8・心の迷宮
アリアよりも背丈のあるDを、抱えるようにして支え、やっとの思いでタクシーを拾ってアパートへたどり着いたのは、午前五時のことだった。
Dをベッドの上にそのまま寝かせたあと、アリアは疲れきってソファに足を投げ出した。
眠るには中途半端な時間だったが、このまま起きているのもきつく、小一時間でも仮眠を取ろうと目を瞑ったが、アリアはやけに目が冴えて眠れなかった。
Dがあんなことを言うから。
「いい? アリアちゃん、自分を好きになってくれた人じゃなく、自分が好きな人を選ぶのよ。障害があっても、どんな結果になろうとも。その方が絶対に後悔しないわ」
タクシーの車中で、Dは泥酔しているとは思えないほど真顔で、アリアの手を掴んで真剣な眼差しを向けたのだった。
そんなこと、わかっている。でも、好きな人って……好きって、なんだろうか。ヒロを好き。十無も昇も、それに柚子も。それは、自分にとって大切な人ということか。ただ無性に惹かれる人だろうか。それとも、いつまでも一緒にいたい人のことか。好きって。
アリアは考えているうちに、答えの出ない迷路に迷い込み、段々わけがわからなくなってきた。もやもやとした霧が頭の中にかかり、闇雲に手探りで歩き回っているようだ。
父からは母の浮気相手の子供ではと目の敵にされ、母にも放任されていたアリアは、幼い頃から愛情に飢えていた。
常に誰かに愛されていたいという渇望。
愛情を注いでも受け止められず、飢えた心。ヒロが支えになりそれを癒し、全てを受け止めてくれ、孤独から抜け出すことができたのだ。
だが、再び孤独になるのではという不安は、今もアリアの頭から拭い去れないでいた。
今が一番心の安らぎがあって満たされているはずなのに。
アリアはそれを自覚しながらも、心の奥底に深く根ざしてしまった孤独から、いつまでも抜け出せないでいた。
ヒロの、家族への愛と愛する人への愛が入り混じったような特殊な愛情しか知らず、それに翻弄され続けているアリアには、愛するということがどういう意味なのか理解しきれなかった。
ただひたすら包み込むような愛情を欲し、それは母親が注ぐ無償の愛情に近い。
アリアはまだ大人になりきれない子供のようだった。
「柚子はどうしているかな。毎日、友達と楽しく過ごしているだろうか」
外は雪が積もり、車の通る音も吸収され、シンと静まり返った部屋のソファに横になって色々考えていると、ふと、この世界には誰もいないような錯覚さえして、アリアは急に寂しくなった。
普段一緒にいるのが当たり前になっているが、離れてみるとやはり無性に柚子のことが恋しくなった。
柚子はいちいち口出しをして、それが煩わしく思うこともあるのに。
午前六時、こんな時間に電話をしたら柚子は怒るだろうか。
怒った声でもいい、今はどんな柚子の声でもきっと気持ちが落ち着くだろう。
アリアは麻薬中毒患者のように、柚子の声を求めた。きっと、今電話が繋がらなければ何度でも繋がるまでかけ直していたかもしれない。
三コールめで、電話を待っていたかのように、直ぐに応答があった。
「アリア? 寂しくなったんでしょ。何かあったの?」
気持ちを言い当てられたアリアは戸惑い、直ぐに言葉が出なかった。
「もうそろそろ電話が来る頃かなって思っていたの。だって、離れた時はいっつもでしょう。アリアはひょっとして今までそういう自覚がなかったの?」
そう言われればそうかもしれないと、アリアは始めて自覚して、少し恥ずかしくなった。
自分より年下の高校生に、こんなにも頼って依存していたなんて。
そう思うと、アリアはなおのこと何も言えなくなった。
「こら、電話を掛けておいて無言なの? 何か言いなさいよ」
柚子はくすくす笑っている。
アリアは柚子の予想通りの行動をとってしまったのだ。柚子の手のひらの上で踊らされているようで、段々腹が立ってきた。
「わかった風に決め付けるな。柚子が悪さをしていないか心配になっただけだ」
柚子に向ける苛立ちは、お門違いだとわかっていてもアリアはつい口調がきつくなった。
「へえ、でもこんな早朝に? そうなの。じゃあ、もう用は済んだでしょ。電話を切るわね」
柚子は意地悪だ。わかっていて突き放す。
「冗談よ、聞いてあげるから」
黙ってしまったアリアの気持ちを察したのか、柚子は優しくそう言って、アリアが口を開くのをじっと待ってくれた。
アリアも、悪かったと思い「ごめん」と、小さく呟いてから少しの沈黙の後、話し始めた。
「……柚子には、好きな人っている?」
「え? そりゃあいるわよ。花の女子高生ですからね」
「変な女子高生」
今時の娘が使わないようなおかしな言い回しに、思わずアリアは笑い、気持ちがほぐれた。
「失礼ね」
「その人のこと、どう思っているの?」
「どうって……好きなのよ。理屈じゃないでしょ」
「どんな風に好きなの?」
「何よ、レポートにでもまとめて提出しないといけないの?」
「どうやって好きになったの?」
「それは、出会いを話せって言うこと?」
「いや、違う」
「言いたいことがわからないわ。何を悩んでいるの?」
「……好きってよくわからなくて」
「えぇ! 小学生でもそんなこといわないわよ。アリア、大丈夫?」
柚子は半分呆れているような、同情しているような情けない声を上げた。
「でも、わからない」
「困った人ね。好きになることに、何か意味がないといけないの? 理屈じゃないでしょ。理由を考えるなんて、何か打算しているということよ。私は語彙が貧弱な女子高生だもの好きは、好きよ。それしかないの。それに、迷っているということは、本当に好きな人が現れていないということじゃない?」
断言する柚子の言葉は、妙に説得力がありアリアの頭の中の濃い霧がすうっと晴れた。
無理しないで今のままでいいんだ。
「それで、誰かのことが気になっているの? 昇がそっちにいるでしょ。まさか昇と何か……」
「柚子、ありがとう。すっきりした。なんだか眠くなってきた、また連絡する」
「ちょっと、アリア肝心なことを……」
柚子が話し終わらないうちに、アリアは通話を切った。
すっきりしたと同時に、急に襲ってきた睡魔に素直に従って、アリアはソファにずるずると横になり眠ってしまった。
手のひらから携帯電話が床に転がり落ちたが、その時にはもうアリアは心地よく深い眠りについていた。