一、朝食
金縛りだろうか。
ぐっと息が詰まるような圧迫感を覚え、意識が覚醒した。
指先に意識を持っていき、軽く動かしてみる。異常はない。苦しいのは胸の上だけだ。
……もしかして。
小さめに呼吸して、目を開ける。視界には、見慣れた白い天井が映る。
そこから視線を下へずらしたところに、その『原因』は分かりやすく横たわっていた。
「またかよ、フェンリル」
深く息を吐き出してから、勢いをつけて起き上がる。
俺の胸の上に横たわっていたそいつは、ごろごろとベッドの上を転がっていき、ドスンと音を立てて床に落ちた。
「……何すんだ」
もぞもぞ、ベッドの下からフェンリルの顔が覗く。
転がった衝撃で目を覚ましたらしく、ものすごく不機嫌そうな視線がこちらを向いた。
いや、そもそもはお前が俺の体の上で寝ていたのが問題なのだが。
……なんてことを説明したところで、起き抜けの頭に理解できようはずもない。
ここはとりあえず謝っておこう。よし。
「悪い、フェンリル。金縛りかと思ってつい」
「どんな『つい』だよ」
不機嫌そうに体を丸めて、フェンリルはまた目を閉じる。まだ寝る気らしい。
溜息を一つ吐いて、頭の後ろを掻く。かなり寝癖がついているようで、髪が指に絡まった挙句、ぷつんと抜ける感覚がした。
「……起きよう」
髪が抜けた事実からの逃避を図り、ベッドから足を下ろす。
枕元に置いた懐中時計は、蓋を開けたまま六時前を指している。普段通りの起床時間に内心で苦笑を漏らしつつ、懐中時計の蓋を閉めた。
さて、今日は非番だ。
***
上下真っ白な寝巻のまま、首から懐中時計を提げ、スリッパを履いて廊下を歩く現在。
だらしない格好をしている自覚はあるが、致し方ない。すべてはフェンリルの安眠を守るためだ。
廊下の突き当たりで操作パネルに触れると、上から近付いてきていた昇降機が目の前で緩やかに停止する。上階の女子寮に住む数人が既に乗っている昇降機内、俺は軽く挨拶をしながらそこに加わった。
再び緩やかに動き出した昇降機は、下の階層で止まっては更に人を吸い込み、一階に着く頃には満員状態。ぞろぞろと食堂へ向かっていく後ろ姿をすべて見送ってから、欠伸を噛み殺して昇降機を降りる。
「あ、リヴァイアスさん! おはっす!」
聞き慣れた声に顔を上げれば、見慣れた顔が視界に入る。
朝早くからテンション高く、高々と右手を上げながら、黒いつなぎのそいつは笑う。
「朝から元気そうだな、アスティリア」
研究部・機械技術課に所属するこのアスティリアは、俺がこの森に来たばかりの頃からたいへん世話になっている男だ。
見た目は俺より若いが、森で暮らしている期間はかなり長いらしいと聞く。頭では先輩だと理解しているが、どうにも弟っぽく思えてしまってならない。
「そう見えるっすか? これでも三日寝てないっす!」
「逆に納得だわ、寝てこい」
「非番なら寝てるんすけどねぇ」
けらけらと笑いながらそう言った後で、不意にアスティリアが首を傾げた。不思議そうにぱちくりとしばたかれる赤い目の下には、かなり濃いクマができているようだ。
「ところでリヴァイアスさん、何でパジャマのままなんすか?」
「いろいろあってな……話せば長くなるんだが」
「あー、狼くんに気を遣った結果っすね?」
「もう話すことなくなったわ」
何故こいつは無駄に察しがいいんだ。
もしかして逆か、こいつの察しがいいんじゃなくて俺がわかりやすいのか。
「狼くんは寝起きの機嫌が最悪っすからねぇ、誰に似たんすかねぇ」
「俺じゃねえぞ」
「違うんすか!?」
「えっ、そんなにびっくりする?」
そんなくだらない話をしながら、辿り着いた食堂前。
始業一時間前である現在は、昼勤の委員たちがこぞって朝食を食べる時間帯だ。そのため、この時間の食堂はかなり混み合っている。
せっかくの非番なのだから、フェンリルと一緒にもう少しゆっくり寝てから出て来ればよかっただろうか。少し後悔はするものの、ここまで来てしまったのだから仕方ない。
アスティリアと一緒に朝食の列に並び、トレーに食事を乗せていく。
本日の朝食は、食パンが二枚に、ベーコン、スクランブルエッグ、生野菜のサラダにオニオンスープ。あと、お代わり自由のコーヒーポットも用意されている。
割と頻繁に出てくるこのメニューは、どうやらかなり多くの文化圏で食べられていたらしい。俺が知るところ、結構な人数がこのメニューを馴染み深いと言っていた。
「リヴァイアスさん。あっちの席、空いてるっすよ」
「おー。……お?」
アスティリアの指差した方向へ視線を巡らせると、食パンを頬張るデルフィニアと目が合った。空いている席と言うのが、ちょうどデルフィニアの隣と向かい。にこにこと笑いながら手招きをするデルフィニアの姿に、内心で溜息が出たのは秘密だ。
今日に限ったことではなく、デルフィニアの周りは席が空いていることが多い。俺が思うに、おそらく奴が愛煙家であると知れ渡っているのが、原因の一端だと思う。煙草のにおいが苦手とか、煙が苦手とか、奴を遠ざける理由はいろいろ思いつく。
本人は「ボッチ飯さびしい」などと嘆いていたが、禁煙する気はないようだ。
「おはっす、デルフィニアさん」
「ようよう、おはよう! ……ってリヴァイアス、お前まだパジャマのままかよ」
「これにはやむを得ない事情が」
「またフェンリルが二度寝でも始めて、部屋に居場所がなくなっちまったのか?」
「俺ってそんなにわかりやすいの?」
部屋に居場所がなくなったとまでは言わないが、ほぼ完全正解である。
何故だ。
「まあ、ドンマイ! 可哀想なリヴァイアスにはブロッコリーを恵んでやろう」
「お前が嫌いなだけだろ、もらうけど」
「もらうんすね」
デルフィニアの隣にアスティリアが座り、俺は空いている向かいの席に着く。
トレーに並んだ食事に向かって両手を合わせている間に、サラダのブロッコリーが一つ増えた。向かいの席のデルフィニアが、宣言通り俺に恵んでくれたらしい。
いつも通り「いただきます」を言い、食パンにベーコンとスクランブルエッグを乗せ、挟むように折りたたむ。
「そういやお前って今日、非番だっけ」
「おー、非番」
「何かすんの」
「どうすっかな」
食パンに食らい付いて、咀嚼しながら思案する。
そう言えば、大剣を武器庫に戻してくる以外の予定を何も考えていなかった。
「筋トレか武器のメンテくらいしかすることねえな」
「寂しい奴だな」
「そんな暇なら俺んとこ手伝ってくださいよー」
「はんだ付けくらいしかできない俺でよければ」
「今日の仕事にその作業工程はないっす」
くだらないやり取りをしてから、胡麻ドレッシングをかけたサラダを一口。そんな俺の向かいで、先に食事をしていたデルフィニアが食後のコーヒーを飲み干した。
「ま、とりあえずゆっくり休めよ。俺は外回りだ」
「おう」
「んじゃ、お先に!」
空になった食器やコップをトレーに乗せ、デルフィニアは食器返却口へ歩いていく。
その後ろ姿を見送ってから、オニオンスープを一口。体が温まり、思わずほっと息を吐いた。やっぱり、温かい汁物があるとありがたい。今日は薄着だから、なおさらだ。
「結局のところ、今日は何して過ごすんすか?」
斜め向かいで、アスティリアが首を傾げる。
何をして過ごそうか。
シュバルツが起きてさえいれば、手合わせでもと誘って訓練場へ行くのだが、あいにくあいつは熟睡中だ。昨晩も、明日はガッツリ休むから邪魔をするな、と言っていたので、おそらく終日あの調子だろう。
とはいえ、シュバルツがいなくても訓練場には行くつもりだ。ぐうたらと過ごしていては体が鈍ってしまう。基礎トレーニングくらいはしっかりこなしておかなければ。
そんなことを考えながら、オニオンスープをもう一口。
その後で、息と一緒に言葉を吐いた。
「ま、その時の気分次第だな」