食欲の秋
***
どれ程の時間が経っただろうか?
集中し過ぎて時が経つのも忘れていた頃――
“グー”
急に泣き出した自分のお腹の音にはっと我に返る。
「・・・・・・お腹すいたな」
社には時計など存在していない。だから正確な時間までは分からないけど、きっといつの間にか正午近い時間になっていたのだろう。
そんな事を考えていると“グー”と、また私のお腹が盛大な鳴き声をあげた。
「おいっ!今度はうるさくて眠れないぞ!!」
あまりにも大きな音に飛び起き、顔を隠す為に被っていた狐の面を取って、物凄い形相で怒鳴る神耶君。
「あ、神耶君っ・・・・・・おはよ。うるさかった?ゴメンね。私、お腹減っちゃって・・・・・・」
へへへと苦笑まじりに神耶君に向かって手を合わせ、一応の謝罪を口にするも、言葉に反して私のお腹は鳴りやむ気配などなくて・・・・・・
“グ~”
“グ~~”
“ググ~~”
鳴り止まないお腹の音に比例して、神耶君の眉間に刻まれた皺がどんどんと深く深き刻まれて行く。
そしてついに、怒りが爆発した神耶君は頭を掻きむしりながら怒鳴った。
「あ~~~も~~~~うるせぇ~~!!ったく、そんなに腹が減ってるなら早く何か食えばいいだろ!お前、今日弁当は?」
「それが・・・・・・持って来てないの。実は今日は、お母さんに内緒で家をこっそり抜け出して来たから」
「はぁぁ?!何やってんだお前は!!」
「ひぇぇ~ゴメンなさいっ。ゴメンなさい~~~」
怒りのあまり、まるで鬼のような形相で私を睨む神耶君の迫力に、半ばべそをかきながら必死に謝る私。
「ったく。相変わらず世話の焼ける奴だな。来い!葵葉!!」
すると神耶君は突然、強引に私の腕を掴んで・・・・・・
「え?えぇ??どこに行くの?」
「お前の昼飯を捕りに行くんだよ!」
私を社の外へと連れ出した。
突然の事で動揺したのか、私の心臓がドクンと、力強く跳ね上がる。
一度乱れてしまった鼓動はもう自分の意思では制御できない。
ドクンドクンと、うるさい程に心臓が私の中で脈打って・・・・・・神耶君に掴まれている腕に熱を感じる。
「・・・・・・」
ヤバい、ヤバいっ!
このままでは神耶君に私の心臓の音を聞かれてしまうかもしれない。
もし、聞かれてしまったら?私の神耶君への想いに気付かれてしまうかもしれない。
――『一つだけ約束して下さい。その気持ちはどうか貴方の胸の中だけに留めておくと。神耶には決して気付かれないように。お願いします』――
昨日、師匠さんと交わした約束。
もし約束を違えてしまったら?2度と神耶君に会わせてもらえなくなるかもしれない。
そんなの絶対嫌だ。嫌なはずなのに治まらない鼓動。
それは焦れば焦る程に私の鼓動は早くなって行って・・・・・・
更に私に追い撃ちをかけるように、境内の掃除をしていた師匠さんから私たちに声が掛かった。
「神耶?葵葉さん?どうしたんです?二人で手なんかつないで。どこかへお出かけですか??」
「こいつの昼飯を取りに行くんだよ。さっきからこいつの腹がうるさくて敵わない。ったく人間って生き物は、いちいち面倒臭い」
「そうですか。では、私も一緒に参りましょう」
ニッコリと穏やかないつもの笑みながら師匠さんは私を見て言った。
師匠さんと交わる視線。
まるで心を見透かされているようなその視線に耐え切れなくなって、私は思わず顔を逸してしまう。
その一瞬、師匠さんの瞳に微かな悲しみの色を見た。そんな気がした。
「ん?どうしたんだ二人共?今日は何だか妙に余所余所しい?」
私達の間に流れる違和感に気付いたのか、私と師匠さんを交互に見比べる神耶君。
恐るべき感の鋭さに私はただただ言葉に詰まる。
「いいえ。何でもないですよ。ほら、葵葉さんのお腹が泣き止まない様子ですし、早く行きましょうか」
けれど師匠さんは、全く動じた様子もなく再び顔にいつもの笑顔を浮かべて、私達の背中を押しては先へ進むよう促した。
***
神耶君に引っ張られるまま連れて来られた場所。
そこは、この山に流れる綺麗な小川。
小川に着くと、突然羽織っていた着物を脱ぎ始める神耶君。
上半身裸になって、更には袴を捲り上げ、準備を整えたらしい神耶君は豪快にバシャバシャと川の中へ入って行く。
そんな神耶君の後ろに続こうと、私も履いていた靴を脱ぎ、膝丈までのズボンの裾を更に捲り上げ、彼を追って水が透明に透き通る綺麗な小川の中へと一歩足を踏み入れた。
「冷たいっ!」
思わず漏れた声に、神耶君は驚いた様子でこちらを振り返る。
「お前っ!何やってんだよ。危ないからお前は入ってくるな!」
「大丈夫だよ」
そう言葉を返した矢先に、足元にあったコケだらけの石で足を滑らせ、私はバランスを崩す。
そのままの勢いで体が後ろに傾きかけたその瞬間っ--
「危ないっ!」
尻もちを付く寸前の所で駆け寄ってきた神耶君に抱きとめられ、何とか危機を免れた。
けれど、思いがけず間近に迫った神耶君の顔に、また新たな危機に直面する。
一瞬にして私の体温は急上昇を始め、顔が熱くなるのを感じた。
再び早鐘を打ち始める鼓動が、私に警鐘を鳴らしている。
けれど、こんなにも至近距離に神耶君の顔があって、体が密着していては、この胸の鼓動を抑える事などできるはずもない。
それでもなんとかしなくてはと、私は慌てて神耶君から離れようとした、その時突然足の自由が奪われて、一瞬グラリと視界が揺れる。
「え?えぇ?えぇぇ?!」
気付けば私は神耶君の両腕で抱きかかえられ持ち上げられて・・・・・・
世に言う“お姫様抱っこ“をされていた。
「だから言っただろ、危ないって。分かったらお前は大人しく向こうで待ってろ」
「・・・・・・」
ついにオーバーヒートを迎えた私の心臓。
神耶君の言葉をどこか遠くに聞きながら、これより先、私の記憶は途切れる。
次に意識が戻った時、私は一人川岸に座らされ神耶君は再びバシャバシャと川の中へと戻って行く所だった。
体に残る神耶君の温もりをそっと抱いて、私は体育座りをしながら神耶君の後ろ姿をぼんやりと見つめる。
いや・・・・・・見惚れていた。と言った方が正しいのかもしれない。
初めて感じた神耶君の男らしさ。逞しさに、私の鼓動は今もまだドキドキと高鳴っていた。
「葵葉さん」
「っ?!」
不意に背後から名前を呼ばれて、私の肩はビクンと跳ね上がる。
「師匠さんっ?!」
「顔が赤いですよ。大丈夫ですか?」
「・・・・・・すみません。大丈夫じゃないかもです」
「それは困りましたね。葵葉さんは昨日の約束、覚えていらっしゃいますか?」
「それは勿論です!けど、一度胸に秘めていた気持ちを口に出し認めた事で、今日はいつになく神耶君を意識しちゃって・・・・・・困ってます」
「すみません。それは私にも責任がありますね。では、頭を冷やす為にも、私達は私達の仕事をしに行きましょうか」
ニッコリと優しい笑みを浮かべながらそんな事を言う師匠さんに、私は意味が分からず首を傾げると、
師匠さんが神耶君に向かって大声で叫んだ。
「神耶~!私と葵葉さんはたき火の用意をしに、枝と落ち葉を拾って来ますね!貴方は引き続きそこで頑張っていて下さい」
「あぁ~~!分かった~!!」
神耶君はこっちに向かって大きく手を振り返してくる。
「では。行きましょうか葵葉さん」
「・・・・・・はい」
私と師匠さんは、神耶君を一人残して森の中へ入って行った。