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28・凍てつく心

 その足で、アリアは音江槇のアパートへ向かっていた。

『仕事』は今夜、やるしかない。

 アリアは最悪の精神状態だったが、このまま消えるわけにも行かなかった。それに、坂本周として 探偵事務所に潜入した目的を果たさなければ、ヒロに何かあったのではと勘ぐられてしまうだろう。

 アリアは音江槇のアパートより五軒ほど手前の路上で、タクシーを降りた。

 酔いはすっかり醒めていた。泣いた分、気持ちもいくらかすっきりした。

だが、先ほどの行動を冷静に思い起こすと、恥ずかしさで消えてしまいたくなった。

 馬鹿な自分。十無は目を丸くしていたに違いない。

アリアは道路わきの雪を一掴みして、火照った額に押し当てた。

もう考えない、頭を切り替えよう。今は坂本周なのだ。音江槇からファイルを頂戴しに来た泥棒なのだ。

「冷てー!」

 解けた雪が頬を伝って流れていき、手で拭った。ひりひりする冷たさが、次第に頭の芯を引き締めていくように感じられた。

アリアは全ての神経を『仕事』に集中させた。

音江槇は今夜、クリスマスということで、父親と事務所の皆で繁華街に繰り出していた。現在午前一時過ぎ、この時間には部屋へ帰って槇は寝入っているはずだった。

槇は職場の仲間と一緒に飲みに行っても、父親にほぼ強制的に十二時には帰されるということを、アリアは事前に確認してあるのだ。

槇が熟睡するには、若干時間が早いが、ぐずぐずしてはいられない。

アリアは玄関前に来ると、ドアをピッキングでこともなげに開けて、音もなく部屋へ滑り込んだ。

そして、暗闇の中、自分の部屋を歩くように、一つも迷いなく奥へ進み、寝室の前で立ち止まった。ここまでをアリアは三分足らずでやってのけた。

簡単に終わる。後はベッドサイドテ―ブルに置いてある、ネックレスを頂くだけだ。

用心深く寝室のドアを開けた。が、サイドテーブルにネックレスはなかった。それどころか、寝ているはずの槇の姿もないのだ。

玄関には槇の靴があった。ということは、違う部屋で寝ているのか。アリアは予想外のことに多少動揺したものの、気を取り直して居間へ行ってみた。

こたつにはいったまま、大の字になって気持ち良さそうに寝息を立てている槇がいた。

アリアはほっとして、心の中で驚かせるなと文句を言った。が、次には唸ってしまった。槇は服のまま寝ていたのだ。多分、帰宅して直ぐに寝てしまったのだろう。

ペンダントは槇の胸の上だった。

どうしたものか。

アリアはすやすやと眠る槇の寝顔を、恨めしそうに見入った。胸元のネックレスに手を掛けようとしたが、眠りが浅いのか寝返りをして横向きになってしまった。ペンダントを引きちぎれば、起きてしまうだろう。

悩んだ末に、アリアはその場に屈んで、槇の肩をとんとんと軽く叩いた。

「槇さん、槇さん、起きてください」

「う……ん。周君?」

 たいした驚きもせずに、槇は目をこすりながらゆっくりと起き上がった。槇はまだ酔いが抜け切らないようで、ほわんとした顔をしている。

「すいません。鍵がかかっていなかったので、勝手に上がってしまいました」

 アリアは俯き加減で、すまなさそうにそう言い訳をしたが、槇はというと、そうだったかしらと首を傾げただけで、ドアの鍵のことは何も不信に思わなかった。

「どうしたの? こんな時間に」

「……どうしても、会いたくて」

アリアは努めて寂しそうな表情を作り、絞り出すような声で切なそうに呟いた。そして、槇をじっと見つめた。

「周君?」

 そう言った瞬間、アリアは槇を抱き締めた。

「……槇さんに愛される男は、幸せだろうな」

アリアはかすれ声でそう囁き、槇の長い髪を耳元から撫ぜ上げた。槇は体を固くしたが抵抗はされず、彼女の鼓動が速くなっているのが、密着した体から伝わってきた。

「周君? いつもと雰囲気が違う。何か、あったの?」

「……槇さん。僕、あなたのことが……頭から離れない」

 アリアは槇を抱きしめて、髪を撫ぜていた手を首筋へ這わせた。

「周、君……」

「槇……」

 名前を甘く囁きながら首筋を撫ぜる。槇の気が動転している隙に、アリアは器用にペンダントを取り外して、ジャケットのポケットへ滑り込ませるのに成功した。

 続いて、アリアは槇の顎を引いて押し倒しそうな勢いで、キスを迫った。

ここで槇に嫌と言われて突き飛ばされ、アリアは泣く泣く引き上げるという筋立てのはずだった。

少なくとも、アリアは拒否されるものだと予想して、強引な行動に出たのだ。が、予想に反して槇は抵抗するどころか、目を瞑ってキスを待っていた。

どうしよう。収拾がつかなくなってしまった。

……ええい、仕方がない!

アリアは半ばやけくそ気味になって槇にキスをした。そして、槇から体を離した。

「ごめんなさい、遅い時間に来て。不謹慎だった。あなたのお父さんに申し訳ない。今夜はこれで帰ります」

「周君?」

 ぽかんとしている槇を残して、長居は無用とばかりに、アリアは逃げるように部屋を出た。

成功はしたのだが。

好きな男に振られた直後、冷静に泥棒家業に精を出せる自分の神経が嫌だった。

そう思いながらも、アリアは次の行動を考えていた。

今までいたアパートは既に引き払ってある。坂本周の痕跡は跡形もなく消し去ってあり、もう何処にも存在はないのだった。後は姿を消すだけで終わるのだ。

そして、アリアに戻って、ヒロの待つアパートへ約束通りに行くだけだ。

それで何もかもがいつも通り元に収まるはずだった。

だが、ヒロのアパートへ顔を出す気にはとてもなれなかった。会って優しくされたら、きっとヒロに甘えてしまう。泣いてしまうかも知れない。

それでもヒロは何も聞かずに、黙って受け止めてくれるだろう。

だが、ヒロに頼ってばかりではいけないとアリアは思っていた。

こんな夜は一人で過ごしたくなかったが、タクシーをつかまえて、アリアは予約してあるホテルへと向かった。

 

 アリアが思わず十無に告白してしまった時刻に、ヒロはアパートでアリアが来るのを、ひたすら待っていた。だが、今夜は来ないだろうということも、ヒロは内心確信していた。

 パイプベッドの傍らにある硝子の灰皿には、吸いかけては揉み消した煙草の山ができていた。

ベッドに寝そべっているヒロは、マッチで次の煙草に火をつけた。

 足元の床には、ケースに入ったダイヤのタイピンと、それを包んでいた緑色の包装紙とカードが、無造作に放り出したままになっていた。

「もう俺を必要としないのか。そういうことか? アリア」

 煙草の灰を灰皿に落とし、額に左手をあてて目を瞑り、ヒロはベッドに仰向けになった。

 ヒロが晩餐のための買い物へ出掛けて帰宅すると、部屋のテーブルに小さなプレゼントが二個、並んで置いてあった。一つは緑色の包みで、もう一方は赤色の包装紙だった。同じ大きさだが、緑の方にはカードが添えてあった。

『ヒロへ、メリークリスマス。愛を込めて。アリアより。P・S・今夜はごめんなさい。それと、お願いです。Dと仲直りしてください。私が余計なことをしたのが悪かったのです。ヒロからDへ、渡してください』

 その文面は、ヒロをがっかりさせるのに充分だった。

カードを見るなり、ヒロは買い込んだ物をテーブルに放り投げ、ベッドに寝転がり、ふて寝していたのだった。

「……これは、何のつもりだ」

 ヒロは片肘をついて上体を起こして横を向くと、くわえ煙草でベッドに転がっている赤色の小箱を弄んだ。

「何よ、しけた顔をして。寂しいイブね」

 開け放していた部屋のドアに、Dが腕組をして寄りかかり、音もなく立っていた。

「ノックくらい、してくれ」

 ヒロはDを一瞥したが、驚きもせず、迷惑そうにあしらった。

勿論、ヒロは玄関に鍵をかけていた。

そんなことをしてもDには無意味だと、ヒロはよくわかっていたし、今までもこんなことは日常茶飯事だったので、ヒロは特に動じなかった。

だが、ヒロはすこぶる機嫌が悪かった。俺に干渉するなという、オーラが強烈に感じ取れるほどに。

その原因は、言うまでもなくアリアが置いていったカードだ。

Dは床に放ってあるカードを拾い上げて目を通し、ため息をついた。

「本当はアリアちゃんと過ごす予定だったのね。私はちょっと寄ってみただけだから。……私じゃ役不足ね、帰るわ」

 Dが片手をひらひらと振ったのを、視界の隅に認めたヒロは、煙草を灰皿にもみ消してベッドからゆらりと立ち上がった。

「このまま、俺を一人にする気か」

 背中を向けて部屋を出て行こうとするDを、ヒロは抱きすくめた。

「なによ、アリアちゃんに会えなくて、残念そうにしているヒロの顔を見た私は、可哀想じゃないの?」

 Dは少し棘のある言い方をした。

そうしないと、またヒロを甘やかして受け入れてしまいそうだとでもいうように。

ヒロにはそれが拗ねているように映り、Dがいとおしく感じた。

「ごめん、頼むからここにいてくれ」

「それは、何に対して謝ったの?」

 Dの投げかけた言葉はヒロの耳に入らず、もう話しは聞きたくないとでも言うように、強引にDの唇を塞いだ。

 誰かに触れていたい、肌を寄せ合っていたい。

 本能の赴くまま、何もかも忘れたくて求めるキスだった。

Dの息が詰まるほど、ヒロはきつく抱き締めて激しく口付けを交わした。

 欲望を満たそうとする獣のように、激しく。

Dの吐息が漏れる。

「ヒロ、ずるいわ」

「そうだ、俺は酷い奴だ」

 ヒロは苦しそうにDの耳元で囁きながら、再び唇を合わせた。

Dは抗えずに、ヒロの我が儘を許し、受け入れ、身を重ねた。

 何の解決にもならない逃げだとヒロにはわかっていたが、一人でいられるほどの精神的余裕はなかった。

 窓には霜が花開き始め、アパート横を流れる忠別川は川霧を作り出し、氷点下十五度のしばれの厳しさに、街は凍えていた。

それはまるで、情熱的な抱擁とは裏腹の、ヒロの凍てつく心を映した心象風景のようだった。

  

その夜、Dはヒロと共に一夜を過ごした。

そして、夜が明けきらないうちに、Dはいたたまれなくなって部屋を飛び出した。

Dは橋の上から川面を眺めながら歩いた。

川霧が橋の上まで立ち込めて体は芯からひりひりと冷えた。

両手を上質のカシミヤコ―トのポケットに入れ、肩をすくめて歩いた。車も全く通らず、辺りは静まり返っていた。

とうとう、都合の良い女なってしまった。

Dは改めてそう思い、大息をついた。

 でも、全く必要とされないよりはまだいいのだろうか。

 そう、自分を慰めた。

「ふふふ」

 妙に笑いが込み上げてくる。声を立てて思いっきり笑いたいくらいに。

 なんて莫迦なのだろう。こんなことわかりきっていたこなのに。

 それでもヒロを捨てきれないのであれば、都合の良い女に徹するしかない。

「……どうして、ヒロなのかしらね」

 Dはそう呟いてから、急に自分の感情に押しつぶされそうになった。歩くのが辛くて橋の中程で足を止めた。

俯いたと同時に、ぽたりと涙が落ちて雪に吸い込まれて消えていった。

泣いている。

 自分でも意外だった。Dは泣けると思っていなかった。そんな感情はとうの昔になくなったものだと思っていた。

「ヒロの、おかげかしら?」

 Dは涙を流しながら、極上の笑みを浮かべた。

  

翌朝、まだ日が昇りきらない七時頃、音江槇はこたつでの心地良い眠りを、ドアを叩く音とチャイムに妨害された。

「槇、起きろ! 寝ている場合じゃない!」

「なによ〜。昇なの? こんな時間に来ないでよ」

 文句を言いながらも、のろのろとこたつから這い出した槇は、取り敢えず昨夜から着たきりの服装を、ドレッサーの前でちらりとチェックしてからドアを開けに玄関へ出た。

「昇、昨日は飲み会に来なかったじゃない、待っていたのよ。で、こんな朝早くに、何事なの?」

 ずっと待っていたのに。イブに何処で誰と会っていたのか。まさかアリアといたのだろうか。

槇は寒さに首を縮めて不機嫌丸出しで、玄関に突っ立っている昇を、そんな含みを持って睨みつけた。

「まず、部屋に入れてくれ。寒くて話しどころじゃない」

 槇は迷惑そうな顔をしてみたが、そんなことにはお構いなしに、昇は勝手に部屋へ上がりこんだ。

「ふう、寒かった」

 昇はこたつで温まると、人心地ついたのか、再び慌てた口調で話し始めた。

「あいつ、周は多分アリアだ。どうりでいくらアリアを探しても見つからないわけだ。直ぐ側で変装していたとは。何か狙われるような物の心当たりはないか?」

「……嘘、でしょ?」

 すとんと崩れるように座った槇は、その言葉しか口にできなかった。

そんなことがあるはずない。あってはいけない。周君のことを好きになりかけていたのに。アリア、ということは坂本周が女だということになる。あんなに魅力的なのは詐欺だ。どうして気がつかなかったのか。一瞬でも魅かれたなんて。昇が時々、ふらっといなくなっていたのはずっとアリアを探し回っていたからだったのだ。やっぱりいつもアリアのことが頭から離れないのか。……だけど、アリアが私に近づいたのは何故か。何か意味が……。

 頭の中で様々な考えが巡ってから、槇ははたと一つのことに思い当たった。槇は恐る恐る、胸元にあるはずのペンダントを探ったのだった。

「ない!」

「おい、どうした?」

 赤くなったり青くなったりしている槇の顔を、心配そうに昇が覗き込んだ。

「ファイルが……なくなっているの」

「ファイル? 何の」

「どうしてもっと早く教えてくれないのよ! 遅いわよ。何もかも。盗まれちゃったのよ、全部!」

 事情を知らない昇に向かって、槇はつい責めるような口調になった。

当然の反応として、昇はわけがわからずにきょとんとしていた。

ここまで言ってしまっては、槇は事情を話さないわけにはいかなかった。本当はアリアに惹かれている昇に、これ以上かかわってほしくなかったのだが。

 槇は美原ななからの依頼を受けていたことを、渋々話した。

「……アリアは、ファイルがほしくて事務所へ潜り込んでいたということか。『坂本周』は、昨夜から連絡が取れない。アパートはもぬけの殻だ」

「……」

 単独行動を非難する昇の視線が痛かった。槇は俯いて沈黙した。

「俺に隠すからそうなるんだ。何かこそこそやっているのは気づいていたが、まだ美原ななが依頼していた調査が継続されていたとは」

「……」

 昇の前で、槇は益々萎縮した。いつの間にか正座して、膝の上で両手をきつく握り締めていた。浅はかな女の嫉妬。仕事に私情を挟んでしまったことへの後悔が自分を攻め立てた。

 馬鹿だ。自分のことが嫌になる。こんな結末が悔しい。

 槇は目頭が熱くなり、膝の上にポツリと涙が落ちた。

「おい、別に泣かなくたって……俺、そんなにきつく言ったか?」

 仕事でトラブルが起きても、副所長として槇はいつも冷静にてきぱきと対処していた。そんな姿を見慣れている昇は、慌てふためいた。

 違う、そうではない。打算的な自分が嫌なのだ。昇が振り向いてくれないから、寂しくて、周に気持ちが傾いた自分が、恥ずかしくて悔しいのだ。

 槇は心の中でそう叫んでいたが、言葉になるはずもなく、次から次へと涙が溢れた。

 昇の前で、槇は一人の恋する女以外の何者でもなかった。


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