金と銀の斧
乾いた斧の音が静かな森の中に吸い込まれていく。もの寂しいその森で、男は一人、木々に斧を打ち立てる。黙々と、黙々と。斧振るその手は覚束ず、それはまるで樵の真似事。何故、その男は人気の無い森で独り斧を振り続けるのか。黙々と、黙々と、男は震える手で斧を振り続ける。
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『樽男』――この界隈で、男はそう呼ばれていた。何故、そのような渾名が付けられたのかについて、ハッキリとした由縁は分からない。『真ん丸と肥えた、はち切れんばかりの腹には樽という言葉がとてもピッタリさ』と笑いながら話す人もいれば、『飲んだ暮れて、いつも酒樽と一緒に寝ているらしいぞ』とアルコール臭い息を吐きながら語る者もいた。尤も、当の本人でさえ『樽男』と呼ばれる理由など知らなかったのではあるが。ともかく、街の一角にある雑居然とした酒場に足を運べば、酒精で顔を赤らめている『樽男』に会うことが出来たのだ。
聞くところによると、樽男は何処ぞの地方貴族の出であるらしい。数年前に疫病が流行ったが、悪疫により父母が亡くなり彼が一家の当主となったのだと云う。しかしそれも束の間で、彼はすぐさま屋敷や土地の権利を売り払って放蕩流浪の旅に出たのであった。
「召使が何人も倒れてね、もう屋敷中……いや、国中が病魔に犯されていたわけさ。そんな疫病の巣喰う処に何時までも居られるものか。真っ平御免だ。だから己は全てを棄て、今こうして生の素晴らしさを満喫しているのだよ」
血のようなワインを傾けながら樽男はそう語る。しかし「全てを棄てた」とは言うものの、その樽のような太鼓腹には相当な財貨が詰まっているのは語るまでも無い。詰まる所、両親が遺した莫大な財産や父祖代々の宝物は全て、放蕩三昧な樽男の血肉へと姿を変えたわけである。そして毎夜、この酒場では金と酒、そして樽男の笑い声が飛び交っていた。
しかし、溢れんばかりに満たされた酒樽であっても、いつかは空となり叩けば間抜けな音を立てる時が来る。幾度も幾度も樽から酒が酌み出され、酒精で汚れた樽底がとうとう姿を現したのと同じ頃、樽男の財布が底を見せ始めた。一生掛かっても遣いきれないだろうと思われた財産も、もはやダカット金貨が数枚となってしまった。もちろん、放蕩を尽くして湯水のように金を遣い続けてきた樽男の「生の素晴らしさ」を考えれば、これは当然の帰結と言えよう。片手で数えられるようになった金貨達を眺めながら樽男は溜め息を吐く。だがそれでも、もう一方の手には依然として酒杯握られているのであった。
そんな折、樽男に「儲け話」を持ち掛けてきたのは彼の一番の悪友であった。悪友は樽男の隣に腰を下ろすなり、ポケットから何やら黒色の粒を取り出しテーブルの上にそっと並べ始めた。一つ、二つ、三つ……と全部で十の粒を並べ終えると悪友は樽男の耳元に口を近付けてこの黒い粒の正体をそっと囁いた。
「恋茄子」
それがこの粒の名である。
悪友の話に拠ればこの石ころのような黒い粒は「恋茄子」の種であるらしい。
「秘密裏に入手したこの種を何処か人知れぬ処に蒔けば、来春には大量の恋茄子が手に入る。その恋茄子から『惚れ薬』を作って売り捌けば結構な金になるのさ。つまり、そう、ボロ儲けよ」
……と云うのが悪友の持ち掛けた「儲け話」であった。確かに恋茄子と言えば催淫剤として有名であるが、随分と昔から禁忌とされているこの植物を実際に目にした者などほとんどいない。それゆえ樽男はもちろんのこと、この悪友でさえもこの「種」が本物だという確証は得て無かったのである。だが、それにも関わらず樽男は二つ返事で黒い種子を悪友から貰い受け、そのままポケットに忍ばせただった。アルコールで思考回路が麻痺していたのか、それとも生まれながらの酔狂な性格がそうさせたのか。はっきりとしたことは分からないが、翌朝、樽男は斧と酒瓶を手に仄暗い森の奥へと足を運んでいったのである。
恋茄子を植えるために樽男が選んだのは、森の奥の更に奥の人も立ち入らぬような藪の中であった。恋茄子の栽培は固く禁じられていたため、官吏や人の目を避けるような場所を選んだのではあるが、モノを植えるにしては此処は少々窮屈である。余りに手狭すぎると却って育ちが悪くなるだろう、と思い、樽男は斧を振り上げて周りの小木を伐り始めるのであった。しかし、樵仕事などしたことの無い樽男にとっては一本の細木を伐るのも一苦労であり、その癖、いつものように酒を呑んでいるものだから手元がフラフラとふらついているのであった。
小一時間ほど斧を振り続けてようやく、藪の中は手頃な感じに拓けてきた。しかし、ちょうどその時、男の手元から斧がすっぽ抜けてしまった。気が抜けてしまったのか、腕が疲れてしまったのか、それとも酔いが回ったのかは分からない。ただ斧は、生い茂る梢の先の真っ黒な空間へと吸い込まれていったのである。そして樽男も同じように、森の奥へと駆け出していったのだった。もちろん、その斧はただ悪友から借りた古びた樵斧に過ぎないし、その斧に対して未練が有ったわけでもない。樽男が駆け出したのは単なる条件反射に過ぎない。小枝が視界を遮る中、自分が走っている理由すらも見失いそうになった樽男ではあったが、暫くすると雑木林を抜けて目の前に小さな湖が現れた。
水面の小さな波紋から察するに、先程の斧はこの湖中に落ちてしまったのだろう。苔生した地面に足を取られないよう、樽男はそっと湖の中を覗き込んだ。正直に言って、斧のことなどどうでも良かったのだが、一応悪友からの借り物である。悪友は酷く性根の腐った男であるから、斧を無くしたことを理由に何か無理難題を押し付けるに違いあるまい。樽男は頭を悩ませながら、湖面に映る自分の顔をじっと眺めていた。すると、酔いで目が回り始めたのか、漣が立ち始めたのか、目の前の自分の顔がグニャグニャと歪んでいった。水面に映るその顔がもはや原型もとどめぬほどねじ曲がり、魔物のような姿を映していたが、やがて波は収まり再び人間の顔を映し始めた。しかし、そこに映っていたのは樽男の赤茶けた顔では無く、色の白い若い女の顔であった。
樽男は驚いて腰を抜かし、危うく足を滑らしてしまいそうになった。見間違いかと思って再び湖面を覗き込んだが、やはり映っているのは自分とは全く以て異なる女の顔であった。しかし、土で汚れた両の手でべたべたと自分の顔を触ってみると、鼻の下にはモシャモシャとした口髭の感触があり、ゴツゴツとした頬骨や脂ぎった肌は湖面に映る美女のものなどでは無く、良く知った自分の顔であった。全く以て訳が分からないといった表情でいると、湖面がボコボコと泡立ち始めた。すると、何かが割れるような音とともに大きな水柱が立った……かと思えば、その水柱の中から人が――先程、水面に映ったのと同じ顔が――姿を現したのだった。
樽男は声を失い、目を白黒させていたが、目の前に立つその若い女が只者でないことだけははっきりと理解していたようである。もちろん湖の中から湧いて出たこと自体が不可思議極まり無いのであるが、その長い髪や衣服が一切濡れておらず、まるで浮くようにして鏡のような湖面の上に立っていることを鑑みても、この若い娘が普通の人間でない――いや、むしろ極めて異常な人間であることが分かる。一介の酔っ払いにもそれくらいの分別は付くらしく、自分は夢か幻覚を見ているのではないかと、先程からずっと心の中で自問自答を続けているのであった。きっと、教会に足繁く通っているような信心深い者がこのような神秘的体験をしたなら、その若い娘を見るなり「ああ、女神よ」と叫んで跪くか、そのまま卒倒してしまうに違いない。いや、免罪符を買い漁るような愚かしい信者でさえも、この娘を女神として崇め奉ることであろう。しかし、樽男にはそれがなかった。この男の信心の無さときたら他に類を見ず、教会に足を踏み入れたことなど有るか無いか分からない上に、母の形見の十字架ですら早々と酒代に変わってしまった。不信心である以前に、『信仰』という言葉を知っているかも怪しいものだ。だから、この不信心極まりない樽男の、アルコールに浸された脳味噌ではこの目の前で起きている異常でいて神秘的な現象を理解することなど到底出来なかったのである。
赤く腫れぼったい眼を右往左往させ、樽男は何かを言おうと口を開いた。しかし、湖に響いた声は樽男のものではなく、若い女のものであった。
「貴方ですね、さっき斧を落としたのは、貴方ですね」
そう告げる娘の手には斧が握られていた。しかし、それは樽男の持っていた古惚けた鈍鉄の斧では無い。太陽のように金色に輝く黄金の斧と月光のような冷輝を放つ白銀の斧であった。
「さあ、どちら? 貴方が落とした斧は、どちらなのですか? 金の斧ですか、それとも銀の斧ですか」
湖底の美女の言葉に樽男は耳を疑った。これではまるでお伽噺ではないか、と。河川より冥府の王が現れて斧を失くした樵夫に金銀の財宝を与える……などと云う昔話がギリシアの方では伝わっているようだが、生憎ここはバルカン半島ではない。この土地では古の事物は尽く灰塵と化し幾度の戦火によって土に埋もれていった。ゆえに川底より人骨が見つかることこそあれど、湖底から美女が金銀の斧を携えて現れることなど有るはずが無いのである。そして、樽男はこのギリシアの昔話が……いや、世に言う教訓譚といったものを酷く毛嫌いしていた。正直者や勤勉な者が救われる寓話などは見かけは美しいかもしれないが、全く以て現実的な話では無い。盗人が自身の罪を正直に告白すれば首が飛び、勤勉な者は世間の狡賢い輩に騙され飢えて死ぬのである。樽男が目にしてきた現実とは良い人間が救われる世界では決して無かった。至高の善人であろうと無上の悪人であろうと、疫病は平等にその命を摘み取って行く。道徳も信仰も、医師も金も、誰も悪疫から人を救うことは出来なかった。ゆえに樽男は御高説を告げる教訓譚というものを心の底から嫌っていたのである。
「あなたが落としたのは金の斧ですか、それとも銀の斧ですか」
樽男の脳内を色々な事柄が駆け巡っている間も、眼前の湖の美女は斯様な問いを続けるのであった。半狂乱状態にあった樽男の瞳は美女の手元にあった金と銀の斧に注がれた。樽男は骨董に関しては全くの素人であったが、素人目に見てもその斧が相当な代物であろうことはハッキリと分かった。全身の神経を揺さぶらすほどの輝きと吸い込まれそうなほどに鋭利な刃先。その圧倒的な存在感は樽男の心臓と脳髄を完璧に痺れさせ、自身の貧困生活のこともあり喉から手が出るほどにその二挺の斧が欲しくなってしまったのだった。樽男は全身が凍り付いたかのように微動だにせず、一心にその金銀の斧を凝視していた。すると再び美女の口から「あなたが落としたのは、どちらの斧ですか?」という問い掛けが飛び出してきた。その声が耳に届くや否や、樽男の肉体がブルブルと震え上がり、脳髄が答えを導くより速く身体が動いたのであった。本能の赴くままに樽男は湖の美女に……いや、金と銀の斧に飛び掛かっていった。自らの嫌悪する道徳譚と全く同じ答えを出してしまうのを忌み嫌ったのかどうかは定かでは無いが、そのときの樽男は一言も発すること無くただ手を伸ばして走り込んだのだった。
そして、その太い両の腕が二つの輝光を掴んだとき、音が聞こえた。鈍い水音が響いた。何かが沈む水音が。
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森の奥の鏡のように静かな水面が広がる湖。湖底を覗き見ると、時折何かがキラキラと輝いて見える。或る人は魚の影だと言い、或る人は湖の亡霊と呼ぶ。だが、きっとあれは斧なのだろう。自己の欲望に正直であった男の斧である。