二、過去を振り向いた日
「まず、名前を教えてくれるかな」
芽衣です。西原芽衣。
「では、メイ。年齢と職業を教えてくれるかい」
歳は、十五歳。
えっと、職業は一応、高校生です。
「なるほど。出身国は?」
日本です。
「ニホン。……ニホン? ニッポン?」
え、っと……どっちでもいいと、思いますけど。
「そういうもんなのか。いやいや、すまない、妙なところを気にしてしまって」
いえ。
「続けよう。家族構成は?」
……。
「メイ?」
……あ、その、母と私、二人です。
「父親は?」
知りません。
生まれてから一度も、会ったこともありません。
「そうか。では、母親の名前は?」
母ですか。
西原麻衣です、確か。
「確か?」
……正直、そんなに……仲良くなくて。
「何か確執でも?」
……。
***
『ああもう、何であんたはいつも無駄なことばっかりするの!』
それは、私の最初の記憶です。
まだ階段すら上手く登れないほど、小さく幼かった頃の記憶です。
『できないってわかってるなら最初からやらないでよ! 馬鹿すぎるでしょ!』
足を踏み外して階段から落ちた私に、彼女はそう言いました。
そしてうっとうしそうに、忌々しそうに、溜息を吐き捨てました。
『本当、もう嫌。何で私、こいつ産んだんだろう』
低く暗いその声と、私を睨む冷たい目。
それが、私の母親でした。
***
「メイ?」
……まあ、その……多少。
「多少」
……あ、いえ……相当、ですかね。
「ああ、そのようだな、なるほど。では質問を続けようか」
あ、はい……。
「戦闘の経験は?」
は?
「小規模なものでも構わない。何かと戦った経験は?」
いや、そんなことは……。
***
『あーっ、外人だ! 外人!』
それは、私が小学校に通っていた頃の記憶です。
生まれつき色素が薄かった私の髪を指差して、男の子たちが笑いました。
『違うもん、日本人だもん』
私は言い返しました。
すると彼らは、わざとらしく片手を耳に当て、馬鹿にしたような顔で言いました。
『はー? なんて言ってるかわかりませーん!』
『俺たち日本人だから、外国語はわかりませーん』
『わっかりーませーん!』
はやし立てるような言葉に、私は彼らを睨みました。
『違うもん! 日本語だもん!』
そう言い返すと、彼らはにやにやと笑いながら、わざとらしく言いました。
『うわっ、外人が怒った!』
『何言ってるかわかんねえ、こええ!』
ゲラゲラと笑いながら、彼らは私から逃げて行きます。
何を言い返せばいいのかわからず、私は黙り込むほかありませんでした。
そのうち、彼らは私を『罵っていい存在』と認識しました。
言われる罵声は徐々に種類を増やし、その頻度を増していきました。
『髪の毛って普通は黒いのに、何でお前の髪の毛は黒くないんですかー?』
『つうか何でお前って学校来てるの? お前が学校来る意味ってあんの?』
『何で言い返さないの? ああ、日本語わかんないんだったね! ごめんね!』
何を言われても、極力反応を示さないよう、耐えました。
泣いても、怒っても、私の負けだと思っていました。
***
肉弾戦の経験はありませんが……精神的には、ずっと戦っていたような気がします。
「あはは、そういう捉え方をするか。なるほどな」
笑い事じゃないです。
本当もう、修羅場ですよ、修羅場。
「その割に、表情は冷静そうだな」
……表情筋が仕事してくれないだけです。
「そうか。……それで、その戦いには勝てたのか?」
……いえ、
***
『あいつ、何でまだ学校来てんの?』
それは、私が中学校に通っていた頃の記憶です。
ひそひそと、内緒話の体を装いながら、女子たちは私に聞こえるように言いました。
『小学校からあれだけ言われてるのに、よくいつまでも来るよねぇ』
『本当それ。あいつがいると空気が悪くなるからもう来ないでほしい』
『いっそ死んでくれればみんな幸せなのに』
くすくすと笑いながら、彼女らはちらちらと私を見ます。
それから、今度は男子たちが私の席まで来て、私の目の前で言いました。
『西原、西原、何でお前まだ死なないの?』
『早く死んだ方がいいと思うなぁ、俺』
『なあなあ、何で無視すんの? もしかしてまだ日本語わかんない?』
顔を見なくても、男子たちがにやにやと笑っているのがわかります。
男子たちの向こうから、女子たちがくすくすと笑うのも聞こえてきます。
私が、彼らに何をしたと言うのでしょう。
***
……たぶん、勝つ可能性なんてなかったんですよ。
「それは、つらい状況に身を置いてきたんだな」
だから逃げてきたんです。
勝てないとわかったから、逃げ出したんです。
「そうか」
……。
「その戦いの中で、人の命を奪ったことはあったか?」
……私、は。
***
『何、あんた私に何か文句でもあるわけ?』
それは、私が高校に上がってからの記憶です。
私に対する『罵っていい存在』という認識は、中学を卒業しても変わりませんでした。
精神的な戦いに、疲れ果ててしまったある日のことです。
家で小さく溜息を吐いた私に、母は腹立たしそうな顔を向けました。
『あの、私』
『私、忙しいの。分かるでしょ? くだらない話なんかしてる暇ないの!』
相談しようとした私の言葉を遮って、母は言いました。
それから母は深い溜息を吐き、私から視線を逸らして、吐き捨てました。
『本当もう、あんたなんか産まなければよかった』
がらり。
世界が、足元から崩れていくような感覚を覚えました。
それと同時に、胸の奥で何かがすとんと填まったような気がしました。
ああ、そうか、それもそうだ。
“私はどうして、こんな思いまでして、生きているんだろう”
***
「メイ?」
……私は、
***
だからその日。
私はいつも通り学校へ行き、屋上まで登りました。
予鈴が鳴っても、始業のチャイムが鳴っても、教室には行きませんでした。
初めて、授業をサボりました。
見上げた空は青く晴れ渡っていて、眩しくて、綺麗でした。
思えば、空を綺麗だと思ったことすら、初めてだったかもしれません。
“今なら”
屋上を囲む柵に足をかけ、狭い足場にそっと足を下ろしました。
空が一気に近付いたような気がしました。
“もしかしたら”
脱いだ靴を並べて、両手を広げて、大きく息を吸い込みました。
肺が満たされていきます。私は生きているのだと、強く感じます。
“どこかへ、飛んでいけるだろうか”
そうして一歩、私は空へと足を進めました。
これでようやく自由になれるのだと、顔が緩んだのを覚えています。
***
……ああ、そうだ、そうでした。
私は今日、あの時、私を、殺そうと、
「ああ、わかった。もういいぞ、嫌なことを思い出させた」
すみません、なんか本当、すみません。
「いや、こちらこそすまない。次で最後にしよう」
はい。
「では、メイ。最後に……『世界樹』という言葉に聞き覚えはあるか?」
……え、っと……北欧神話……?
ユグドラシル的な、何かのゲームの宣伝で聞いた気がします。
「そうか。……なるほど、やはり『迷子』だな」
***
「質問は以上だ。ありがとう、メイ」
支部長さんはそう言うと、向かいのソファから立ち上がりました。
コロコロと下駄を鳴らして歩く支部長さんの姿を、私は反射的に目で追いました。
「顔色が悪いな。無理をさせたらしい」
「いえ、大丈夫です」
「その顔色では説得力もへったくれもないな。ここで少し休んでいなさい」
私の目の前で立ち止まった支部長さんは、そう言って私の頭を撫でました。
目をしばたかせる私に笑顔を向け、支部長さんは部屋から出て行きます。
そっと、撫でられた頭に手を置いてみました。
じわりと心が温かくなっていくような気がします。
安心したのでしょうか。
疲れが一気に押し寄せてきて、まぶたが重くなってきました。