リクエスト
「葵葉~~~!!」
周りからクスクスと笑われながら、昇降口から校門を目指す道中、突然に前方から大きな声で私の名前を呼ぶ聞き慣れた声がして、私は驚きに顔を上げた。
「え?! お兄ちゃん!」
するとそこには、学校の校門へと続く坂道を一人逆走して登って来るお兄ちゃんの姿があった。
ブンブンと頭の上で大きく腕を振っては、何度となく私の名前を叫ぶお兄ちゃんを、すれ違う幾多の生徒が好奇の目で振り返っていく。
「お兄ちゃん……物凄く……目立ってる……」
あまりの恥ずかしさに、私は顔を真っ赤に染めながら他人のふりをすしようと下を向く。
すると、すぐ隣にいた神崎君から「相変わらずだな」と小さな呟きが聞こえてきて、私は「えっ」と下げたばかりの顔を再び持ち上げた。
まるでお兄ちゃんの事を知っているかのような口振り。もしてさかして神崎君は、お兄ちゃんの知り合ない――?
私の中で浮かんだ疑問を、直接神崎君に尋ねようと口を開きかけたその時、息を切らして坂道を駆け上がって来たお兄ちゃんが、私と神崎君の間に割り込んで来て、私の言葉は虚しくかき消されてしまった。
「葵葉〜! やっと見つけたぞ。心配かけやがって」
「……お兄ちゃん……一体どうしてここにいるの? 今の時間、お兄ちゃんは塾に行ってる時間じゃないの?」
「どうしてって、お前がなかなか帰ってこないから心配して探しに来たんだよ。まったく、遅くなる時は電話の一本くらいしろっていつも言ってるだろ。おかげで塾休んでお前の事を探し回ったんだからな! 高校3年生の貴重な時間を使わせやがって」
「う……それに関しては、ごめんなさい……」
お兄ちゃんのもっともな言い分に、私はシュンと肩をすくめながら素直に謝った。
「分かれば良いんだ、分かれば。怒鳴ったりして悪かったな。さぁ帰ろうか、葵葉」
「う、うん……」
謝る私の頭をポンポンと2回、優しく撫でながら帰るよう促すお兄ちゃん。
ふと、お兄ちゃんは今、隣にいる神崎君の存在に気付いているのだろうか? そんな疑問が私の中に浮かんだ。
だってあまりにも不自然に神崎君を見ようとしないから。
本当に彼の存在に気付いていないのか、それとも気付かないフリをしてるのか?
神崎君はと言えば、そんなお兄ちゃんの態度を別段気にした様子もなく、涼しい顔をして私達の隣を並んで歩いていた。
何とも不思議な空気感に、少し息苦しさを感じながらも、私達は学校からバス停までを繋ぐ下り坂を下りて行く。
坂道を下りきってバス停まで来ると、神崎君はそれまでの立ち位置を変え、お兄ちゃんとは反対側の私の右隣へと移動して来た。
そしてまた先程のように私の肩に腕を回して、再び肩を組まされる。
「……」
「…………」
「………………」
今度は私を間に挟んで、三人横並びになってバスを待つ私達。
先程から、とても静かな無言の時間が流れている。
最初は息苦しかった空気感も、時間が経つにつれ居心地の良ささえ感じ始めた頃、私の中にあった一つの謎の答えが解き明かされた気がした。
この、お互いに何も言葉を交わさなくても分かりあっているかのような空気感、まるで熟年夫婦のようなこの空気感は、きっと神崎君とお兄ちゃんの絆あってこそのものではないだろうか。
つまり神崎君とお兄ちゃんは知り合いで、神崎君が私に構う理由もきっとそこにあったのではないだろうか。
昔から心配性で、何かと病気持ちの私の世話を焼いてくれたお兄ちゃん。
お兄ちゃんなら、お兄ちゃんの目の届かない私の学校生活が心配で、知り合いの彼に私を見張るようお願いしていても不思議はない。
神崎君だって、お兄ちゃんの事を「相変わらずだな」と漏らしていたし。
そうか、そう言う事だったのか!
と、私の中でやっと神崎君の今までの行動の理由を納得しかけた時――
「お前、いつまで僕達について来るつもりだ」
お兄ちゃんが、怒気の籠もった少し低い声で初めて神崎君に話し掛けた。
「何処までって、葵葉の家まで。夜も遅いからこいつを家まで送ってやるつもりだけど」
「お前っ! 僕の可愛い妹を馴れ馴れしく名前で呼ぶな! お前なんかに送り届けてもらわなくても、兄である僕がいるからもう大丈夫だ。分かったらさっさと帰れ」
更に声を荒げて言うお兄ちゃん。
今まで神崎君の事を見ようともしなかったお兄ちゃんが、怒りの衝動にかられてやっと彼に視線を向けると、何故だみるみる顔を真っ赤にさせて、わなわなと肩を震わせ始めた。
「貴様~~! 知らぬ間にまたしても僕の妹と肩なんぞ組みやがって! 今すぐ離れろ! 気安く葵葉に触るんじゃない!!」
今のお兄ちゃんの反応に、やっぱり最初から神崎君の存在には気付いていたけど、あえて無視していたのだと言う事が分かった。
「相変わらず騒々しいな、変態シスコン兄貴は」
「な、シ、シスコ……?! 変態??! な、なんなんだお前は! 初対面の人間に対して馴れ馴れしくて失礼な奴だな!」
けれど、次に飛び出したお兄ちゃんの発言に、私は思わず「えっ」と驚きの声を漏らしてしまった。
お兄ちゃんと神崎君はこれが初対面?
つまり神崎君はお兄ちゃんの友達ではなかったと言う事で、やっと解けかけていた神崎君の謎が再び振り出しに戻ってしまった。
私はガックリと項垂れる。
でも、今は落ち込んでいる場合ではない。
だって、私を間に挟んで今にも喧嘩を始めそうなお兄ちゃんと神崎君を、バスを待っている他の生徒達が迷惑そうに見ているのだから。
「もう、お兄ちゃん落ち着いて。 この人は神崎朔夜君。私の――」
「葵葉の友達だ」
「単なる友達だったら余計に馴れ馴れしく葵葉に触るな! 今すぐ葵葉から離れろ!」
「や〜だよ」
私の仲介も虚しく、神崎君のお兄ちゃんいじりは止まらない。
神崎君の挑発に、お兄ちゃんは逆上するばかり。
あぁ、この二人、面倒くさい!
私が二人のやり取りにうんざりしかけた時、丁度バスがやって来た。
「あ、バス来たよ。お兄ちゃん、神崎君の挑発に乗ってないで、早くバスに乗らないと。これに乗り損ねたらもう30分は待ちぼうけだよ」
これ幸いと、私は強引にお兄ちゃんの背中を押して、バスへと乗り込ませる。
「あ、あぁ、そうだな。分かってるよ葵葉。おいお前、いいか、もしうちの葵葉に手を出すような事したら、ただじゃおかないからな」
私に背中を押されながらも、私の後ろにいる神崎君を何度も何度も振り返り、大人気なくあっかんべーなんてして見せるお兄ちゃん。
おまりの幼稚さに妹ながら恥ずかしさを覚えた。
「どうただじゃおかないんだ? 具体的に言っとかないと牽制にはならないぜ、変態シスコン兄貴」
「こ、こいつ〜」
神崎君も神崎君でケラケラと笑いながら、まだお兄ちゃんをからかい続けている。
そんな騒がしい私達を乗せて、バスはゆっくりと夜の町を走り出した。
***
それから一度バスを乗り換え、トータルでおよそ40分程バスに揺られ続けた私達は、やっと家の近くのバス停までたどり着く。
バス停から家を歩く道中も、相変わらず神崎君が私の隣にいて――
「おいお前、いつまで僕達についてくるつもりだ?」
「だから、葵葉を家まで送るって言ってんだろ」
「結構だ! 葵葉の事は僕に任せてお前はとっとと自分の家に帰れ!」
「夜道のナイトは多いに越したことはないぜ。あんたチビだから頼りないし」
“チビ”の単語に、お兄ちゃんの肩がわなわなと震え出した。
私は神崎君の方へと顔を寄せながらそっと耳打ちする。
「神崎君、お兄ちゃんにチビは禁句!」
「あぁ、悪い悪い。口が滑った」
だが彼は、何も悪びれた様子はなく適当に返事をすると、私の手から鞄を奪った。
「あっ……」
「送ってくついでに持ってやるよ。画材重そうだし」
「え、でも……」
「人の厚意は素直に受け取っとけ」
「そうだぞ葵葉。持ってくれると言うのなら持たせれば良い。ここまできたらもう下僕としてこき使ってやれば良いさ」
「下僕ってお兄ちゃん、それは流石に失礼だよ」
「ふん。あんな奴、下僕で十分だ。ところで葵葉。部活の方はどうだ? コンクールに出す絵の方は順調か?」
「え? う、ううん。まだ全然。今は、文化祭に出す絵で手一杯だよ。それどころかコンクール用の絵は、まだ描く題材すら決まってなくて、ちょっと焦ってるかも」
突然話題を変えられた事に戸惑いながらも、私は素直に部活動の現状をお兄ちゃんに報告した。
「そうなのか? まぁコンクールは2月なんだろ。まだもう少し時間はあるし、ゆっくり頑張れば良いさ」
「……うん、ありがとう、お兄ちゃん」
「コンクールって?」
そんな私とお兄ちゃんの会話に、横から神崎君が口を挟んで来る。
「お前には関係ない。下僕がいちいち俺達兄妹の話に入って来るな」
「あぁ、もうまた喧嘩喧嘩越しの言い方して……一々神崎君を威嚇しないでお兄ちゃん。えっと、コンクールって言うのはね、毎年2月に開催される県主催の絵画コンクールがあって、うちの学校の美術部は、一年の集大成として一人一点必ずそのコンクールに作品を応募するのが決まりなんだって」
「へぇ~」
「人事みたいに言ってるけど、神崎君も美術部に入たからには、2月末までに作品を一つ仕上げなくちゃいけないんだよ」
「テーマは?」
「んと、テーマは自由だよ。……それに作風も自由なの。デッサン画でも、風景画でも、人物画でも。それ以外でも何でも。自分が描きたい物を描きたいように描いて良いんだって」
「ふ~ん」
「自由過ぎるってのも、逆に何を描けば良いのか迷っちゃうんだよね」
「じゃあさ、俺リクエストしても良い?」
「え?」
「俺の事描いてよ」
「…………へ?」
ニコニコと屈託のない笑顔で、突然予想もしていなかったような提案をする神崎君に、すかさずお兄ちゃんからの横やりごが入る。
「悪いが葵葉の専門は風景画だ。人物画は専門外なんだよ。なぁ葵葉」
「え? あ……うん。人物画は描いた事なくて………」
「ほらみろ。残念だったな下僕」
お兄ちゃんのしたり顔を完全に無視して、神崎君は即答する。
「描けるよ」
「え?」
「葵葉ならきっと描ける」
「………」
自信満々にそう言い切る神崎君。その笑顔はとても無邪気で、私は返す言葉に詰まってしまった。
「おっと。そんな事を話てる間に、葵葉の家に着いちまったな、残念」
「え?」
神崎君の言葉に辺りを見回すと、確かにそこは私達の家の前。
でも、どうして彼は私の家だと分かったのだろう。
転校してきたばかりの彼が、私の家など知るはずないのに。
「じゃ、月曜日また学校でな。さっきの話も本気だから。俺をモデルにコンクールの絵を描けよ。モデルならいつでもなってやるから。約束だぞ」
そう言って、強引に私の手を掴むと、小指に自分の指を絡めて来て――
「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲~ます」
「………」
ぼ~っとしてる間に、一方的に指切りを強要されてしまった。
「お前っ! 葵葉の意思を無視して、そんな強引な約束取り付けるな! 今のは無効だ無効! 今すぐ葵葉の手を離せ!!」
突然の事に呆気に取られていた私に変わって、お兄ちゃんが慌てた様子で私達の絡んだ小指をチョップで解く。
「………」
小指が解かれた後も、いがみ合う神崎君とお兄ちゃん。
その横で、私はぼんやりと指切りを交わした自身の小指を見つめていた。
ーーー『ゆ~びき~りげんまんう~そつ~いたら針千本の~たす。指きった』ーーー
一瞬、頭の中にフラッシュバックした記憶。
以前にも誰かとこうして、指切りをした事があったような?
何故か懐かしさを覚えるような、そんな不思議な感覚が込み上げて来て――
今の感覚は、何?
「じゃあな葵葉、また明日」
戸惑う私の事など全く気にした様子もなく、神崎君は私の鞄をお兄ちゃんに渡すと、大声でそう叫びながら夜の闇へ消えて行った。
「はぁ……。やっと台風が去ったか。まったく何なんだ、あの一々馴れ馴れしくて、やたら強引な男は。良いか葵葉、もしこれからもあいつに付き纏われて、迷惑かけられるような事があったら俺に言えよ。あいつが二度とお前に近付かないように俺がシバいてやるからな」
「…………うん……」
「よし。じゃあ、中入るか。葵葉、今日の晩飯はなぁ、お前の大好きなカレーだぞ」
「………うん…………」
お兄ちゃんに手をひかれながら、家の玄関へと続く石畳のアプローチを歩きながら、私は何度も何度も、神崎君が消えて行った夜の闇を振り返った。
神崎朔夜君。
彼に付き纏われて迷惑していたはずなのに。
彼の強引な所を苦手だと思っていたはずなのに。
彼といると、何故か無性に懐かしい気持ちに襲われる。
その懐かしさを、妙に心地良くて、この不思議な感覚は、一体何なのだろうか?
知りたい。
この不思議な感覚の理由を。
彼が私に構うその理由を。
知りたい。
彼の事を、もっと知りたい――
突然湧き上がった感情に戸惑いながらも、突然私の前に現れた不思議な転校生の、不思議な魅力に、私はゆっくりと魅せられ初めていた。




