変わりゆく日常
だが不思議な事に、辛く逃げ出したいと思うような日々でも、1週間、10日と積み重て行くうちに、それは次第に習慣となって行く。
習慣へと変わってしまえば、今度はそれが当たり前の日常へと変化して行く。
生きとし生けるものの適応能力とは何と素晴らしいものか。
――否。慣れとは何と恐ろしいものか。
このまま奴のペースに巻き込まれて、この日常を受け入れてしまっては、奴に負けを認めた事にならないか?
それはなんだか腹立たしい。何故神であるこの俺が、人間の小娘などを恐れ、奴に良いように弄ばれなければならないのか。
俺はついに、ちょっとした反撃に転じる事にした。
今日こそは奴に邪魔される事なく、日頃の睡眠不足を解消しなければ。
俺は、奴がくる昼前に、師匠にも内緒でこっそり社を抜け出し、山の奥深くへと入って行く。
師匠にも誰にも教えていない、俺だけの秘密の場所で、今日一日昼寝をする事にした。
べ、別に、約束を破るわけではない。ちょっと、本当にちょっとだけ、自由な時間が欲しくて姿を隠すだけなのだから――
◆◆◆
「ここへ来るのも久しぶりだな。ここはいつ来ても変わらないな」
秘密の場所。そこは八幡神社のあるこの山の頂上。
頂上と言っても、この山自体さほど高さのある山ではなく、一時間もあれば余裕で山頂に辿り着けるだろう。
だが、この山自体が村の守り神とされ、八幡神社より上は、神域とされていることから、山頂まで登ってくる人間など滅多にいない。
ここならきっと、奴にも見つからないだろう。
「はぁ~、やっぱりここは落ち着く」
人間の手が及ばないこの場所は静かで、空気も澄んでいる。
それに、緑が青々と生い茂るこの山では珍しく拓かれた場所だ。
一本だけ凛と聳え立つ桜の大木があるが、それ以外は何もない。
頂上でありながら草木と言った視界を邪魔するものはなく、拓かれた場所であるが故に見晴らしは良い。山下に広がる田舎の長閑な田園風景が一望出来るのだから。
その絶景を、その桜の大木に登り、眺めながらのんびり過ごす。それが、ほんの数日前までの俺の日常だった。
あ~、久しぶりに一人で過ごす時間。この穏やかな時間がこれ程までに贅沢なものだったとは。俺は今初めて知った。
鳥の囀りを聞きながら、風に流れゆく雲や、村に広がる田んぼを眺める。
そよそよと、肌に心地好い風を感じながら、俺は夢の中へと誘われていき――
「?」
本当に奴は来ないのか?
邪魔者がいないと言うのは良い事だ。
だが、こうも簡単に奴から逃れる事に成功してしまうと、それはそれで何だか調子が狂うような。
と言うか、逆に気になって眠れない。
「……って、何考えているんだ俺は。これじゃあまるで、この至福のひと時を、あいつに邪魔される事を待っているみたいじゃないか」
「おや、久しぶりに一人の時間を満喫させてあげようと思ったのですが、やはりあなたは邪魔される事を望むのですね。相変わらずのマゾ属性」
「俺はマゾじゃね~!! って、うわぁ~師匠?! どうしてここに? ここは俺だけの秘密の場所。誰にも教えてないはず。なのに、どうして居場所がバレたんだ」
「あなたの居場所くらい、気を探せば分かりますよ。何せ私は神なのですから」
「……くっ」
無念だ。師匠に見つかってしまった。
今日は観念するしかないか。
なんと短い逃亡劇。
次身を隠す時は、師匠にも気をつけなければ。
と、自分でも不思議な程、あっさり俺は観念した。
「で? 師匠はあいつに何か言われて来たのか?」
「葵葉さんですか? いいえ。葵葉さんなら、今日はまだ来ていませんよ」
「……え?」
来てない?
「……んだよあいつ。自分から約束だとか言ってたくせに、自分でそれを破るのかよ。やっぱり人間なんて、身勝手な生き物だな」
「何を拗ねているんです? 最初はあんなに怖がっていたのに。随分葵葉さんに懐いたみたいですね神耶」
ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべながら、そんな事を言う師匠。
「な、別に拗ねてなんかねぇ! 懐いてもいない! 人間なんて大っっ嫌いだ! 今日はあいつがいなくて清々してらぁ!」
「本当に貴方は、面白いくらいに素直じゃないですね。顔、真っ赤ですよ」
クックッと声を殺して、笑いを堪えているのだろう師匠。
その姿に、俺は恥ずかしさを抑えられず声を上げた。
「う、うるせぇ~! てか、あんたいつまでここにいるつもりだよ。とっとと自分の神社へ帰れよ!」
「あっ、葵葉さんが来たみたいですね」
「っ?!」
師匠の言葉に思わずキョロキョロと辺りを見回す。
そんな俺に、ついに師匠は大声を上げて笑い始めて
「な、何がおかしい?」
「嘘ですよ。う~そ。そんなにも葵葉さんが待ち遠しいんですね」
「こ、この……糞師匠~~~~~っ!!」
俺は再び顔を真っ赤に染めがら、怒りを爆発させた。
なのに、まだ懲りないのか、この人は。
「あっ、葵葉さんが来たみたいですよ」
「二度も同じ手にひっかかるかよ」
おれはプイっと師匠から顔を背ける。
「今度は本当ですって。ほら、社の方」
師匠の言葉に、ついつい師匠が指し示す先を目で追ってしまう。
師匠の指差す先、社がある方向。
ここから肉眼では神社など到底見えないが、俺は意識を集中させながらじっと目を凝らした。
そして神力を使って、師匠の指差す先を見つめた。
その先には確かに葵葉の姿が。
慌てた様子で社へ向かって走って行く葵葉。
「? 何かあったんですかね。何だか慌ててましたけど」
「さぁ~な」
「神耶、行ってあげなくて良いのですか?」
「何で俺が。奴から身を隠す為にここにいるのに。……てか師匠、俺がここにいるって事は絶対奴には内緒にしろよ」
「お~い、葵葉さ~ん」
「っておい! 何大声出して呼んでんだよ。内緒にしてくれって、今お願いしたばっかだろ!」
「葵葉さ~ん!!」
「だから、頼むから、俺を平穏無事に過ごさせてくれよ。な? 今日一日からい良いだろ? 」
必死に懇願する俺を、何故か師匠は肩を震わせ笑っている。
「何笑ってんだよ師匠」
「だって、こんな離れた場所から呼んだって、人間の葵葉さんには聞こえるわけないのに、そんな必死になって」
「……あ」
我ながら恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じていると、葵葉の後ろにもう一人、見知らぬ男が葵葉を追いかけ走って行く姿がある事に気付いた。
「……? 誰だ、あの男?」
「さぁ? でも、もしかして葵葉さん、あの男から逃げているのではないでしょうか? だからあんなに焦っているのでは? だとしたら大変ですよ神耶。早く葵葉さんを助けに行かないと」
いつも穏やかな師匠が、珍しく焦った様子で俺を追い立てる。
だが、突然の事態に俺の頭はついて行かず、一瞬動く事が出来なかった。
「…………」
「神耶っ!」
「あ、あぁ……」
師匠の声に急かされて、そこで初めてはっと我に返った俺は、慌てて桜の大木から飛び降りると、疾風の如く急ぎ神社までの道を引き返す。
(神耶君、何処にいるの? 神耶君……)
その間、俺の頭の中に響いてくる声。
必死に俺の名前を呼ぶあいつの――
「っくそ!」
どうして俺は、今日に限ってあいつから逃げようとしてしまったのだろう。
自分の浅はかな行動を後悔しては、きつく唇を噛み締め俺は葵葉の元へと急ぎ走った。