三、未来を与えられた日
視界に飛び込んできたのは、白い天井でした。
体が重く、上手く起き上がることすらできません。
頭の中で脳みそが揺れているような感覚がします。
口の中では、わずかに歯が浮いているような、気持ち悪い感じがします。
体を動かせないので、目だけで周囲の様子を確認することにしました。
白い天井から視線を左に動かすと、点滴がつけられていることに気付きました。
ここは、病院でしょうか。
まさかとは思いますが、私は助かってしまったのでしょうか。
あの森での出来事はすべて、ただの夢だったのでしょうか。
また、あの地獄のような世界で、生きていかなければいけないのでしょうか。
「……いや、だ」
力を込めて起き上がり、引きちぎるように点滴の針を抜きました。
血がいくらか出てきましたが、構っていられません。
右を向くと、窓が見えました。
反射的にそちらへ駆け寄り、勢いよく窓を開けました。
「……!」
ふわりと、微かに甘いにおいがしました。
そこでようやく、窓の向こうが森であることに気付きました。
「おいおい、勝手なことをされると困るぞ!」
後ろから、女の人の声が聞こえました。
振り返ると、その人は両手を挙げて私を見ています。
ポニーテールにされた白い髪を見た瞬間、体から力が抜けるのがわかりました。
「いい子だから大人しくベッドに戻りな。ほら、腕も血が出て痛いだろ?」
何もしないとばかりに両手を挙げたまま、その人はじりじりと私に近付いてきます。
白衣を着ているところを見ると、お医者様なのでしょうか。
何にせよ、口調と言い仕草と言い、女子らしさを感じない女性です。
白衣の下がワンピースなのが、ギリギリ保たれた女子力という感じです。
「帰りたくないんだろ? わかってるって、ちゃんと支部長から聞いてる」
その言葉を聞いて、ようやく確信しました。
やはり、森のことは夢などではなかったのです。
一度深く呼吸して、ベッドに戻りました。
お医者様らしい彼女は、ほっと息を吐いてからこちらへ近寄ってきました。
「今はとにかく休むこった。これからのことは、部長らで何とかしてくれるさ」
そう言いながら、彼女は手際よく私の腕を止血し始めました。
やはりお医者様のようです。眠そうな顔の割に、動きはとてもテキパキしています。
「すみません」
「いんや、気にすんな。大方、状況がわかんなくて混乱したんだろ」
「……はあ、まあ」
「支部長もびっくりしてたみたいだぞ? 部屋に戻ったらぶっ倒れてたってさ」
「申し訳ないです」
やがて、私の腕には再び点滴の針が刺されました。
ゆっくりと、規則正しく落ちる雫をじっと見つめてみました。
少し、心が落ち着いたような気がしました。
「繰り返すようだが、今はとにかく心身ともに休む時だ。思い切り休んどけ」
「はい」
「何かありゃ、近くの白衣のやつに声かけな。事情はだいたい伝達してっから」
「わかりました」
「うっし」
彼女は私の頭を軽く撫でると、茜色の目を細めて笑いました。
「じゃ、おやすみ」
ひらひらと手を振って、彼女はカーテンの向こうへ消えて行きました。
扉の閉まるパタンという音が聞こえたので、別の部屋へ行ったのでしょう。
目を閉じて、また深く呼吸してみました。
不思議と、自分の家にいた時よりも、心が落ち着いているような気がしました。
***
この森へ来てから、何日くらいが経ったでしょうか。
最初の頃は数えていましたが、途中で面倒になり、数えるのをやめてしまいました。
ここで過ごしていると、以前より自分を客観的に見られるようになってきた気がします。
あの世界で生きているうちに、いつの間にか心も体も疲れ切っていたようです。
周りのことどころか、自分の感情すら見えていなかったように思います。
「やあ、メイ。調子はどうだ?」
カーテンの隙間から、ひょっこりと顔が出てきました。
ひらひらと振られている手の下の方で、着流しの袖がゆらゆらと揺れています。
「支部長さん」
「ああ、久し振り。顔色も随分よくなったじゃないか」
「ええ、まあ、おかげさまで」
小さく頭を下げると、よしよし、と満足そうな声が聞こえました。
コロンと下駄の音が鳴り、支部長さんはすぐ傍の椅子に腰を下ろしました。
「さて、君に話さなければならないことが山ほどある」
どこから話したものか、とでも言わんばかりに、支部長さんが腕を組みます。
しばらく考えた後で、支部長さんは私の顔を見て、にっこりと笑って見せました。
「壮大な話になるが、心に余裕は出来たかい?」
大事な話なのだろうけれど、そのような雰囲気など感じさせない笑顔です。
ちょっと世間話でもしようか、とでも言うくらいの、至って軽いテンションです。
その雰囲気に流されて頷くと、支部長さんも満足そうに頷きました。
***
この森は、『世界樹の森』と呼ばれているそうです。
森にある数えきれないほどの樹の一本一本が、それぞれ世界を宿していると言います。
例えばある樹の中では、海賊が宝を目指して海を往くと言います。
またある樹の中では、魔法を使った戦争が日々繰り広げられていると言います。
この組織は『次元管理委員会』。
樹の中の世界同士が過剰に干渉しないよう、森を管理するのが仕事だそうです。
例えば、樹の内側から干渉してきた者に対する処置。
この組織ではそれらを『遺失物』と呼び、どんなものでも必ず保護するそうです。
それが生き物であれ何であれ、別の樹に干渉しないようにするためだとのことです。
私が今ここで保護されているのも、そういった目的からのようです。
***
「……とまあ、こういった感じだな」
「はあ……」
こめかみの辺りを指でぐりぐりと押さえながら、なんとか理解しました。
要は、私は学校の屋上から飛び降りた結果、世界からも飛び出してしまったようです。
私はいったい、どんな勢いで飛び降りたのでしょうか。
「本来ならば、君のような『迷子』は元の樹の中に戻すのが正しい処遇だ」
そう言いながら、支部長さんは腕を組み、考え込むように首を傾げます。
「だが、当の『迷子』である君は帰りたくないと言う」
支部長さんは眉間にしわを寄せ、困ったという表情をします。
そうかと思えば、何かを思いついたとばかりに人差し指を立てて見せました。
「おっと、そういえばこの間、総務部が厨房の人手不足を訴えていたな」
何が言いたいのかよくわからず、今度は私の眉間にしわが寄ります。
支部長さんはそんな私を見て、にっこりと笑って見せました。
「ところで、メイ。料理は得意か?」
「え? いや、まあ……家庭料理くらいなら、人並みにはできるかと」
「おお! それはちょうどいい!」
支部長さんは嬉しそうに笑ったまま、私の手を両手で握りました。
私の体温が低いのか、支部長さんの手がとても温かく感じます。
「体調がよくなったら、うちの厨房で働いてほしい」
「え、っと……?」
ぱちくりと目をしばたかせる私に、支部長さんは言いました。
「君がいてくれるとありがたい」
呼吸が詰まって、胸が苦しい。心臓がどくどくとうるさい。
体がこわばってうまく動けない。口が震えて、うまくしゃべれない。
「あ、りがとう……ございます……」
生きていてもいいのだと、言ってもらえた気がしました。
自分がちゃんと生きていたのだということを、ようやく実感できた気がしました。
「ありがとう、ございます」
目の前がぼやけて見えなくなったので、目を閉じて頭を下げました。
頭の上で、掌が何度か跳ねる感覚がしました。
ああ、また頭を撫でられているようです。
「これから、よろしく頼むよ」
頭のてっぺんから聞こえてきた声に、何度も何度も頷きました。
溢れてくる涙を、何度も何度も手の甲で拭いました。
もしかすると、私が産まれてきたのは、ここへ来るためだったのかもしれません。
***
それから、また数日が経ちました。
体調もすっかり良くなり、私は社員寮に移りました。
六人部屋なので、寮と言うよりは宿舎に近いような気もします。
あてがわれた部屋にはすでに二名の同室者がおり、部屋はたいへんにぎやかです。
「準備はできたかしら?」
「あ、はい」
そして今日は、明日からの就業に当たって準備をする日です。
さっそく用意していただいた服に袖を通し、今は姿見の前で全身をチェック中です。
「あら、よく似合ってるわ!」
鏡越しに目を輝かせているのは、これから私の上司になるセレスティア部長です。
桜色の巻きスカートのようなワンピースが印象的な、優しいお姉さんです。
「ありがとうございます」
お礼を述べながら、姿見に映る自分の姿を眺めてみました。
スカーフのないコックコートに、ショートパンツ、ニーハイソックス。
靴は無難なベルト飾りがついたショートブーツを選びました。
似合いっこないと思っていましたが、意外と様になっているように思います。
「あの、セレスティア部長」
「? 何かしら」
姿見に映った自分の体を見てから、視線を顔の方へ移します。
そこには、伸ばしっぱなしの髪が影を作る、陰鬱な表情の私がいます。
「髪を切るハサミって、借りられますか」
鏡越しに、きょとんと目をしばたくセレスティア部長の顔が見えました。
しかしすぐに私の思惑に気付いたようで、セレスティア部長は笑顔で頷きました。
「ええ、持ってくるわね」
ニコニコと楽しそうなセレスティア部長が、パタパタと部屋を出て行きます。
その後ろ姿を目で追ってから、顔にかかる前髪を軽く引っ張りました。
「少しずつ、明るく」
まずは、ここから変わってみようと思います。
少しでも、表情が明るく見えるように。
少しずつ、世界が明るく見えるように。




