開かれた記憶の扉
それからあっと言う間に一週間が経ち、約束の大晦日がやって来た。
この日の私は朝からそわそわして、妙に落ち着きがなかった。
ついにはお母さんから指摘されてしまう程に。
「葵葉ちゃん、何だか今日は朝から落ち着かないわね。どうかした?」
「う、ううん、なんでもないよ。ねぇお母さん、今日の夜、友達と一緒に裏山の八幡神社へ初詣に行っちゃだめかな?」
「友達と? あぁ、もしかしてこの前葵葉ちゃんを迎えに来た男の子と?」
ニヤニヤしながら訪ねるお母さん。
なんだか妙に気恥ずかしくて、私はそっぽを向いて顔を伏せた。
きっと顔は真っ赤に染まっていたのだろう。
けれどお母さんは、それ以上詮索する事はなく、思いの外あっさりと外出許可を出してくれた。
「いいわよ、行ってらっしゃい。楽しんで来てね」
「あ、ありがとう、お母さん。この事、お兄ちゃんには内緒にしてね。絶対大騒ぎするから」
「分かったわ。お兄ちゃんには内緒ね」
いつもうるさい――もとい、過保護なお兄ちゃん対策をしつつ、私はお母さんの大掃除を手伝いながら夜を待つ事にした。
***
昼食後――
「葵葉ちゃん、大掃除手伝ってくれてありがとう。あとは貴方の部屋を片付けてくれれば良いからね」
午前中、家の大掃除を手伝った私は、お母さんに言われて午後は自分の部屋を片付ける事にした。
ベッドの上にはたくさんのぬいぐるみが並んでいる。
その中には、この前クリスマスプレゼントにと、神崎君がゲームセンターで取ってくれた黄色いくまのぬいぐるみも並んでいた。
ぬいぐるみを手にとりながら、あの日の事を思い出す。
初めて家族以外の人と出掛けたお出掛けは、今思い返せばとても楽しいものだった。
今日はどんな楽しい事が待っているのかな。
考えると口元が自然と緩んだ。
「あ、そう言えば……」
私はあの日に買った、もう1つのものを思い出す。
タンスを開けて、“それ”を探す私。
取り出した服を一枚一枚ベッドに並べながら、やっと目当ての服を探しあてた私は、それを体にあててみながら鏡の前に立った。
「今日の初詣、これを着て行ってみようかな……。神崎君、なんて言うかな」
ふとそんな独り言がこぼれ落ちる。
私が唯一持っている女の子らしい服。
フリルが付いたそのロングスカートは、神崎君が似合うと言ってくれた服。
この服を着て行ったら、神崎君はどんな反応を見せてくれるだろうか。
想像しながら私は、自分が思っていた以上に、もっとずっと浮かれている事を感じて、恥ずかしさに襲われた。
「……何調子に乗ってるんだろ……私……。部屋の片付けをするはずが、こんなに散らかして……」
パンパンと、両手で自分の頬を叩く。
「やっぱりやめよ。こんな可愛いスカート、私なんかが似合うわけないもん。そんな事より早く片付けしなくっちゃ」
乙女チックな妄想から、現実世界へと自分の意識を引き戻す為、今度こそ私は部屋の片付けに専念する事にした。
まずは、今散らかした服を仕舞って、ベッドの上に並ぶたくさんのぬいぐるみ達を、残す分と仕舞う分とに仕分けする。
仕舞う方に仕分けしたぬいぐるみ達は袋に纏めて押し入れへと運んだ。
仕分けしたぬいぐるみを持って押し入れを開く私。押し入れの中を見ながら私はポリポリと頬を掻いた。
そこには夏物の服や、冬物の布団。それにたくさんの本や漫画。中学生の頃に使っていた教科書やノートなど、ありとあらゆる物が詰まっていて、とてもぬいぐるみの置くスペースなど残ってはいなかった。
「…………」
我ながら詰め込み過ぎの押し入れを反省しながら、今度は押し入れを片付ける事に決めた。
片付けると言っても、もうこれは、いらないものを捨てて空きスペースをつくるしか手はなさそうだ。
手当たり次第のものを手に取って、ここでも欲しいものといらないものとを選別して行く私。
「ん〜これは……なかなか本格的な大掃除になりそうだな」
とほほと、ため息を吐きながら、選別作業をし始めて、どれくらいの時間が経った頃だろうか。
押し入れの中から一冊の、見覚えのないスケッチブックを見つけた。
「あれ、私……こんなスケッチブックなんて持ってたかな?」
不思議に思って中を開くと、今度は見覚えのあるタッチで、見知らぬ男の子の絵が描かれていた。
「……これ、私の絵?」
絵のタッチは間違いなく私のもの。
けれども私には、全く描いた覚えのないもの。
どうして描いた覚えがないのだろう?
不思議に思いながら更にページをめくって行くと、そこには何枚も何枚も、同じ男の子のラフスケッチが詰まっていた。
その男の子は、どこか神主さんを思わせるような着物を着ていて、どことなく神崎君に似てる気がした。
一瞬、神崎君と以前に交わしたあるやり取りが頭に浮かんだ。
――『コンクールって言うのはね、毎年2月に開催される県主催のコンクールがあって、うちの学校の美術部は、一年の集大成として一人一点必ずそのコンクールに作品を応募する決まりなの』
『へ~。テーマは?』
『テーマは自由。それに作風も自由だよ。デッサン画でも、風景画でも、人物画でも。それ以外でも何でも自分が描きたい物を描きたいように描いて良いんだって。自由過ぎるってのも……逆に何を描けば良いのか迷っちゃうよ』
『じゃあさ、俺リクエストしても良い? 俺の事描いてよ』
『…………へ?』
『悪いが、葵葉の専門は風景画。人物画は専門外!だよな? 葵葉』
『あ……うん。人物画は描いた事なくて………』
『だ、そうだ。残念だったな下僕』
『描けるよ。葵葉ならきっと描ける』
過った神崎君との会話の後に、私の頭の奥底から、ふと朧気な記憶が甦った。
――『…………おい。んな目の前にいられたら気になって眠れないんだけど』
『だって、神耶君が遊んでくれないから』
『俺はまだ眠いんだ』
『だから私、騒いで邪魔したりはしてないよ。ちゃんと大人しくしてるもん』
『だから、目の前にいられる事自体が邪魔なんだ!絵描くならあっちで描け』
『嫌。あっちじゃ神耶君の背中しか見えないもん。背中をスケッチしてもつまらない』
『……んな事知るか。目の前で描かれたんじゃ俺が気になって眠れな……』
『なら遊ぼうよ!』――
――今の記憶は何?
まだまだ朧気な記憶を手繰り寄せようと、必死に前後の記憶を思い出そうとした。
けれどそれ以上は何も思い出せなくて、私は更なる手がかりを求めてスケッチブックを次へ、次へとめくって行った。
スケッチブックをめくる度、現れるのはやはり同じ男の子で、けれど眠っている姿、微笑んでいる顔、怒っている顔、様々な表情や仕草が描かれている。
スケッチブックも終わりに近付いた頃、あるページに、見慣れない字で「下手くそ」と書かれている文字を見つけた。
そして、その次のページをめくった所で、スケッチブックをめくる私の手が止まった。
そのページには、今までとは明らかに異なるタッチで、私の眠顔がスケッチされていたのだ。
自分の寝顔を描いたその絵は、私の描いただろうものとは比べ物にならないくらいとても上手で……とても綺麗だった。
その絵は酷く私を懐かしい気持ちにさせて、絵を眺めながら、私の頬には一雫の涙が零れ落ちていた。
そして涙と共に、私の口から一人の名前が自然と零れ落ちた。
「…………神耶……君」と。
クリスマスイブの帰り道、夢で見た男の子と同じ名前を――
瞬間、きつく閉ざされていた記憶の扉が一気にこじ開けられて、それまで忘れていた全ての記憶が溢れ出す。
15歳の夏休み、おじいちゃん家の裏山にある八幡神社を訪れ、その時初めて出会った偏屈な神様の事を。
彼は神耶君と言って、友達になってとしつこくお願いした私の願いを訊いて、いつも仏頂面をしながらも私の相手をして遊んでくれた。
それが嬉しくて、私は病院を抜け出し何度も何度も会いに行った。
結果、無理をし過ぎた私は大きな心臓発作をおこして、一度死の縁をさ迷った。
その時、神耶君は私を迎えに来てくれて、生きろと激を飛ばしながら私をあの世との境から救い上げてくれた。
だから私は、神耶君が繋いでくれた命の灯火を、なんとか1日でも繋ぎとめようと、彼の元を離れて病気の治療に専念した。
その入院生活の中、私は私を救ってくれたヒーローに再び会いに行く日を心待ちにしながら、このスケッチブックに記憶の中の神耶君の姿を描き溜めた。
そして一年後にやっと再会を果たした時、神耶君は涙しながら私の帰りを喜んでくれた。
そうだ……思い出した。
全部全部……思い出した。
神耶君の優しさも。
屋上で一緒に食べたお弁当の味も。
神崎君が語った彼の過去も。
隣町へと二人で出掛けて、初めてデートした思い出も。
そして――
神耶君が私の前から突然姿を消した事実も。
神耶君が姿を消したことで、私は彼が師匠と慕っていた神様に、神耶君に関わる全ての記憶を消されてしまった。
だから今まで思い出そうとしても、思い出せなかったのだ。
やっぱり私は神崎君の事を知っていた。
神崎君こそ、私の大好きだった神耶君、その人だ。
全ての記憶を思い出した事で、神崎君の正体が私の中で核心に変わった。
と、同時に、1つの不安が沸き起こった。
クリスマスの帰り道、神崎が口にした言葉。
――『思い出さなくて良い。思い出せなくて良いから、あと少しだけこのままでいさせてくれ……』
彼は苦しい顔で確かにそう言った。
どうして思い出さなくて良いと、言ったのだろうか?
それにあと少しだけとは……どう言う意味なのだろうか?
もしかして私が神耶君の事を思い出してしまったら……彼は再び私の前からいなくなるってしまう?
そんな疑念が頭から離れなくて、私は思い出せた喜びよりも、込み上げてくる不安から、気付けばボロボロと涙を溢していた。
また私の前から神耶君がいなくなるなんて……考えただけで苦しくて、切なくて……
楽しみだった筈の初詣が、何だか憂鬱なものへと変わった。
***
――夕食時
「どうしたんだ葵葉? お前、目が真っ赤だぞ。もしかして泣いてたのか?」
「……お兄ちゃん……何でもないよ」
夕食の席、泣き腫らした私の顔を見て、お兄ちゃんやお母さん、共に食卓を囲む家族が一様に驚いた顔をして私を見ていた。
みんなの心配そうな視線に気付きながらも、私は何も会話をする気にはなれなくて、ずっと黙ったまま食事を終えた。
「……ご馳走様」
小さな声でそれだけ言うと、再び二階へと戻って行く。
約束の時間まであと3時間。
私の不安に反して、約束の時間は刻一刻と迫っていた。




