動き出した歯車
「あいつ今……何をした?」
まだ微かに感触が残る唇を、神耶は指でなぞる。
「今のはもしかして……人間が言う所の………キ……ス………?でも、どうしてあいつが俺に?」
キスと言えば、人間が互いの愛情を確かめ会う為に行う行為……だったはず。それをどうして葵葉が自分に?
考えても考えても、葵葉の行動の意味と理由が分からなかった神耶。
半ば混乱しながらついには頭を抱えんでしまった。
「………や。……かぐ……。か……や……。神耶?」
誰かが彼を呼ぶ声。
何度も何度も呼び掛けるその声にさえも気付かないまま、神耶は長い間頭を抱え続けた。
「どうして葵葉は俺に……?」
「神耶っ!」
ついに神耶の心の声が、声となって漏れ出た時、返事をしない彼の様子に痺れをきらした呼び声の主は、まるで神耶にカツをいれるかの如き大きな声で今一度神耶の名を呼んだ。
「うわっ?!しっ……師匠?!なんだよ、急に耳元で叫びやがって!」
「急にじゃありませんよ。私は何度も何度も呼びましたよ。何度呼んでも返事をしなかったあなたが悪いのですよ!一体どうしたんです、さっきからぼ~っとして。葵葉さんがどうかしましたか?そういえば葵葉さんの姿が見えないようですが?」
「葵葉っ?!」
“葵葉”の名前にびくんと肩を跳ね上げ、体を硬直させる神耶。
明らかに挙動不審な彼の様子を不思議に思い、師匠は首を傾げながら訪ねた。
「?どうしたんです、急に顔を赤くして?もしかして……貴方また風邪がブリ返したんですか??まったく、だから大人しく社で寝ていろと」
「風邪……なのかな?何か……さっきから俺の体が変なんだ」
「変?変とはどう変なんです?」
「なんか……いつもより鼓動が早いんだ。体中も何だか、火にあたっているみたいに熱いんだ。特に葵葉に触れられた所が……凄く凄く、熱いんだ………」
「葵葉さんに触れられた所?」
「ああ……」
神耶は未だぼーっとした顔で、自身の唇へとそっと手を触れた。
「あいつ、なんで俺にキスなんて……?なぁ師匠、何でだと思う?」
「――っ」
いくら考えても答えの分からない疑問を、師匠へと投げかける神耶。
だが、そんな神耶の投げかけた疑問に、師匠の顔はみるみると青ざめて行った。
「師匠?」
「葵葉さんが……貴方にキスを?」
「あぁ」
「……他に彼女は、貴方に何か伝えたりしましたか?」
「何か?何かって何をだ?」
「自分の気持ちを。貴方に好きだって……」
「………え?葵葉が……好き?好きって、もしかして…………俺の事を?!」
師匠のその言葉でやっと俺は理解した。
先程の葵葉からの、キスの意味を――
「葵葉が………俺のことを……好き?」
自分自身で呟いた“好き”の言葉。
今まで心のどこか奥深くにあった、もやもやした感情が神耶の中、やっと一本の糸で繋がった。
葵葉が彼にキスしたわけ。
彼女からのキスで、自分の鼓動が早まったわけ。
体中が熱くなったわけ。
ここ数日、葵葉が来ない日々を寂しいと感じたわけ。
夢を語る彼女を見て、何故か自分まで嬉しい気持ちになったわけ。
今まで神耶自身、分からずにいたそれら全ての理由が今やっと――
「分かった」
「……何が……分かったのですが?」
「俺、好きだったんだ。葵葉が。いつの間にか俺は――あいつを好きになっていたんだ」
神耶の口から素直な気持ちが零れ落ちた。
「神耶」
静かな声で名前を呼ばれて、声の主である師匠へと静かに視線を移す神耶。
彼の師匠はどこか困惑したような、切なそうな、そんな複雑な顔で神耶を見つめていた。
「駄目ですよ……私達神は、人間を平等に見守る義務があります。そんな私達が、一人の人間を好きになる事はその義務を放棄する事に等しい。貴方が神としての義務を放棄すると言う事は、貴方の神としての存在意義を問われる事態にもなります。それはつまり………」
そこまで言って、師匠は言葉を止めた。
まるで、それ以上言葉にする事を躊躇っているかのように。
師匠の躊躇いを察して、神耶が変わりに、その先へ続く単語を口にした。
「消滅」
「神耶……」
「分かってる。分かってるよ師匠。一人の人間を好きになる事は、俺達には許されない禁忌。その禁を犯した時には、最も重い処罰を受ける事になると言う事も。俺は分かってるつもりだ。」
「……そうですか。分かってくれているのならば……良いのです。そこまで理解しているのならば」
「……」
「貴方が気付いてしまったその気持ち、今はまだそこで留まっていてくれさえすれば……」
「でもっ」
「っ?!」
「頭では理解出来ても、心では理解出来そうにないんだ。葵葉への気持ちに気付いた今、俺はこの先あいつを失いたくないと思ってしまうかもしれない。もし次に、あいつの命が危険に晒されるような事が起こったら俺は、きっと冷静でいられない」
「駄目です!それだけは絶対に、駄目です!今はまだ………もう少し、もう少しだけ待って下さい。そうすればきっと……貴方達の願いを叶えられる日が来ますから。遠くない未来にきっと……来ますから。だから今はまだ――」
「俺達の……願い?」
「はい。葵葉さんと貴方が共にいる未来」
「…………葵葉との……未来?そんな未来、俺達にあるのか?神と人が結ばれる、そんな未来なんて……」
「確かに、神と人間では……叶わない未来かもしれません。でも神耶、貴方はもとは人間。貴方がまた人間に戻りさえすれば」
「………人間に戻る?」
「そうです。その為に私は今、尽力を注いでいるのです。貴方が人間に戻りさえすればきっと、葵葉さんと二人、あなた方のの望む未来も叶えられる。いえ、正確には葵葉さんの魂と結ばれる未来がきっと来ます。だから今は………」
神耶を説得する師匠の言葉。師匠の語った言葉の中、一つ引っかかる言葉があった。
“葵葉の魂”
慌てて神耶は口を挟む。
「ちょっと待てよ。魂って……魂って何だよ!」
「あなた方の魂が、今の生に幕を閉じた時、今の肉体から魂のみが離され、次の世へと生まれ変わった時、その生まれ変わった新たな世で、あなたの魂と葵葉さんの魂が再び結ばれるのです。」
「だから、ちょっと待てって。あんたさっき、近い将来って言ったよな?なのにどうして来世の話なんて……」
「葵葉さんの体は、もともと大人になるまでもたないと言われて来た体です。今は何とか薬と機械の力を借りて死に抗ってはいますが、それもいつまでもつか……。白羽葵葉としての生はきっと、あと僅かしか残されてはいない。だから葵葉さんの魂が再生の道を辿るのもきっと、そう遠くない未来に――」
師匠が言わんとしている事を理解して、神耶は最後まで聞いている事に我慢出来ず、ついには乱暴に師匠の胸倉を掴んで激しく揺さぶり始めた。
「ふざけんな!あいつの命が残り僅かってなんだよ!あんた、神様だろ?!偉い神様なんだろ!なのにそんな事、諦めたように最初っから決めつけんな!!」
「ですが神耶、貴方のおかげで確かに葵葉さんは一度死を免れました。でもあの子が心臓に爆弾を抱えていると言う事実は何も変わっていないんです。現状が変えられていないのに葵葉さんの未来が変わる事は難しい。貴方だって本当は分かっているはずですよ、あの子が今生き長らえているのは、単なる一瞬の奇跡でしかないのだと」
「うるさい!たとえそうだとしても、未来は何も決まってない!たとえ今の状況が一瞬の奇跡だったとしても、そいつの努力次第でいくらだって奇跡を必然に変えられるはずだ。一生懸命の人間にはその力がある。師匠が俺に、教えてくれたことだろ?
あいつは今、白羽葵葉として一生懸命に生きてる!生きたいと強く望んでる!それなのにどうして……どうしてその気持ちを無視してあいつの未来を決めつけるんだよ?どうして皆、あいつの未来を諦めてるんだよ?!」
「……神耶、確かにそれは貴方の言う通りです。人は時として奇跡を起こす力がある。そして、起こした奇跡を必然に変え、自らが願う未来を切り開いて行く力がある。けれど……貴方だって分かっているはずでしょう?人の生死に関わる、その願いだけは、努力だけではどうする事も出来ない。神である私達でさえも……。貴方だって、そのどうする事も出来ない願いに何度も直面してきたからこそ、神としての存在意義に悩み、苦しんで来たのではないのですか?」
「だからって……今の葵葉としての生を諦めて、来世に願いを託せって言うのか?まだ葵葉は生きてるのに?」
「それは……」
「師匠は何も分かってない!たとえ魂が何度生まれ変わったとしても、同じ人間は二度と生まれない。白羽葵葉としての生は一度しかないんだ。俺は、今この時を生きてる葵葉が好きなんだよ。師匠がしようとしている事は俺が願っている事なんかじゃない。そんな未来、俺はいらない!そんな事には、俺が絶対させない!!」
神耶は怒りに任せて、憎しみさえ感じさせる鋭い目つきで、師匠をキツく睨み付けた。
初めて弟子から向けられるこんなにも強い反抗心に、師匠は言葉を失う。
「みてろ……俺が絶対、あいつの未来を守ってみせる!絶対に!!」
最後に一言、低く鋭い声でそう強い決意を吐き捨てた神耶は、師匠を強く突き飛ばし、彼の元から走り出していた。
「っ!神耶っ?!待ちなさい、神耶っ!!貴方、いったい何をするつもりですか?戻ってきなさい!!戻って来なさい、神耶っ!!」
背中から聞こえる師匠の必死な叫び声。
その叫び声を完全に無視して、神耶は走った。
ただ夢中で走った。
走りながら神耶は、葵葉が口にした彼女の夢の話を思い返す。
――『あのね、私ね、ずっとずっと小さい頃から、絵をお仕事にしてる人に憧れてたの。いつか私も、絵を仕事に出来たら良いな~って思ってた。ただ漠然と思ってただけだから、まだ何になりたい!って言う明確なものは分からないんだけど……でも例えば、デザイナーだったり、イラストレーター、絵本作家、漫画家、アニメーター。そう言う、絵に携わる仕事に就けたらきっと楽しいだろうな~ってずっと夢見てるんだ。』――
あの時、将来の夢を嬉しそうに語った葵葉の笑顔は楽しそうで、キラキラと輝いていた。
あの時の笑顔が神耶には忘れられない。
そして思う。
この先もずっと、葵葉にあの時のように、ただ純粋に笑っていて欲しいと。
神耶の願いは、ただそれだけだ。
たとえその未来を、この先彼が側で見守る事が叶わなくなったとしても――
神耶は葵葉がただ元気に、幸せそうに笑っていてくれてさえすれば、それで良かった。
だから神耶は、心に誓う。
皆が諦めている葵葉の未来を、自分だけは諦めずに信じ続けて行こうと。
葵葉の未来を、自分が守ろうと。
たとえそれが、己の身を破滅へと導く決断だとしても――
神耶の足が止まる事はもうない。
破滅へ向かって、ただ真っ直ぐに走り続けた。




