一、拾得
「本日も特に異常はなし、か」
大きく伸びをして、そのまま欠伸を一つ。
今日も今日とて、白い空は樹に阻まれて見えない。
うっそうと茂るこの森の風景が、今の俺にとっての日常だ。
「そろそろ戻るかな」
周囲の様子を窺うと、どこからともなく猫のような鳴き声が聞こえてきた。
聞き覚えのある声に近付いていけば、見慣れた黒く大きい影。
「シュバルツ?」
猫のような鳴き声のくせに、その外見は黒く獰猛そうな虎である。
一緒に働いている同僚でもあるその虎は、俺の方をちらりと一瞥すると、ある樹の根元の辺りを顎で示す。
これを見ろ、と言っているらしい。
「何だ?」
その虎、シュバルツが覗き込んでいる場所を、俺も一緒になって覗き込んだ。
「卵、か?」
どうやら動物の卵らしきものが四つ、寄り添い合うように落ちている。いや、産み落とされている、と言うのが正しいのだろうか。大きさはソフトボールくらいで、鶏卵と比べるとかなり大きい。
どうしてもこれらが気になるらしく、シュバルツはそこに視線を注いだまま動かない。
「……調べてもらうか」
そう言うと、シュバルツは俺の方を振り向き、青い目を嬉しそうに細めて、のどをごろごろと鳴らし始めた。
まんまと乗せられた気がしないでもないが、シュバルツが可愛いから許そう。俺は可愛い生き物の味方なのである。
「えーっと、ちょっと待ってろよ」
一度立ち上がり、ポケットから通信機を取り出す。
ボタン操作を数回。スピーカーから小さな雑音が聞こえ始めた。
「こちらリヴァイアス。司令室、応答願います。
こちらリヴァイアス。司令室、応答願います」
呼びかけを二回。
『こちら司令室。お疲れ、リヴァイアス。何か問題発生か? どうぞ』
聞こえてきた声は、馴染みの同僚のもの。
傍でにゃあと鳴くシュバルツの顎を撫でながら、俺は卵の方へ視線を落とした。
「問題って程じゃないが、不審な卵を発見した。どうぞ」
『はあ、卵。どうぞ』
「画像を送る。調べてほしい。どうぞ」
『了解』
通信機を顔から離し、ボタン操作を数回。内蔵のカメラが起動したことを確認し、卵を撮影。シュバルツが映り込んだが、大きさがわかりやすいから許してもらえるだろう。
「こちらリヴァイアス。画像は届いたか? どうぞ」
『こちら司令室。ああ、ばっちりだ。しばらく待機してくれ。どうぞ』
「了解」
ぷつり、通信が途切れる音がする。
反応がなくなった通信機を手に持ったまま、卵の傍に腰を落とす。
「何の卵だろうな」
尋ねるように言うと、シュバルツはちらりと俺を見て、小さくにゃあと鳴く。
シュバルツはこの卵の正体を知っているんだろうか。俺にはネコ科の言葉がわからないので、確かめようもない。
『こちら司令室。リヴァイアス、応答願う。こちら司令室。リヴァイアス、応答願う』
雑音交じりに、通信機から声が漏れる。
「こちらリヴァイアス、どうぞ」
『こちら司令室。卵の件、どうやら遺失物ではなさそうだが、詳細は調べてみないとわからない。持ち帰って研究部に調査を依頼してくれ。どうぞ』
「持ち帰って研究部に調査を依頼、了解した。どうぞ」
『頼んだ』
音の途絶えた通信機を、カーゴパンツのポケットに戻す。
シュバルツの方を見ると、どうやら通信を聞いていたらしい。嬉しそうにごろごろとのどを鳴らすのが聞こえた。
「んじゃ、一緒に帰ろう」
卵が割れないよう、手持ちの風呂敷でくるむことにした。
片手で持てるサイズではあるが、やはり卵なので危なっかしい感じがする。しかもそれが四つ……ものすごく気を遣わなければ。
「こりゃ、帰りは時間がかかりそうだ」
俺の横で、シュバルツがにゃあと鳴き声を上げた。
***
ここは、世界が群生する場所。世界の外側、『世界樹の森』。
森に立ち並ぶ樹の内側では、俺の知り得ないさまざまな世界が息づいている。
俺たちは『次元管理委員会』。
この森を管理し、世界を外側から守るのが仕事だ。
***
「戻りましたー」
事務所に戻り、帰還報告のため司令室へ入る。
何人かから「おかえり」と声がかかり、なんとなく嬉しくなる。
「随分ゆっくりしていたんだな、リヴァイアス」
呆れたように名前を呼ばれ、ついつい笑顔が引きつった。
視線を動かせば、腕を組む小柄な体躯の上に、呆れ返った幼い顔。顔の真ん中の大きな傷が、その表情に威圧感を加えている。
「あー、ただいま、アシュレイ部長」
「今更取り繕ったように部長なんて呼ぶな、気色悪い」
「ひどい」
俺の上司であるアシュレイは、ハーフドラゴンの女性だ。
灰色の瞳に、爬虫類のような縦長の瞳孔。髪は邪魔にならないように短め。
服装は、ハイネックのノースリーブ、アームカバー、サルエルにごついブーツ。全体的に黒ずくめ。翼を生やした時に破れないよう、背中の部分は大きく開いている。
いつか何かのきっかけで炎でも吐きやしないかと期待しているが、今のところそんな様子はない。
「それが例の卵か」
「ああ。これから研究部に持っていくよ」
「それが終わったら、今日はそのまま上がっていいぞ。時間も時間だ」
「了解、お疲れ様」
見送られるまま司令室を出て、慎重に卵を抱え直す。
「そういや、フェンリルの検査も終わってるかな」
相棒である白い狼のことを思い出してから、手元の卵に視線を落とす。
あの狼は、この卵を食べやしないだろうか……などという不安が、ふと頭をかすめた。
「ま、大丈夫だろ」
不安を掻き消し、昇降機の方へと廊下を進む。
すれ違う同僚たちに不思議そうな視線を向けられつつ、目的地である五階へ。
「あっ、ちょうどいいところにザルディオグさん!」
到着して昇降機を下りたところで、目的の人物とエンカウント。
俺に気付いたその人は、ものすごく面倒くさそうに、あるいはものすごく嫌そうに、眉根を寄せた表情を浮かべた。
「何、まさかまた厄介事じゃないだろうね」
シンプルな白シャツとジーンズに白衣を羽織った、いつもの研究者スタイル。足元は、歩きやすそうな白のスニーカー。
藍色の切れ長な目が、俺を睨むように細められる。
この人こそ、研究部長のザルディオグさんである。
「そんなに厄介じゃないと思いたいんですけど」
「それはただの希望でしょ。実際は厄介に違いないんだ、だって君だもの」
「期待されていると受け取っておきます!」
「そこ、無駄にポジティブになるのやめてくれない?」
心底面倒くさそうなザルディオグさんに近付き、抱えたままの卵を差し出してみた。
ザルディオグさんは不審そうに目を眇め、やがて興味が出てきたような様子で卵を覗き込んでくる。
「何これ、どうしたの」
「実は巡回中にシュバルツが見つけたんです」
「あの虎が?」
「『遺失物』の反応はなかったんで、おそらく森のものかと」
「ふうん……なるほどね、興味あるな」
ザルディオグさんはそう言うと、研究室の扉の方を親指で指し示した。
「森林生態課で調べさせるよ。運んでくれる?」
「了解っす」
卵を落とさないよう注意を払いながら、ザルディオグさんの先導に従って研究室を進んでいく。室内は相変わらず雑多だが、歩く場所が広く確保されている分、以前よりいくらかマシになっているようにも思う。
「どの辺で拾ったの」
「えーっと、第四ブロックの二〇一二番の根元ですね」
「巣はあった?」
「なかったですね。卵だけ転がってました」
「なるほどね」
俺の話をメモにまとめてから、ザルディオグさんが扉を開ける。
森林生態課……いわゆるこの『世界樹の森』のことを調べている部課であるが、その研究室であるこの部屋には、枯れた樹や植物がいろいろサンプリングされているようだ。
「カンパニュラ、いる?」
ザルディオグさんが研究室内に向かって声をかける。
すると、奥の方で作業していた白衣の男がこちらを向き、首を傾げて見せた。
「うん? おやおや? これは部長、先ほど上がったはずでは?」
そう言いながら、カンパニュラと呼ばれたその男がこちらへ近づいてくる。
高い身長に細い体、針金のような印象の男だ。
肘の下あたりまで袖まくりされた白衣の下は、黒いTシャツにジーンズというシンプルなもの。足元に視線を落とすと、素足にサンダルというラフの極み。
「この卵、少し調べたいんだけど」
「ははあ、卵」
ザルディオグさんが、俺の腕に納まっている卵を指さす。その男はボサボサの白い髪を掻きむしりながら、卵を覗き込んだ。
「大きめの鳥か何かかねえ。あるいはモンスターの卵かな?」
「好きそうだよね、こういうの」
「そうだね、大好きだ。たいへん興味深いよ」
にんまり、丸い眼鏡の奥で、黄緑色の目が細められる。
「これ、発見時の情報。少しだけど」
「やあやあ、ありがたい。さすがは我らが部長殿、抜かりないねえ」
ザルディオグさんからメモ帳を受け取ると、男はすぐに目を通し、再び卵の方へ視線を落とした。
「ではでは、この卵はこちらで預かろう」
「あ、はい、お願いします」
「うんうん、大事に調べさせてもらうね」
風呂敷ごと卵を受け取りながら、男はにっこりと笑って見せる。
卵の調査依頼も済んだことだし、今日の仕事はこれでおしまいだ。
先ほどから腹が減って仕方がないので、今日はさっさと夕飯を食べに行こう。
などと思っていたら。
「あーそうそう、君がリヴァイアスくん?」
「あ、はい」
顔を上げると、丸眼鏡の向こうの黄緑色と視線が合う。
にんまり、楽しそうに細められるその瞳に、ぞわぞわと背筋が粟立つ感じがした。
これはもしや、捕まってはいけない人に捕まってしまったのではないだろうか。