9・周の恋人
案の定、アリアはまだ夢の中で、完全に寝坊したのだった。
Dはというと、膿みを吐露したようにさっぱりして、朝方まで深酒をしたとは思えないほど軽い足取りで寝室を出てきた。
「もう、アリアちゃんどうして化粧落としてくれなかったの。お肌が荒れちゃうじゃないの」
無茶なことを言いながら、ソファで熟睡しているアリアを揺り動かした。
「九時近いけれど起きなくていいの? 今日は仕事なんでしょ」
仕事! その言葉が耳に入るや否や、アリアは飛び起きた。
「どうして起こしてくれなかったんですか!」
「あら、私も今起きたところよ」
Dは欠伸をしながら、暢気にそのままソファに座った。
アリアは壁掛け時計を見ながら、急いで洗面台へ向かって顔を洗ったあと、寝室へ行って箪笥から洋服を引っ張り出して着替え、ドレッサーの前に座ってウイッグをつけ、ちょっとしたメイクをしてあっという間に『坂本周』に変わった。
「そんな簡単なもので凄い変わりようね」
寝室を覗き込みながら、Dは感心しきったように頷いた。
「僕は仕事に行きますからDも部屋を出てください」
「もう『坂本周』なのね、僕だなんて。私はここで『周ちゃん』の帰りを待っているわ」
「だめです。さ、行きますよ」
すっかり用意の整ったアリアは、寝癖で乱れた髪のDにコートを渡して腕を掴んで玄関へと引っ張った。
「嫌よ、お化粧も直していないのに」
「何処かホテルでやってください」
「じゃあ、周ちゃんが帰る前に、ちゃんと鍵をかけて出て行くから。勿論、鍵がなくても閉められるから大丈夫」
「鍵の問題じゃないでしょう。そう言って、ずるずるいるつもりですね」
「そんな可愛い顔をして、女性を追い出すようなことを言うものじゃないわ」
「我がまま言わないでください!」
「いいわ、この鍵渡さないから」
いつの間にか、アリアが持っていた部屋の鍵をDは手に入れて、アリアの目の前でぶらぶらとちらつかせた。
「返してください!」
「OKするまで返さないわよ」
玄関先の廊下で、Dから鍵を奪おうとしてもみ合い、アリアが飛びかかった拍子にDはバランスを崩して二人ともその場に倒れこんだ。
「周、何やっているんだ。遅刻だ……」
せっかちな昇は、玄関チャイムを鳴らしたと同時に、玄関に入ってきて硬直した。
昇は、Dの上にアリアが乗っている状態を目の当たりにしたのだった。
「朝からお前……」
「誤解です!」
アリアが起き上がりながら弁解しようとしたが、昇はばつが悪そうに出ていってしまい、追うようにアリアも玄関を飛び出した。
昇はドアの前で腕組をして気まずそうに立っていた。
「いや、何も言うな。人にはそれぞれ事情ってものがある。こんな仕事をしていると色々見てきたからよくわかっている。俺は気にしないから」
アリアが説明しようとすると、昇は独り合点して妙に物分りが良いように、もういいからと、アリアの肩をとんとんと叩いた。
「遅刻して申し訳ありません。気をつけます」
「いいさ、そういう日もある。所長にはうまく言っておく。これで貸しが一つできたな」
アリアは玄関ドアを少し開けて、こちらを伺っているDに向かって、
「帰るまで大人しく待っていてください」
と、恨めしそうに釘をさすと「わかったわ、行ってらっしゃい、周ちゃん」と、Dはドアから顔を出し新婚の新妻宜しくウインクをした。
「しかし、お前の彼女って派手系の美人だけれど年上か」
「彼女ではありません」
「隠すなって、別に年上でもいいじゃないか」
昇は人の秘密を覗き見て少し気持ちが高揚したのか、車のアクセルをふかしぎみに運転している。
今朝は日差しが強く、雪に陽が反射してかなり眩しい。二日酔いのアリアにはその眩しさは目に付き刺さるようで辛かった。
「おまえ、だいぶ尻に敷かれていそうだな」
もう、いいように言わせておこう。どうせ、否定しても面白がられるだけだと思い、アリアは反論するのをやめた。
早くこの話題から逃れたかった。
「あのう、夜に三・六街を歩いていませんでしたか?」
「俺が? いいや、行っていない」
「そうですか、じゃあきっと他人の空似ですね」
「俺に似た奴がいたのか? 双子の兄貴は今頃東京で、あくせく働いているはずだし。いや、まてよ、万が一ってこともある」
そう言って昇は車を路肩に止めて、早速携帯電話を取り出して、十無の番号を呼び出した。
応答がない。
「おかしい、出ないことなんてないんだが。何かあったのか、気になる」
電源は切れていないらしい。昇からの電話とわかって故意に出ないということか。
「これは怪しい。俺に似た男というのは、もしかして兄貴かもしれない。俺に黙ってこちらへ来ているのか。ようし、探りを入れてやろう」
昇はなにやら何処かへ電話をかけ始めた。
仕事はどうなったのだろう。
待ち合わせの時間までに指定の場所へ着けないのではないか。
アリアの心配をよそに、熱心に電話をしている。こちらにいるという警察勤務の叔父さんや、東京の職場などにかけていたが、途中で突然「お見合い?」と大袈裟な声で叫んだ。
「兄貴は七日間の有給休暇をとって旭川に来ている。それもお見合いをする目的で。どういう心境の変化だろう、当分結婚するつもりはないと言っていたのに。兄貴のことだから、断りきれなかったのか」
十無の見合い相手はどんな人なのだろうか。
アリアは動揺していた。本当に断りきれなくてするのかなどアリアは色々訊きたかったが、それを顔には微塵も出さずに会話を続けた。
「お兄さんはどうして昇に連絡してこないのでしょうか」
「きっと、冷やかされるとでも思っているんだろう。まったく、水臭い奴だ。おっと、待ち合わせの時間に遅れそうだ」
ようやく、昇は仕事のことを思い出し慌てて車を発進させた。
仕事もプライベートも関係なく、興味があることが起こればそれが優先されるようだ。
何にでも思った通りに真っ直ぐに突き進む昇には、きっと悩みなんてないのだろうなと、アリアは少し羨ましく感じた。