一、世界を飛び出した日
長い夢を、見ていたような気がします。
夢の中の幼い私は、ゆるゆると頬を緩めて笑っていました。
そんな私を、父と母が幸せそうに見ていました。
『お母さん、あのね。今日はハンバーグが食べたいな』
緩んだ顔でそう言うと、母は幸せそうに笑いました。
『そうね、じゃあ一緒に作ろうか』
私は緩んだ顔のまま、大きく頷きました。
『お父さん、あのね。今度、遊園地に行きたいな』
笑顔のままでそう言うと、父は幸せそうに顔を緩ませました。
『そうだな、今度の休みにみんなで行こう』
私は緩んだ顔のまま、何度も頷きました。
何故、こんな夢を見たのでしょう。
現実の私は、母の幸せそうな笑顔など、一度も見たことがありません。
父親など、生まれてから一度も、会ったことすらありません。
あんなに幸せな光景など、私は、一度も、
***
重いまぶたを持ち上げると、目の前に黒い毛並が見えました。
ところどころに白が混じるその毛並からは、獣のようなにおいがしました。
「にゃあ」
不意に、体の下から鳴き声がしました。
同時に、自分の体に振動が伝わって、飛び上がるように体を起こしました。
「……っ、わっ」
ぐらり、体が傾いてずり落ちそうになりました。
体の下で黒い毛並が動いて、器用に私の体を受け止めました。
「ああ、気が付いたか?」
下の方から、男の人の声が聞こえました。
今度こそ慎重に体を起こすと、目線がすごく高いことに気付きました。
周りは深い森のようで、うっそうと茂る木々が立ち並んでいます。
少し視線を下げると、体の下の黒い毛並が動物であることに気付きました。
上からではよくわかりませんが、どうやら虎か何かのようです。
そこから視線を左にずらしたところで、男の人と目が合いました。
白い髪、黒い瞳、左目の辺りには獣に引っかかれたような三本の傷跡があります。
「悪いな。勝手に運ばせてもらってるよ」
大学生くらいと思われるその男の人は、そう言って困ったように笑いました。
服装は、白い七分袖のTシャツにベージュのカーゴパンツ……のように見えます。
首から提げているのは、懐中時計でしょうか。
そしてその背中には、とても大きな剣が担がれています。
「大丈夫か?」
心配そうな男の人の声を聴きながら、私は右手で額の辺りを押さえました。
「私、」
ここは、どこなのでしょうか。
私はいったい、何をしていたのでしょうか。
この人は誰なのでしょうか。この黒い虎は何なのでしょうか。
ぐるぐると混乱する頭で記憶を辿り、ようやく思い出しました。
ああ、そうだ。
この人は、訳も分からないままこの森に迷い込んだ私を、保護してくれた人。
「あの、ここはいったい」
「ああ、やっぱり聞きたくなるよな、それ。俺もそうだった」
その人は困ったように笑います。
「でも、参ったな。俺の口からそれを説明するわけにはいかないんだ」
「それは、どういう?」
「あー……なんと言えばいいのやら」
眉間を揉むような仕草をするその男の人の足元に、白い影が見えました。
「あんまりしゃべるなよ」
その声は、男の人の足元の白い影から聞こえてきました。
よく目を凝らしてみると、それは白い狼のようです。
「余計なことを言いそうでこっちが焦る」
「お前に言われたくないんだけど」
「ふん」
狼と男の人は、慣れ親しんだ友人同士のように言葉を交わします。
私の体の下の黒い虎も、どこか楽しそうにのどを鳴らしているのが聞こえました。
「とりあえず、ここがどこかって話は、これから会う人がちゃんと説明してくれるから」
私の方を振り向いたその男の人は、にっこりと笑って見せました。
どうやらそれは、私を安心させるために。
「大丈夫だよ」
何故でしょう。
この人の声は、言葉は、不思議なほど私の心を落ち着かせてくれるのです。
***
そこからしばらく進んだところで、進行方向に白い建物が見えてきました。
森の樹に負けないほど背の高い、大きな塔のような建物です。
「着いたな」
建物の扉の前まで来たところで、その男の人はこちらを振り返りました。
すると、私の体を運んできた黒い虎がゆっくりと身を屈めます。
私が降りやすいように、気を遣ってくれているようです。
「あ、ありがとう、ございます」
礼を述べながら、玄関アーチの部分に足を下ろしました。
その虎はにゃあと一声鳴くと、男の人の方を向き、顎で扉の方を指しました。
「わかってる、大丈夫。……大丈夫」
半ば自分に言い聞かせるように、その男の人は黒い虎に向かって言います。
黒い虎はじとっとした目で男の人を見た後、呆れたように首を振りました。
「とりあえず! シュバルツはアシュレイに報告を頼む。居場所はお前ならわかるだろ」
そう言いながら、男の人が黒い虎の頭を撫でます。
黒い虎は仕方がないという表情で、にゃあ、と鳴いて見せました。
「フェンリルは司令室な。戻りの報告をしておいてくれ」
今度は白い狼の方を向いて、男の人が言います。
白い狼は面倒くさそうに溜息を吐きました。
「仕方ねえな」
「頼んだ」
それから、男の人が建物の扉を開けました。
その隙間を縫うように、白い狼が建物に入っていきます。
後ろを振り返ると、黒い虎が再び森へ入っていくのが見えました。
「嬢ちゃん、行くよ」
「あ、はい」
男の人に案内されるまま、私は白い建物に足を踏み入れました。
外観と同じように、内装も白でまとめられています。
彼の背中を追いながら、ついついせわしなく視線を巡らせてしまいます。
右側の食堂らしき場所では、何人かが食事をしている姿が見えました。
どの人も一様に白い髪をしていますが、瞳の色はバラバラのようです。
「まっすぐ行くと昇降機があるから、それに乗って一番上まで行きます」
「はい」
「んで、支部長に会ってもらいます」
「はあ」
彼は時折こちらを振り返りながら、私の前を歩いていきます。
あまり離れないように後を追っていくと、やがて壁に開いた穴の前に辿り着きました。
穴の向こうの床には、昇降機が通るらしい丸い穴が開いています。
「支部長は一応ここのトップだけど、気さくな人だから心配しなくていい」
「はい」
「親しみやすいけど威厳もあるし、いいリーダーだと思う。うん」
そんな話をしながら、彼は廊下の隅に設置されている操作パネルに触れました。
やがて丸い床が上から降りてきて、廊下と同じ高さで止まりました。
扉がなくて、安全性などは大丈夫なのでしょうか。
そんなことを考えていると、横で小さな笑い声が聞こえました。
振り返ると、彼は操作パネルから手を離し、昇降機に乗り込みました。
「乗って、大丈夫だから」
その人懐こそうな笑顔に背中を押され、私は恐る恐る昇降機に足を乗せました。
***
しばらく上昇したのち、昇降機はゆっくりと停止しました。
再び操作パネルに触れてから、彼は先に昇降機を降りて行きます。
「こっち」
手招きされるまま、私も昇降機を降りて歩き出しました。
まっすぐ歩いていくと、何やらプレートが付いた扉の前に着きました。
彼は小さく溜息を吐いてから、目の前の扉をノックしました。
「レスティオール、いるか?」
「ああ、いるよ」
扉の向こうから聞こえた返答に、彼はわずかに驚いた様子を見せました。
「……いるのか、珍しい」
ポツリとそう呟いてから、彼は目の前の扉を開けました。
まず目に入ったのは、応接セットと思われるテーブルとソファです。
その奥に、執務用と思われる机があります。壁には本棚が並んでいます。
内装のほとんどが白でまとめられており、少し眩しく感じます。
「やあ、リヴァイアス。おかえり」
その声は、部屋の一番奥から聞こえました。
視線をそちらへ向けると、窓際に立っている男の人が見えました。
「連れてきた」
「その子か、なるほど」
白い着流し姿のその人は、そう言って金色の瞳をわずかに細めました。
すべてを見透かされているような気がして、私は思わず視線を逸らしました。
「改めて、初めまして。俺の名前はレスティオール」
コロン、下駄が鳴る音がします。
俯いた視界の隅で、白い着流しの裾と、長い白髪が揺れました。
恐る恐る視線を上げると、金色の目を細めて笑うその人と目が合いました。
「この施設では一応、支部長を名乗らせてもらっている。とは言え、実質的に支部長らしい業務は、ほとんど副支部長に任せている状態だがな」
その人は、そう言って高らかに笑います。
呆気にとられる私に向かって、その人は笑顔のまま、もう一度口を開きました。
「さて、早速だが、君にはこれから俺の質問に答えてもらう」
穏やかな笑顔なのに、柔らかな口調なのに、その言葉には威圧感がありました。
この人に嘘を吐いてはいけないと、何故かそう思わされました。