妾の存在
一寸先の道も見渡せない程に暗く、殆どの生物が寝静まった世界に乾いた音が響き渡る。
カコォーン…カコォーン…カコォーン…
それは何度も何度も、
カコォーン…カコォーン…カコォーン…
何度も何度も止むことなく繰り返される。
時刻は午前2時23分。
「妾」の目の前にいる女はもう30分近くこうやって同じことを続けている。
「妾の躰」に五寸釘を突き立て、金鎚と共に恨みと憎しみを込めてその五寸釘をズブズブと深く妾の躰に埋め込ませる。
……そんなに深く入れずともそなたの願いは叶えてやるというのに。
ほんの少しそなたの打った釘が妾の躰に刺さればそれで充分だというのに。
30分近くこの行為を続けているということは、それだけ他の誰かに見つかりやすいということ。
いくら皆が寝静まっているとはいえ、こんなにも奇妙な音が長く続いていれば幾ばくかの人間は目を覚ますだろう。
この女も自分のしている行為の危険性を分かっていないわけではあるまい。
(そなたの願いは成就してやる。だから早くここを立ち去れ!)
カコォーン…カコォーン…
……いくら妾が「心」の中で念じても目の前の女に届くわけがない。
この女はきっと時間一杯まで妾の躰に釘を打ち続けるだろう。
妾は古来より人を「呪い殺す為の道具」として扱われてきた。
日本には人を呪う手段や儀式などは腐る程あるが、妾のようにどれだけ離れていても手順さえ踏めば必ず呪い殺せるものは他にあるまい。
妾が力を行使するのに必要な条件は4つ。
1つ目は妾の力の媒体となる藁人形と、呪いを掛ける為の五寸釘。
この2つは最低でも必要不可欠なものじゃ。
これは妾の存在と力を意味し、抽象的な呪いを手順という形で具現化させる為じゃ。
2つ目は対象となる人間の髪の毛と顔写真、もしくはよく似た絵を藁人形の頭に埋め込ませること。
これもまた対象者への呪いをしっかりと定め、具現化させる為。
勿論これ無しでも想いの強さだけで呪うことはできるが……
あまりおすすめはしない。
少しでも邪念が入れば誰にその呪いが向くか分からない。
関係のない人を巻き込みたくないのなら止めておけ。
3つ目はその藁人形を誰もいない場所の木に、午前2時から2時半までの間に五寸釘を使って打ちつけること。
これはある種の結界を張る作業じゃ。
午前2時から2時半はどんな場所であってもある程度は闇の力が増幅する。
その増幅している間に呪いをのせ、対象者を呪い殺すというのが妾の力じゃ。
勿論1人で行うというのにも意味はある。
普通の結界とは違い、闇の力を使った結界は酷く脆い。
その為ちょっとしたアクシデントや本人以外の人間がそこへ立ち入るだけで結界は崩壊し、その力は逆流し本人へと跳ね返ってしまう。
人間はそのことを呪い返しなどと呼んでいるみたいだが実際は違う。
……そもそも呪いを跳ね返すことができた奴なんざかつて陰陽師にいた安倍晴明以外に見たことないわい。
そして4つ目が最も重要じゃ。
強い想いを込めて口に出して恨むこと。
人間の恨みという感情は……負の感情は闇の力を増大させるのに非常に効果的な力を持っている。
それが故に結界の力とも合わさって人を呪い殺すだけの力を得ることができる。
感情なき呪いに意味などない。
一応はやってみるが大概は失敗するのが目に見えておる。
……この女もそう。
手順こそはちゃんとしているがまだちゃんと口に出して恨みごとを放っておらん。
何かしらの強い想いは感じられるが、それだけでは不十分じゃ。
時間も残り少ない。
本当にその人間を殺したいと思うのなら早よう口にせい。
「クグルギ様……クグルギ様……」
む?
妾の声が届いたのか?
……そんなわけがないか。
早う恨みを口にせい。
妾とて不完全な状態で呪いを掛けには行きたくないのじゃ。
「私が……あなたに呪って欲しいのは……私が最も愛して、最も大切な人……」
この言い方だと男を誰かに盗られたか?
いつの世もこのような願い事は絶えんものじゃ。
たかだか恋愛一つで人を殺そうなどと……
人間の女の考えることはよく分からんわい。
最もそのおかげで存在が許されている妾が言えることではないがの。
「クグルギ様……私はあなたにこの人を『守って』欲しい」
……は?
そなた今なんと……?
「あなたの力は人を殺す為のものかもしれない。けれどもそれは、あなたに力を使わせた者が全て誰かを殺してやろうと願ったからに過ぎない」
待て待て待て待て!
そなたは何か勘違いをしておるぞ!
妾は人を殺す為に生み出され、人を殺す為に存在してきた!
そんなことができるわけなかろう!
「あなたの力はきっと……誰かを守る為に使えるはず。だから……私の愛しい人を助けてあげて、クグルギ様……」
待て…………!!!
☆★☆★☆
女はそう言って手に持っていた金槌を高く振り上げると、妾の躰に刺さっていた釘に力一杯振り下ろした。
その時の女の表情は酷く穏やかで、寂しげだった。
そして、女が妾に託した想いの強さは今まで受け取ってきたどんな恨みよりも強かった。
妾の意識はそこで途切れた。