21・美原ななの影
意外にも、一番遅刻してきそうな東昇が定時に事務所へ飄々と現れ、代わりに副所長の音江槇が就業開始時間を五分ほど過ぎた頃、息を切らせながら飛び込んできた。
「所長、すいません」
「どうした、副所長が遅刻するとは」
珍しく真面目にパソコン作業をしている昇を槇はちらりと見て、「昨日、ちょっと……」と、言葉を濁した。
「そうか、夜遊びは程々にしなさい」
槇の耳元でそう小声で囁いた所長は、年頃の娘を心配する父親の顔をしている。
槇は肩をすくめ、「はい」と小さく返事をした。
「ごめんなさい。お父さんに心配させてしまって」
アリアがそっと槇に近づき、申し訳なさそうに謝った。
「あら、周君のせいじゃないわ。東兄弟が押しかけてきたのが悪いの。でも大丈夫、父は怒っているわけじゃないから」
そう言って、槇はアリアにウインクした。
いいな、槇さん。お父さんの愛情たっぷりで。
アリアはそんな親子関係が少し羨ましく思った。
「でね、周君。今回はちょっと私一人で行きたいのよね。大きな仕事じゃないし。で、今日だけ昇に同行してくれる?」
槇がアリアにこそこそと耳打ちしていると、
「嫌だね。面倒な時だけ俺によこすな」
と、昇がパソコン作業の手を止めて、こちらを振り返って大声で反論した。
「いいじゃない、今日だけ」
「俺だって予定がある。お守りは御免だ」
「副所長、坂本君を連れて行きなさい」
見兼ねた所長が口を挟んだ。
「え〜、だって所長」
「わかったかね」
「はい……」
槇はそれ以上言い返さずに素直に従った。
所長が坂本周を同行させたのは、槇さんがよからぬことに足を突っ込んでいるのではないかと心配だったからだろうかと、アリアは思った。
「今日も冷えるわねぇ……」
槇が白いため息を吐いて呟きながら、予めアイドリングして暖気してあった車に乗り込んだ。
車は屋外駐車場に一晩置いてあったため、車内は充分に温まらず、フロント硝子やサイドミラーにはまだ霜の華が見事に咲き誇っていた。
「僕がいては不都合ですか? やっぱり足手まといでしょうか」
アリアは助手席につくと、すまなさそうに訊いた。
「あなただからじゃないの、一人で済ませたいことなの」
これは、やはり美原なな絡みの依頼だろう。
ななは今も探偵を使って度々自分たちのことを探っているとヒロが言っていた。
この前の所長の話でも、槇が単独で調査している依頼があると話していた。
とすると、これから向かう場所は美原ななの所か。だとしたら、まずい。いくらなんでも化けの皮が剥がれてしまう。会うわけにはいかない。
「じゃ、僕は着いたら車に乗って待っていますから」
「なに言ってるの。張り込みだからまず車から様子を伺うの。いい? これは所長には内緒よ。この調査、詳しいことは報告していないの。ちょっと犯罪絡みで、まずいのよ。だから周君もそのつもりで、他言無用ね」
ようやくフロント硝子の霜が解けて、前が見えるようになった。槇は車を発進させながら、真剣な顔をしてアリアに忠告した。
「わかりました。誰にも言いません」
ななに会うわけではないのか。だったら何処へ向かうのだろう。
「これは、どんな調査ですか」
「定期的に東京での行動調査を行うのが主で、後は居場所の確認ね」
なるほど、自分の居場所はななに逐一報告されていたのか。槇さん一人の調査では、全てが知られているとは思えないが。
「それの何処が犯罪に絡んでいるのですか?」
「調査対象が、泥棒なの」
「泥棒? 泥棒とわかっていて警察に届けないのでは、犯人隠匿になりませんか?」
「限りなく黒に近い白ね。証拠がないの。それに、その泥棒を捕まえたとしても、そう大きい犯罪はしてないようだし、警察だって収穫にはならないわ。それより、Dと繋がりがあるって言うことがね」
「D?」
「大物泥棒の俗称よ」
「長期間の調査ですか? それを所長に知られないようにするというのは無理があるのでは?」
「でも、依頼者のたっての希望なの。私個人だけで、調査を完結させてほしいって。ただ、いつまでって期限を言われていないから一段落したら、父にも話すつもり。それまでは情報ファイルは私が管理しているの」
「僕の他には誰も知らないんですか?」
「昇は私がこそこそ何かやっているって思っているみたい。昇もかかわりがあるのよ、この泥棒と。それで以前、この泥棒の調査を手伝ってもらったことがあって。調査後、報告書を一部分見せて、詳しいことは分からなかったって言ったら、もっと知っているんじゃないかってすごくしつこくて。だから、探られても大丈夫なように、ファイルは常に持ち歩いているの」
槇はこれだったら絶対大丈夫でしょうと自慢げに、ネックレスの先についているペンダントを見せてくれた。
その中には、一枚の青いチップが収まっていた。不用意にも、槇はアリアにファイルのありかを示してしまったのだ。
見つけた。メモリースティックだったのか。
アリアは、一瞬目を見開き、輝かせた。
「だけどねぇ、昇ってどうしてああも彼女にこだわるのかしら。ちょっと焼けるのよね」
彼女? 彼女と今確かに言った。アリアが女だということを槇は知っているのだ。ということは、昇も知っているのか。
「周君、どうしたの?」
「……彼女って、その泥棒は女性なんですか」
動揺を隠してアリアはもう一度確認するように訊いた。
「そうなのよ、外見は少年だけれど実は女性なの。どういう理由があるのか知らないけれど、私も依頼人から始めて聞いた時には驚いたわ。だって、どう見ても少年なのに」
ななが教えたのか。一体何のために。
アリアが考えてみたところで、美原ななの企みは到底想像がつくはずもなかった。
「昇さんは報告書を見て、男だと思っていた泥棒が女だってわかって驚いた?」
「あ、それは教えなかった。それに、今も調査を継続していることも教えていないの。アリア……その泥棒のことだけれど、アリアのことになると昇ってうるさいから。で、私はこの調査があるから、定期的に旭川へ来ているの。多分、父も何かやっているのはわかっているわ。でも、私を信頼してくれている。だから危ないことはしない。他の調査の合間でいいから、居場所と行動を追ってほしいということで、難しいことじゃないし危険はないの。依頼人の意図するところはわからないけれど、娘を取り戻したいっていっていたわ。ヒロ……アリアの義兄ね。ヒロに連れ去られたんだって。でもとにかく、お金払いがいいのよ。うちの事務所はあまり余裕がなくて。だから魅力的なの、この依頼」
槇はアリアが女性だということはさらっと流して、訊きもしないことを取り繕うようにべらべらと話した。アリアが女であることにこれ以上触れたくないような態度だった。
どうやら、昇には女であるということは知られていないらしい。
それだけ確認したアリアはほっとして、槇の昇に対する気持ちまで想像することができなかった。
話しているうちに、車は中心街近くにある目的のマンション前に着いた。
槇はマンションの人の出入りがよく見える路地に、車を止めた。
そこは、アリアが使っているマンションの一つだった。勿論、今は誰もいない。
槇は車にアリアを残してマンションに入り込み、数分後に冴えない表情で戻ってきた。
「やっぱり無駄だった。もう! 何処へ消えたのかしら。確かに旭川にいるはずなのに」
水道メーターは動いていないし、部屋を使った形跡がないようだと槇はぼやいた。
「依頼主には、毎月報告しているんですか?」
「まあね、でも今月はこれじゃあ、たいした情報はないの」
ななは何を企んでいるのだろうか。
虎視眈々と、自分を連れ戻すための算段をしているのか。犯罪の証拠集めでもして弱みを握ろうとでもいうのか。そして、いつでも連れ戻せるように場所を確認しているというのか。
アリアは今は使用していない自分のマンションを自分で張り込みながら考えた。
「ここで待っていても、収穫はなさそうね」
正午過ぎ、槇が何度目かのため息をついた。
槇が張り込みを諦めてエンジンをかけ、その場を去ろうとした時、アリアの携帯電話の着信音が車内に響いた。
液晶画面には、佐藤美希と表示されている。槇に電話を受けていいかと目で確認すると、どうぞと頷いた。
「周ちゃん? ごめんなさい。仕事中よね。あの、今夜、東君のことで相談にのってほしくて、どうしても会いたいの」
美希はおずおずと、だが譲らない口調だった。
十無のことを相談したいというのであればむげにもできず、アリアは困った。
槇と行動して隙を見てファイルを手に入れたいのに。
それに今朝早くヒロに電話をしたら、二十日にDは来たが喧嘩して帰ったという。詳しいことは聞けなかったが、アリアは自分が蒔いた種に責任を感じていた。
このままほうっておくこともできない。何とかDとヒロを仲直りさせるため、仕事後にDへのプレゼントを買いに行って仲直りをするきっかけにヒロから渡してもらおうと考えていたのだ。
「周ちゃん、お願い」
美希は引き下がりそうもない。
「……わかりました」と、アリアのほうが折れた。
Dへのプレゼントは、美希さんに会う前に買いに行くしかない。
アリアは仕方なく美希と会う約束をした。