幽霊2日目の朝
次に目が覚めると、仮眠室の上部にはめ込まれた横に細長い三枚の窓から、太陽の光が燦々とふりそそいでいた。
壁に掛けられた時計に目をやれば、針は10時を指し示している。
全てのベッドのカーテンが開け放たれているのを見ると、どうやら俺以外、今は誰もいないらしい。
静かな室内にはカチコチと時計の音だけが小さく鳴っている。
「ふぁー良く寝た」
そんな独り言を呟きながら、目が覚めたら元の時間軸に戻っていて、更には幽霊になったと思った昨日の出来事は全て夢だった、なんて事にならないかなと期待しながら、2段ベッドの上段から降りようと梯子に手を伸ばす。
だが、梯子を掴もうとした時、掴むどころか自身の手がすり抜けてしまった事で早くも期待は裏切られた。
「はぁ、やっぱりこれが現実か……」
そもそも、病院の仮眠室にいる時点で、期待など持つべきではなかったか。
肩を落としながら2段ベッドから飛び下りた俺は、着地の感覚もないままに、床に降り立つ。
また昨日のお姉さんの部屋にでも行こうかと、仮眠室に一つだけある出入口のドアを開けようとドアノブに手をかけるも、案の定触れられず、今の俺ではドアノブを回す事すらできそうにない。
幽霊とはなんと不便な体なのか。
二度目のため息が漏れた。
さて、どうやってこの部屋を出ようかと思案している中で、テレビでよく見る幽霊の体がドアや壁を通り抜けるシーンが思い浮かんだ。
「ベタではあるが、やってみるか」と、俺が扉に手を伸ばすと、思った通り俺の手首より先はドアの向こうに消えたいた。
この透けた体は、ドアや壁などの障害物も構わず通り抜ける事ができそうだ。
前言撤回、幽霊の体は不便な事ばかりでもないらしい。
無事仮眠室を抜け出た俺は、お姉さんの病室のある東棟の3階へとやってくる。
3階は、小児科病棟もあるせいか、あちらこちらから子供の声が聞こえてきて、他の階よりも賑やかに感じられた。
ふと、ガラス張りの面会室の中、一瞬見覚えのある姿が視界に映った気がして目をやると、昨日のお姉さん、葵葉さんが帽子を被った幼い子供と二人並んで座っていた。
子供の歳は小学校の低学年くらいだろうか。
きっと被っている帽子は、医療用のものだろう。
治療により脱毛した人が多く被っている帽子で、コットンなどの肌に優しい素材が使われている帽子だ。
脱毛を伴う治療として、素人が真っ先に頭に浮かんだ病名は、がん。きっとあの子はあんなに小さな体で小児がんを患っているのだろう。
そのせいなのか、葵葉さんの隣に座る子供は、何度も何度も目元を服の袖で脱ぐっていて、遠くからでも泣いている事が分かった。
葵葉さんは、その子に何かを語り掛けながら、背中をさすってやっている。
何だか、あまり見てはいけないシチュエーションに出くわしてしまったかと、二人に近付く事を躊躇っていると、俺の存在に気付いたらしい葵葉さんが、こちらに向かって手を振ってくれた。
ペコリと頭を下げて見せた俺に、今度は来い来いと手招きして見せる。
誘いに応じるべきか一瞬迷いながらも、葵葉さんの向ける笑顔につられるように、俺は面会室のガラス戸をすり抜け二人の元へと近寄って行く。
「祐樹君、おはよう。昨日はゆっくり休めた?」
隣に子供とは言え他の人間がいる場所で、昨日と同様何の躊躇いもなく俺に話し掛ける葵葉さんに、一瞬こちらが躊躇いながらも、小声で返事をする。
「お、おはようございます。はい、おかげさまで昨日あの後すぐに寝られて、久しぶりにゆっくり休ませて貰いました。所でその子、どうしたんですか?」
俺達がそんな会話を交わしていると、案の定子供は不思議そうに顔をあげ、泣き腫らした目で俺達を見上げた。
ん? 葵葉さんだけじゃなく、俺達を?
「葵葉ちゃん、このお兄ちゃん誰?」
俺に向けられているだろう視線に違和感を覚えた時、その子供ははっきりと俺を指差し、葵葉さんにそう質問した。
子供の反応に俺は思わず驚き、声を上げる。
「え? この子にも俺の姿が見えてる……のか?」と。
驚く俺に、子供はあっけらかんと言った。
「分かった。お兄ちゃん、幽霊でしょ。体透けてるし、幽霊だよね?」
「そ、そうだけど……お前、俺の事、怖くないのか?」
「あたし、幽霊怖くない。だって、お兄ちゃん以外にも、何人も幽霊見たことあるし」
帽子とマスクで半分以上隠れた顔では、性別までは判断がつかなかったが、あたしと発言した事で、この子はきっと女の子なのだろうと思った。
「莉乃ちゃんは生まれつき霊感が強いみたいで、幽霊を怖がらないの。だから、この子の前では普通に話しても大丈夫だよ」
葵葉さんは俺の為に椅子を引き出してくれながらそう教えてくれた。
「……はぁ、世の中には案外、幽霊見える人がいるもんなんすね」
率直な感想を漏しながら、俺は葵葉さんが出してくれた葵葉さんの隣の椅子に腰掛けた。
「で、この子は何を泣いてたんですか?」
「この子じゃない。莉乃には莉乃って名前があるの!」
「あぁ~、悪かったって。じゃあ莉乃……ちゃんは、どうして泣いてたんだ?」
「レディの涙の訳を聞くなんて、この幽霊デリカシー無さすぎ!」
子供らしくない暴言を吐きながら、ふんと顔を背ける莉乃……ちゃんに「かわいくねー」と心の中で突っ込みながら、俺はひきつり笑いを浮かべる。
そんな俺達の会話を、間に挟まれ聞いていた葵葉さんが莉乃に変わって涙のわけを教えてくれた。
「ふふふ、莉乃ちゃんは今日、仲の良かったお友達が退院して、それが寂しくて泣いてたんだよね」
莉乃はうつむきながら小さくコクンと頷いた。
「なんだ、退院したなら良かったじゃないか」
「それは……そうだけど……」
莉乃は更に俯きながら、葵葉さんの羽織るカーディガンの腕の部分を、ギュッと小さな手で掴んだ。
その手を、自身の手で覆いかぶしながら葵葉さんが優しい声音で言った。
「莉乃ちゃんは、置いていかれるのが寂しいんだよね」
「……うん」
「莉乃ちゃんはこの病院にもう2年近く入院してるの。その間に仲良くなった子の退院を何人もお見送りして来たんだよね。皆が元気になってお家に帰って行くのは嬉しいけど、莉乃ちゃんだって早くお家に帰りたいよね。莉乃ちゃんだけ一人、この場所に取り残されている感覚が寂しいんだよね。だから、お見送りした後は、いつも隠れてこっそり泣いてるんだよね」
「……うん。……どうして莉乃は退院できないんだろ? 皆元気になって退院して行くのに……どうして莉乃だけ元気になれないんだろう……」
そう本音を漏らしながら、莉乃の頬にはポロポロと涙が零れ落ちていた。