20・アリアの気持ち
明日の朝、というか今日の朝は、きっと起きられそうにもないなとアリアは思った。
仕事に差し支えるからと言って帰ろうとしても、昇が、自分も同じだから大丈夫だと、何が大丈夫かわからないのだが、強引にそれで押し通し、アリアは午前二時を回っても、帰ることができないでいた。
四人は居間のこたつを囲んで坐り、その周りには缶ビールが無数に空いて転がっていた。今は日本酒の一升瓶に取り掛かっているところだった。
それももう、残りが半分程度に減って、その大半は槇と昇の胃に飲み込まれていた。
昇と槇は陽気に酔っ払い、十無の見合い話をネタに、ずっと漫才コンビのように話し続けていた。
ネタにされている十無は、一人面白くなさそうに仏頂面をしていた。
時折、向かい合わせに坐っているアリアの方を、十無はちらりと盗み見ていた。
周が実はアリアだということに感づいたのではと、アリアは内心冷や冷やしながら居心地の悪い状態で酒を飲んでいたので、酔えるはずもなかった。
それに、アリアはヒロのことも気になっていた。
二十日の夜に会ったのが最後で、その後は連絡もとれず、Dとヒロがあの後二人で大丈夫だったのかと心配だった。
アリアがそんなことを考えていると、隣に座っている昇が、グラスに並々と注がれた日本酒をアリアの目の前に突き出した。
「おい、周、飲め」
「いえ、僕はもうだめです」
「付き合い悪いな、全く酔ってないじゃないか。そんな女みたいな顔をして、女を引っ掛けるのがうまいんだから。一番危ない奴だな」
「人聞きの悪いことを言わないでください」
「だってそうじゃないか。現に美希ちゃんだって周に気があるようだ。是非、俺にもその極意を教えてほしいな」
「もうその話はよしてください」
槇の部屋で飲み始めてから、何度となくその話題になっていた。
酔ってくると同じ話が繰り返される。見合いの後、美希がアリアに会いに来たことも、十無に知れてしまった。
その話の度に、アリアに向けられる十無の視線が痛く感じた。
敵意をもたれているのだろう。きっと、十無のプライドを傷つけている。彼女の方から是非にと見合い話が来ていたのに、余計なところで邪魔者が出てきたのだから。邪魔をする気なんてないのに。むしろ、応援しようとしているのに。早くこの場から立ち去りたい。
アリアは逃げ出したかった。
「周君て、もてるでしょ? こう、なんていうか、ほっとけないタイプね」
槇は十無の傷をつつくように話を広げた。
「もてません!」
「そう? そんなにむきになって否定しなくてもいいじゃない。周君のタイプってどんなひと? 美希ちゃんみたいな娘は?」
佐藤美希のことも困ったが、折角の機会を無駄にしないように、やはりここはCDを手に入れるために音江槇をうまく利用しよう。
アリアはそう考え、槇の表情を捉えるように真っ直ぐ見つめて、ゆっくりと答えた。
「僕は、槇さんみたいなひとが、好きです」
アリアの言動が少なからず槇にインパクトを与えたようで、槇は昇の反応が気になるのか昇の方を一瞥して、「あら」と言い、酔って赤くなった顔が一層赤くなった。昇は顔色一つ変えない。
アリアのちょっとした種まきは成功した。
「おいおい、年上の派手系彼女から、ただの年増の槇に乗り換える気か?」
「昇さん! それは違うってこの前から言っているのに。僕には今付き合っている人はいません」
「昇〜! 酷いわ!」
槇の鉄拳をかわしながら、昇は「ほんとかなあ」と、疑い深そうな目でアリアを見た。
「もうやめましょう、こんな話。僕はそろそろ帰ります」
そう言ってアリアは立ち上がり、隣に座っている槇に、「今度はまた二人で会いましょう」と、そっと槇の肩に手を置きながら耳打ちした。
槇はアリアの顔を見て微かに頷いた。
「おい、先輩より先に帰る気か?」
「僕の指導をしてくれているのは槇さんです。それに、一人暮らしの女性の部屋にこんなに遅くまでいるのはどうかと思います。そろそろ帰ったほうがいいでしょう」
「いちいち棘のある言い方をする奴だ。槇はいいんだ、こいつは女と思っちゃいないから」
「昇、言いすぎだ」
昇が口を尖らせて吐いた槇への暴言に、十無が慌ててたしなめた。
「いいのよ、私も昇に女扱いしてもらおうなんて思ってませんから!」
槇はグラスに残っていた日本酒をくいっと飲み、空になったグラスを勢いよくテ―ブルにおいた。
「眠たくなってきたし、俺達もそろそろ帰ろうか」
「はいはいわかりました」
売り言葉に買い言葉状態になり、険悪な空気が漂いはじめたので、十無がとりなした。昇は仕方なく立ち上がった。
一体この飲み会は誰のためだったのかなんて、昇はきっと忘れているのだろう。
最後は元気付けられるはずの十無が、昇をなだめる羽目になっていた。
「それじゃ、また数時間後に事務所で」
玄関先でアリアが笑顔で槇にそう言うと、「おやすみなさい」と槇の笑顔が返ってきた。十無と昇もそれに合わせて、片手を挙げて「じゃ」と言った。
タクシーが拾える場所まで、三人は並んで歩いた。
アパートの横には忠別川がゆったりと流れていた。キンと張詰めるように冷えて澄んだ空気に、星がはっきりと見えた。
午前三時。多分氷点下十度にはなっているのだろう。
橋の上は風が冷たくて一層寒さが厳しく、耳に痛みを覚えるほどだった。
旭川は川が多い。大小、七百余りの橋があった。
横に見えるツインハープ橋が川霧に霞んで見えて、川面には枝に白く咲いた樹氷が綺麗だった。
青白い闇が幻想の世界を創っていた。
三人はそれぞれの理由で、美しい景色を眺める余裕はなかった。
考えごとをしているのか、十無は両手をコートに突っ込み、黙々と歩いていた。
「冷えるなあ」
昇は堪らず、口に出した。
冷え込んでいるのだろう、吐く息が一層白い。
居心地の悪い沈黙の中、アリアはタクシーを見つけて早く一人になりたかった。
「名前、坂本周だったな?」
アリアに顔を向けずに、十無は唐突に話しかけてきた。
感づかれたのか。またその不安がアリアの頭をよぎった。
「はい……そうですけれど」
「美希さんのこと、どう思っている?」
「えっ? それは、その……」
予想外のことを聞かれてアリアは即答できずに言葉を濁し、どう答えれば角が立たないのか考えた。
「申し訳ないですが、美希さんは僕の好みではありません」
「へえ、はっきりしているな」
昇が意外そうに言った。
「でも、美希さんはもしかすると坂本君に惹かれているのかもしれない」
どうして十無はそんなことを言うのだろう。彼女のことをどう思っているのか。
「十無さんは美希さんのことが好きなんですね? それなら、しっかり繋ぎ止めていてください」
「でも、俺は彼女に失礼なことをしているのかもしれない」
「兄貴、見合いで会った時に何かしでかしたのか」
「いや、そうじゃない。俺は美希さんを好きになろうと努力している。自分の本当の気持ちを否定して、心の奥底へしまいこみ、自分を騙している。それが一番いい方法だと思っていたのだが、こんな気持ちのままお見合いをした俺は、美希さんにかなり失礼なことをしているのではないだろうか」
「それって、『あいつ』のこと……」
昇が話しかけたのを遮るように、十無はアリアにこう続けた。
「坂本君、もし美希さんが君を好きなのなら……」
「弱気にならないでください! それに、僕は……」
多分、あなたが好きなのだ。
言える立場ではないけれど、十無が美希さんに交際を申し込んだと知った時、アリアは胸が苦しかった。
手に入るはずなどないのに。ヒロと手を切ることもできないのに。
今の自分が大手を振って十無に告白することなど、できるはずがないのに。
それでもきっと、自分の気持ちを変えることはできない。だから、そんなことを言わないでほしい。今更、お見合いが間違いだったなんて。お願いだから、微かな望みなど残さないで。
話している途中で黙って俯いてしまったアリアに、何かを感じたのか、十無が静かに語りかけた。
「俺は坂本君のことを簡単に女に手を出す軽い奴だと誤解していた。君には君の色々な悩みがあるんだろう。……誰かを好きになったことがあるんだね」
「……あります。でも、無理です」
「周でも女とうまくいかないことがあるのか」
昇が茶々を入れたが、十無は気にせず優しい口調で続けた。
「どんなひとだ」
「あなたみたいに、無口で思っていることを顔に出さないひとです」
「俺みたい? 女で無口な奴か。いまどき珍しいな。貴重かもしれないぞ。美人なのか? としは?」
少し沈んだ表情になっているアリアに同情し、自分の状況に重ねて見ているのか、十無は普段であればそんな冗談めいたことを口にしないのだが、アリアを元気づけようと、おどけた口調になっているようだった。
アリアはそれに応えるように、ゆっくりと躊躇いがちに重い口を開いた。
「あなたと同じ年で、背丈も同じくらい。切れ長の瞳です」
「よっぽど年上が好きなんだな。でも、やっぱり年下がいいぞ。尻にしかれそうだ。それに俺くらいの背丈となると随分でかい女だな。モデルでもやっているのか? それはかなり望みが薄いな」
「……仕事第一の人で、融通が利きません」
「最悪だ」
「そりゃ本当に望みが薄い」
昇も頷いている。
「恋人にはもっと違うタイプがいいと思うが」
「好きになってしまったものはどうしようもありません」
「まあそうだ」
「……僕のことはいいんです。十無さんは、美希さんと交際を続ける気はありますよね」
「む、断られたわけではないし、美希さんがよければ」
「だったら、そんな中途半端なことをいわないでください。それこそ、美希さんに失礼じゃないですか」
「それより、断ればいいだろ? このまま続けるって、本当にそれでいいのか?」
「昇さんは余計なこと言わないで」
「でも、こんな女扱いの下手な兄貴じゃ、うまくいくものもだめになりそうだ。そうだ、周、お前指導してやれ。堅物兄貴の恋の手ほどき。それがいい。兄貴のことはまかせたぞ」
十無とアリアは顔を見合わせた。
ああ、どうしてこんなことになってしまったのか。もう関わりたくないのに。
そう思いながら、アリアはポケットに突っ込んでいる、冷えた両手をぎゅっと握り締めた。
三人は橋を渡りきってから、大きな通りでタクシーを拾ってそれぞれ帰路についた。
雪も降らない冷えた夜だった。