1話目
「――あああああっ!! ……え?」
女神のおならに包まれて悲鳴を上げていた小次郎は、ふと自分がさっきまでとはまったく別の場所にいることに気づいた。
先ほどまでの恐ろしい臭気が消え、空気には爽やかな花の香りが強くなっている。
町を見下ろす丘の上に立っていたはずが、周りは色とりどりの花が咲く野原だ。
周囲を見回しても、町どころか建物すら見えない。地平線の向こうに山や森のような場所はあるが、ずいぶんと遠くのようだ。
「ここは……? まさか、天国?」
自分はあのおならにやられて死んだのだろうか。
小次郎がちょっと涙ぐんでいると、どこからか鈴を鳴らすような声が聞こえてきた。
『坊や……坊や……聞こえますか……?』
ずっと遠くから筒を通してしゃべっているような、エコーがかかったような女の声だ。
「聞こえます! あなたは神様ですか? 僕はおならで窒息して死んだんですか?」
声の主を探そうときょろきょろしながら返答すると、声は少しの間黙り込んだ。
『……私は……坊やがえらいことしてくれた女神です……
安心してください……あなたは生きています……私のおならは安全です……』
「うそだ! すごい臭かった!」
『おだまりなさい……見捨てますよ……』
女神を名乗るその声に怒りが含まれたような気がして、小次郎は黙る。
ここで逆らってはいけない。子供でもそのくらいはわかった。
沈黙した小次郎に気を取り直したか、女神の声が続く。
『坊や……坊やが今いるそこは……あなたのもといた世界ではありません……
異なる世界……異世界エラクドと呼ばれる世界です……』
「どうして、僕はここに?」
『私はその世界の女神と仲が悪いのです……
だからその世界をトイレとして使っていました……』
「女神様ひどいな!」
嫌いな女神の世界をトイレに使うとかまじひどいな。
小次郎のツッコミを無視して、女神の声は続く。
『坊やがやらかしてくれたおかげで……おならだけでなく実も出る可能性があったので……
おそらくは無意識にその世界へのゲートを開いてしまったのでしょう……
実は出ませんでしたが……その代わりに坊やが流れていきました……
私の声は……残っていたゲートを通じて届けています……』
「僕はうんこか……」
呆然とした小次郎の声に、女神の声は呆れたように返す。
『言っておきますが悪いのは坊やですからね……
子供がしたことですし……深くは責めませんが……
何故あんなことをしたんですか……』
「女神様に最高のカンチョーがしたかったんです。
カンチョーは人を幸せにする。それが僕の信念なんです!」
小次郎が胸を張って宣言すると、女神の声は数秒沈黙した。
『……声に嘘は含まれていませんね……本気だということがわかります……
どうしてそんな信念を抱いてしまったのですか……』
「カンチョーは気持ちいいからです!」
『……そう感じる人もいるかも知れませんね……』
女神の声は投げやりな感じに返事をしてくる。
不満に思ったが、信念とは言葉にして理解させるべきものではない。行動によって自然と理解されるものだ。
言葉を重ねる必要はない。小次郎は己の信念について深くは語らなかった。
『それよりも……これからのことですが……
坊や……あなたは私の世界へ帰りたいですか……?』
「帰りたいです!」
小次郎が力強く答えると、かすかに笑ったような気配が伝わってくる。
『ならば坊やがこちらへ帰る方法を教えましょう……
先ほど言いましたが……その世界にも女神がいます……
その名はメルート……』
「その女神様に会って、帰してくださいって頼むんですね!」
なるほど分かった、と小次郎は返答したが、すぐに女神に否定される。
『ちがいます……
メルートに……坊やが私にやったことをするのです……』
「全力でカンチョーするんですね!」
今度こそ分かった、と小次郎は元気よく返答した。
女神の声が小さく『全力でしたか……』と呟いている。
と、小次郎はここで疑問が湧いた。
メルートという女神にカンチョーするのは望むところだが、普通に頼むのではなぜダメなのだろう。
「でも、普通にお願いするんじゃダメなんですか?」
『ダメです……
普通に頼む場合……坊やは事情を話さなければならなくなります……
女神に嘘は通じません……だから事実が伝わってしまうでしょう……
メルートに私があなたをそちらへ送った経緯が漏れるのはまずいのです……
馬鹿にされてしまいます……』
女の戦いはなめられたら負けなのです、という言葉に小次郎は適当に相槌を打った。
「あれ? でもそのメルート様にカンチョーしてそっちに帰れるんですか?
僕がここに来たのは、女神様がこの世界をトイレに使ってたからじゃ?」
『大丈夫です……メルートはメルートで私の世界をトイレとして使っています……』
女神同士の醜い争いである。
もっと神々しくきれいに戦ってほしい。
ここでまた、小次郎に疑問が湧く。
「女神様に直接助けてもらうわけにはいきませんか?」
ゲートを通して声を届けているのなら、直接そのゲートからそちらへ戻れないのだろうか。
その問いに答える女神の声には、嫌そうな響きが混じっていた。
『無理です……トイレに手を入れるのは無理です……
いま私は便器に語りかけているようなものです……
私はあなたに声を届けることしかできません……』
それはやろうと思えばやれるけど汚いからやりたくないという意味だろうか。
いや、特に信心深いというわけでもない小次郎を、こうして助けようと語りかけてきてくれただけでありがたいのだ。
小次郎は自分の世界の女神に感謝し、その気持ちを伝えようとしたところで気づく。
そういえば、まだ名前も知らなかった。
「そういえば、女神様。僕の名前は猫楽小次郎といいます。
僕の世界の名前と、女神様の名前を教えてください」
また、女神が笑う気配がする。
『坊や……小次郎君はあんな悪戯をするのに礼儀正しいですね……
私の名はルティア……そしてあなたの故郷である私の世界の名は……イルナといいます……』
「ルティア様! 帰る方法を教えてくれてありがとうございます!」
『どういたしまして……
小次郎君は悪戯っ子ですが……素直ないい子ですね……あなたに加護を与えた甲斐があります……』
「加護を与えた?」
鸚鵡返しに問い返した小次郎に、ルティアの声が少し恥ずかしそうに震える。
『女神はその息吹で人に加護を与えます……
本来は加護を与えたい者の元へ……ほんの少しだけ風の中に吐息を混ぜるのですが……
小次郎君は……その……』
口ごもるルティアの声に、小次郎は少し考え、答えを導き出す。
「そうか! 僕はルティア様のおならを全身に浴びてる!」
女神の息吹。ただしケツから出る。すごい臭い。
『そうです……
いまの小次郎君は……私の息吹を直接大量に受けたことにより……
簡単な奇跡くらいなら起こせるようになっているでしょう……』
「ルティア様のおならすごい!」
称賛した小次郎だったが、なぜかルティアは気分を害したようだった。
『小次郎君……おならではなく息吹といいなさい……』
なぜルティアが怒ったのかいまいちわからなかったが、小次郎は素直にうなずいた。
姿は見えないけれど、小次郎はルティアが優しい女神であると感じていた。
そんなルティアが怒るのなら、悪いのは自分なのだろう。
「ごめんなさい。わかりました。
それで、簡単な奇跡ってなんですか?」
『加護を与えられた者は……幸運になります……
また……その者の才能や技能が強化されます……
小次郎君の場合は……おそらく私にしたあの行為で……奇跡が起こせます……』
「カンチョーで、奇跡を起こす……!」
小次郎の胸の奥に、熱い感情が湧き出てくる。
それは、小次郎の願い――カンチョーで人を幸せにするという願いを叶えるための、黄金の鍵だ。
そして、この鍵を手にいられたのは、7年間休まず研鑽を続けたからだ。
「僕は、間違ってなどいなかった――!」
思わず感涙する小次郎にルティアが何か語りかけるが、その声はまったく届かない。
『小次郎君はいい子ですが……それはきっと間違っていますよ……
聞いていますか……聞こえていないようですね……』
ひとしきり感動していた小次郎だったが、ルティアの次の言葉で現実に戻される。
『小次郎君……そろそろゲートが完全に閉じるようです……
エラクドへのゲートが開く先を……私は操ることが出来ません……
一度閉じてしまえば……もう一度私の声を小次郎君へ届けることは難しいでしょう……』
「そんな、ルティア様!」
別れの予感が、小次郎の声に不安を含ませる。
ルティアの声に、安心させるように慈愛が含まれた。
『大丈夫ですよ……小次郎君はいい子です……
エラクドもまた女神が治める世界……その世界に住む人々も……きっとあなたがいい子だとわかってくれます……
それに……あなたには私の加護がついているのですから……』
「ルティア様! 僕、がんばります!」
小次郎が、見えないルティアを安心させるため、力強く答えると。
ルティアの声は徐々に徐々に小さく、遠くなっていって。
『がんばり……なさい……小次郎……君……
その世界を……旅して……女神……メルートを……探し出し……』
『――女神の肛門を穿つのです!』
最後に、その声だけが残った。
こうして、女神の肛門を穿つための、小次郎の冒険が始まった!
説明回でした。声以外の女性キャラは次回に。
更新は基本的に土日に行います。