裕貴からの提案
日が傾きはじめた頃、やっと覚悟を決めた俺は、屋上を出て、葵葉さんの病室に顔を出す。
「あ、裕樹君、さっきはごめんね」
「いえ、もう、落ち着きましたか?」
「うん。もう良い大人なのに、みっともない所見せちゃって本当にごめんなさい」
「俺の方こそ、無神経な事聞いてごめんなさい」
「ううん、本当に裕樹君のせいじゃないの。悪いのは全部私。だからもう謝らないで。でも、裕樹君を困らせちゃったのに、またこうして会いに来てくれてありがとう」
「さっき沢田に言われたんです。葵葉さんが心配してたから、また後で顔を出してやってくれって」
「沢田先生が?」
コクンと頷く俺に、葵葉さんは小さな声でしみじみ言った。
「本当に沢田先輩は、面倒見が良いんだから」と。
二人が積み上げてきた絆の深さを垣間見た気がして、俺は何故だかチクンと胸が痛むのを感じた。
この二人の絆に、俺もほんのすこしで良いから割って入りたい。自分でも良くわからなかったのだが、何故だかそんな思いが芽生えて、俺は無神経を承知で葵葉さんの涙のわけを、訊いてみることにした。
「あの……もし、失礼でなかったら……あの時の涙の理由を……聞いても良いですか? どうして、神耶君の顔が描けないと、泣いていたんですか?」
「それは…………」
「……それは?」
「…………」
いくら待ってみても、それより先の言葉を口にしようとはしない葵葉さん。
やはり、出会って数日の俺なんかが踏み入って良い話ではなかったかと、己の行いを反省し「困らせてごめんなさい」と謝ろうとした時、葵葉さんはゆっくりと口を開き始めた。
「神耶君と最後に会ったのは……もう10年以上も前の事でね……神耶君の顔を描こうとしても……もう朧気にしか思い出せないの……。顔も声も……二人で過ごした大切な思い出達も……時が過ぎれば過ぎるほど、記憶は薄れていくばかり。本当に大切な人だったから、神耶君に関するどんな小さな事柄も、何一つだって忘れたくなんてないのに……時間が経てば経つほど記憶の砂は私の中からこぼれ落ちて行ってしまう。それが悔しくて……苦しくて……」
そう語りながら葵葉さんの目には、またたくさんの涙が浮かんでいた。
「忘れたくない……忘れる事なんてできないって、思っていたはずなのに……どうして私は、彼の顔も声も……思い出せなくなってしまったの? どうして……」
堪えきれなくなった涙をポロポロと溢れさせながら、今度は自分を責めるように布団の上から自分の足を何度も何度も叩いていた。
目の前で涙を流す葵葉さんを見ながら、俺は居たたまれない気持ちになった。
だって、時が経つ事で記憶が薄れていくのは、どうしたって抗う事のできない自然の摂理なのだから。
俺だって幼稚園や小学校時代の友達や先生の顔をはっきりと覚えているかと聞かれれば、おぼろげにしか思い出せない。
毎日顔をつき合わせていた母や弟の顔ですら、記憶だけを頼りに絵に描いてみろと言われたら、描ける気はしない。
人の記憶なんて、それくらいいい加減なものなのだ。
だから人は、思い出を写真や映像として残すのだろう。
記憶だけでは覚えていられない事柄を、目に見える形として残すのだ。
「あの、神耶君の写真とかって、残ってないんですか?」
俺の質問に葵葉さんはふるふると首を横に振った。
「……ですよね、ははは」
我ながらバカな質問をしたなと思った。
人の目に見えない神様が、写真や映像に残るはずがない。
幽霊である今の俺の姿だって、ガラスにすら写っていないのだから。
病室のガラスに反射する景色をチラリと見ながら、俺は溜め息をついた。
だからこそ葵葉さんは、神耶君の姿形を、自らの手で描くことで、記憶を形に残そうとした。
でもそれが出来なくなってしまったから今苦しんでいるのだ。
どうしたら、この苦しみを和らげる事ができるのだろうか。俺は必死に考えた。
何か、何か“神耶君”の記憶を形に残す手はないだろうかと。
ふと、いつかの葵葉さんとの会話が頭に浮かんだ。
――『私、小さい頃から絵を描くのが好きでね、入院中の暇潰しにもよく絵を描いてたんだけど、いつか好きな絵を仕事にできたら良いなって思ってた時期があったの』
『絵を……仕事に?』
『そう。イラストレーターとか、アニメーター、漫画家、絵本作家、デザイナー、漠然とだけど、そんな絵に携われる仕事ができたらなって』――
はっとした。
過去の葵葉さんとの会話の中から、ある閃きを得た俺は、遠慮がちに葵葉さんに提案してみる事にした。
「あ、あの、今覚えている限りの神耶君との思い出を、物語にしませんか?」と。
「え?」
葵葉さんは、少し驚いた顔をして、目線を俺に向けた。
「葵葉さん、言ってましたよね。アニメーターとか漫画家とか、絵本作家になりたかったって。なら、それらの方法で、神耶君との思い出を形に残してみたらどうですか?」
「…………」
「だって、世の中には残ってるじゃないですか。徳川家康とか、織田信長とか、昔の偉い人の姿形が、絵として書き残されてきたから、現代を生きる俺たちも、どんな顔をしていたかを知る事ができている。彼らが成した事柄も、文章として文字に書き残されてきたから、俺たちは歴史上の人物の偉業や人柄を知ることができている。映像や写真がない時代の人達は、そうやって自分達の記憶を記録してきたんですよ」
「……」
「なら、神耶君との思い出だって、葵葉さんが文字や絵にして書き残せば、これから先も神耶君の記憶が葵葉さんの中に残っていくじゃないですか。だから、神耶君との思い出を、書いてみませんか?」




