたいなものかな。
雇用保険に入ってるとその紙を貰えるんだけど、みんなが紙を貰ってるの。
つまりね、雇用保険に入ってて紙を貰える人が優先して合格してるの。
だから俺は、補欠合格とか定員割れっていう穴を狙うしかなかったの。
何度でも受験するって言ったのは、つまり、こういうことなの。
ハロワの門も、職訓の門も、じつはニートには狭き門なのよ。
でもさ、学校なのよ。
仕事じゃないのよ。
ニートだった俺が、普通のコミュニケーション能力を身につけるには持って来いの場所だったわけ。
いきなり仕事しろって言われても、まぁ無理だよ。
いきなりバイトしながら、コミュニケーション能力育てるの、まぁ無理だよ。
打たれ弱いからね、俺。
内弁慶だからね、俺。
そんな俺でもさ、ぬるい学生同士の関係ならやっていけたわけさ。
年下の上司に怒鳴られたりとかもないしね。
でもね、なんにでも終わりはあるわけよ。
卒業式が来ちゃうわけよ。
学生時代が終わりを告げるとね、お仕事探しの過酷な現実が待ってるわけよ。
落ちたよ。落ちた。
ホント、いっぱい落ちたよ。
でもさ、小坂さんが教えてくれたじゃない。
望みが断たれないかぎりは絶望じゃないって、命懸けでさ。
つまり、求人票がこの世から無くならないかぎり、俺って絶望しなくて良いの。
…………あのさ、言ってなかったんだけどさ、俺、小坂さんの葬式に行ったの。
正確には通夜なんだけどさ、親族席と一般席に場所が別れてんの。
親族席はいっぱいなんだけど、一般席は俺ともう一人しか居ないの。社長ね。
車欲しい、家欲しい、家族欲しいって言ったけどさ、実はさ、もうひとつだけ欲しいものがあったの。
あのね、俺ね、友達が欲しいのよ。
通夜の席でね、椅子に座ってくれる友達が欲しいのよ。
香典とかも要らないから、座ってて欲しいの。誰かに。
アンバランスすぎる小坂さんの通夜の会場を見てね、こっそりそう思っちゃったのよ。
石橋さんの親戚の人も、たぶん、こんな感じだったんじゃないかな。
あ、石橋って言ってもあのハロワに棲息する死んだほうがマシな汚物じゃないからね。ハロワの窓口であの生物に出会うとさ、不思議と俺の電話が鳴るのよ。
ほら、俺の右ポッケにはガラパゴスな携帯が、俺の左ポッケにはプリペイドな携帯が入ってるから。俺から俺へのラブコールが入っちゃうわけ。そしたらさ、電話に出ないわけにもいかないじゃん。
ごめんごめんクソ虫って顔して、窓口から離脱すんのよ。
いやもうさ、俺さ、ハロワ中級者を名乗っても良いんじゃない?
ってな具合に調子に乗りだしたころ、
「では、来月の頭からということで」
って、就職が決まったの。
もうね、春奈ちゃんとハグしちゃったよ。
美奈さんとか親父とかも大喜びしてくれたの。
こうやって、感情を共有できる相手が居るのって幸せだよね。
兄貴?
なんかね、睨んでんの。
おまえさぁ、ちょっとは空気読もうよ。これだからコミュニケーション能力無いヤツは嫌いなんだよ。
そんなに春奈ちゃんと仲良くしたいならズボン履けっての。
自分の娘より、自分の息子を選んだんでしょ、兄貴は!?
そんな空気読まない兄貴なのにさ、
「ここからが本番だぞ?」
「……ん、わかってる」
的確なアドバイスをしてくるわけよ。
俺は39歳の中年で、職歴なしの元ニートで、高卒よりも使えねぇ中途採用なんだって。俺の能力はどうあれ、周りの目は絶対にそう見てくるってね。
メンタルの打たれ弱さでは定評の俺だもの。そりゃ、心配もするわ。
で、早速の洗礼だ。
「早川さんだろ、早川さん!! おまえより年下でも先輩なんだよ。これだから、常識知らないバイトは嫌なんだよ……」
って、斉藤が言うのね。
あ、早川くんはね、とっても良い子なの。
「早川くんで良いっすよ。なんか、年上の人にさん付けで呼ばれてもむず痒いだけっすから」
って初日に言ってくれた一ヶ月入社の早い高卒の先輩なの。
つまり十八歳の工業高校卒業したての若者なの。
そんな早川くんに俺の教育係を押しつけたのが、副班長のクソ虫。じゃなかったわ、斉藤ね、斉藤。
ハロワに付着する汚物とどっちが汚物かって言うとね……やっぱハロワの汚物のほうが汚物だわ。もう、アイツさ、絶対に人を何人か言葉で殺してるもの。どっかの正義の味方はさ、悪の組織の前にハロワの汚物を消毒すべきだよ。
で、早川くんは、サーセンって顔してくれてるの。良い子なの。
なんか、それだけですべてが許せちゃう、都合の良い女になっちゃった自分が悔しいくらい。
マシニングっていう機械を二人一組で任されたんだけど、この機械、コンピューター制御のドリルマシーンっていう超カッコいい機械なの。
俺、ソフト面を担当するの。早川くん、ハード面を担当するの。
早川くんってスマホ世代だから、便利すぎるスマホ世代だから、コンピューターしてるお爺ちゃんには優しくない感じのユーザーライクじゃない機械をあやすのは苦手だったのよね。
逆に俺は、ドリルのビットとか、旋盤とかフライス盤とか、そういう職人の技的なものは苦手だったのよね。
だから、二人のコンビは結構あってたのよ。
隣のマシンを担当してる人も、訓練所上がりと工業高校上がりの組み合わせで出来るわけないじゃんってわかってるから、仕事の手が空いたときには見守っててくれたのよ。
斉藤に言わせれば、
「新人はしごいて伸ばすもの」
らしいけどね。この放置プレイは。
マシニングセンタっていうSL機関車くらいに男のロマンが詰まった機械について話したいんだけど、それについてはカタログとか動画とか見たほうがわかりやすいから割愛するね。
あのね、ドリルが10個も付いててね、それがギュワアアアアンって回転しながらね、立方体の金属をガンガン削ってくのよ。3Dプリンターってあるでしょ? あれを逆にしたような感じなの。
なんて言うのかな、ノミと木槌を使った伝統の匠の技をコンピューターとドリルを使って再現しましたみたいな、男の子なら一家に一台欲しくなっちゃうような、すっげぇカッコいいマシンなの。
しかも加工精度が凄いのよ。
コンマ台って言葉があるんだけど、これは0.1ミリ台を指すのね。で、マシニングセンタなんだけど、コンマ0台。つまり0.01ミリ台の世界で金属を削っちゃうのよ。0.01ミリって言ったら、カンナ掛けなら向こう側が透ける薄さよ?
確かにね、日本の伝統工芸は素晴らしいよ。
サガミオリジナルなんて0.018ミリの薄さだもんね。
でもね、それに匹敵するレベルでマシニングセンタは金属加工しちゃうの。
さらに凄いのがね、3Dなのよ。
真四角の立方体の金属からね、十段重ねの歯車とかも削りだしちゃうの。しかもそれがどんどん階段みたいに小さくなっていって、さらに歯車とチェーンが噛み合うように歯の一つ一つに細かな細工まで施しちゃうの。
もうね、見てるだけでワクワクしちゃうの、金属が削られていく工程を。
で、斉藤なんだけど、クソなの。
で、田中なんだけど、さらに輪をかけたクソなの。
二人足してね……やっぱまだ、ハロワに巣食うゲロのほうが汚物かな。
まぁね、他人の悪口ばっかり言っても仕方ないよね。
だからさ、事実だけを言うね。
俺の務めてる田中精機の食堂なんだけどさ、アメリカの刑務所なのよ。
白人と黒人とメキシカンで派閥争いしてる食堂を想像して。
でね、それを全部ね、日本人にしたのが田中精機の食堂なの。
もうね、椅子一個ね、机一つね、間違っただけで首筋にナイフみたいな食堂ね。
で、俺ってさ、まだ試用期間中のバイトなのよ。
アメリカの刑務所で言うところの、新入りってやつ?
早川くんは良いの、もう、正社員だから、自分の班の机に椅子持ってるの。
問題は、俺ね。
無いの、椅子。
空気でも椅子にして飯食えば良いのかな?
って思ってたら、社員の鈴木さんが、ここ開いてるよって手招きしてくれたの。
うわー、助かったー、で座ってご飯食べたわけ。
美奈さんが作ってくれたお弁当ね。
んでさぁ、
「昨日、俺の椅子に座ったんだって?」
「斉藤さんの椅子ですか? いえ、あの椅子には座ってませんけど」
俺はさ、機械のそばに落ちてる斉藤の椅子を指さして言ったのよ。
そしたらさ、「チッ」だよ。
あ、これは舌打ちの音だから、正確には「ジュェ!」かもね
「食堂の~、椅子のこと~。おまえさ、いい歳してトボけんなよ?」
食堂の椅子?
昨日、座りましたよ。
えぇ、座りましたよ。
だっておまえ、昨日、休みだったじゃん?
「俺もさぁ、こういう細かいことは言いたくなんだけどさぁ、人の椅子を使ったらさぁ、なんか言うことあるんじゃないの? わかんない?」
「あ、えーっと、ありがとうございました?」
「いまさら言っても遅いんだよねぇ。まぁ、俺も、細かいことは気にしないほうだからさぁ、今回は大目に見るよ? でも次からはさぁ、座る前にはひと言さぁ、挨拶して欲しいの。わかる? バイトでもわかるよね?」
俺さ、おまえほど細かい男を見たことねぇよ。
使う前にって言われてもさ、昨日、おまえ、休みじゃん?
俺、おまえの携帯の番号なんて知らないじゃん?
でもさぁ、
「すいませんでした!! 以後、気をつけます!!」
って言うのが社会の常識らしいよ?
「まぁ、バイトだから仕方ないんだけどさ。これ、ルールだから。ルールだから」
「はい! すいませんでした!! 以後、気をつけます!!」
「この歳になって社会の常識も知らないとか、これだからニートは嫌なんだよね」
えっと、ごめんなさい。
俺って、もうバイトしてるからニートじゃないんですけど。
「これだからニートは嫌なんだよね!!」
あ、大事ですもんね。
大事なことだから二回目は大声で言ったんですよね。
遠くのほうで鈴木さんが、「ごめーん」って感じで合掌してる。
おまえらってグルじゃねぇの?
「まぁまぁ、金山さんも悪気があったわけじゃないんだから、ここは穏便に」
ここでやっと田中登場。
いやそこの汚物、さっきからずっと見てたじゃん?
「……田中さんが言うなら、まぁ、許しますけど。田中さんに感謝しとけよ?」
「はい!! ありがとうございます!! 田中さん!!」
「田中さんじゃなくて田中班長ね。細かいことだけどルールだから、守ってね?」
「すいませんでした!! 田中班長!!」
あのさ、そこのちっさい汚物がおまえのこと「田中さん」って呼んだのはスルーなの?
んでさ、「良いよ良いよ」って親汚物が許す構図になって、全面的に俺だけが悪いことになってるわけ。
まぁ、大体がこんな感じね。
あ、鈴木さんなんだけどさ、良い人だった。
昨日座った椅子なんだけど、そもそも汚物の椅子じゃなかったから。
大丈夫だろうって思ったんだってさ。
良かった、汚物の椅子に座ってたら、いまごろ俺の尻が腐ってるとこだもん。
で、なんでこんな無法が通るかって言うとね、親汚物のほうが社長の甥なの。
会社の名前、田中汚物……じゃねぇや、田中精機なの。
斉藤はね、田中の幼馴染の腰巾着なの。
おっかしいよね、いまって昭和じゃないよね、戦前でもないよね。
なのに会社が成り立ってるのはね、あいつら仕事の出来る人には手を出さないからなの。若い人にも手を出さないからなの。俺みたいにね、後の無い弱い人間だけを狙ってるからなの。
悔しいよ? 辞めたいよ? それどころか殺したいよ?
でもさ、我慢なの。
いまは、我慢なの。
仕事を覚えてしまえば、あいつらは手を出してこなくなるから我慢なの。
だけどね、俺はね、気付いてなかったの。
汚物を放置したままにしてる人間も、やっぱり汚物だってことに気付いてなかったの。
試用期間は一ヶ月、そう、求人票には書かれてたのよ。
「金山くんの場合は、ほら年齢だから、もう少し様子を見させてくれないかな?」
なに言ってんだコイツ。
一ヶ月の約束なのに、試用期間って延長できるの?
一ヶ月で本採用になるはずだからって、みんなでお寿司を食べに行く約束してたのにさ、適正を見るために試用期間を三ヶ月に延長するんだって。
あんなに味のしないお寿司食べたの、初めてだったわ。
俺、ニートで良かったと初めて思えたわ。
だって、嘘とか、すっげぇ得意だしね!!
就職を喜んでくれてる皆の前で、俺、ちゃんと笑えてたからね!! ……うん。