17・好きな人
同時刻、アリアは十無と同じように落ちてくる雪を見ていた。
「アリア、浮かない顔だな」
「今回の『仕事』は、面倒だからどうしたらいいかなと、ちょっと考え中」
アリアはヒロに悟られないようにそう言ったのだが、実は十無のことを考えていたのだ。
今頃、十無は美希さんとうまくいっているのか。
きっと楽しく過ごしているのだろうと思うと、アリアは胸がうずいた。
「なぜ、まだ坂本周のままでいる? 今日くらい『仕事』のことは忘れろ」
「ごめん、ヒロの誕生日なのに」
ヒロは窓際に寄りかかっていたアリアに寄り添うように立って、アリアの肩にそっと手を置いた。
ここは忠別川沿いにあるアパートの二階の一室。
木造の古いアパートは、二重サッシなのに隙間風が冷たかった。
今夜は冷え込みそうだ。明日の朝、窓霜が見られるかもしれない。
降る雪の先に、川の向こうに見える中心街の明かりが、ぼんやりと白んで見えた。
旭川の中心街から遠い場所ではなかったが、氷点下十三度ほどになる冷え込みの時は、ダイヤモンドダストが煌めき、窓から川霧が見えるのだ。
そして、最近の家には見られなくなった窓霜が、幾何学模様で窓を覆う。
それは二度と同じ模様が現れることがなく、朝日と共に消えていく。
一瞬の美。
日が昇ればただの水滴になる、その時だけのもの。誰にも気づかれずにそのまま消えていく存在。
自分が死んだら、自分のことを覚えていてくれる人がいるだろうか。
アリアは窓を見ながら感傷的になった。
「ワイン、もう一杯どうだ?」
「うん、もらう」
食卓テーブルには、ロ―ストビーフにサラダ、チ―ズの盛り合わせと飲みかけの赤ワインがあった。その傍らに、アリアが贈った、少し派手なベルサーチのネクタイが置いてある。
本当であれば、ホテルでディナーを予約したいところだったが、こんな狭い街では東兄弟にいつ会うとも限らない。
渋々、アジトでのささやかな晩餐となった。
そしてもう一つ、アリアがこの部屋で過ごすことにしたのにはわけがあった。
「あのねヒロ、実は今夜……」
言いかけた時、坂本周用の携帯電話が鳴った。
それは見覚えのない電話番号だった。
アリアが身構えて電話に出ると、聞き覚えのある元気な声が耳元に響いた。
「周ちゃん? 私、美希。今何処にいるの?」
「いや、ちょっと。どうしてこの番号を知っているの?」
「東君の弟から聞いたの。ついでに住所も」
昇め、口の軽い奴!
アリアは内心、悪態をついた。
「ごめんなさい、突然かけて怒った? でも、周ちゃんに会いたかったの。これから会えないかな」
彼女は今夜、十無とお見合いの真っ最中のはずだ。どうなっているのだろうか。
「ねえ、だめ?」
黙っているアリアに、返事を促すように美希が甘えた声を出した。
「わかりました。じゃあ、十五分後に」
「これから出掛けるのか」
「仕方ないよ。今は坂本周だから」
「その女、別に探偵の仕事に関係しているわけではないだろう?」
「でも、十無のお見合いの相手で、しかも婦人警官なんだ」
「だから?」
「だから、心配で……。とりあえず行って来る」
十無との見合いはどうなったのか、アリアは早く知りたかったのだ。
しかし、さすがにヒロにはそう言えなかった。
アリアはコートを着込んで、ヒロの質問から逃げるように玄関へ行ったが、言い忘れていたことを思い出してヒロのほうを振り返った。
「あ、今夜Dもここへ誘ってあるんだ。少し遅くなるって言っていたけれど、きっと来るから」
と言って、ウインクした。
「おい、アリア、どういうことだ」
「じゃ」
玄関先まで来たヒロを、アリアはするりとかわして出掛けた。
「あいつ、仕組んだのか?」
ワイングラスを片手に、ヒロは玄関に一人取り残されて寂しそうに呟いた。
美希から電話があったのは、部屋を出る口実に良いタイミングだったが、どうして自分に電話をかけてきたのか。まだ二十一時過ぎという早い時間なのに。
アリアの気は急いていたが、肝心のタクシーは雪が舞う中、スケ―トリンク状態になっている路面をのろのろと進んだ。
十五分後にと約束したが、結局、着いたのは三十分を過ぎていた。
「遅いじゃない」
「ごめん」
佐藤美希は待ち合わせの買い物公園沿いにあるドーナツ屋で、珈棑を飲んでいた。
アリアも紅茶をオーダーして受け取り、向かい合わせに座った。
「お見合い、うまくいった?」
「こんな時間に私がここにいてそう思う?」
「……だめだったの?」
美希は首を横に振ったのだが、それに反して沈んだ顔で、「彼から、付き合ってと言われたわ」と、答えた。
十無は……本気だ。
アリアは二人がうまくいくことを応援しているつもりだったが、十無が彼女を選んだという事実を聞かされて、顔がこわばってしまった。そして、口を硬く結んだアリアは、目線を彼女からはずし俯いてしまった。
動揺を隠しきれなかった。
「周ちゃん、どうして怖い顔をするの?」
「ごめん、なんでもない」
沸き起こった感情を打ち消すように、アリアは慌てて表情を笑顔に作り直し、「良かったね」と言った。
今更、何をそんなに慌てるのか。十無は彼女を選ぶ。それは、わかりきっていたことのはず。「アリア」は十無の選択肢には初めから入っていないのだから。十無の選択肢、自分もそこに並びたいのか。それを望んだところでどうなるのだ。もう考えない、そう決めたはず。
今まで深く仕舞い込んでいた感情が溢れ出す。アリアはそれを押さえきれなかった。
頭の中で自問自答を繰り返し、アリアはその気持ちを必死に否定した。
「でも、私、悩んでいるの」
美希の声でアリアは我に返った。
美希が目の前にいることさえ、アリアは忘れそうになっていたのだ。
彼女は今、なんと言ったのか。お見合いがうまくいったにしては彼女の様子がおかしい。
「どうして?」
アリアは思わず眉をひそめて美希に強い口調で返した。
あんなに思い続けていたようなことを言っていたのに。どうして悩まなければならないのだろうか。
折角、十無から良い返事をもらえたのに。自分だったら……自分だったら?
アリアは浮かんできた言葉に戸惑った。
「……東君のことは、きっと良い所だけ記憶に残って、理想化していたのね。会ってみたら何かが違った。でも、私からお見合いをお願いしていたし、そのことを言えなかった。それに……」
「それに?」
「……自分の気持ちに正直になるって難しい。周ちゃんは、きっとそんな悩みなんてないのでしょう?」
「いいえ、僕はいつも悩んでばかり。自分の気持ちさえも本当のものなのか、わかりかねている。今の生活を投げうって恋に飛び込むことができない、自分が変わるのが怖い臆病者でしかない」
アリアはそう言って、硬い表情のまま俯き、空になったティーカップを弄んで自嘲した。
アリアは自分でも不思議なくらいすらすらと気持ちを言い表せた。アリアは声に出すことで、改めて自分の気持ちを知ったのだった。
美希はアリアの憂いた表情を見つめ、瞳にかかる、男にしては長い睫毛に目を奪われていた。
アリアが美希の視線に気づいて顔を上げた。目が合った美希は、微笑んだ。
二人が付き合うことを知ったアリアには、気持ちの余裕はなく、美希のその微笑の意味に気がつくことはできなかった。