三、帰巣
美味かった。
ガトーショコラでふくれた腹をさすりながら、俺は昇降機の操作パネルに触れた。
部屋に戻ったら、何をしようか。
フェンリルは、さすがにもう起きているだろうか。
そんなことを考えている間に、昇降機が目の前まで昇ってきた。
「そこにいたのかよ」
昇降機の中から、いやに不機嫌そうな声が聞こえてくる。
聞き覚えのある声に視線をずらせば、不機嫌そうに眉根を寄せたフェンリルの顔が見えた。
人間の姿でうろついているのは珍しいように思う。狼の姿のままでは昇降機の操作が難しいからだろうか。
「何だ、起きてたのか」
「昼前には起きたよ、バーカ」
「えらい。俺なんて今やっと昼飯食ったとこなのに」
「遅いにもほどがあるだろ」
「しかもガトーショコラ」
「不摂生も大概にしろ」
ありがたい説教を繰り広げてから、フェンリルは小さくため息をつき、自分の後ろを指差す。
「おい、さっさと乗れよ。部屋に帰るんだろ」
「一階に何か用があったんじゃないのか?」
「別にない。地下から部屋まで戻る途中なんだよ、俺は」
「ああ、なるほど」
そういえば、昇降機は下から昇ってきたのだった。
地下ということは、おそらく訓練場にでも行っていたのだろう。俺も行けばよかったかな。
そんなことを考えながら昇降機に乗り込む。
「あ、そうだ。俺は九階で降りるよ」
「九階?」
「洗濯物を取り込みに行くんだよ」
「ああ、なるほどな」
フェンリルが操作パネルに触れると、程なくして昇降機がゆっくりと上昇を始める。
「なあ、フェンリル」
「何だ、リヴァイアス」
「今日は一日、何してたんだ」
「別に、昼まで寝てから昼飯食って、午後は訓練場で筋トレ」
「筋トレ」
「狼の姿で鍛えてから、人型でまた鍛えて、繰り返し」
「ストイックかよ」
「狼の時と人型の時じゃ、使う筋肉が違うんだよ」
「大変だな」
そんな話をしている間に、昇降機が緩やかに止まる。九階に到着したようだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
「ああ」
昇降機から降りて振り向けば、フェンリルが軽く片手を挙げて、また緩やかに昇っていく。
小さく手を振ってそれを見送った後で、俺は洗濯物を干した乾燥室へ向かった。
***
フェンリルにも手伝ってもらえばよかった。
取り込んだ洗濯物を両手いっぱいに抱えて、ようやく部屋の前に辿り着く。
「ただいまァ」
「おかえり」
部屋に向かって声をかけると、フェンリルの返事と共にドアが開く。
ドアの隙間から俺の姿を見たフェンリルが、驚いたように目をまん丸にした後、呆れたようにため息をついた。
「手伝いが必要だったなら言えよ」
「いや、洗いに行く時は一回で行けたから大丈夫かなと思って」
「敗因に心当たりは?」
「カゴを忘れたことだと思います」
「分析は完璧」
フェンリルにドアを押さえてもらって部屋に入り、洗濯物をベッドの上にぶちまける。
「あとはこれをたたんで片付ければ、今日の仕事は終わりだ……長かった、一日が」
「何だ、その謎に満ち足りた顔は」
呆れ切ったようなフェンリルの声を聞きながら、ベッドに座って洗濯物をたたんでいく。
山のように積み重なっていく服を見て、洗濯を先延ばし過ぎたことを反省した。これからはもっと頻繁に洗濯する。
だが、何か月か前にも同じようなことを考えた記憶がある。学習能力のなさだけが学習されていく。
「おい、リヴァイアス」
「何だ、フェンリル」
手伝ってくれるのかと期待して振り向いたが、そういうわけではないらしい。
いつの間にか狼の姿に戻ったフェンリルは、ベッドの片隅で気持ちよさそうに伸びをしていた。
「お前は何してたんだ、今日一日」
「今日」
何かと思えば、さっきの話の続きのようだ。
確かに、相手の話を聞いておいて自分が話さないのは不公平か。
「洗濯物がたまってたから洗濯して、剣を片付けに武器庫まで行ってから、図書室で調べ物してた」
「珍しく真面目じゃねェか」
「その結果、昼飯を食いっぱぐれたので、昼飯兼おやつとしてガトーショコラを食いました」
「多分それ寝てたんじゃねェかな」
「失礼な。ちゃんと起きてたぞ。途中の記憶はあんまりないけど」
「やっぱり寝てたんじゃねェかな」
「起きてたはずだぞ、ライディアスに起こされなかったし」
「面倒臭かったんじゃねェかな」
「なんだと……」
反論したいと思いつつ、心のどこかで納得してしまう自分が嫌だ。
というか、俺が反論できないポイントを絶妙に攻めてくるフェンリルがひどい。
「言われてみれば、調べ物の内容がほとんど記憶に残ってない気もする」
「やっぱり寝てるだろ、それ」
「いや、でも多少は何か……何かあったはずだ」
「そこまで考えて思い出さねェなら、最初から頭に入ってねェんだよ。諦めろ」
「チクショウ!」
つまるところ、今日の成果は『ミシェイリアさんのガトーショコラが美味かった』だけのようだ。
ああ、あと、食糧課のランチェットという人の話。機会があれば話してみたい。
「まあでも、洗濯物も片付いたしな。休みの割には頑張ったよ、うん」
「無駄に前向き」
「明日からまた、頑張って森をうろつこうな」
「うろつくって言うな、不審者か」
そんなくだらない話をしながら、たたんだ洗濯物をクローゼットにしまっていく。
スカスカだったクローゼットがいい感じに埋まって、ちょっとした達成感。
「さて、フェンリル」
「何だ、リヴァイアス」
「晩飯の時間まで何する?」
首から提げた懐中時計を開くと、十七時を過ぎたところ。
晩飯の時間まではまだあと二時間ほどある。つまり、暇だ。
「……俺は疲れたから寝るけど、お前は腹ごなしに運動でもすれば?」
ベッドに横たわったままのフェンリルが、俺の方をちらりとも見ずに言う。
至極ごもっとも。ごもっとも、ではあるのだが。
「今日は疲れたから運動はもういいよ」
「珍しく頭使ったからか」
「そう、それ。さすがフェンリル、俺のことをよくわかってる」
「否定しろよ。ツッコミ入れられるつもりで言ったんだわ、こっちは」
「何だよ、まだまだわかってねェな」
「嘘だろ、何で俺が馬鹿にされてんの? お前が馬鹿なだけじゃん」
「なんてストレートな罵倒」
フェンリルが寝そべっているベッドに腰を下ろして、そのままごろんと寝転がる。
見飽きた白い天井が視界に広がったと思ったら、次の瞬間にはフェンリルの尻尾で何も見えなくなった。
「……フェンリル、お前ちょっとアレだな……くさいな」
「おいコラ、せめてもう少し包む努力をしろよ。失礼だろうが」
「臭みが出てきたな」
「下手か。包めてねェんだわ、一切。オブラートが役目果たしてねェんだわ」
「一ボケるとツッコミが十来る。さすがフェンリル」
「どこ褒めてんだ。さてはお前、頭働いてねェだろ」
顔の上でフェンリルの尻尾が揺れる。ペシペシと当たって痛い。
「仕方ねェだろ、筋トレの後そのまま来たんだから」
「晩飯の前に風呂だな、こりゃ」
「面倒くせェなァ」
「獣くせェよりマシだろ」
「それもそうか」
のそのそと起き上がったフェンリルが、軽やかにベッドから降りていく。
その後を追うように、俺ものそのそと起き上がった。
「タライとバスタオルを忘れるなよ」
「何でさりげなく洗ってもらおうとしてんだ。都合のいい時だけペット面しやがって」
全く、ふざけやがって。
なんて文句を垂れながら、忘れずにタライを持ってしまう俺がいて、何だか癪だ。