第五話 きらきらとかがやくうつくしいせかい、かもしれない
第五話 きらきらとかがやくうつくしいせかい、かもしれない
結果から言うと、ウチの親父はボケて無かった。
いや、俺からすると、「ボケてんじゃねぇぞ」って言いたくて仕方がなかったんだけれども、医学的な見地からするとボケてなかったわけよ。
もう年なんだから素直にボケてろよ。
「親父、なんで最初から正直に言わなかったんだよ!?」
「だってな……恥ずかしいじゃないか」
「俺はさ、親父の存在のほうが恥ずかしいよ!?」
「今の時代は良いな。無職でも偉そうな口を利けるようになったんだからな。ただ歳をとっただけで一人前の顔ができる社会だ。正直者がバカをみるって時代だな」
「嘘ついてたのは親父でしょ!? いま、俺の無職にかこつけて、すっごい誤魔化し方しようとしたよね!?」
まぁ、ここは病院だ。
俺に残った唯一の家族、俺の親父が脳のMRIを撮るために訪れた大学病院だ。
親父だけが唯一の家族ってことは、他の家族は居なくなったわけなんだが、その辺の事情を詳しく説明すると、これが結構長くなる。
四月、五月、それから六月と順調に俺の全財産は右肩下がりで、七月にちょっと持ち直したものの、つづく八月にはまた右肩さがりだ。
なんでかって言うと、バイトを辞めたからだ。
ついでに言っとくと、バイトを始めなかったからだ。
「ツネ。せっかく職歴付けたのに、また時間が無駄になるぞ?」
なんて説教をさ、兄貴が言うもんだからさ、
「はい、これ」
「なんだよ。なにかの書類か?」
薄っぺらな俺の人生を体現してる茶封筒を渡してやったわけよ。
もちろん中身はさ、
「これで最後」
って書かれた兄貴謹製のお手紙ね。
「ツネ。これはなんのつもりだ?」
「いや、兄貴こそどういうつもりなの? これで最後だったんでしょ?」
昔の言葉でいうと勘当された俺でしょ。
昔の言葉でいうと勘当したの兄貴でしょ。
そんな大事なこと、なんでサラッとなかったことにしちゃってんのよ。
そうそう、忘れてたのよ。
兄貴ってさ、もう俺の家族じゃ無かったんだよね。
うっかりしてた俺も悪いんだけどさ、兄貴の頭も都合が良いよね。
家族としてバイバイしてたこと忘れちゃってたのよ。
まぁ、兄貴もさ、自分から言いだしたことだって思いだして、なにか居心地の悪そうな表情を見せるわけよ。
まぁ、「だからなんなの?」って話なんだけどさ。
「ツネ。俺のこと、やっぱり恨んでるのか?」
「全然? いままで養ってもらってさ、で、最後の最後にも100万円まで貰ってさ、それなのに恨むって、そんなの人としてありえないことでしょ?」
「じゃあ、どうしていまさらこんな手紙を持ち出すんだ?」
「ほら、兄貴が忘れてたみたいだから。俺も忘れちゃってたんだけどね。ごめん、俺と兄貴ってさ、もう関係が切れてたんだよね。ごめんごめん、ついつい昔の癖で兄貴のこと頼りにしちゃって。あとはさ、俺一人でやっていくから大丈夫だよ」
「一人でやってくって、ツネ、何にもしてないだろ?」
「大丈夫、働きたくなったら働くから。あとは俺に任せといてよ」
「働きたくなったらって、そういう話じゃないだろ?」
兄貴って、こんなにメンドクサイ人だったっけ?
俺、ちょっと、兄貴のこと勘違いしてたかも。
「大丈夫大丈夫、なんとかなるって」
「何とかなってないから、いま、こうやって話してるんだろ。ツネ。少しは真面目になって話せよ」
「だからさ、真面目に話してるでしょ。兄貴と俺の関係はもう終わったんだって」
なんだろう、この、意味深にもとれる発言は。
もうちょっと詳しく話した方が良いのかもしれない。
「兄貴は、100万円を手切れ金として俺に渡した。はい、これで二人の関係は終わりになったの。もう兄貴と俺は別々の人生を歩むことに決まったの。わかる?」
さらに意味深な発言になった気もするけど、きっと気のせいだろう。
「俺が謝ればツネは気がすむのか?」
「いやだから、兄貴が謝ることなんて何ひとつ無いんだって。謝られても困るよ」
「じゃあなんで働かないんだ?」
「兄貴、なんで俺、働かないといけないの?」
「そりゃ、食ってくためだろ」
「そうそう、だからさ、働きたくなくなったの」
「ツネ。真面目に話せ。言ってることの意味が、全然、わからんぞ」
「もう、しかたないなぁ。飯を食うでしょ、そしたらクソするでしょ。飯を食うでしょ、そしたらクソするでしょ。で、それを繰り返すために働くでしょ。それじゃあ俺の人生って、飯食ってクソをするための人生ってことでしょ。だからさ、もう良いのよ。俺はさ、もう頑張って仕事とかしなくても良いのよ」
「屁理屈ぬかすな!!」
いや、屁の話じゃなくて本体の話をしたんだけど、俺。
なんかね、兄貴には俺の言ってることの意味が理解できないみたいなの。
そう、それで思い出したの。葬式の時の親戚のオッサンのこと。
オッサンの俺がオッサンって呼ぶってことは、一般的にはお爺ちゃんのことね。
あの年代の人達の感覚だと、男は働いてて当たり前なわけよ。
働いてない男は男じゃないわけよ。
で、きっと兄貴もそんな感覚なのよ。
ようやくさ、話が通じない理由がわかったわけ。
でも俺ってさ、説明とかするの下手だからさ、他人の言葉を借りるしかないの。
そう、小坂さんの言葉ね。
「兄貴ってさ、ファミリータイプのミニバンに乗ってるでしょ?」
「なんで急に車の話を始めるんだよ?」
「俺さ、いつになったら同じ車を買えるの?」
さすがは正社員なだけあって、兄貴は理解が早いね。
もう、ピンと来ちゃったみたいなの。この時点で表情が昏いのよね。
「兄貴ってさ、実家だけど家持ってるよね?」
「そうだな、持ってるな」
「俺さ、いつになったら家、買えるの?」
もうね、次の質問は言うなって顔してたよ。
だからさ、俺はちゃんと、キッチリと、口にするわけ。
「兄貴ってさ、奥さんと娘さん持ってるよね?」
このとき俺が考えてたことってね、兄貴にボクサーパンツなんて贈らなきゃ良かったって気持ちでいっぱいなの。兄貴にはグンゼを履かせておけば良かったわ。
グンゼで家庭崩壊とか、主に、100%、完全に、兄貴が悪いんだけどね。
まぁ、そしたら兄貴が黙っちゃったわけ。
俺のこの先の人生のルート分岐が完全に見えちゃったんだろうね。
ニートからバイトになったよ。だからなに?
俺の欲しいものってさ、結局さ、何にも手に入らないじゃない。
「ツネ。でもそれは無いものねだりになるだろ? ……そこは、諦めないとな?」
そう! 兄貴するどい! パンツ以外のことはするどい!!
無いものはね、ねだっちゃ駄目なの。苦しい思いするだけだから諦めないとね。
「うん、そう。だから、ねだらないことにしたの。車とか、家とか、家族とか、そういうものを望まないことにしたの。これで無駄に苦しまなくって済むでしょ?」
「…………。」
この兄貴の無言はね、肯定の意味なの。
簡単に言うと、俺の人生はタイムオーバーのゲームオーバーなの。
あと十年早くて、28歳の俺なら違ったかもしれないよ。でもさ、俺ってもうすぐ39歳の38歳なんだよね。もしもの話をするならどれだけでもタラレバ出来るよ。ちゃんと就職してたらとか、ちゃんと大学卒業してたらとか、ちゃんと胎児のうちに自殺しておけば! とかね?
でも、俺の人生は、どう頑張ったって、飯食ってクソして寝るだけの人生なの。
何億円とかいう宝くじが当たったら話は別なんだろうけどね。
まぁ、宝くじなんて買ってないんだけどさ。
宝くじのさ、「夢を買う」ってフレーズ、ある意味で間違ってないと思うんだ。
お金さえあれば俺だって車買えるし、俺だって家も買えるし、俺だって家族を持てるかもしれないんだからさ。何億分の一の確率か知らないけど、ゼロではないかぎり絶望ではないわけよ。宝くじの一枚でもちゃんと買ってる分には、その人の夢は破れてないわけよ。
もちろん、外れるたびに苦しまなきゃならないんだけど。
もちろん、外れるたびに頑張っただけ苦しまなきゃならいんだけど。
もちろん、ハズレクジを買うために頑張って働かなきゃならないんだけど。
そうやって突き詰めていくと、結局はさ、何にも望まないことが一番に楽で幸せだってことがわかったの。仕事はね、したいやつがすれば良いの。幸せになりたいやつがすれば良いの。幸せになれるやつがすれば良いの。
仕事して、それで、惨めになるやつが仕事なんてしちゃ駄目なの。
いま俺はね、真面目にニートしてんの。わかる?
「ツネは、それで良いのか?」
「ねぇ、兄貴。これって良いとか悪いとかの話なのかな?」
「……そうだな。良いとか悪いとかじゃなくて、早いとか遅いとかの問題だな」
そう、俺はニートの期間が長すぎたの。
長く続くまっくらなニートを抜けると、そこは一面の絶望だった。
文学的に語るとこんな感じね。
兄貴の理解が早くて助かったよ。
眠たくってお昼寝したかったし。
「ツネは、これで満足か?」
「兄貴も言ったでしょ。諦めないと。人生に不満でも納得しないとね」
「そうだな、言ったな……」
で、兄貴は最後の最後に、質問してったわけ。
「ツネ、死ぬ気か?」
「長くはないと思う。だから、春奈ちゃんは絶対にアパートに近寄らせないで」
「そうか……」
そう言って兄貴はさ、肩を落として帰っていったわけよ。
約束通り、春奈ちゃんはこなかったよ。
親父が来たよ。
わけわかんないでしょ?
安心して、俺もだから。
「常康、ちょっと来い、タクシー待たせてあるから」
「来いってどこに!?」
「近くの病院。MRI使って検査するから、家族の誰かと一緒に来いってよ」
「急に言われても困るんだけど?」
「どうせ働いてないんだから用事もないだろ。そんなことより、メーターがあがるだろ、さっさと服着ろ」
タクシーってさ、待たせてるあいだも料金が掛かるんだよね。
でもさ、急に来られてもさ、俺にだって都合ってもんがあるわけでさ。
「メーターあがるって言ってるだろが!!」
でもさ、老人にはそういう理屈は通用しないわけなのよ。
もうね、髭は剃ってないし、顔も脂ってるし、頭だってフケっててさ、
「常康、まだか!?」
でもさ、老人にはそういう理屈は通用しないわけなのよ。
もう急いでパンツ履いてさ、服着てさ、顔を洗おうとしたら、
「んなもん、病院でもできるだろ」
って却下されて部屋から引っ張り出されるわけ。
あ、パンツと服は着てるから、安心して。却下されたのは洗顔だけだから。
病院にも洗顔用のコスメとかあるだろうし、まぁ、良いっちゃ良いんだけどさ。
「なんで俺なの?」
「忠康は仕事してるだろ」
「いや、ウチには美奈さんが居るじゃない?」
「…………。」
でたよ。無言だよ。
これはね、都合が悪いときの無言ね。
不機嫌ですって顔して黙ってれば、相手が気を利かせてくれると思ってる甘えだよね。
「まだ照れんの? 親父、いったい何歳児なのよ?」
「おまえだって美奈さんのことは苦手にしてるだろうが」
兄貴のお嫁さんの美奈さんなんだけどね、普通に美人なの。
この場合だと、えーっと、並外れてはいないけど美人なの。
とりあえずここに100人の女の人が居て、世界は核戦争で、核シェルターの主人が、「ぐへへ」って顔をしながらシェルターに招待するくらいには美人なの。
ウチに初めて挨拶に来たときさ、俺と母さんと親父が揃って、
「なんで?」
って聞いちゃったくらいなの。
文学少女ってさ、読んでる本でしか相手の人間性を判断できない生き物なの?
もっとさ、人間の内面よりも外面を見ようよ。兄貴の顔面を見ようよ。
まぁ、ウチの母さんはさ、女だから良いのよ。まだね。
問題なのは俺と親父よ。
風呂上がりにさ、全裸で遭遇しちゃったら大問題でしょ。
あ、この場合、全裸なのは俺と親父のほうね。ラッキースケベは無いから。
これが金山家の男から下半身の自由が奪われた日ね。
美奈さんはさ、
「私は嫁にきた身ですから、お気遣いなく、いままで通りになさってください」
って言ってくれるんだけど、いままで通りにできるわけがないでしょ!?
いままで通りにしてたの兄貴だけだよ。
あー、あの男、やっぱグンゼ色のままにしておけば良かったよ。
春奈ちゃんが想像妊娠でツワリ起こしちゃうまで放置しとけば良かったよ。
「なんで病院なの? どこか悪いの?」
「頭だ」
「あぁ、頭が悪いんだ」
すげぇ納得。
いてぇな、なんで俺の太もも叩くんだよ。自分で言ったんだろ?
これだから老人は。
「認知症だ認知症。俺は違うって言ってるのになぁ」
「いやそれ、認知症の人なら誰でもいう言葉だよ」
「俺は、本当に違うんだよ」
「それね、酔っ払いの酔っ払ってない発言くらいに信用無いから」
「常康、お前まで俺のことをボケ老人扱いするのか?」
いや、ボケ老人なんじゃないの?
認知症とかまったく関係なしにしても。
まぁ、兄貴からさ、親父の経過は聞かされてたのよ。
毎日って訳じゃないんだけどさ、まだ自分が会社勤めしてる気分でさ、スーツを着てさ、もう居もしない母さんを呼んでさ、朝、起きてくるのよ。
話せばわかってくれるんだけどさ、その頻度があがってるらしい。
月に一、二回だったのが、いまでは週に一、二回だってさ。
それで認知症じゃないって本人が言い張っても説得力が皆無なわけよ。
「俺は病気じゃないって言ってるのにな。信じて貰えないってツライよな」
「ほら、認知症じゃない病気の可能性もあるし、念のための検査なんでしょ?」
「それでもな、俺は、病気じゃないんだよ」
あの親父がさ、うつむいちゃってさ、小さく見えてさ、あぁ、歳取ったんだなぁって感じたよ。
老いはさ、病気じゃないよ。たしかにさ。
病院に着くとさ、もっと小さくなってさ、完全にお爺ちゃんなわけ。
周囲のお爺ちゃんに混じっちゃうとさ、もう見分けがつかないわけ。
で、ウチの親父、どこ行った?
最近の大学病院はもう迷路状態だから、一度はぐれたら、もうわかんねぇの。
「お、常康、遅かったな」
「遅かったな、じゃないよ。なんで勝手に消えちゃうわけ?」
「べつにおまえが居なくても困らんしな?」
タクシーで人を連れてきておきながら、この言い草だよ。
さすがに伸びっぱなしの無精ひげというか、もう山男はまずいから、病院のなかのトイレで髭剃ってきたわけ。そのあいだに消えてたわけ。排水溝が詰まるから、髭は上手にトイレのほうに流しておいた。
ペットボトルに水入れて、ハンドソープを石鹸にしてな。あとシャンプーにも。
俺だって、普段からこんなフリーダムな生き物なわけじゃないよ。
今日だけ特別だからね?
で、MRI検査の時間だ。
これがさ、けっこう長いんだ。
MRI検査もそうなんだけど、そのあとの診断の時間が長いんだよ。
親父とさ、病院のなかの食堂に行って、ご飯食べて、世間話できるくらい。
「結構、時間かかるんだな……」
脳MRIの診断結果が出るのにどれくらいの時間が掛かるのかなんて知らないんだけどさ、こういう検査後の待ち時間って嫌なものでしょ?
もしかしたらって考えちゃうし。
親父の場合、自覚症状も出ちゃってるし。
なのにさ、親父のやつさ、
「大丈夫だ。俺は病気じゃないから」
なんて言うわけよ。
スーツ着て起きてきてさ、居もしない母さんを呼んでさ、それも週に一回は必ずだよ?
それで病気じゃないってことがあるはずないだろ!?
「あのな、常康。俺がな、スーツ着て起きてくるのな……わざとなんだよ」
あるんだよ。これが。
いやむしろ、別の病気の疑いを感じちゃったね。
「どういうこと?」
「朝に一人で起きるとな、ふと、母さんが近くに居るんじゃないかって感じる時があるんだよ。それでな。あぁ、迎えに来てくれたのかと思ってな、それでスーツを着るんだよ。ポックリ逝くにしても、カッコ、つけたいだろ?」
「そうなんだ……」
たしかにね。
死ぬ前の日の食事を選べるなら好きな物を食べたいし、死ぬときの服装を選べるならカッコつけたいよな。
「でも、最近、回数多いんでしょ? 兄貴に聞いたよ?」
「…………。」
もしかしたらなんだけど、ホントに母さんが親父を迎えに来てるのかもな。
元気に見えてるけど、ある日突然って言われても不思議じゃない歳だもんな。
ウチの母さん自身がそうだったしね。
「親父、そんなに母さんが恋しいんだ。……うん、俺もかな」
「…………。」
親父、うつむいたまんまなのよ。
そのすがた見てるとさ、俺まで泣けてきちゃうのよ。
ホント、親父のことを人生で一番、身近に感じちゃったよ。
あぁ、親父も一人ぼっちの等身大の人間なんだなぁって。
「あのな、常康。最近はな、そうでもないんだよ」
「え? じゃあどうしてスーツ着るの?」
「美奈さんがなぁ……」
「美奈さんがどうかしたの?」
「ネクタイをな、キュッって締め直してくれるんだよ」
「…………。」
この無言はね、もう、なんて言ったら良いのかわかんないときの無言ね。
思いだしニヤケしてる親父を相手に「死ね」って言いたいときの無言ね。
もうね、親父のことを人生で一番、身近に感じちゃったよ。
あ、このダメなところのほうの遺伝子を、俺、受け継いじゃったんだって。
この穢れた遺伝子を、捨てたい。
「MRIの画像を詳しく調べてみたのですが、脳のほうにこれといった異常は発見できませんでした」
でしょうよ。
親父の病気はMRIには映らない病気だもんね。
もうさ、俺さ、お医者さんに対して申し訳なくてしかたがなかったよ。
親父も同じ気持ちなんだろうね、うつむいた顔を上げられなかったよ。
「しばらく経過を見てから、症状が悪化するようでしたら再度の検査ということでよろしいかと。それから、御家族の皆さんで一度、よく話し合ってみてください」
お医者さんの瞳がね、親父の顔をジッと見つめてんの。
そりゃそうだ、相手はお医者さんだ、仮病が通じる相手じゃないもんね。
でも、ホントの病気の可能性だってあるから、仮病ですね、とは言わないのよ。
親父はね、言ったよ。
「はい、話し合ってみます……」
ってさ。
で、これよ。
「親父、なんで最初から正直に言わなかったんだよ!?」
「だってな……恥ずかしいじゃないか」
「俺はさ、親父の存在のほうが恥ずかしいよ!?」
「今の時代は良いな。無職でも偉そうな口を利けるようになったんだからな。ただ歳をとっただけで一人前の顔ができる社会だ。正直者がバカをみるって時代だな」
「嘘ついてたのは親父でしょ!? いま、俺の無職にかこつけて、すっごい誤魔化し方しようとしたよね!?」
病院の人、ごめんなさい。
お医者さん、ごめんなさい。
こんなのでも、ウチの親父なんです、ごめんなさい。
で、タクシーは向かうわけよ。金山さん家。つまり、俺の実家ね。
俺は言ったよ?
「は? ひとりで話せば?」
「常康!! ……後生だからついてきてくれ」
もうね、ピーンと来たよ。
これはちょっと説明が難しい話になる。
ここに親父っていうダメ人間が居る。
で、隣に俺っていうダメ人間が居る。
こうやって二人を並べるとさ、真面目に生きてきたぶん親父のほうが比較的マシに見えるわけよ。
あ、この親父、俺のことを弾避けにしようとしてんなってピーンと来たよ。
すっげぇ簡単な説明だったわ。
もうね、俺の人生のなかで一番に情けない親父のすがただったよ。
見苦しいのよこれが、病院がえりなのにケーキとか買っちゃってるの。
なんの退院祝いだよ。
金山家。俺の実家。この敷居を跨ぐとき、俺はいっつも悩むの。
「ただいま」と「こんにちは」、どっちが相応しいのかなって。
33年も住んでた古巣だもの、どうしても、俺の家って意識が抜けないの。
それにさ、実家に帰省したときの挨拶って、「ただいま」でしょ?
だから、いっつも俺は悩むわけ。
でもさ、今日は悩まなかったよ。
「…………。」
「…………。」
ほら、二人揃って無言だから。
だけどね、玄関のドアがガチャってなるとさ、中の人が反応するわけよ。こんなことなら家を出る前にどこか侵入できる開いた窓を作っとけって話。
「あら、お義父さん、おかえりなさい。常康さんも、おかえりなさい」
「ただいま……」
「ただいま……」
もうね、俺たちの表情から察しちゃったんだろうね。美奈さんの顔色も昏くなっちゃってるの。こうね、覚悟を決めたって表情になっちゃってるの。
美奈さんが覚悟することなんて、これっぽっちも無いんだけどね?
「親父、どうする?」
「みんなが揃ってからのほうが良いだろ?」
「まぁ、ケースバイケースだよ」
「なんだそれ」
「一人一人に怒られたほうが良い時と、みんなに一斉に怒られたほうが良い時があんのよ。庇ってくれる仲間をひとりひとり作っていって、一番難しい人には最後に謝んの。わかる?」
「常康が言うと、説得力あるな」
「でしょ?」
そんなことをヒソヒソと話してるとさ、もう、どうこからどう見ても重病が発見されましたよって雰囲気なわけ。
台所にお茶を淹れに消えた美奈さんがね、深刻そうな声で兄貴と電話してる気配もわかるわけ。ほら、ニートってさ、壁の向こう側の気配を察知する能力持ってるからわかるのよ。
で、笑顔で帰ってくんの、美奈さんが急須とかをお盆に乗せて。
もう俺には完璧に作り笑いだってわかるのよ。
でも、親父はわかってないの。ケーキ渡して、これで隠せたと思ってんの。
美奈さんね、若いのよ。
32? 33? 残念、38でした~ってコマーシャルを地で行く人だから。
サバを読まなくてもサバ読んじゃってる人なの。
美奈さんと春奈ちゃんが並んで歩いてると、「姉妹?」って聞かれることは、さすがにない。15歳と38歳じゃそうだよ。でもね、ウチの母さんと美奈さんが歩いてるとさ、「お孫さんですか?」ってのはあるの。
ウチの母さんにも女のプライドってあったんだね。
なんでだか、俺に愚痴りにきたのよ。
「あ、ツネちゃんだ。すき焼き? 焼肉? 食べに行く?」
春奈ちゃんは通常運行だったよ。
ウチの親父が病院に行くってこと自身知らされてなかったらしい。
リビングで親父と打ち合わせしてると、制服姿の春奈ちゃんが通り掛けに声を掛けてってくれたのよ。
俺が来ると、金山家の夕食は、すき焼きか、焼き肉か、外食になるんだわ。
ウチの母さんの法事とか、そういうので集まったときはそう。
その前からも、そう。
俺さ、母さんにさ、お小遣い、貰いにきてたんだよね。
んでさ、普段ロクなもの食ってないだろうからってさ、肉食ってけって言われるの。ホントはさ、兄貴とか、まだ仕事してた親父とかが戻ってくる前に帰りたかったんだけどさ、母さんは帰してくれなかったんだよね。
肉、食ってけって。
どうしてもさ。
……弁当以外の肉を食ったのって、いつ以来になるのかな。
「おう、ツネ。来てたのか」
「うん、兄貴、おかえり」
なんて、白々しい挨拶も久しぶりだよ。
その手に持ってる6缶パックのビール、隠す努力ぐらいしろよ。
500ミリが6本で重さが3キロもあるから、兄貴が買ってくるんだよね。
ホント、懐かしい感じだわ。
悲壮感が漂う親父を除けば。
いやもう、俺からすると年寄りの御茶目レベルなんだけど、本人はね、とんでもないことをしでかしてしまったって顔してるのよ。人間って、積み上げたものが大きいほど、崩れ落ちたときのショックってでかいからね。
俺なんてのはさ、ナチュラボーンダメ人間だからさ、これ以上、イメージの悪くなりようなんて無いんだけど、親父ってずっと一家の大黒柱みたいな顔してたからさ、これっくらいのオチャメでも自分のイメージが崩れると思ってるわけ。
言うほど持って無いんだけどね、親父に、そんなカッコいいイメージは。
いわゆる、団塊の世代だからさ。
団塊の世代って言うのはさ、アマゾンの奥地に住む人食い族をなにかの手違いで現代社会に連れてきちゃったみたいな世代なのよ。
好景気と多すぎる同世代のライバルが引き起こすものと言ったら内紛だ。高度経済成長の影には厳しすぎる出世争いがあったのよ。みんな仲良くゴールしましょうねって約束して、みんなスタートダッシュで全力を出しちゃう世代ね。
全員で裏切ってるから、どこにも裏切者は居ないんだけどさ。
親父ってそういう世代だから、自分の弱さを見せることに慣れてないのよ。
弱みを見せたらライバルに喰われちゃうんだもん。
バブルが弾けたら弾けたで大変なの。
同世代が多いものだから、会社にしがみつくのに必死なの。
だからなのかな、家族のなかで俺に見切りをつけるのが一番早かったのも親父だったのよ。弱者は死ね。船には俺が残る。そんな時代を生きてきた人だからさ。
自分が弱者の立場になったとき、どうしたら良いのかわかんないのよ。
だって、弱さを見せたら死んじゃうんだからね。
あくまでも親父のなかの被害妄想なんだけどさ。
仮病を重ねてMRI検査までいったくらい、大したことじゃ無いのにね。
……無いよね?
んで、今日はすき焼きなわけ。
すき焼きって、家それぞれだよね。すき焼きって言うくらいなんだからさ。でもさ、なんでか好きに食べさせてはくれないんだよね。お前ん家のすき焼きは変だって喧嘩しちゃうの。まぁ、お好み焼きもあんまりお好ませてくれないギスギスした世の中なんだけどね。
うちのすき焼きってね、牛肉の他に鳥のモモ肉が入るのよ。鳥皮がついててね、コラーゲンもたっぷりなの。で、シラタキでしょ、ゴボウでしょ、あとこれが荒れやすいジャガイモでしょ。すき焼きにイモとかないわーとか、喧嘩の元よね。
で、俺と春奈ちゃんは美味しそうに食べてるんだけど、他の三人がさ、御飯の味がしないって顔してるのよ。
親父は嘘ついてたこと告白しなきゃでしょ。
兄貴と美奈さんは、これから癌の告白待ちでしょ。
そりゃあ味はしないよね。
「あ、そうだ、春奈ちゃん聞いて聞いて、おもしろい話があんのよ」
「ツネちゃん、何? あと、その肉は私のだから」
「春奈ちゃんって豆腐取るの下手だよね。でさ、おもしろい話なんだけどさ、親父がスーツ着て起きてくることあるじゃない。あれってね、わざとなんだよ」
「へー、そうなんだ。なんでー? その肉も私のだから」
「春奈ちゃん、鶏肉っておっぱいに良いらしいよ。どんどん食べなよ、俺が牛肉を食べてあげるから。で、親父の言うことにはさ、スーツ着て出勤するフリをすると亡くなった母さん、お婆ちゃんのことを近くに感じられるんだって」
「あ、そうだったんだ。可愛いね。あとセクハラだから、ツネちゃん肉禁止ね」
俺は、嘘を、吐いてない。たぶん。
多少、面白おかしく美談っぽく、脚色しただけだ。
あと、言わなくて良いことを言わなかっただけだ。
ノンフィクションの映画だってさ、演出ってものがあるでしょ?
「お爺ちゃん、なんで嘘ついてたの?」
「気恥ずかしかったんだってさ。ほら、昭和の男ってラブを隠す生き物でしょ?」
「あ、わかるかも。お爺ちゃんて、好きとか愛してるとか簡単に言わないもんね」
はい、これでまずは春奈ちゃんを攻略完了だ。
で、次は美奈さんなんだけど……泣いてるんだけど、どうしよう?
「あの、美奈さん?」
「すみません、私、お義父さんがそんなこと考えてたなんて知らなくて。なにかの病気かもって思ってて……すみません」
「美奈さんは悪くないよ。ホント、ぜんぜん悪くないよ。ウチの親父が堅物なのが悪いだけなんだから。ほら、親父からも言ってやんなよ。黙っててスマンってさ」
「お、おう……美奈さん、黙ってて、スマン。本当にスマン」
「私のほうこそ、ごめんなさい。そんな理由があっただなんて思いつきもしませんでした……」
うん、俺も思いつかんわ。
まさか、息子の嫁にネクタイをシュッてして貰いたいがためにスーツを着る老人とか、俺にも思いつかんわ。
さてと、残るは兄貴なんだけど、さすがだね。
さすが、俺の兄を38年やってるだけあるわ。
さすが、親父の息子を41年やってるだけあるわ。
もう、純粋な疑いの目しかしてないわ。
ウチの親父がさ、母さんを忍んでスーツを着るなんて洒落たことするわけが無いんだよ。兄貴は文学と現実の区別がつく人だからね。あと風呂上りにタオルで股間をぺしーんしてる親父をさんざんに見て育ってきたからね。
亡き妻との想い出にひたるため老人はスーツに身を包み街をただ歩く、ってさ、それどこのイタリア人なんだよって話なわけ。
ねーよ。
ウチの親父に限ってそれはねーよ。
って目をしながら、兄貴はビールをチビチビと飲んでたわけよ。
「親父も、寂しかったんだな」
「忠康、スマン。もっと大事になる前に言っておけば良かった。スマン」
「いいよ。きっと母さんも喜んでるだろうしさ」
どうだろう?
これって、浮気なんじゃないの?
「本当に、みんな、スマン」
って親父が頭をさげたところで俺は気付いたね。
あれ、親父、いつのまにか俺の作り話を自分が本気にしてない?
親父、言ったよね。美奈さんにネクタイ締めて貰えるのが嬉しいって。
「常康。代わりに言ってくれてありがとうな。さ、呑め呑め」
で、俺のグラスにビールを注ぐわけよ。
グラスが空になると縁を指先で叩いて、俺らにお酌させてた親父がさ。
あ、これが団塊の世代の処世術ってやつなんだな。
あとは食って呑んで、食って呑んで、調子に乗って、吐いてだ。
んで、あとは最後の壁、ラスボスの兄貴の攻略なんだけどさ。
正直に話したよ。
だって、どうせ怒られんのは親父なんだし。
「まぁ、親父がそれで幸せって言うなら良いんじゃないか?」
「毎日スーツ着て、散歩でもしてくれれば健康にも良いことだしね」
気が抜けたのか、親父はさっさと酔い潰れて、俺と兄貴ばかりが手酌してた。
手酌もめんどくさいから、もう缶のまま呑んでたよ。
親父の愚痴とか、親父の愚痴とか、その辺の話しながらさ。
だんだん話すこともなくなってきて、口数も少なくなってきた頃に、兄貴が言うんだわ。
「ホッとした。ウチの親父がボケてなくて。いや、スゲェボケてたんだけどな?」
「もう、素直にボケとけよ。いい歳なんだからさ」
「そうそう。素直にボケてろ。まったく……ツネ、ありがとな」
「なにが?」
「親父のこと。あんなに綺麗に嘘つけるのって、あれだな、長年の経験ってやつだろうな」
「うわぁ、失礼だけど褒められてるわ、ありがと」
「良かったよ。親父、ボケてなくて」
「ホントに良かった? 施設に放り込んだほうが良いんじゃない?」
「良かったよ。施設とか入れる金のこと考えると、頭クラクラしてたからな。これでひとつ肩の荷が下りた気分だな。なんか、ホッとしたよ」
「兄貴は色々と背負ってて大変だな、俺、次男で良かったわ」
で、兄貴は俺のことをじーっと見るわけ。
瞳と瞳は見つめ合うけど通じてない、そんな感じね。
「ツネ。ごめんな」
「急になんだよ」
「俺もな、いっぱいいっぱいなんだよ。春奈のことだろ。美奈のことだろ。あのボケ親父のことだろ。いっぱいいっぱいだったからさ、ツネが死ぬって言ったときにさ、気持ちが楽になっちゃったんだよ。あ、悩み事がひとつ減ったって」
「……実際、ひとつ減ったわけじゃん?」
「なぁ、ツネ、家族ってそんなに良いものか?」
「良いもんだろ、そりゃ。春奈ちゃんとか美奈さんとかが聞いたら怒るぞ?」
「そうかぁ? 春奈なんて俺のこと無視しまくりだぞ。美奈だってああ見えてな、俺と二人になると溜まってる愚痴を吐き出してくるんだぞ。親父に至っては、もう言うまでもないよな」
「親父、すげぇ説得力だな」
「おまえもだよ」
「俺、すげぇ説得力だわ」
「でもな、都合が良いとか悪いとかで捨てられるものじゃないんだよな。家族ってさ」
「……兄貴、もしかして俺に喧嘩売ってんの?」
「聞けよ。あのな、姥捨て山って知ってるだろ?」
「そりゃ知ってるよ。マンガ日本昔話で見たよ」
「そういうことなんだよな。都合が良いとか悪いとかじゃないんだよ。もう、そうするしかないから捨てるんだよ」
「俺の場合はニト捨て山か?」
「違うだろ? ツネの場合は自殺だろ。まだ助かる見込みがあるのに、自分の人生に見切りをつけたのはツネ自身だろ? 俺はツネのこと、捨ててないぞ?」
「じゃあ、あの最後って紙はなんなんだよ!?」
「ウチの経済事情だ。計算して計算して、出せる限界があの100万だ。ウチがそんなに裕福な家じゃないことはツネだって知ってるだろ? なんにだって限界があるんだよ。俺は限界まで頑張ってるんだよ。だから限界まで頑張れよ、ツネも」
頑張るって言われたって、俺、頑張らないって決めたところだし。
そんなん言われても困るし。
「たとえばだ、春奈が病気になって、手術にはお金が掛かって、この家も車も売って、退職金を前借りしても100万だけ足りなかったら、ツネはどうするんだ?」
「そりゃ、貰った金、返すよ」
「そういうことだよ」
「どういうことだよ?」
「ツネには家族が居るってことだ。金出してでも助けたい人が居るなら、金を稼がないとな。働かないとな。ニート辞めないとな。なーにが俺、結婚できるのかな? だよ。居るんだろ、お前の嫁、二次元にいっぱい」
「あのな、兄貴、兄弟でも言って良いことと悪いことあるんだぞ?」
「ほら、二次元の嫁が困ってるから金出せってのが今のゲームの流行なんだろ?」
「うっわー、否定できないのが余計に腹立つわ」
「車、家、家族、世界ってそんなにシンプルなものだったか? 他にもあるだろ。ツネが知らないなにかがいっぱいあるだろ。ツネのほうから探しに行かないと見つからない幸せが世界にはいっぱいあるだろ。だから、とりあえず生きろ。これからおまえは自分探しの旅に出ろ」
「この歳でかよ?」
「幸い独身だしな、どっかその辺の道端でくたばっても誰も迷惑しないだろ」
「それって酷くない?」
「酷いよ。でも、お前より酷くない。親父よりも早く死のうとしするお前より酷くない。生きて欲しいって思ってる人間が居るのに死のうとするお前より酷くない。まだ生きられるのに死のうとするお前より酷くない。正直に言うぞ、死ねよカス」
「なんなのその矛盾した発言は」
「うるせーよ。どうせ死ぬんだから一緒だろ。文句言いたきゃ生きてからにしろ」
死人に口なしってわけだ。
上手いこと言うね。
兄貴が言ってることは滅茶苦茶だし、理屈ならべりゃどんなことでも否定できるし、理屈ならべりゃどんなことでも肯定できるんだよな。生きるとか死ぬとか、そういうのも、たぶん、似たようなもんじゃねーのかなって思ったわけよ。
でもさ、やっぱ心が折れる瞬間ってあるわけよ。
でもさ、やっぱ心が立ち直る瞬間もあるわけよ。
俺の部屋はまだあってさ、美奈さんが掃除してくれててさ、キレイに片付いてるわけ。ホント、キレイに片付いてるわけ。アパートから運びだされた荷物も整理されててさ、ベッドには真っ白なシーツが敷いてあるわけ。
もう、感動の白さだよ。あ、なんか良いなって思える瞬間だよ。
言葉にできない、なんか良いな、だよ。
でもさ、やっぱ心が折れる瞬間ってあるわけよ。
なんでなんだろうね。
ホント、なんでなんだろうね。
エロ本を机の上に重ねて積んでおくのは、女の本能かなにかなの?