第四話 自宅警備員、自宅外警備員になる
第四話 自宅警備員、自宅外警備員になる
赤みがかったオレンジ色のライトセイバーを振りまわす。それが俺の仕事だ。
このライトセイバーの正式名称は『あの棒』、『あれ』、『棒』このどれかだ。
道路の中央分離帯側に立って、外側に向かって俺が棒を振るわけよ。
そしたらさ、俺のなかに眠ってた不思議な力と、ドライバーの機転で車が隣車線に移動するわけ。
これがさ、夜中だったりするとわりと命懸けの仕事になるなわけ。
交通誘導なんて簡単な仕事だと思うでしょ?
それはね、アナタが良い人だからなの。
優良ドライバーな人だからなの。
先輩のね、小坂さんがね、言ったんだよね。
「百台のうち九十九台はまとも。残り一台がまともじゃない」
これね、真実だったよ。
俺がさ、思いっきりライトセイバー振ってるのにさ、ホント、ギリギリまで車線変更しない車が居るのよ。
道路工事してるとこの限界ぎりぎりまで全速力で走ってきて、隣の列に入れろってワガママ言うのさ。
でもさぁ、隣を走ってる車にだって自分のペースってもんがあるじゃない?
車間距離とかあんまりとってなかったりしてさ、割り込む隙間なかったりするわけよ。
で、そういう車にかぎって譲る気もないんだよね。
残り一台と残り一台が道路上でかち合ったりすると、なんでだか俺が死にそうになるわけなの。わかる?
「棒はね、真面目に振らないと危ないからね」
小坂さんが、だらしなく棒を振ってた俺に注意してくれたわけ。
でもさ、車なんて何にもしなくても自動的に避けてくものでしょ?
だから自動車って呼ばれてるんでしょ?
うん、自動的には避けないんだけどね。
そういう機能ついてないもんね。
ほとんど手動操作だもんね。
あと足。
でさぁ、自動車に乗ると性格変わる人って居るでしょ?
俺がね、相手してる人ってね、基本的にそういう人たちなわけよ。
ちょっとでも前の車が遅いとさ、「ノロノロ走ってんじゃねぇぞタコすけが!」って思わず言っちゃう人っているじゃない? そういう人が運転してる車の前でさ、オレンジ色のライトセイバーをやる気な~く振ってたらさ、結果はわかるでしょ?
わざと幅寄せしてきてさ、自動車を誘導するためのコーンをコーンって弾き飛ばすわけよ。あ、コーンて言うのは、プラスチック製のトンガリ帽子のことね。あの地面に置いておくヤツのこと。あ、コーンをコーンってのはダジャレだからね?
んで、現場のコーンって重いトキと軽いトキがあるの。
重りを乗せるか乗せないかなんだけど、風が強い日とかは安全のためにわざと重くしておくわけ。そこに幅寄せしてきて、そのくせ車体感覚がない、車の値段は高級だけど人間としては低級な若者が来るとガコーンってなるわけ。
人間として低級ってのは、ドライビングテクニックが未熟って意味ね。
人間としてのレベルの低さなら、脱ニート一ヶ月な俺ごときじゃ誰にも説教なんてできないに決まってるじゃん?
前途洋々な若者には純粋に、死ねって思うことくらいしかできないじゃん?
ま、それは本音ね。
建前は、遠くの方で停車してフロントの傷確認してるガキのすがたを眺めてさ、「よっしゃ!」
って喜ぶくらいのことしか出来ないわけ。
でさ、飛んだコーンてやっぱ危ないからさ、現場の人に怒られんのよ。俺が。
誰が良いとか悪いとかじゃなくて、事故になるとメンドクサイわけ。
転がったコーンが別の車にぶつかったりしたら、メンドクサイわけ。
ここはね、良いとか悪いとかじゃないの。誰の責任とかでもないの。
事故はね、無いのが一番なの。
だから俺は大げさな身振り手振りで、「あっち行け」って念を送ってるわけ。
でもね、夜になればなるほど避けないのよね、トラックが。
轢かれたら人生終わりか、終わり以上の終わりになっちゃうでっかいトラックが避けてくんないのよ。
荷物を乗っけてて、車もでかいから、車線変更が難しいんだってね。
あと、半分、眠ってるとか。
だから俺は大げさな身振り手振りで、「あっち行け」って念を送ってるのよ。
ライトセイバーとフォースの力で、今日も俺はトラックと戦ってるわけなのよ。
で、こうなった経緯について説明したほうが良いんだろうと思うから、話すよ?
まず、石橋さんのアドバイスがことの始まりね。
あ、ハロワに寄生してた生ゴミのことじゃないからね。
履歴書に嘘を書いてもバレないって言われたけどさ、バレたら怖いじゃん。
嘘にもさ、上手な嘘と下手な嘘ってあるわけじゃん。
38歳職歴なしのこの俺がだよ、東大卒なんて書いたら当然バレるじゃん。
で、兄貴が言ったわけよ。
「まぁ、バレたところで何かあるわけでもないから良いんじゃないかな?」
ってさ。
バレたら大問題になるに決まってるじゃん?
「バレても最悪、不採用になるだけだろ?」
まったく問題にならないんだってね。
そりゃ雇う側からすると無駄な時間使うわけだから迷惑なんだけどさ、愚痴のひとつも言いたくなるわけなんだけどさ、そりゃ呼び出しのひとつもしたくなるわけなんだけどさ、裁判沙汰にはしたくないわけ。
理由は、メンドクサイから。
嘘ついて応募してきたヤツが居た。
で、実害は、まったくと言っていいほど無いわけ。
法律の超専門家からすれば何かの罪になるんだろうけど、法律の普通の専門家からすると、んなことで裁判起こすのとかメンドクサイんだってさ。だって、相手は38歳職歴なしのニートだぞ。裁判するだけ人生の無駄遣いじゃん。
嘘つきニートに構ってるほど世の中は暇じゃないんだってさ。
「まぁ、良くはないことだよな」
「うん、良くはないことだよね」
「まぁ、手段を選んでる場合じゃないよな」
「うん、手段を選んでる場合じゃないよね」
「まぁ、バレなきゃ良いんだしな。ちゃんと仕事をこなしさえすれば」
「うん、バレなきゃ良いんだよね。ちゃんと仕事をこなしさえすれば」
兄貴の言うことに、ただただ俺は頷いてたわけよ。
だってさ、正直を貫いて死ぬか、嘘ついて生きるかを選べって言われたら、大体の人は嘘ついて生きるほうを選ぶでしょ?
それとも、正直に生きて美しく餓死しろって言うの?
死に際が美しいなんて嘘だよ。死んだら俺汁が床にこぼれるだけだよ。一階の人が一生、お鍋が食べられなくなっても良いわけ?
で、兄貴が言うわけさ。
「ツネ。俺の免許の色ってわかるか?」
「うんこ……あ、違った、黄土色でしょ?」
「ゴールドな。ゴールド免許はな、無事故無違反の優良ドライバーの証明書なんだよ。でも実際な、無事故無違反かって言われるとな、これは嘘になるんだよな」
「兄貴、なんかやらかしたの?」
「スピード違反だな。たぶん30キロほど超過したかな」
「じゃあなんでゴールドなの? スピード違反したんでしょ?」
「それは、バレなかったからだ。パトカーが近くに居なかったからだ。つまりだ、バレなきゃ良いってのは、ある意味、世間では常識なんだよ。ツネ。わかるか?」
「うん、わかるよ」
兄貴はさ、俺なんかと違ってさ、真面目な人なわけよ。
お嫁さんが美奈さんなのもさ、兄貴が真面目な文学青年だったからなのよ。
ハードカバーのさ、角で殴ると痛い小説とか兄貴は読むのよ。
俺のはさ、主人公以外は全員美少女っていう別の意味で痛い小説なんだけどさ。
まぁ、俺のことは置いといて、兄貴の話ね。
いやでもさ、年頃の娘がいる母親にとって、頭蓋骨の半分が眼球で出来てる美少女にチヤホヤされる小説を読んでる中年男性ってのは、家のなかに置いておきたくない存在だって気持ちも理解できなくもないわけ。
俺が美奈さんの立場でも、なんか対応を考えるわ。
たぶん、家から追い出すね。
真面目に考えて、たぶん家から追い出すね。
悔しいけど、これしか正解が思いつかないわ。
で、兄貴の話なんだけどさ、結構な文学青年なわけ。芥川賞ってあるじゃん。有名な小説じゃん。でもさ、読んだことあるかって聞かれたら無いわけじゃん。ここ十年分の全部って言われたら、ほとんどの人が無いわけじゃん。
兄貴の嫁さんの美奈さんって殆ど読んでる人なのよ。
で、兄貴も全部とは言わないけど、十冊のうち五冊くらいは読む人なのよ。
文学少女と文学青年の出会いっていう文学的な流れで二人は結婚したわけよ。
なにが言いたいかっていうと、兄貴ってさ、真面目なんだよ。
たぶんね、俺以上にね、嘘をつくってことに拒絶反応を起こしてるわけよ。
兄貴はまっとうな社会人だからね、理論武装して自分を誤魔化してるわけ。
でもね、トランクスの横から「こんにちは」するのは許されるの。
このへんの感覚は、全然、わっかんないんだけどね。
それを許してる美奈さんの感覚も、全然、わっかんないんだけどね。
文学少女ってさ、読んでる本でしか相手の人間性を判断できない生き物なの?
あ、そういえばね、ここなんだけど俺の部屋ね。アパートね。
兄貴がね、パソコンが無いと就職活動に不便だろうって持ってきてくれたの。
で、三ヶ月ぶりにネット回線っていう文明の光が俺の部屋に戻ってきて気付いたわけよ。
「兄貴、俺さ、この三ヶ月間、ネットの料金を無駄に支払ってない?」
「寿司か? 寿司で良いのか?」
「私、パスタが良い。あのね、隣の駅前に美味しいパスタの店ができたんだって」
「じゃあ、ファミレスだな」
「うん、ファミレスだね」
「なんでツネちゃんまでそういうイジワルとか言うわけ!?」
「だってなぁ……」
俺、兄貴、春奈ちゃん、つまり、中年、中年、女子高生の組み合わせでオシャレなお店に入るのって、結構、ハードルが高いわけよ。ほら、兄貴って文学青年だけどトランクスの横から「こんにちは」しちゃう人だからさ。見た目がオシャレってわけじゃないんだよね。
でさ、久しぶりのネットだから色々調べてたわけ。
んでさぁ、これがさぁ、ほんとにさぁ、
「あ、ハロワってネットで仕事探せるじゃん」
「え? うそ? あ、ほんとだ……」
うん、ホントなんだよね。
俺さ、ハロワ中級者とか名乗ってたけど、ごめん、アレ、嘘だから。
俺なんてさ、ハロワ初心者もいいところだったわ。
やっぱりさ、ハロワ中級者を名乗るには一年とか通わないと駄目だわ。
「ねぇ、俺、なんで毎日ハロワに行ってたの? ホント、なんで?」
「ツネちゃんさぁ、私さぁ、そういう細かいこと言う男の人って嫌いかも」
「兄貴、良かったね。これからはパンツの横からうっかり出しても、細かいことを気にしない春奈ちゃんは怒らないんだってさ!!」
「話違うから! アレだけは絶対に嫌だから!! 生理的に受け付けないの!!」
あ、この時点でね、兄貴、けっこうションボリしてるのよ。
じゃあ、ズボン履けば良いって思うでしょ?
でもさ、男ってさ、自由に憧れるところがあるじゃん?
娘には嫌われたくない、でも、パンツで過ごしたい、そんな葛藤があるわけ。
だからさ、俺は折衷案を提案してみたわけよ。
「あのさ、兄貴。横からこぼれないパンツもあるじゃん? アレじゃ駄目なの?」
「この歳でそういうのはちょっとな。あーいうのは、子供向けのモンだろ?」
「なにその歳で恥ずかしがってるんだよ。兄貴がどんなパンツ履いてたって、誰も気にしてないから。それよりも、年頃の女の子にパンツ見せつけるほうが恥ずかしいことだから。春奈ちゃんの友達が来たときに横からこぼれたらどうすんのよ?」
「それ!! ツネちゃんが言ったそれ!! ほんと、嫌なの!!」
兄貴、やらかしてんのかよ……。
「そう言われてもなぁ、俺の服を買ってくるの美奈だしな」
「じゃあ、美奈さんにお願いすれば良いじゃん。買ってきてって」
「うぇぇ……」
だからどうしてそこで渋るのよ。
兄貴はそこまで自由に憧れる人なわけ?
確かにボクサーパンツは若者向けだけどさ、べつに中年が履いたって良いじゃない。……良いんだよね? まぁ、ちょっと、痛々しいかもしんない。あれってさ、腹筋が割れてる人専用って感じがするから。
「お父さん、お願いだから、パンツ変えて」
「……わかった。考えとく」
うん、俺と兄貴ってさ、やっぱり兄弟なんだなって感じたわ。
こうやって、考えとくって逃げ道作っておくわけ。
で、女の子にはそういうの通用しないわけ。
「考えとくじゃなくて、すぐっ!!」
「いや、ほら、母さんとも相談しないと、だろ?」
「兄貴のパンツをなんで美奈さんと相談しなきゃなんないの?」
「ツネ。ちょっと黙ってろ」
「ツネちゃん、言ってやってよ。ちゃんと言わなきゃお父さんって、なんっにもしないんだから!!」
うん、俺と兄貴ってさ、やっぱり兄弟なんだなって感じたわ。
基本的には待ちの姿勢なんだよね。言われてやっと動くみたいな。
「兄貴、諦めようよ、ね?」
「でもなぁ」
「春奈ちゃんの友達の前でさ、うっかりチラ見せしちゃうのってさ、たぶんさ、スピード違反よりも問題あることだと思うよ? 相手は、もう女子高生なんだよ? 家のなかだから許されてるけど、家の外なら普通に犯罪だからね?」
「わかったよ! パンツ変えれば良いんだろ、パンツを変えれば!! 人を犯罪者扱いしやがって!!」
なんでここで逆ギレするかな。
まぁ、俺の兄貴だからなんじゃないかな?
「ほんと、すぐだからね!?」
「わかったっつってんだろ!!」
でね、こうやってフテ腐れるとね、帰るのよ。
帰ってさ、自分の部屋に閉じこもるのよ。
そりゃ、文学青年にもなるわけよ。
で、俺のご飯のことはすっかり忘れられちゃったわけなのよ。
「総務のヤツに聞いてきた。ウチの会社にしとけ」
あ、これね、翌日の話ね。
真面目な人ってさ、やると決めたらやるんだよね。
真面目な人ってさ、殺すって決めたらさ殺しちゃうんだよね。
逆にさ、不真面目な人ほどさ、殺すって言いながら殺さないし、死ぬって言いながら死なないものなんだよね。
で、なにが兄貴の会社かって言うと、俺の偽の職歴ね。
総務って言うのは会社のなんでも係なところなんだけど、代表の電話番号の先でもあるわけ。で、兄貴の会社は、大企業と中企業のさかいめが何処にあんのか知らないけど、その辺の会社なわけ。つまり、キッチリとしてるほうなわけ。
兄貴ね、ホント、犯罪者向きの性格してるわ。
まずさ、総務の人間に聞いたんだって。前職調査の電話が掛かってきたらどうするのかって。そしたらさ、原則答えないんだって。在職中の人なら、まず本人に話しても良いかって確認取るんだけど、「ヤダ」って言ったら、「当社ではそのような名前の社員は確認できませんでした」って答えるんだってさ。
ほら、付き合いのある会社なら総務じゃなくて、部署の電話にかけてくるものだからさ。で、相手の身分だって口先で名乗ってるだけだから、たとえ警察でも折り返しお電話させていただきますになるわけ。
個人情報の管理がしっかりしてるところって、ガードがホント堅いのね。
で、辞めちゃった人の場合、本人の意思確認ができないから、警察とか裁判所とかでもないかぎり、名前も住所も電話番号も、それどころか在籍の記録すらもね、「お答えいたしまねます」で終わらせちゃうんだってさ。
これは総務の話で、個別の部署の電話になるとまた別らしい。
でもそれは取引先の会社しか知らない電話番号だから普通は知らない番号なの。
で、ここまで完璧に調査してから、兄貴は電話かけたのよ。自分の会社に。
社内でスマホ取り出して、存在しない俺の職歴を聞き出そうとしたわけなのね。
「鉄壁だな」
これ、兄貴の感想。
社会保険とか雇用保険とかの外部の記録があるから、正式な社員であったなら、自分自身で在籍の証明ができるわけよ。そちらのほうで、ご確認くださいってさ。会社はノータッチの姿勢ですよーって、守りを固めちゃってるわけなのよ。
つまり会社は、メンドクサイことには一切関わりたくないわけよ。
昭和の常識は、もう一切通じないわけなのよ。
「お宅に務めてた金山さんだけど、働きっぷりはどうよ?」
「いや~、アイツはダメだね~。どんだけ教えても使いモンにならねぇわ」
「そっか~、じゃ、ウチでの採用は見送るわ~」
ってなことになれば、一発で訴訟問題だからね。
訴訟問題はそのまま企業イメージのダウンになるからね。
で、兄貴がハローワークのページとかバイト情報のページとか開いて、なんか、色々と調べてるわけ。完全犯罪の達成を目指して頑張ってる背中、カッコいいわ。
俺?
兄貴の買ってきてくれた弁当食ってたよ?
で、兄貴が聞いてくるわけ。
「ツネ。販売店の店員とか、できるか?」
「できそうに見える?」
「ツネ。工事現場の作業員とか、できるか?」
「できそうに見える?」
「ツネ。交通誘導の警備員とか、できるか?」
「できそうに見える?」
「じゃあ、警備員な」
で、警備員に決定したわけ。
まぁ、警備員なら慣れたもんだよ。自宅専門の警備なら18年のベテランだ。
それから一週間後には、俺、ライトセイバーを構えて道路に立ってた。
ちょっとね、俺もね、この辺の展開は魔法かなにかじゃないかと疑ってるの。
まず、履歴書もって面接に行くでしょ?
そしたらさ、社長が面接官してる小さな事務所なのよ。
んでさぁ、多少、挙動不審しながらも嘘の履歴書を出すわけよ。
まず兄貴の会社でしょ、潰れたビデオ屋でしょ、存在しない本屋でしょ、あとはちょっと憶えてませんって顔をして面接をすすめるわけ。
「えっと、金山さんが以前勤めてた先は、六年間で良いんだよね?」
「はい、色々掛け持ちしてましたが、主に務めてたのはそこの会社です」
「掛け持ち?」
「えっと、保険てあるじゃないですか。アレの対象にならないよう時間を調節されてて、それだけじゃ食べていけなかったものですから」
「あー、なるほどね。じゃあさ、明日から入れる?」
「は?」
「ちょっとね、いま人手が足りなくてさ、現場で研修って形になるけど良い?」
「あ、はい」
「えーっとね、身元保証の関係で、前の職場に電話かけさせてもらうことになるけど良いかな?」
「あ、はい」
「じゃあ制服一式を渡しておくから。あとはリーダーの小坂くんに話は聞いてね」
で、俺はお外にポツーンですよ。
意味わかんないだろ?
奇遇だね、俺もだよ。
んでさぁ、帰り道の途中で知らない番号から携帯に着信があったわけ。
これがね、俺と小坂さんとの馴れ初めね。
「金山常康さんの携帯電話でよろしいでしょうか!?」
「はい、私です。金山常康です」
後ろで工事してるから、小坂さんの声が大きいのよ、これが。
「明日ですね、朝の、え~っと六時半!! 会社のある駅前大丈夫ですか!!」
「はい、大丈夫です!」
「制服はですね、カバンに入れて私服で来てください!!」
「はい、わかりました!!」
「じゃあ、また明日の朝ということで!!」
「はい、じゃあまた明日の朝!!」
小坂さんの声が大きいからね、俺の声も自然と大きくなっちゃうわけよ。
電車乗って、自転車乗って、お家に帰って、お布団に座って、そしたらまた知らない番号からの電話だ。
「えーっと……金山くん?」
「はい、どちらさまでしょうか?」
「あぁ、ごめん、さっき面接した」
「あ、社長ですか。お疲れさまです。なにか?」
「あの、ごめんねー、ちょっとねー悪いんだけど、金山くんの友人、誰か紹介してくれる?」
「えっと、友人ですか?」
「あ、ごめんごめん。金山くんの前の会社なんだけどさ、ちょっと身元の確認取れなくてさ、誰かキミの身元を保証してくれる友達って居るかな?」
「居ますけど、どうすれば?」
「その友達の名前とね携帯の番号を教えてくれる? こっちから電話かけるから、あ、その前に金山くんのほうからも連絡しといて。ほら、知らない番号だと電話に出ない人って居るから」
「はい、わかりました。じゃあ、いまから名前と番号を言いますね」
「ん、ちょっと待ってね~、ちょっと待ってね~、はい、どうぞ」
んでさぁ、俺はさぁ、電話番号を伝えたわけよ。
兄貴から貰ったプリペイド携帯の番号を。
で、待つの。掛かってくんの。社長からの電話。
「えーっと、金山くんから話のほう、聞いてますかね?」
「はい、聞いてます。なに話せば良いんスかね?」
「あ、えっとねぇ、金山……常康さんなんだけど、借金とかある?」
「いや、無いと思うっスよ」
「じゃあさ、警察に捕まったとかって話は聞いたことある?」
「いや、それも無いっスよ」
「あとは、えっと、金山くんって普通の人? あの、ヤクザとか、関係ない?」
「いやいや、金山は、ホント、普通のやつっスよ」
「そっか、ありがとう」
警備会社自身の警備がザルすぎるのはどうかとおもったけども、まぁ、そこにつけ込んだんだから、五分五分かな?
一応ね、バックに雑踏っぽい音楽流したり、口調を変えてみたりしたんだけど、普通に俺が出ても問題なかったような気がするの。
不安になるくらいトントン拍子なんだけど、俺、ニートじゃなくなったらしい。
なんて言うのかな、色んな意味で怖かったわけよ。
俺に仕事なんてできるのかな~なんて不安もあったんだけど、この会社で大丈夫なのかな~って不安の方が大きかったわけ。
で、兄貴にさっそく電話だ。
「ツネ、どうした?」
「あのさ、バイト、決まったんだけど」
「そうか。良かったな。いつからだ?」
「明日」
「…………そうか。良かったな」
「あのさ、俺、すごい不安なんだけど」
「まぁな、いきなり働きだすってのは怖いよな」
「そっちも不安なんだけど、会社のほうが怖いんだけど、今日で明日ってアリ?」
「…………うん、アリ」
「兄貴、なんか隠してない? 絶対になんか隠してるよね?」
「ん~とな、あの会社な、評判悪いんだよ。やることとか全部適当でな、バイトなのに長連勤あったりな、下請けの下請けみたいなところだから仕事が急に入ったり無くなったりしてな、うんまあ、そういう情報がネットにはあるよな?」
「なんでそんなヤバそうな会社を選ぶんだよ!?」
「まともな会社だと審査が厳しくて雇ってもらえないからだな。接客はムリ、力仕事もムリ、工場仕事もムリ、なら道に立ってライトセイバー振るしかないだろ?」
「兄貴、なんでそんな正論を言っちゃうわけ?」
「だってな、おまえ、ニートじゃん?」
「うっせぇ!! おかげさまでもうニートじゃねぇよ!!」
電話、切ってやったよ。
で、春奈ちゃんに電話したよ。
「ツネちゃん? どうしたの?」
「あのさ、バイト、決まったんだけど」
「そうなんだ! すごいね! いつから!?」
「明日」
「そうなんだ! すごいね! 明日からなんだ!」
「あのさ、俺、すごい不安なんだけど」
「そうだよね、ずっと働いてなかったもんね。ツネちゃん、がんばろ?」
「そっちも不安なんだけど、会社のほうが怖いんだけど、今日で明日ってアリ?」
「なにかダメなの? 働きたい人がすぐ働けて良いんじゃないの?」
「そうだよね~!」
どうしてあの兄貴から、この春奈ちゃんが生まれるんだろうね。
生命って、ホント、神秘だわ。
「春奈ちゃん、なんか、後ろの方がうるさいけど大丈夫?」
「大丈夫。なんか、お父さんぽい人が騒いでるだけだから。ほんと、うるさいの」
お父さんぽい人ね。
兄貴に何があったのか知らないけど春奈ちゃんは兄貴の娘だな、間違いないわ。
んでさぁ、電話の向こうから金山家の、俺だけ抜いた金山家の声が聞こえるの。
それから電話を切るとさ、ホント、静かなんだよ。
まだしぶとく寿命が残ってる蛍光灯を見上げてさ、また輪っかつくるの。
俺と、布団と、蛍光灯。
もう、これ以上ないパーフェクトワールド。
あ、パソコンのこと忘れてたわ。ごめん。
でもさ、なんだか昔ほどネットとかしたい気分じゃないんだよね。
ぼーっと時間が過ぎて行くだけで良いの。
ほんと、それだけで良いの。
まぁ、ぼーっとしすぎて初日から遅刻しちゃったんだけどね。
「ごめんなさい、すいません。ホント、すいません」
「大丈夫ですよ。集合六時半ですけど、出発七時過ぎですから。今日は初日ってことでちょっと早目に来てもらっただけですから。来てくれただけでも十分ですよ」
小坂さんは優しい人でした。
バイト初日で遅刻とかホント、印象最悪なわけよ。
でもね、小坂さんからするとそんなことはどうでも良いの。
「初日から来ない人いるからね。この業界」
最悪って最も悪いことだからね、俺の遅刻程度では小坂さんは動じませんよ。
「え~っと、服装についてなんだけど、社長から説明受けました?」
「すいません。聞いてません」
「金山さんが謝ることじゃないですよ。説明しない社長が悪いんですから」
小坂さんはね、優しいっていうよりも達観してた。
もう、定年を間近に控えた……寿命を悟っちゃった人みたいな顔してんのよ。
たぶん兄貴くらい、つまり俺くらいの歳っぽいんだけど、年齢不詳なの。
それで、とつとつと話す人なの。
それでね、とってもわかりやすく話してくれる人なの。
だけどね、全然、笑わない人なの。
怖いの。枯れ木にぶらさがった、てるてる坊主、人間バージョンみたいなの。
警備員が手に嵌めるのは軍手じゃなくて白手っていうものらしい。
タクシーの運転手さんの手袋って言えばいいのかな、あんな薄手の手袋。
で、そんなのは現場じゃ使い物にならないから、やっぱ軍手を嵌めるの。
移動しながら道路工事する現場だと、けっこう、物も運ぶのよ。
看板とかコーンとかね。
靴なんだけど、革靴の安全靴なんてものがあって、指定はそれなの。
で、そんなのは現場じゃ使い物にならないから、やっぱ普通の安全靴なの。
学校の校則みたいなものらしい。
人によっては制服じゃない作業ズボンだったりするしね。
一応ね、言っておくけどね、これが普通の警備員なわけじゃないからね。
小坂さんがね、会社のこともコソッと教えてくれたの。
まともじゃないってさ。
うわ、怖い。
道路の工事現場っていうのはつまり道路だから、電車じゃ行けないところにあるのよ。だから駅で集合して、小坂さんの車に乗って現場にまで向かうわけ。
それで、現場に着いた途端にね、小坂さんの態度が豹変するのよ。
「おはようございます!! 今日も一日、よろしくお願いします!!」
「お願いします!!」
小坂さんね、低血圧なのかな、ONとOFFの差がすっごく激しいのよ。
現場についた途端にさ、立派なリーダーに変身するわけ。
キビキビと働いて、指示して、見てるだけでも気持ちいいくらいなのよ。
そんな小坂さんの下だから、俺まで自動的にキビキビしちゃうわけ。
で、怒り方まで違うの。
こうね、まず小坂さんがやってみせるの、それからどうしてこうなのか理由も教えてくれるの、たとえば猫背になるとやる気なく見えるとか、たとえば棒振りがいい加減だとやる気なく見えるとか、道路に対して正対してないとやる気なく見えるとか、そしてやる気がなく見えることが、ものすごい危険なんだってこととか。
だってさ、俺が相手にしてるのは自動車なんだからね。
突っ込んできたら、それで一巻の終わりなんだからね。
でれで、
「百台のうち九十九台はまとも。残り一台がまともじゃない」
って、道路工事の危険性を小坂さんが俺に教えてくれたわけよ。
どんな仕事場だって危険だよ。それは俺にもわかる。でもさ、道路の工事現場ってちょっと特別なんだよね。なにもさ、特別危険な仕事だって言いたいわけじゃないんだよ。でもさ、自分の不注意で死ぬならともかく、他人の不注意で殺されるのって道路工事の現場くらいなもんでしょ?
ついつい忘れがちだけど、自動車って、人間を簡単に殺せる凶器だからね。
だからさ、「出来ることはやっておかないとね」って小坂さんの言葉がさ、自動車免許を持ってない俺でさえよく理解できたわけよ。
で、ライトセイバーを頑張って振りまわしたわけ。
頑張ってるのは他人の為じゃないよ、自分の為なんだよって言い聞かせてさ。
頑張ったよ。俺にしてはさ。
これで日給八千円。交通費込みのお値段ね。
深夜給なら一万二千円。これも交通費込みのお値段ね。
まぁ、やっぱりお仕事はキレイごとだけじゃなかったよ。
小さい警備会社だからなのかスケジュールがね、ものすごい不規則なのよ。
手に入る仕事は片っ端から集めてくるんだけど、急に人員は増やせないからさ、現場にしわ寄せがくるのよ。8時から17時の工事現場の仕事が終わった後にさ、20時から6時の工事現場に行って欲しいって頼まれるのよ。
いや、ちょっとまって確か明日もさ、8時~17時で同じ現場に入るんだよね?
ねぇねぇ、社長。俺って、いつ寝る計算になってるの?
って思ってたら、じゃあお仕事無いから三日間もお部屋でポツーンなのね。
あ、これ、絶対に人がどんどん辞めてくはずだって俺ですら理解できちゃった。
でもさ、嬉しかったんだよね。初月給。
支払日が月二回だから半月給なんだけどさ、七万二千円。
あぁ、俺、ようやくニートを卒業できたんだなって、泣けてきちゃった。
俺、バイトだよ。
俺は、アルバイトだよ。
俺はさ、アルバイトなんだよっ!!
「いや、それってフリーターじゃないか?」
「そんなこと言ってるから兄貴は春奈ちゃんに嫌われるんじゃねぇのっ!?」
「……かもな」
「兄貴、どしたの、なんかスゴイ元気ないけど」
まぁアレだ。
初めてのお給料で恩返ししようかなんて考えて、俺、兄貴に電話したわけよ。
そしたらさ、兄貴がこんな調子なの。
「ツネ。おまえの持ってる小説にさ、女の子の気持ちがわかるようなの無いか?」
「いや、ごめん。俺、そういうのは持ってないわ」
「ツネの好きな小説って、高校生くらいの女の子がいっぱい出てくるだろ?」
「いや、ごめん。アレって空想上の生き物の話だから。本気にしないで」
「ツネ。俺な、年頃の女の子の気持ちを知りたいんだよ。わかりたいんだよ」
「兄貴、なんかカッコ良さそうだけど、すっげぇ気持ち悪いこと言ってるぞ」
もう終始ね、こんな感じなの。
なんかね、毎日毎日、春奈ちゃんと喧嘩してたらしい。
最近はね、喧嘩すらないらしい。目も合わせてもらえない状態らしい。
「俺、どうしたら良いんだろうな」
「兄貴にわかんないこと、俺にわかるわけないだろ?」
「そうだよな」
おい、認めんなよ。
そういうわけでさ、春奈ちゃんに恩返ししようと思ったわけよ。
隣の駅前にあるっていうオシャレなパスタ屋で良いかなって聞いたらさ、
「うん!」
だってさ。……悪いな、兄貴。
でもさ、オシャレなパスタ屋に着ていく服がないわけじゃん。
「ツネちゃん、なんでスーツ着てるの? 汚したら大変だよ?」
「Tシャツにジーンズは、さすがにアレかなと思って」
「変なの。べつにそんなこと気にしなくて良いのに」
「気になる年頃なの。傷つきやすい年頃なの」
まぁ、完全に自意識過剰なんだけどね。
こうパスタって耳にした時点で、イタリアって翻訳されちゃうから、俺ってさ。
それで店なんだけどさ、うん、思った通り若者向けなのよ。
女子高生よりも上、俺よりもずっと下、つまり大学生がピッタリなお店なの。
メニューもね、横文字。アルファベットじゃないの、筆記体なの。
下にカタカナでちゃんと名前が書いてあったけどね。
でもさ、名前を見てもわっかんねぇものはわっかんねぇのよ。
ナポリタン。まず、これがない。
ミートソーススパゲッティ。これもない。
この時点で手詰まり感でいっぱいじゃん?
だけどさ、パスタって書かれた欄にあるなら、とりあえずスパゲティということだけはわかるわけ。だからさ、そこまでオドオドしなくて済むわけよ。
「春奈ちゃんはメニュー見て、パスタの種類とかわかるの?」
「わかるって、普通。ツネちゃんは何にするか決めた?」
「う~ん、そうだな。せっかくだし変わったの頼んでみようかな」
「どれ? 一口食べさせてね?」
「これ、ボロネーゼってやつ」
「……ツネちゃん、それね、ミートスパのことだから」
「春奈ちゃん決めて。もう、全部さ、春奈ちゃんが決めちゃって」
もうね、お手上げですよ。
兄貴じゃないけどね、俺もね、年頃の女の子の気持ち知りたくなったよ。
で、春奈ちゃんに任せた結果なんだけどね、来たよ。
ヤツが来たんだよ。
パスタ界の黒いヤツ。
そう、イカスミのヤツ。
スパゲティ・ネーロだってさ、ゲソのくせして気取りやがってよ。
「春奈ちゃんイカスミって食べたことあるの?」
「無いよ。ツネちゃん、一口ちょうだいね。あ、美味しい、これなら大丈夫かも」
あ、お試しね。
一口のお試しのために俺の皿をイカスミで真っ黒に染めたわけなのね。
ま、まぁね、今日はね、春奈ちゃんにお礼するための日なんだしね。
心は納得してないけど、理性は納得したよ。
「春奈ちゃん、最近、学校はどう?」
「え? 普通」
でましたよ、今どきの子の、普通。
会話がそこで終わっちゃうでしょ。
それじゃあ会話が広がらないでしょ?
「春奈ちゃんの方のスパゲティは美味しい?」
「うん、普通に美味しい」
でましたよ、今どきの子の、普通に美味しい。
これに関してはね、俺も一家言あるのよ。普通に美味しい。一見間違った日本語に見える。普通なのか美味しいのかどっちなんだよって議論。でもさ、よく考えてみてよ、普通の味ってどこにあるわけ?
個性がないとかね、特筆すべき点がないとかね、そういう味はあってもさ、普通の味はこの世のどこにも存在しないわけなのよ。
で、ここに一つの言葉があるわけ。
並外れて美味しい。これは間違った日本語じゃないでしょ?
それじゃあさ、並の美味しいもあるってことなのよ。並があるから外れられるんだからね。じゃあ、並の美味しいも認めなきゃ。それで、並って部分を普通にすると普通に美味しいって言葉が誕生するわけなのよ。
つまりね、美味しいんだけれど、並外れて美味しいわけじゃないってことなの。
それならさ美味しいだけで良いと思うでしょ。でもさ、ひと言つけたいわけよ。
そこで、普通って言葉がついてくるわけ。
まとめると、並外れてはいませんが美味しいですよってこと。お店の人にしてみたら、喧嘩売ってんのかテメェって言葉だよね。つまり、美味しいだけで良いの。
っていう話をね、兄貴が相手なら延々と雑談できるんだけど、春奈ちゃんが相手だとできないのよ。
で、話が広がらないから、俺は仕方なく次の話題を振るわけよ。
「春奈ちゃん、最近、お父さんとはどう?」
家庭内暴力に疲れ果てた主婦の溜め息ってあるじゃない? アレ。
もうこの歳で人生を感じさせる溜め息を吐くの。
女の子ってさ、成長するの早いね。
「ツネちゃん、私、もうダメかもしれない」
「もうダメって、人生諦めるの早すぎない?」
「私ね、最近ね、お父さんのこと見てるだけで吐き気がするの」
「ごめんね、兄貴のことは御飯時に話すことじゃなかったよね」
もう俺も言ってることおかしいんだけど、なんでか会話は成立してるんだよね。
兄貴が汚物の代名詞みたいにして話が進むのよ。
「あのさ、このまえさ、お父さんのパンツの話したでしょ?」
「うん、したね」
まぁ、オシャレなパスタ屋で話す内容じゃないけど、ごめん、お店の人々。
「お父さんね、ちゃんとね、パンツ変えたの」
「うん、そっか、それは良かったんじゃない?」
「お父さんね、いまね、ブリーフ履いてるの」
あー、そう。
グンゼ、グンゼね。
グンゼは悪くないよ、まったく悪くないよ、ただ兄貴との組み合わせが悪いだけだよね。中年とグンゼと女子高生な娘の組み合わせが悪いだけだよね。
兄貴とグンゼを掛け算したら、それはもう汚物で間違いないわ。
「あれってさ、私に対する当てつけなのかな?」
「当てつけってわけじゃ、ないんじゃないかなぁ~?」
グンゼはさ、股の間にフィットするからさ、うっかりは無いわけよ。
たしかにさ、うっかりと息子と娘が挨拶しちゃうことは無いわけよ。
兄貴の考えもね、間違ってるけど間違っては無いわけよ。
「ツネちゃん、どうしよう。私、お父さんのこと見てるだけで吐き気がするの」
「大丈夫。たぶん、俺も兄貴のパンツ姿を見たら吐き気がすると思うから」
ごめん、隣の席の人、吐き気を我慢させちゃってごめん。
笑いたければ、どうぞ笑ってやってください。
これでもこっちは真剣なんです。
「ほら、甘いもの食べよう。元気になるから。スイーツってやつなんでしょ?」
「じゃあ、ジェラート。ダブルで」
「うん、俺はティラミスにするね」
「ツネちゃん、一口ちょうだいね」
「うん、いくらでも食べちゃってよ。今日は春奈ちゃんを励ます会だから」
いや、そんな会のつもりはさ、まったく無かったんだけどね。
あ、これ豆知識。ティラミスってね、私を元気にしてって意味なんだってさ。
食べたよ。
半額シール付きの弁当が主食である俺の食費に換算したくないほど食べたよ。
それでさ、買ったよ。
男性用下着売り場でさ、ボクサーパンツをさ、買ったよ。
透けなくて、膨らまなくて、こぼれない、スポーティなやつを買ったよ。
フィットするけどフィットしすぎないやつを買ってやったよ。
で、兄貴から電話がかかってくるのよ。
「春奈がさ、急にプレゼントしてくれたんだよ。カッコいいパンツ」
「そう、それは良かったね」
「でさ、久しぶりに口も聞いてくれたんだよ。春奈、なんて言ったと思う?」
「なに?」
「お父さん、それ着てるとカッコいいよって」
「へーそうなんだ」
「ツネ。見に来るか?」
「行かねーよ」
春奈ちゃんからメールがあってね、無言で渡したら、俺からの贈り物じゃなくて娘からのプレゼントになっちゃったらしい。喜んでるお父さんを傷つけたくないから内緒にしておいてってメールがあったんだよね。
優しいな、春奈ちゃんは。
ホント、優しい娘さんだよ、春奈ちゃんは。
さてと、そろそろ綺麗事がいっぱいの、キラキラしたお話にも飽きがきただろうから、そろそろ仕事の話でもするわ。
あ、落ち込む用意をしといてね?
「最初から望まなければ、人間、絶望することも無いんですよ」
これは昼休み中にOFFってる小坂さんがポツリと呟いた言葉ね。
宛先は、俺。
状況を説明すると、工事現場、昼休み、飯食ってるとき。
小坂さんはさ、ONとOFFの切り替えの差が本当に激しい人なわけ。
で、俺といえばONとOFFの切り替えの回路が出来てない赤ちゃんなわけ。
もうね、小坂さんに懐いちゃってる真っ白でフワフワな子犬みたいなの。
38歳の中年ってことを除けばね。
それで、小坂さんが呟く前の話をすると、
「金山さんって、長いあいだ引き篭もりされてましたよね?」
って、胸をズッキューンと撃ち抜かれる発言をされたわけよ。
ほら、俺ってさ、経歴詐称が疑惑でも何でもない状態じゃん。
普通にヤバイじゃん?
あ、この場合には普通って使っちゃ駄目なケースだよね。
並外れてヤバイじゃん?
辞めるのは良いんだけどさ、経歴詐称がバレて辞めさせられちゃったら元も子もないわけよ。
だから一応の抵抗を試みて、
「いやいや、そんなことないですよ。俺、ずっとバイトしてましたよ」
って俺は答えるんだけどさ、
「…………。」
これよ。ここで無言が出てくるのよ。
無言、無視、無表情ってのはヤダね~、もう人間関係の断絶の極みだもん。
んでさぁ、小坂さんが言ったわけ。
「手」
そのときの俺は漢字の「手」じゃなくて、「で?」って聞こえたんだけどね。
「手」
小坂さんが指さしてくれてね、ようやくわかったのよ。
あ、この手、なんの手、気になる? なんにも苦労してない手だわ。やべぇ。
次に言った単語がさ、
「顔」
なのよね。さすがにこれは自分の顔のことだってわかったよ。
言葉の意味はわかったんだけど、言葉の中身はわかんなかったんだよね。
「38で、そんなにキレイな肌してる男の人、普通、居ませんよ」
だってさ。
俺のお肌、ピチピチじゃないけどガサガサでも無いんだよね。
日焼けしないから、髭剃らないから、会話しないから、肌年齢だけ若いのよ。
もうこれは完全にバレてるわと腹くくるしかないんだけどさ。
「はい、僕、ニートしてました!!」
って答えちゃったらさ、これはもう職歴詐称で一発アウトじゃん?
だからさ、俺は背中から冷や汗をダバーしながら口を閉じるしかないわけよ。
この場合の無言はさ、精神的な優位性の関係で、まったく迫力はないわけよ。
もうね、追い詰められた子ウサギのようにさ、追い詰められたラビットのようにさ、プルプルして死刑宣告を待つ身なわけ。
でさ、死刑執行官の小坂さんが言うわけだ。
「でもそれが何かの証拠になるというワケでもないんですけどね」
逆転勝訴。勝訴ですよ!!
「あの、社長は?」
「気付いてないんじゃないですかね。ほら、社長は他人に興味がない人ですから」
「小坂さんから社長に言ったりとかは?」
「言っても誰も何も得をしないじゃないですか。もう金山さんは戦力としてシフトに組み込まれてますから。いまさら口にしたところで現場が混乱するだけですよ」
小坂さん、超優しいの。
優しい、のか?
疑問符は残るけど、まぁ、ギリギリで俺の命は滑り込みセーフだったわけ。
「気付いてたの、いつからですか?」
「最初からでしたよ。あ、この人、ほとんど働いたことない人だって。これって、わかるものなんですよ。手とか顔の肌とか見ると。話し方とか、年齢と合ってませんでしたから。でもそれで現場が困るわけじゃありませんし、何かあったとしても困るのは社長ですから。現場としては真面目に働いてくれさえすれば良いんです」
「そ、そうですか」
「それになんですけどね、口出しなんてすると、社長はですね、警備員風情がなにを生意気なこと言ってるんだって怒りだす人ですから。社長は警備会社をやってるのに、警備員のことを社会の最底辺の人間だと思っているところがありますから」
「最底辺……」
キツイわー、社会の最底辺ってニートじゃなかったのー?
俺、脱出したはずなのに、まだどん底にいたよ。おかしいなー?
あ、ニートって社会の外の存在なんだ。納得。
「私のことなんて、多少は使えるクズくらいにしか思ってませんよ」
「それって、腹が立ったりしないんですか?」
「しませんよ。興味、ありませんから。認めてもらいたいと思う心がなければ、認められなくても問題はないんですよ。これ、わかりますか?」
「えっと、理屈はわかります」
俺はさ、小坂さんほど達観できてないんだわ。だから言ってる理屈はわかるんだけどさ、面と向かってバカって言われれば、言い返したくなる程度にはプライドが残っちゃってるわけ。
だからさ、小坂さんの言い分を全面的には認めらんなかったのよ。
社長が俺をバカにしてるって聞けば、俺は腹が立っちゃうのよ。
確かに俺は底辺ニートだよ。経歴詐称して這い上がってきたぶん、もしかすると普通のニートよりもさらに下位の存在かもしれないよ。でもさ、自分で認めるのと誰かに言わるのじゃ話が違ってくるわけなの。
で、小坂さんが呟くようにしてポツリと言ったの。
「最初からなにも望まなければ、人間、絶望することも無いんですよ」
「理屈はわかりますけど……。すいません、そこまで達観できません」
「そうかもしれませんね。金山さんは、絶望したことが無い人ですからね」
これでカッチーンよ。
もうね、頭にカッチーンときたよ。
俺さ、38歳職歴なしのニートだよ。ま、いまは違うけどその話は置いておいてさ、俺さ、38歳職歴なしの大学中退ニートだよ。でもさ、18年間さ、俺は俺なりに苦しんできたのよ。お布団のうえで三角してきたのよ。蛍光灯と仲良しにもなったわけよ。なのにさ、その苦しみまでもが全否定された気分になって、もう腸が煮えくり返る勢いなわけ。
変な言いかたなんだけどさ、
「おまえは真面目にニートをしてこなかった」
って言われた気分なわけ。
いや、真面目にニートしてるってどういうことなのよって言いたい気持ちはすっごくわかるんだけど、俺の気持ちもわかって欲しい。俺は俺なりに苦しんできたつもりだったからさ。これでも立派にニートしてきたつもりなわけ。
立派なニートってのも、いまはちょっと置いといて。
で、あとは売り言葉に買い言葉よ。
「俺だって、絶望したことくらいありますよ……」
言ってやったさ。
言っちゃったさ!!
なんで言っちゃったんだろうね?
小坂さんのこと、ちゃんと見てればわかるじゃん。くぐってきた修羅場の数と質が桁違いな人だってことわかるじゃん。枯れ木にぶらさがった、てるてる坊主、人間バージョンみたいな表情を、そんじょそこらの人間ができるわけが無いじゃん?
もうね、ライオンに牙を剥いた芋虫みたいなガチンコ勝負なわけよ。
小坂さんもさ、自分の言ったこと否定されてさ、ちょっとイラッとしたみたい。
もうね、怒らせちゃ駄目な人を怒らせちゃったのよ、俺。
「金山さん、金山さん、道路見えますよね」
「見えますよ。そりゃ」
「じゃあ、自動車が走ってるの見えますよね」
「見えますって、そりゃ」
幹線道路の工事現場だったから、車がね、ビュンビュン走ってるわけ。
だから、小坂さんに馬鹿にされてるような気がして腹が立ってきたわけ。
で、ビュンビュンと自動車が走ってるなかで、小坂さんが言うわけさ。
「金山さん。いつ、自動車を買うんですか?」
「え?」
「あ、ごめんなさい、間違えました。いつになったら自動車、買えるんですか?」
はい、チェックメイト。
小坂さんがね、あの小坂さんがね、薄っすらと笑ってたの。
これが嫌味な笑顔じゃなくてね、聞き分けの悪い子供に言って聞かせてるみたいな、しょうがないなぁって感じの優しい笑顔なのよ。眉を八の字にしたやつね。
でね、俺ね、なんにも答えられなくてね、お外なのに三角しちゃったの。
あ、車がいっぱい走ってる。
でもね、ぼくの車はね、一台も無いんだよ。
だって、ぼくね、お金ないもん。
「走ってる自動車、いっぱいですよね。みんな、持ってるんですよね。家、いっぱいですよね、みんな、持ってるんですよね。子供、いっぱいですよね。みんな、家族を持ってるんですよね。金山さんは、いつになったら持てるんでしょうね?」
もうここまでくるとさ、いくら俺でもさ、もう気付いちゃうわけ。
ニート脱出しました。アルバイト始めました。だからなんなの?
こころがね、完全に認めちゃってるの、小坂さんの言葉を。
そんな日は永遠にこないんだよって。
俺が、いわゆる普通の家庭を持てる日なんて永遠にこないんだよって。
あ、これが絶望なんだ。教えてくれてありがとう小坂さん、なわけよ。
でもね、小坂さんの話はまだ続くの。
「子供がね、できないんですよ。私の場合は男ですから作れないのほうが正しい言い方になりますか。まぁ、それのせいで、なんだかもうどうでも良くなっちゃったんですよ。私の場合は」
養子って言葉がおもわず思い浮かんだんだけどさ、
「養子をとれば良いって思うでしょ? でもね、駄目なんですよ。それで良いって人も世の中には沢山いますけど、私たちの場合は駄目だったんですよ。私たちはですね、自分たちの子供が欲しかったんです。これは個人の価値観の問題ですけど、どうしても妥協できないことって人それぞれにありますよね?」
俺が思いつくことくらい、小坂さんはお見通しだったわけよ。
もう、この話をするのも慣れてたっぽい。
ほら、小坂さんって警備員やらせておくのもったいない人なんだもん。
そんな人が警備員なんて底辺やってたら、気になっちゃうよね?
あ、ごめん、警備員は底辺じゃないよ。ウチの警備会社が世の中の底辺なだけだから。俺なんかをスルーで当選させちゃうくらい底辺なだけだからね。日勤夜勤、日勤夜勤、三連休っていうわけわかんないシフト組んじゃう底辺なだけだからね。
たぶんね、あの社長が社長界の底辺なんだと思う。
でさ、小坂さんがとつとつと人生を語るわけ。
「家内、いまはもう元家内なんですけどね。家内のほうは健康な身体の人でしたから、やっぱり自分のお腹で産みたいって思うんですよ。誰かから精子提供してもらって。私の子供ではない子供を産みたいって思っちゃうんですよ。でも私は、そんなことするくらいなら、子供なんて要らないって思っちゃうんですよ。私も男ですから。あとはもう平行線でしたね。あいだをとって養子で誤魔化すというのも無理がありますし、そうして迎えいれた子供を愛せる自信もありませんでしたからね」
「あの、家内、じゃなくて、小坂さんの奥さんは?」
「あ、もう再婚してますよ。当時はまだ若かったですから。離婚して、再婚して、子供も産んで、いまじゃ立派に子供たちのお母さんしてるそうです」
で、元奥さんがお母さんになっていく過程を、小坂さんは一人きりで眺めてた。
そうだね、これが絶望だ。
自分が持ってないものを他人が持っている。喉から手が出るほどに望むものを他人だけが持っている。そして、自分は手にすることができないんだと望みが絶たれたとき、そのときが絶望するべきときだった。わけなの。
バイトの帰り道。
今日はスーパーで、半額シールの弁当をなんと三つも買うことができたの。
おかげで買えなかった人は、きっと絶望するんだけどね。
欲しいものが手に入らないって、そういうことだもんね。
半額の弁当を三つも買ってどうすんだって話だけど、冷蔵庫に入れておけば明日の朝くらいまでは持つし、なんなら冷凍庫に入れておいて自家製の冷凍食品にしたって構わないわけよ。
味とかさ、そんなのはいまさら求めてないしね。
美味しいに越したことはないんだけどさ、日本の飯は普通に美味いって奴だからさ、多少のクセはあっても食えないって商品はなかなか無いわけ。一回冷凍したくらいで食えなくなる弁当も無いわけ。
そんで、半額シールの弁当を三つ抱えてさ、俺は帰りの道を歩いてたのよ。
そしたらさ、良い匂いがしてくるわけ。
住宅街を突っ切る一本道を歩いてるとさ、夕ご飯の匂いがしてくるわけ。
カレーでしょ、焼き魚でしょ、よくわかんないけど醤油系のなにかでしょ、そういう匂いを嗅いじゃうと、俺のお腹がさ、素直にキュルルって鳴くの。
ホント、もうね、寂しそうに鳴くの。
ブロロロロってあんまりエコしてない音が後から俺を追い越して、その排ガスの匂いが食べ物の匂いを掻き消しちゃうの。それでさ、その車がさ、その辺の家の前で止まんのよ。車庫の電動シャッターが開くのよ。そこにスポっとはまるのよ。
ウチの兄貴さ、バックで運転するの下手な人だからさ、一回で車庫入れとかできたことないのよ。縦列駐車とかも苦手なわけ。でも、その車はさ、手慣れた感じで車庫のなかにスポッとはまったのよ。
でさ、兄貴のことはどうでも良いんだよ。
でさ、車から降りた旦那さんがさ、自分の家なのにチャイムを鳴らすのよ。
そしたらさ、開くのよ、人力の自動ドアがさ。
奥さんの声がしてさ、子供の声もしてさ、旦那さんはドアの向こうに帰るのよ。
そんなの見ちゃったらさ、もうさ、動けないじゃない?
誰かの家のブロック塀にごめんなさいして、肩を借りて、立ってるのがやっとの状態になるしかないじゃない?
あぁ、うん、そうなのよ。
最初からなにも望まなきゃね、人間、絶望だって無いんだよ。
そうそう、最初からなにも望まなきゃ、絶望だってしなくてすむんだよ。
カレーなんて自分で作れるしね。
焼き魚だって七輪持ってるもんね。
醤油っぽい煮物は、ダシツユ使えば誰でも上手に作れるんだよ。
そうそう、頑張ればさ、安い車なら俺だって買えるだろうしさ。
家は……頑張れば、ド田舎村の一軒家が買えたりするんじゃないかな?
そんなこと考えつつ足を引きずりながらアパートに帰ってさ、
「ただいまー」
って俺が口にしたらさ、
「…………。」
って、ピカピカの蛍光灯が紐さえ引っ張れば出迎えてくれるし。
明かりが点く前には、ちょっと電気っぽい音で「おかえり」もしてくれるし。
でさ、レンジでさ、半額の弁当をチンするの。
で、食べるの。
それからさ、レンジでさ、半額の弁当をチンするの。
で、食べるの。
でも足りないからさ、レンジでさ、半額の弁当をチンするの。
で、食べるの。
なのにさ、なんでかわかんないんだけど、お腹がいっぱいって気がしないの。
袋のインスタントラーメン破いてさ、茹でてさ、食べるの。
身体は正直だからさ、胃の容量は決まってるからさ、もう全然入らないはずなのにさ、ズルズルと入ってくの。
もう、これは人体の神秘状態なわけ。
いまの俺なら大食い系のテレビ番組に出られる自信があったよ。
でもさ、大食い選手権は吐くの禁止だから、やっぱダメかもね。
お腹は減ってんの。
だから食べんのよ、口から。
でもさ出てくんのよ、口から。
小腸とか大腸とか肛門とかがさ、もう自分の存在理由を見失っちゃってるわけ。
お腹はさ、ちゃんと減ってんの。
なのに、お腹がさ、いまは飯なんか食いたくないってワガママ言ってやがんの。
まあね、そういう自分の気持ちに素直になれない時期って誰にでもあるじゃん?
だからさ、俺もお腹のワガママに付き合ってやったわけよ。
それでもさ、我慢の限界ってもんがあるわけ。
もう、おまえには付き合ってらんないって空腹感を無視してやるわけ。
もうね、食べないっていうなら食わせてやらないわけ。これはお仕置きね。
んで、布団のうえで大の字になって、ピカピカの蛍光灯とお話をはじめんのよ。
「死ねよ」
あ、これね、誰に向けて言ったわけでもないのよ。
ホント、誰にってわけでもなくて、純粋に死ねって思っちゃっただけなの。
蛍光灯はさ、明るい奴だから光って流してくれたよ。
「死ねよ、ホント、死ねよ」
あ、この時点でね、ちゃんと泣いてるから安心してね。
これで俺もジャニーズならさ、悲壮感あふれる美青年の像なんだけどさ、ここに横たわってるのって38歳のほぼニートだから、あんまり絵面は期待しないでね。
なんて言ったら良いのかな、この絵面は説明しづらいな。
えーっとね、水死体ってあるでしょ?
仰向けで、膨らんでて、目とか口とかからなんか汁を流してて、水に浮かんでるの。実物は俺も見たこと無いけど、テレビとかマンガとかで見たことあるでしょ?
はい、そこから周囲の水だけを失くして。
それが俺ね。
波打ち際でくたばってる、肺呼吸への進化に失敗した魚でも良いよ。
まぁ、だいたいそんな感じだから、大きくは間違ってない。
けっこう黒ずみが大きくなって、そろそろ寿命かなーってジジジしてる蛍光灯を見てるだけだから、植物が一番近いかもしんない。地面にまっすぐ立ってる大きな街路樹じゃなくてね、雨と風の強い日に鉢植えごと倒されたほうの植物ね。
茎とかね、折れちゃっててね、あ、これはもう、お花じゃなくて燃えるゴミだわって感じの植物ね。
そうそう、なんでこんなこと言ってるかというと、動かねぇの。
心臓は動いてるよ、肺呼吸もしてるよ、瞬きだって完璧なの。
でもさぁ、なんでなのかなぁ、動かねぇの、指の一本もね。
口開いて、目開いて、蛍光灯の輪っか見つめて、もうパーフェクトワールドよ。
けっこう黒ずんでるけど、天使の輪っかも自前で用意してある準備の良さね。
「死ねよ」
あ、これはね、明確に主語があるほうの死ねだから。
主語はね、俺。
そうそう、俺に言ってんの。死ねって。俺が。
なんかね、すっごい調子に乗ってた俺に心の底からムカついてんの。
ニート卒業しました。だからなに?
アルバイト始めました。だからなに?
次はもっと良いバイト目指します。だからなに?
「だからなに?」
これってさ、わりとオールマイティに使える言葉だよね。
人生を完全否定するためには並外れて便利な言葉だよね。
俺がしてきた努力を無駄にする普通に便利な言葉だよね。
自動車って、いくら? 100万?
月々五万の積み立てで二年? そのとき、俺、40だよ。
お家って、いくら? 1000万?
月々五万の積み立てで20年? そのとき、俺、68だよ。
家族って、いくら? プライスレス?
月々何万の余裕があれば結婚できるの? 子供育てられるの?
そのとき、俺、じゃなくてさぁ、そんなの普通にムリじゃん?
俺がさ、女の人と結婚してさ、子供作ってさ、子供育ててさ、学校行かせてさ、成人させてさ、そんなの並外れて無理な話に決まってるじゃん?
でさぁ、俺もさぁ、わかっちゃったのよ。
小坂さんがさ、枯れ木にぶらさがった、てるてる坊主、人間バージョンみたいな顔をいっつもしてる理由がわかちゃったのよ。俺にもさ。
人間ってさ、呼吸してれば生きてるわけじゃないでしょ?
じゃあさ、人間ってさ、呼吸が止まれば死ぬわけじゃないでしょ?
生物学的な話は知らないよ?
医学的見地とかも知らないよ?
お利口さんなお金持ちのお話なんて、俺は知らないよ?
人間が生きてるって言うのは、夢に向かって頑張ってるときのことなの。それで人間が死ぬって言うのは、夢が破れたときのことなの。それで俺ってさ、夢を見る資格がない人間なのよ。つまり、始める前から終わってるのよ。死んでるのよ。
超ウケると思わない?
だってさ、もう俺は死んでるのにさ、「死ねよ」とか俺に言っちゃってんのよ?
いやもう、ホント、笑っちゃった。
隣の部屋の人が壁ドンしちゃうくらいに笑っちゃったよ。
壁がドンドンうるさいからさ、もう、呼吸困難で死んじゃうかと思ったくらい。
でもさ、アパートの壁さんに罪は無いわけ。
俺、工事現場の警備員やってるから、道路も大変なんだなぁって知ってるわけ。
なんでこんなに時間が掛かるんだろうってくらいに、手間暇が掛かってるわけ。
アパートの壁さんもさ、やっぱ大変なんだろうなぁと思ってさ、
「壁叩くしか出来ねぇのかよ!! カギなら開いてるから、さっさと包丁持って殺しにこいよ!! んなこともできねぇのかヘタレがっ!! さっさと殺せよ!!」
って優しくお願いしたらね、壁さんが静かになったの。
ホント、包丁持って殺しに来てくれたら良かったのにね。
お隣の人がね、
「うるせぇな!! ぶっ殺すぞてめぇ!!」
ってすっごい親切な提案をしてくれたから、
「はい、お願いします!!」
って俺は言ったはずなのにね。
俺のことを殺しに来てくれなかったんだよ、ホント、人間って不親切だよね。
それからのバイトは楽だったよ。
小坂さんの真似をしてるだけで良かったんだからね。小坂さんはさ、ONとOFFの差が激しい人だと思ってたんだけど、それ、俺の勘違い。小坂さんね、ずっとOFFのまま働いてたの。機械的に動いてただけなのよ。
俺もハロワマシーンじゃないけど、お仕事マシーンになって棒を振ってたよ。
それで、約束の一ヶ月が来たから機械的に辞めちゃった。
半月分の給料は、九万四千円。
ちょっと良いんじゃないって思ったんだけど、
「だからなんなの?」
ってひと言で終わっちゃったから、辞めちゃったわけよ。
あ、そういえば最後に一つだけビックリすることがあったのよ。あのね、小坂さんね、死んじゃった。その日がね、ちょうど40歳の誕生日だったんだってさ。
死因はね、てるてる坊主だって。ほら、ビックリでしょ?