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30・それぞれの思い

 元の鞘に納まっただけのこと。

 アリアはそう自分を納得させた。

 ランチに行こうとヒロに誘われたが、旭川から帰ってきたばかりで、まだ疲れているからと理由をつけて断った。

 マンションまで送るとも言われたが、少し歩きたいからと、それも断ってその場で別れた。

 ヒロはきっと、もう少し二人で過ごしたかったのだろう。それはアリアにもわかっていた。

けれども、ヒロと一緒にいると気詰まりしてしまい、今はとにかく早く一人になって肩の力を抜きたいとアリアは思った。

 例のファイルは、帰りがけにヒロへ渡してしまった。アリアはこっそり見てみようとも思ったが、 見たからといって何がどうなるものでもないし、ヒロが絶対に見るなと強行に指示していたから、見るのが何か恐ろしくも感じていた。

 アリアは鮮やかな真紅の薔薇を、両腕で抱えるようにして持ち、カールのかかった長い髪を冷たい風になびかせて、うつろな瞳で、もの憂げな夢遊病者のようにふらふらと歩いた。

その姿は、雑踏の中で際立って奇異で人目を引き、道行く人はすれ違いざまにアリアのほうを振り返った。

だが、アリアはそんな視線にも気づかないでいた。

ヒロとアリアは一対の車輪のようだ。どちらかが欠けるともう片方も回らず、機能しなくなる。

ずっと今まで、離れようにも離れられない関係だった。だから、十無への思いを封印してヒロとの関係を優先してそれを維持するようにとった行動は、アリアとしてはごく自然な選択だった。

だが、心の中に残ったこの空虚感、消化しきれない自分の感情に、アリアはやるせなさも感じていた。

 これでいいのだと思う気持ちと、何か違うと感じている相反する気持ちが葛藤し、心の歪みがきしきしと音を立てて軋んだ。

 これでいい。これで、きっと……。

 アリアは自分を納得させるように、心の中で繰り返し呟やいてみた。

 ロングコ―トの裾がフレアスカートと共に、一瞬、強いビル風になびいた。

 自分に絡まった複雑な糸が、風に吹き飛んでしまえばいいのに。

無駄なあがきと思いつつ、そんなことを願ってみる。

神様なんて信じないけれど、もし、僅かでも幸運というものがあるならば、せめて、十無と今までの関係を維持できますように。

犯罪者を追う刑事の眼でもいい。追ってきて、そして忘れないでほしい。

アリアはすがる思いで、心からそう願った。

街はすっかりクリスマスの面影はなくなり、門松が飾られ気ぜわしかった。行き交う人も、なんとなく浮き足立って見えた。

正月なんて何もいいことはない。

一般の家庭を体験したことがないアリアは、家族行事を忌み嫌っていた。いい思い出は何もない。この時期、家族連れで賑わって世間から取り残された感が一層強くなる。物心ついた頃から、母に置き去りにされて一人で過ごした正月。

アリアは何もかも考えることがいちいち暗くなってしまうのだった。だが、今が最悪なら明日は今日よりいいはずだ。多分……。

柚子に心配をかけないように自分を励まして、少し気持ちを軽くしたところで、アリアはずしりと重い薔薇の花束を抱えて柚子の待つマンションへ帰宅した。

  

アリアと別れてから、車を首都高へ走らせ、ヒロはため息をついた。

多分、あいつは愛の告白とは受け取っていないのだろう。今回も。

言うだけ無駄だと思ったが、つい口をついて出た言葉。

愛している。

ヒロは今まで何度繰り返し伝えたことか。

ヒロはそのたびに絶望した。むなしく空回りする言葉。いつまで経っても届かない思い。恋人への愛と家族への愛情。ボタンはいつまでも掛け違えられ、アリアによって直されることはないのだった。

まもなく渋滞に巻き込まれて、車はのろのろ運転を始めた。

ヒロは懐を探って煙草ケースを取り出したが、中は空だった。

「ちっ」

 短く舌打ちし、車内にある閉まらなくなった灰皿に目を移した。そこには山盛りの吸殻が、窮屈そうに詰め込まれていた。

「肺癌へ一直線だな。早死にして地獄にでも落ちた方が身のためかな」

 ヒロは自虐的な、歪んだ笑みを浮かべた。

 師走の東京は一層渋滞が激しかった。ヒロは首都高速の上空を覆う、光化学スモッグで濁った空を見上げた。それは、自分の肺を写しているようだとヒロは思った。

  

「はい……大変申し訳ありません。こちらの不備です」

 話は前日に戻り、音江槇は探偵事務所副所長として、姿の見えない電話の相手に向かって、夜遅く、アパートの自室で恐縮しながら深々と頭を下げたのだった。

 東昇が来てファイルを盗まれたと知った朝、昇が帰ってから、慌てて依頼人の美原ななにメールで連絡し、槇は会って謝罪したいと申し出たのだった。

だが、直ぐに丁重な断わりの返信が届いた。どうやら、ななは夫の美原博一の目が気になっているようだった。

 電話も自分の方から掛けるから、それまで待つようにと、メールの内容は続いていた。

槇は連絡先として、美原ななからメールアドレスしか知らされていなかった。

 依頼人の正体がわかり、ななの身元がはっきりしている今は、自宅の電話番号も確認済みだったが、ななの夫には調査のことは一切秘密にしているようなので、まさかそこへ掛けるわけにはいかなかったのだ。  

 槇はただひたすら、ななからの連絡をじっと待つしかなかった。お陰で、一日中、携帯電話が鳴るたびに、びくびくしながら仕事をしていた。

 そして夜十時過ぎになり、ようやく美原ななから連絡が入ったのだった。電話の向こうからは自動車内と思われる、FMラジオの音が微かに聞こえてきた。

「……ふん、そう。謝っても、済んだことは元に戻らないわ。こちらの手の内を、ヒロが知ってしまったという損失は大きいのよ。いったい、どういう誠意を見せてくれるのかしら?」

 ななは鼻であしらうように言った。

「……調査料金はいただきません。これからの調査も、今後一切」

「あなた、わかっていないわね。お金はいいのよ、私が欲しいのは情報なの」

 槇は意を決しての提起をしたつもりだったが、相反して、ななからは呆れたようなため息交じりの冷たい反応が返ってきた。

 だが、槇はそれ以上の方法を思いつくことができず、硬直してしまった。

「そうねぇ、例えばあなたが定期的にくれた情報、それ以外に付加価値のある情報が欲しいわ」

 槇はななの言っている意味が分からず、「は?」と間の抜けた返事をした。

「だ、か、ら、私が何のために、調査依頼しているのか、忘れたの? あの子を取り戻すためよ。ヒロから、あの子を、取り戻す。その為の、情報。それで、許してあげる。……探偵事務所って、信用が、第一よね?」

 応じなければ何をされるかわからない。槇はそう感じた。低い声音でゆっくりと、一言一言を区切りながら、人を言いくるめるように話す、ななの口ぶりは、負い目のある槇を追い詰めて畏怖を植え付けるのに充分だった。

 脅しにも似た要求に、槇は生唾を飲み込んだ。

 ななが言わんとしていることは、槇にも理解できた。

 情報を盗まれた探偵事務所の不手際。それを流布されれば、事務所は終わりだ。

「私があなただったら……そうねぇ、犯罪の証拠を見つけるか、あの子の弱点を見つけてつつくか。ま、あなたにそれだけの力量を求めても無理があると思うから、とりあえず、あの子やヒロが関わったと思われる事件を、全て洗い出して報告して頂戴。それならできるわね?」

 ななの屈辱的な言葉に、探偵としての資質までも値踏みされたようで、内心、槇ははらわたが煮えくり返っていた。

だが、非がある槇には、はいと力なく返事をする以外なかった。

「ああ、それともう一つ。あの双子にあの子を近づけないで。悪い虫がつくと困るの。これは言わなくても大丈夫だったかしら?」

 ふふっと、ななは鼻で嘲るように笑ってからこう付け加えた。

「どんな手を使ってもいいわ。私もそれには協力を惜しまないから。出来ることがあれば、何でも言って頂戴。あなたの利益にもなるでしょ?」

「わかりました……」

 槇は魂の抜けたような、機械的な返事をした。

 人を好きになる気持ちは、誰かに何か言われたところで変わることはないと、槇は充分過ぎるくらいわかっていた。

 東昇が振り向いてくれるまで、待つ覚悟をしていたつもりだった。

だが、今回、坂本周に惹かれてしまった自分の脆さを、あからさまに思い知らされ、自分はこんなに弱い存在だったのかと、槇は打ちのめされていた。

槇は自立した女を演じるほど、強くはないと自覚していた。

二十七歳になり、結婚式の晴れ舞台に立った友人を、何度となく見送ってきた。

家庭に落ち着いた友人達の話題は、子供のことが中心だ。入り込めない話題に、一人浮いてしまう。

そして、彼女達は独身時代にはなかった苦労があるのだと、さも大変そうに愚痴をこぼす。

しかし、槇にはそれすらも、羨ましく思えてしまうのだった。

三十代になっても、このままずっと一人なのだろうかという焦りもあった。

だが、副所長として働き、独身を謳歌しているように見える槇に、友人は羨望の眼差しを向けるのだ。

 とりあえず、皆の前では槇はキャリアウーマンを頑張ってみた。

 こんなの、自分じゃない。

 槇はそんな自分に疲れていた。今の自分は仮のものだ。本当じゃない。

 そして、焦りのある槇は、美原ななの言葉にすっぽりと落ちていったのだった。

ななは何をどう協力するというのか。そんなことは槇には想像もつかないことだったが、ななの自信に満ちた断言するような言葉を聞くと、頼めば何でもしてくれる、力強い協力者を得たような気がしてしまうから不思議だった。

 美原ななの一言で、槇は容易に懐柔されて、槇はななの持ち駒となってしまったのだ。


 お見合いの休暇後、久しぶりの出勤は、東十無にとってかなり憂鬱だった。

昨夜、帰京してから夕食もとらずに、早い時間からベッドへ沈んで朝まで寝てしまった。

先方から断られたことを、上司にも説明しなければならない。

ひょっとして、もう耳に入っているのかもしれない。きっと、とんとんと肩を叩かれ、またいい縁談があるさ。などと、同情の目を向けられて慰められるのだ。

 同僚からも冷やかしの目で見られるに違いない。噂雀達が面白おかしく尾ひれをつけて、暫くはさえずりを止めないだろう。

 その光景が容易に想像でき、妙にリアルに十無の目に浮かんだ。

 昇はまだ旭川に滞在していて、十無のそんなぼやきを聞いてくれる相手はいなかった。

 気が重い十無は、一人寂しく食卓テ―ブルについてテレビのニュースをうつろに眺め、朝食のト―ストを口にほおばった。

 珈棑を流し込むようにして一気に飲んでから、行くしかないと、自分に気合を入れるように大声で独り言を発し、十無は椅子から立ち上がった。

 言いたい奴には言わせておけばいい。こんな私的なことで、仕事をおろそかにはできない。

 十無は自分に言い聞かせて玄関を出た。

     

 同時刻、東昇はまだ旭川の寒空の下にいた。

 十無と行動を共にしたら、道中につい口を滑らせて、アリアが坂本周だったと口走ってしまいそうだった。

 だが、それ以上に音江槇のことが気がかりだった。

 美原ななに何を指示されているのか。とうとう昇には、はっきりと教えてくれなかった。

心配をかけたくないから、父には言わないで。自分でけりをつけるからと、懇願する音江槇の、小鹿のように怯えた瞳に、昇は強く言い返せなかった。

本当に黙っていて良かったのか。

昇は今も、自分の判断に自信がなかった。

槇にとって、美原ななとの関わりは決してプラスにはならない。美原ななは一癖ありそうだという直感が昇にはあった。それは、槇の手に余る。

下手をすると、槇はいいように使われ、ぼろぼろにされて潰されるのではないかという危惧もあった。

昇は槇をマークしてみたが、ななからの依頼のことが発覚した昨日の今日で、これといった収穫はなかった。

槇も昇の目を気にして用心深く行動しているようで、美原ななとの連絡は、自宅からしかおこなっていないようだった。

槇の部屋に、盗聴器をつけようかとまで悩んだが、さすがに若い女性の一人暮らしの部屋を盗聴するのは、はばかられた。

厄介だ。でも、このまま放っておいていいのか。

昇は自問した。

槇の、昇に対する気持ちにも、気づいていないわけではなかった。それに応えることができない昇は、一定の距離をおいて気づかないふりを通してきた。

幼馴染で職場の上司という、憎まれ口を気安く叩ける関係を、昇は壊したくなかった。逃げ腰の態度をとり続けて申し訳ないという思いがあった。

だから、槇には笑顔でいてほしい。幸せになってほしいと昇は強く願っていた。

「……これは、俺のエゴだな」

昇は槇の車を、注意深く尾行しながら呟いた。

  

 アリアに向かって、余裕の笑みを見せた柚子は、内心、旭川で何があったのか聞きたくてうずうずしていた。

 数日は、アリアが話してくれるのをじっと大人しく待っていた柚子だったが、アリアは一向に話しそうもなく、柚子はとうとう痺れを切らして行動に出た。

といっても、まともに訊いてもアリアは何も話さないことを充分承知していたので、柚子は一番ガードの崩れやすそうなところをつつくことにした。

 それは、東十無。

 一見、口が硬そうに見えるが、アリアのことになるとぽろぽろとほころびが出てくるのだ。

柚子はいつの間にか、十無の携帯電話の番号も手に入れていた。そして、アリアが外出した隙に電話を掛けた。

「十無、久しぶり」

「失礼ですが、どなたですか?」

「柚子でーす。旭川ではすっごく大変だったのねぇ」

 柚子がかまをかけると、十無は受話器の向こうで絶句した。

「……俺を、呼び捨てにするな」

 十無は辛うじてそう言い返したが、かなり動揺しているようだった。

「ふーん……やっぱり、元気ないわね」

「なんだよ、昇の奴、あれほど言うなといっておいたのに」

「でも、聞いちゃった」

「おい、誰にも言うな。見合いがだめだったのはともかく、男に告白されたなんて、署に知れたらそれこそ、噂話の餌食にされる」

 話を逸らそうとしていた十無だったが、柚子が容赦なく切りこみ、たじたじとなって、早くも話を誘導されてしまった。

「誰にも言わないわ。あんまり十無が可哀想だから」

 柚子は易々と情報を手に入れることができ、ご機嫌でそう言った。

そういうことか。アリアは何を血迷ったのか、坂本周の姿で十無に告白したのだ。

 ちょっとつつけば、ぽろぽろとこぼれる情報。柚子がうまいのか。十無が落ちやすいのか。柚子はうまくいき過ぎて、笑いが止まらない気分だった。

 アリアはそれで落ち込んでいるのだ。

つい暴走して、どうしていいのかわからなくなったのか。

さて、どう料理をしようかと、柚子は楽しみながら次の手を考えた。

「ねえ、職場で体面を保つための妙案があるの。お見合いはだめだったけれど、そんなのもう必要ないんだって思わせる方法が」

「俺のことは、そっとしておいてくれ」

「アリアが協力してくれるわ」

 それまで情けない声を出していた十無が、アリアの名を聞いた途端、声を荒げた。

「アリアには絶対言うな」

坂本周はアリアなのにとは、言うわけにはいかない。

だけど、男に告白されたこと、そんなに隠したいことなのか。 好かれるってことは良いことなのに。

 柚子は首を傾げた。

「おい、俺は忙しいんだ。もう切るぞ」

「ちょっと待って……」

 柚子がそう呼びかけたが、電話は切られてしまった。

「もう……いいわ、勝手に進めちゃうから」

 柚子は、早速思いついたことを行動に移した。


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