24・オレンジのキス
二人はホテルの最上階、バー・エジソンのカウンター席に並んで座った。
カウンターに立つバーテンダーの背後は、一面のガラス張りの窓で、夜景が広がっていた。
店内は薄暗くて夜景が綺麗に見え、美希のご希望通りの雰囲気の店だった。
碁盤の目のように拓けた街は、直線上に明かりが並び、それぞれが交差している。高層ビル郡が少ない控えめな夜景だが、冷えわたる空気に今夜は雪も降らず、明かりがはっきりと輝いて見える。
それは、佐藤美希を誘惑するには充分なロケーションだった。
席は半分ほど埋まっていて、そのほとんどがホテルの宿泊客のようだった。時折、関西弁が聞こえてくる。賑やか過ぎず、静か過ぎない程良いざわめき。
「周ちゃん、ここには来たことがあるの?」
「何回かね」
「そう、私は初めて。綺麗な眺め」
美希はカウンターに両肘をついて夜景をうっとりと眺めた。
「美希さん、カクテルはよく飲む?」
「ううん、ほとんど飲んだことがないの。行くのは居酒屋かカラオケのあるような飲み屋ばかり。甘口のカクテルで、お任せするわ」
よし、それであれば問題はない。
アリアはお酒が好きだ。勿論カクテルも。
そう詳しくはないが、ヒロともよく飲んでいて、ある程度アルコールが強いのはどれか心得ていた。
「じゃ、チョコレート味なんてどう?」
「面白そう。じゃあそれにするわ」
「彼女にルシアンを。僕は、スプリッツアー」
アリアは若い女性のバーテンダーに、オーダーを伝えた。
「聞いたことないカクテルね。私が知っているのって、マティーニとスクリュードライバーくらいかしら?」
「きてのお楽しみだね」
アリアは美希に微笑んだ。
そう、このまま彼女の気を惹いて……そして、十無のプロポーズを断らせる。
ここまで来たら造作もなく実行できるだろう。既に彼女は坂本周に惹かれているのだから。
美希の目の前に褐色の液体が注がれたカクテルグラスが置かれ、その隣には、大きめのカクテルグラスに氷が入り、炭酸水の気泡が浮かぶ、無色のカクテルが並んだ。
「乾杯」
二人はグラスを近づけた。
「ん、チョコレートの味がする。甘くて飲み易い」
「そう?」
アリアは口の端で笑みを作った。
美希が飲んでいるルシアンは、クレーム・ド・カカオに隠れてウオッカとドライ・ジンがシェークされているロシアのカクテルだった。
アルコール度数が高いが、口当たりが良く、レディー・キラーと言われるものだ。
一方、スプリッツアーは、白ワインにソーダ水をステアしてあるヘルシードリンクだった。
自分が先に潰れるわけにはいかない。
彼女を前後不覚にし、ホテルの部屋へ連れ込み、既成事実があったかのように装う。
アルコールだけでは不安だから、合わせて睡眠薬も使おうか。そんなことを考えての、アリアの笑みだった。
美希は何も知らず、アリアに気を許してカクテルを愉しんでいる。
アリアに罪悪感がないわけではない。
だが、本気で十無のことを好きだといえない彼女が、このまま十無に寄り添うのは我慢できなかった。
きっと彼女なら、また直ぐに新しい彼が見つかるだろう。アリアは勝手にそう思った。
そう思わないと、罪悪感で押しつぶされそうだった。
彼女は悪くないのに。
「周ちゃんて、旭川に初めて来たんじゃないのね」
「前に、少しだけ来たことがあるけれど」
「そうなの? 道もよく知っているし、覚えが早いのね」
危ない危ない、美希さんをどうするかばかり考えて、演技を忘れていた。
アリアはにっこりしながら、内心、冷やりとした。
「白状するけれど、私、男の人とこうやって二人で会ったことってないの。だから、とっても緊張している」
美希は両手を胸の前で重ね、アリアに弱々しく微笑む。
「こんな素敵な女性を放っておいた男は、損をしたね」
「本当にそう思う? お世辞でもそう言ってもらえると嬉しい」
「本当にそう思っているよ」
気障な歯の浮く台詞も、今のアリアはこともなげに平気で口にできる。
酔っているわけではないが、多少やけ気味に、大胆に、饒舌になっていた。
ここまできたら、後は何も考えず、美希を落とすことだけに専念する。
それが一番良い方法なのだから。
アリアは頭の中でそう繰り返し、もう一度自分を納得させた。
「今まで、何人の女性にその台詞を使ったの?」
「僕は、好きになったらずっと思い続けてしまう。振られても、簡単に諦めることが出来ない奴なんだ」
「今も、そういうひとがいるのね。その人が羨ましいな」
それには答えず、アリアはただ、曖昧に微笑んだ。
「でも今は、あなたがいる……」
「好きとはいってくれないのね」
「あなただって、それを口にするのを躊躇っている」
「周ちゃんは、何かわからない匂いがある。あなたにその言葉を言ってしまうと、魔法が解けて、何もかもが終わってしまうようで怖いの」
彼女の言ったことは遠からず当たっていた。
「美希さんは、十無さんとかみ合わないって言っていたけれど、でも好きなんですよね。僕は、十無さんの次にある安全パイなんでしょう?」
カクテルグラスをうつろに見つめ、両手で挟んで弄びながら、アリアはいかにも切なそうに、小さくため息をついた。
「違う。東君と会うと、今でもどきどきするの。だけど……周ちゃんといるときとは、違う。周ちゃんとは……」
美希は潤んだ瞳で、熱い視線をアリアに送っている。
アルコールも急激に体中を駆け巡り、動悸しているようだ。
「そんな言葉を聞いたら、僕は……でも、僕からは何もいえない。君は十無さんと婚約するのだから」
「嫌、周ちゃん、そんなことを言わないで。私、あなたと、一緒にいたい」
美希はカウンターに肘をついているアリアの腕に手をのせ、すがるように言った。
「本当に?」
そっと、美希の手に自分の手を重ね、アリアは美希の瞳を見つめた。情熱的なやり取りとは裏腹に、アリアはことの成り行きを、冷静に傍観していた。
後は彼女を眠らせるだけ。
美希が化粧室へと席を立ち、今がチャンスと、アリアは次のカクテルをオーダーした。
「オレンジ・ブロッサムを二つ。片方はジンを三、オレンジを一で」
佐藤美希は坂本周の手中に落ちていた。
アリアの思うままに、全てうまくことが運んでいた。
だが、うまくいっているはずなのに、アリアの気分はすぐれなかった。まだ、揺れていたのだ。これで本当にいいのだろうか、と。
ほどなく、バーテンダーがシェークしたオレンジ色の鮮やかな液体が、アリアの目の前に差し出されたカクテルグラスに、並々と注がれた。もう一つは彼女の席へ。
ジン版スクリュードライバー。それも、一方はジンの分量を増やしたカクテル。オレンジはジンを包み込み、多少ジンの量が多くなっても風味はさほど変わらない。彼女が戻る前に、睡眠薬も入れる。それで、全てが終わる。
つややかな唇の美希が戻ってきた。アリアは彼女と微笑を交わす。
「オレンジ・ブロッサム。お祝いなんかで使われるカクテルだよ」
「ふうん、幸せのカクテルね」
「では、美希さんの幸せに」
「ありがとう」
二人はカクテルに口をつけた。
「これもとっても飲みやすくて美味しいわね」
「それはよかった」
アリアはもう、笑みを絶やさない。満面の笑み。美希を包み込むように優しく、そして苦悩に満ちた、緊張感が走る、笑み。
彼女の幸せを踏みにじる権利など、私にはない。
アリアはグラスに半分ほど残っている、オレンジの液体を飲み干した。
カツン。
アリアは空になったグラスをカウンターに置いて俯くと、何かを吹っ切るように一瞬目を硬く閉じて、そしてゆっくりと美希の方へ、苦渋に満ちた顔を向けた。
結局、睡眠薬を盛ることはできなかったのだ。ジンが多いほうのカクテルはアリアが飲んでいた。
「美希さん、僕になんか引っかかってはだめだ。僕はどうしようもない人間なんです」
「何を言い出すの?」
「僕は、あなたにはふさわしくない」
「そんなこと、勝手に決めないで」
美希の瞳は潤み、今にも泣きそうだった。
「僕には愛する人がいます。だけど、絶対にうまくはいかない。そして今も、忘れることができないでいる。忘れようと思って、美希さんを利用したんです。こんな気持ちでは……すいません。美希さんの気持ちを弄んでしまった」
「私では、その人のことを忘れさせることはできないの?」
普段、快活な彼女が、両手を口に当て、涙を堪えているのを見るのは辛かった。
アリアは目を逸らして俯き、「僕のことは、忘れてください」と呟いた。
「私、振られたのね」
「……すいません」
これでいいんだ。彼女は悪くないのだから。
二日後のイブには、彼女は十無と会って、きっとまた笑顔に戻る。
十無は私には決して手の届かない人なのだ。
アリアもまた、泣きたい気分だった。
「悲しいけれど、私が入り込む隙はないのね。……周ちゃんの好きな人って、どんな人なの?」
「仕事第一で、融通が利かなくて、人の気持ちに鈍感で、何を考えているんだかわからなくて……」
「それって、憎まれ口ばかり。それに、なんとなく東君に当てはまる」
「本当だ」
二人は泣きそうな顔のまま、顔を見合わせて笑った。
二人は思い足取りでバ―を出て、エレベーターへ乗り込んだ。
「もう会わないほうがいいでしょう」
「今夜が最後なのね」
美希の瞳に再び涙がたまっていた。
「周ちゃん、ねぇ、お願い」
美希は涙で濡れた大きな瞳を閉じ、アリアにキスをせがむように顔を寄せた。
「美希さん……」
本当に、ごめんなさい。
アリアは優しく美希の頬に口付けをした。
「周ちゃん、好きよ」
不意に、美希はアリアの首に両腕を回して唇を重ねた。
柔らかな彼女の唇。イブにはこの唇が、十無の唇に触れるのだろうか。
唇を重ねている間、アリアは自分でも理由のわからない涙が、胸にこみ上げてきた。
彼女のキスは、ほろ苦いオレンジの味がした。