29・終焉
昨夜、坂本周と別れてからずっと、東十無の頭の中はある考えで占められていた。
そして今日、東京へ帰る前にそれをはっきりさせたかった。
坂本周とは何者なのか。何故、自分はああも易々と気を許して弱みを見せ、イブの夜に会ってくれなどと頼んでしまったのか。ほんの数回会っただけの奴なのに。
まさか坂本君は……いや、まさか。
薄っすらとした疑問が、少しずつ浮かび上がった。
そして、極めつけは周の告白。
しかし、十無は答えが出せず、理解に苦しんだ。おかげで夜は頭がもやもやしてほとんど眠れなかった。
とにかく夜が明けたら、もう一度坂本君に会ってみよう、十無はそう思っていた。
そして、早朝。坂本周の住所を確認するため、昇に電話をしたのだった。
「今頃、なに寝ぼけたことを。兄貴、ずっと携帯電話の電源を切っていただろう。何度も掛けたのに。……あいつは、もういない」
十無は益々わからなくなった。
まさか、自分に振られてしまったと思い、坂本周は昨日のうちに引っ越したのだろうか。それにしては、手際がよすぎる。昨日別れたのは夜中だ。今はまだ午前八時。そう考えるには無理がある。予め引越しを手配していたと考えるほうが自然だ。
やはり……まさか。アリアなのか。
自分の都合に良い、希望的観測。十無はそんな考えが頭をもたげた。
「昇、何か知っているのか?」
「……周と、何かあったのか」
昇に逆に訊き返された。
お互い、探り合うような暫しの沈黙。
「……坂本君に、告白された」
非常に言いづらかったが、かなりの間をあけてから、十無は観念してぼそりと呟いた。
「はあ?」
案の定、素っ頓狂な疑問符が返ってきた。
「俺の勘でしかないが、坂本君といた年上の彼女は、Dかもしれない。そして、アリアといた女も、同一人物、多分Dだろう。そして、坂本君はもしかして……」
「男に告白されたのか。兄貴って女にもてないけれど、男には持てるタイプかもな。その調子で、アリアにも告白してみたらどうだ? うまくいくかもしれないぞ」
「何を莫迦なことを」
昇の冷やかしのようなその一言で、坂本周はひょっとしてアリアではないかという、十無の微かな考えは、綺麗さっぱり吹っ飛んでしまった。
そうであればいいと強く願うあまり、無茶なこじつけをしてしまったのか。それにアリアだとしたら、昇が何も気づかないはずがない。きっと勘違いだろう。第一、何の目的があって坂本周という男に扮してわざわざ危険を冒してまで、知り合いのいる探偵事務所に潜入し、おまけに自分に告白するのか。
「……周は、もともとそう長くいる予定の奴じゃなかったから。転々とあちこち渡り歩いているようだし。事務所も急にやめていった」
「そうか……」
昇のその説明で、十無は納得してしまった。
十無は力なく電話を切った。
波乱に満ちた旭川での一週間の見合い休暇は、こうして幕を閉じたのだった。
『もしかして……』
十無が言いかけたその時、昇は咄嗟に遮ってはぐらかしたのだった。その先、何を言おうとしたのかは容易に想像がついてしまったから。
『もしかして、アリアかもしれない』
十無の言葉はそう続いたはずだ。
昇はそれを聞きたくなった。
昇は兄からの電話を切った後も、強烈な衝撃から直ぐに抜け出せなかった。
泣き出した槇を、わけもわからないままなだめすかして、やっと涙が止まったところに、兄からの電話がかかってきたのだ。
槇がまだ赤く充血している瞳をこちらに向けて、十無がどうかしたのかと鼻声で訊いてきても、昇は気が動転して答えられなかった。
今の兄貴の電話、坂本周に告白されたと言っていた。それは、アリアが兄貴に告白したということだ。ひょっとして、二人は相思相愛だったのか。兄貴に散々振り回されて……自分はとんだ道化だ。少し悩めばいい。兄貴には坂本周がアリアかもしれないなんて絶対に教えてやるものか。
昇は少しの罪悪感がないわけではなかったが、到底、教える気にはなれなかった。
ここでもささやかな嫉妬が蕾をつけ、話を複雑に歪曲させていた。
日常は淡々と過ぎ始めていた。
雪のない東京へ戻ったアリアは、現に戻った気分だった。雪の中で起きた出来事は、別世界で起きた別の次元の出来事に思えてならなかった。
「何か、あったでしょ?」
二十五日、朝一番の飛行機で東京へ到着し、雑司が谷のマンションへ帰るなり、柚子にそう問われても、アリアは口の端を上げて苦笑するだけで、何も言わなかった。
言えなかったのだ。また、柚子を心配させる。
それ以上、柚子も訊こうとはせず、ただにっこりと優しく微笑んで紅茶をとぽとぽと淹れてくれた。それはまるで、『話したくなったら、いつでもいいのよ。何でも訊いてあげる』とでも言っているようだった。
その微笑だけでアリアは支えられ、元気を取り戻せた。
心の拠り所、アリアの心の要。そんな存在になっている柚子。
柚子の包み込むような微笑みで、まる一日、部屋でゆっくり休みを取ってアリアは元気を充填した。翌日、ことの後始末をするために、アリアは意を決してヒロに会うことにしたのだった。
ヒロに言わなければ。自分の気持ちを。そして、イブに行かなかったことを謝らなければならない。イブに何があったかも、話さなければ。このままではいけないのだ。
ヒロ好みの長い髪の女性に扮したアリアは、歳末商戦真っ盛りで賑わう、JR池袋駅近くにある喫茶店で、ヒロと落ち合った。
「ごめんなさい!」
ヒロと向かい合わせに座ったアリアは、緊張した面持ちで深々と頭を下げた。
「許さない」
ヒロは短い言葉を、かみ締めるようにゆっくりと低い声で発した。
そして、椅子に寄りかかって煙草をゆったりとくゆらせながら、ヒロは目を細めてアリアを値踏みするように眺めた。
ヒロの視線が痛い。
テーブルの灰皿には、吸殻が数本捨てられている。約束した時間よりも、ヒロはかなり早くに来ていたようだ。
許さないと言われても……。
勇んでヒロに会ってみたものの、ヒロの前では思っていることの半分も口にできなかった。謝るのが精一杯だ。許さないなどと断言されてしまうと、体が硬直してどうすることもできなくなった。
アリアは顔も上げられず、肩に力の入った姿勢でいると、ヒロがここへ来いと言うように、右手で自分の隣を指差した。
仕方なく、アリアはヒロの隣へ移動して座った。
「プレゼント、ありがとう。Dにもお前が用意しておいたダイヤのピアスを渡した。それで、お前の気が済んだのか」
ヒロは正面を向いて煙草の煙をフウッと、ため息と共に吐き出した。
ヒロの声は穏やかだったが、言葉の一つ一つが重く、アリアの心にのしかかった。
落ち着いた響きのヒロの声は、寂しそうにも感じた。いっそ、冷たく罵られた方がいくらか気が楽だった。
強気ではないヒロだと拍子抜けしてしまい、アリアはどうしたら良いのかわからなくなった。
「俺からのプレゼント、渡しそびれたな。ちょっと駐車場まで付き合ってくれ」
アリアはこくんと頷いて、ヒロに言われるまま、駅前の地下駐車場へと連れられて行った。
途中、ヒロにしっかりと肩を抱かれて黙って並んで歩いた。コートの上からヒロの手の温もりがアリアの肩に伝わってきた。
安心感のある力強い手。
ずっとこの手に支えられてきた。ヒロがいなかったら、今、こうしてここにいることはなかっただろう。もしかしたら、憎しみのあまり、人を殺めていたかもしれない。
人ごみを歩きながら、ななと二人暮しをしていた数年間の、過去の様々な辛かった出来事までもがアリアの頭に浮かんだ。
だめだ。ヒロに言えない。あんな寂しそうな声を聞いたら、絶対に言えない。
色々悩んだ挙句、アリアは今の状態を変えることはできないという結論になった。
街の景色はアリアの瞳に写っているはずだが、考え疲れて何処を歩いているのか脳で認識できない、そんな状態になっていた。
ヒロに支えられてようやく歩けていた。
ななとの酷い生活から救い出してもらったその瞬間から、アリアにとってヒロは絶対の存在となった。
ヒロはアリアの生活の全てだった。全てがヒロを中心に回り、ヒロの言葉は何よりも優先された。実際、そうしてアリアは犯罪に手を染めることになったのだ。
ヒロの言動に左右され、ヒロの顔色を伺い、アリアは一喜一憂した。今日も無意識のうちにヒロの機嫌を取るような、ヒロ好みの女性の姿で来てしまった。
ヒロはアリアにとって家族……親であり、兄であり、多分、恋人のような存在でもあった。そして、泥棒の師でもある。
枠にはめてひとくくりにできない存在。大袈裟に言うなら、神に等しい存在。多少反発ができるようになり、柚子という存在がアリアの支えとなりつつある今も、本能に近い部分でそれは根付いていた。変えられない根幹の部分だった。
そんなヒロを悲しませるという大それたことは、アリアには出来なかった。
ヒロの足が止まり、アリアが気がつくと地下駐車場内にいて、ヒロの車が目の前にあった。
「乗るの?」
アリアはヒロの顔を恐る恐る見上げて、会ってから初めて、まともに見つめた。
硬い表情。寂しそうに瞳を曇らせて、無言で助手席のドアを開けるヒロ。後ろに緩く束ねられたヒロの長い癖毛が、心持ち乱れてやつれているように見えた。
アリアの胸が締め付けられるようにきゅっと痛んだ。
ヒロをそんな表情にさせてしまった罪悪感が、胸いっぱいに広がる。
ヒロ、ごめんなさい。自分が悪かったのだ。もう側を離れないから。お願いだからそんな顔をしないで。
アリアの視線に気づいたヒロは、助手席に置いてあった真紅の薔薇の花束を取り出しながら、アリアのほうを向いた。目を細めて僅かな笑みを作って。
一抱えはある薔薇の花束を、アリアの前に差し出した。
「イブの夜、何処で何をしていたかは訊かない。だが、これだけは覚えておいてほしい。俺はお前を愛している」
ヒロの言葉が痛く、胸に突き刺さった。
「お前を、愛している」
そう繰り返し搾り出すように囁いて、ヒロは花束をパサリとその場に落とした。真紅の花弁が足元に数枚、はらはらと散った。
ヒロは愛しむような瞳で見つめて、躊躇いがちにアリアを抱き締めた。まるで、硝子細工でも扱うように。拒否を恐れているかのように、アリアは感じた。
捨てられた子犬が主人を探している。そんな、心細そうな瞳。ヒロに出会うまで、自分がしていた同じ瞳。
アリアはごく自然に、ヒロの背に両腕を回した。
そして、きつく、きつく、抱き締めた。
離れられない。同じ瞳のヒロを一人にできない。ヒロも自分を必要としているのだから。
足元の、真紅の薔薇が仄かに甘い匂いを放って二人を包んだ。
アリアは自分の気持ち……東十無への思いを、心の奥深くに沈み込ませるしかなかった。