短編・詩:プロット(4000字くらい)
窓の外に視線をやると、横浜の美しい夜景が広がっている。何度目になるかわからない、ホテルの最上階から眺めるその夜景に私は小さく微笑んだ。
「そろそろ帰ろうか?」
「そうね、もうお腹いっぱいだわ。今度は別の場所にしましょうか」
「いいね、適当に見繕っておくよ」
「ふふっ、楽しみにしておくわ」
帰りの車内でのいつもの会話。職場が近いということもあり、一緒に外食をして一緒に部屋に戻る。何度繰り返したか分からないこのやり取りに私は小さく口元を綻ばせ、目の前に迫る高速道路の夜景を眺めていた。
通り過ぎる対向車の光、遠くを走る車のライト。その全ては私達を彩る照明に過ぎない。程なくして車が止まり、マンションの地下へと進む。車が止まるとしばらくエンジンが鳴り響き、そしてゆっくりと車は鼓動を止める。
「今日も暑かったわ。早くシャワーを浴びてワインでも飲みたいわ」
「おいおい、まだ飲むのかい? 僕はドライバーだったから飲みたいけどさ」
「あら、じゃあ今度は私が運転してあげるわ」
「それは嬉しい提案だけど遠慮しておくよ。食後に君の運転はちょっと胃に来るからね」
彼は笑いながらエレベーターに乗り込み、私も形だけ不満そうな表情を作って続く。
部屋に戻るとスーツを脱ぎ、クーラーのスイッチを入れる。冷蔵庫を開き冷えた水を飲み、そしてシャワーに向かう。すると彼も暑かったのか、一緒に着替えを始める。
ただでさえ狭い脱衣所に二人の熱気が充満する。ほろ酔いの私は彼の首に手を回して、いたずらっぽくその首筋にキスをする。
一瞬彼と私の瞳が合い、そして再び深いキスをする。
「…暑いわ。シャワーを浴びましょう、ね?」
「ははっ、酔った君も艶っぽくて素敵だよ。つい我慢できなかった」
「あら、褒めても何も出ないわよ? それとも何かを期待しているのかしら?」
彼は笑いながら風呂場へと向かい、私もゴムで髪を止めて続く。
熱い、外の暑さよりも熱い。その熱気に溶けるような心地良さを感じながら私は彼の腕の中でゆっくりと瞳を閉じた。
「何をしているんだい?」
バスローブを羽織りながら、彼が不思議そうに私を見つめてくる。一方の私は髪をタオルで巻いてバスローブに身を包んだまま、パソコンの前へと座っている。
彼が後ろから覗きこんで、そして一瞬私の方を振り向く。同時に私も彼に振り向き小さくキスをする。そして再びパソコンに視線を戻す。
「次のお話の構想を練っているの。プロットとも言うわね」
「ああ、ネット小説だっけ? 君もつくづくマメだね」
「だからごめんね、ちょっとこれに集中してもいい?」
私の言葉に一瞬彼はむくれた表情を作るが、すぐに笑顔で首を縦に振る。
「僕としては君に構ってもらえないのは寂しいけど、君の楽しみを奪う訳にはいかないからね。向こうで飲んでるから気が向いたらおいで?」
「ええ、ありがとう」
彼の了承も得た。これからの私は一介の作家である。物語を作るには、プロットというものが非常に重要な位置を占める。
特に推理小説や、群像劇などの場合、それぞれの行動の動機、時系列、伏線を管理するためにはプロットが必須なのだ。
今も私の作品を求めて多くの人が首を長くして待っている。ならば私も応えねばならない。
私はいつもの様にマインドマップを立ち上げる。
マインドマップとは自身のまとまらない考えなどを断片的にメモ化して、一つのノートに貼り付け、そしてその関連性に合わせて繋いでいくという、トニー・ブザンが提唱した発想法の一つである。
「登場人物の名前、能力、世界観の設定にストーリー進行のチャート…と、考えることが多いわね…」
基本的に一つの項目はひとつの小さなメモシートのような四角いウインドウで表記される。言うなれば付箋である。
私は画面中に貼り付けられた付箋を漠然と眺め、足りない設定を埋めていく。
「登場人物の設定はこんなものね。主人公の女の子はそのまま少女でいいか…後はエピソードを組まないと、か」
先ほど彼が運んできたコーヒーに手を延ばす。机の横にはデミタスカップが置かれ、私は小さなクレマが美しく渦巻いているエスプレッソをゆっくりと口にする。
「…悪く無いわね。さすが。後で褒めてあげなきゃ…さて、プロットプロット…」
それから小一時間、部屋にはキーボードを叩く音だけが静かに響き、私はゆっくりと手を延ばす。
「サブエピソードもこんなもので十分かしら。主人公の動機付け、敵の背景、感情移入できるエピソードには十分ね…ふふっ、さすが、私」
「おや? 先生はお仕事は終わったのかい?」
すると後ろから声がかけられる。振り向けば、ワイングラスを片手に彼が微笑んでいた。私は彼を一瞥すると小さく首肯する。
「ええ、後は一番効率的にイベントを配置するだけよ。もうちょっとかかるけど、大丈夫?」
「ああ、明日は休日だし、君の納得のいくようにやればいい」
「…ありがとう。眠かったら先に寝ててね」
「ははっ、そうはなって欲しくないけどね」
彼はそう言うと再びソファーに戻り、グラスを片手にDVD鑑賞を始める。さて、これからが腕の見せ所だ。考えぬいた世界観、魅力的な主人公達。心震える物語がここから始まるのだ。
「ふふっ、これも素晴らしい作品になりそうね…」
部屋に私の声が小さく響いた。
「もう寝るけど、君は…その様子じゃまだのようだね。じゃあ、先にお休み」
彼がそう言ってキスをしてくるが、私は振り向く余裕すらない。
「何よ…世界には四種類の秘宝があるのに、主人公は隠された五番目の秘宝をその魂に宿した特別な存在なのよ。でも相手の王子も同じ秘宝の力を持ってて、二人は結ばれるはずなのに…二人がそんな特別な境遇になった理由を考え忘れてるじゃない。それってどんなご都合主義よ…」
一見完璧と思われた私の緻密に計算されたプロットの綻び牙を剥く。
「…どうしよう、この二人の登場人物口調が完全に被っているじゃない。これじゃ誰が誰か分からないわ…。それに英雄の設定ってよくよく考えて見れば、どこかの作品で見たことあるわ…」
一度暴れたプロットは止まらない。
「ダメ…見れば見るほどありきたりに思えてきた…。分かった、最後に主人公は実は魔族で、その父親が助けに来る…って、どんなデウス・エクス・マキナよ…」
私は台所に向かい濃いコーヒーを淹れる。コーヒーの芳醇な香りが私の思考を覚醒させる。
「よく見たら時系列が合わないじゃない。このころ、ヒロインは囚われて魔王の城にいなきゃいけないのに。これだから群像劇は…」
私の苦悩をよそに、部屋には時計の時間を刻む音が木霊する。そして徐々に焦燥感にも似た感情が私の中で生まれる。
「どうしよう、明日更新するって言っちゃった…はやく何とかしないと…早く…」
藁にもすがる気持ちで本棚に視線をやれば、そこには彼の読んでいた推理小説が目に入る。
「横溝正史! ちょっとアイデアをもらおうかしら。それに、これは栗本薫?」
久しぶりに開いた小説は私の中で新しい風を生み出した。胸の奥が熱い。心が昂るのが自分でもはっきりと分かった。
「いける、いけるわ! もっと、もっと新しい展開を私に頂戴!!」
それからの私は水を得た魚である。ひたすらに小説を読み、自身の作品へと投影していく。
書ける。これが私の、私だけの唯一無二の物語。心が震える英雄譚。
パソコンの画面には小さなメモで埋め尽くされており、もはや関連図を見ることはかなわない。だがそれは瑣末なことである。
「全てはこの私の頭の中に…世界は私の中に…」
筆が走る。いや、踊るように言葉を紡いでいく。美しいキーボードを叩く旋律が私を包む。瞳を閉じれば浮かび上がる情景。
美しい世界。完全無欠の英雄と悲劇のヒロイン。絶対的な悪に、複数のサブヒロインを設置することも忘れない。神に祝福された男の戦いがここに始まるのだ。
「…随分とひどい顔だけど、寝ていないみたいだね。大丈夫かい?」
「ありがとう、私は大丈夫よ。それでこれを見て欲しいの。私の新作よ」
「ふむ…では拝見…と」
彼はそう言いながらタブレット端末に転送されたデータを眺める。
私は彼の入れてくれたコーヒーを眺めながら、至福の時間に包まれた。
私はやりきった。心地よい睡魔が私を襲う。私は眠い目をこすりながら彼を眺める。
すると彼は読み終えたのか、笑顔で私に微笑みかける。
「拝見させてもらったよ。素晴らしい作品だった。何の変哲もない主人公がいきなり現れたUFOにひき逃げされて、気がついた時には別の世界にいる描写なんて驚いて言葉が出なかったよ。それにその後も素晴らしい。突然の神との邂逅に特別な運命と力を背負って別世界に転生なんて、そうそう考えつくものじゃない。ヒロインがオッド・アイというのもポイントが高いね。古の吸血鬼の血を受け継ぎつつも人として生きていくヒロイン。とても魅力的だった。そして様々なタイプのサブヒロイン達がいい。主人公のモテっぷりには僕も妬けちゃうよ。あとは、なんと言っても最後の魔王との戦いで、主人公がたった見開き一ページ分の描写でケリをつけてしまう下りなんて斬新すぎて思わず手が震えたよ。さすが君だ。心に響いたよ」
彼の言葉に私の中で温かい気持ちが生まれる。そう、私はやり終えた。
心地良い睡魔にまどろみながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
その日の夕方、私に触発されたのか彼のPCの画面にはプロットのようなものが書いてあった。
「禁止項目:神様転生、ニコポ、ナデポ、 典型的な厨二項目:オッドアイ、実は人外のヒロイン…いろいろあるわね。それにこのHNは私が投稿しているサイトの上位ランカーの名前じゃない。被っていることを知らなかったのね…後で教えてあげなきゃ…」
どうやら彼はプロットが何たるかを分かっていないらしい。ここは一つ先輩の私が丁寧に教えてあげるとしよう。そんなことを考えていると彼が台所から私を呼んでいる。
「おーい、夕飯ができたから食器を並べるのを手伝ってくれないか?」
「今行くわ」
夏の夜は過ぎていく。