1. 憧れをなぞる夏
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陽炎がアスファルトを揺らし、世界が熱にうなされているような昼下がり。私は、古びた石垣に沿って続く坂道をのぼっていた。
目指すのは、シィカお姉ちゃんの家。そこだけが、焼けつくような外の世界から切り離された、冷たくて静かな聖域だった。
「お邪魔します……」
引き戸を開けると、使い込まれた畳の匂いと、微かな墨の香りが鼻をくすぐる。そしてその奥に、お姉ちゃんだけの「都会の気配」が混じっていた。
奥座敷では、シィカお姉ちゃんがすでに文机の前に座っていた。
彼女が動くたびに、薄いガーゼのようなブラウスから、彼女が愛用する香水の残り香がふわりと漂う。甘いけれど、どこか雨上がりの森のような、落ち着いた香り。私はその空気を胸いっぱいに吸い込み、彼女の隣にそっと座る。
「今日も来たのね、ワカハ。さあ、まずは墨を磨りましょうか」
お姉ちゃんの声は、風鈴の音のように涼やかだった。
私は頷き、硯に向かう。水を数滴落とし、重みのある墨をゆっくりと回す。
お姉ちゃんは、私の手元をじっと見つめていた。私は、彼女の視線を感じるだけで、背中のあたりがむず痒くなるような、それでいて心地よい緊張感に包まれる。
シュッ、シュッ、という規則正しい音。
それは、私の胸の高鳴りを落ち着かせるための儀式のようだった。
「ワカハ、この歌をどう思う?」
お姉ちゃんが差し出したのは、彼女が愛用している深い紺色の万年筆で綴られた一首だった。
金色のペン先が紙の上を滑り、インクがじわりと染み込んでいく。その優雅な筆致さえも、私にとっては美しさの権化に見えた。
私はお姉ちゃんの横顔を盗み見る。
すっと通った鼻筋、伏せられた長い睫毛。その白い肌には、まだ子供の私にはない「女」の奥行きがある。
私はお姉ちゃんの使う万年筆になりたかった。彼女の首筋に纏う香水のひと雫になりたかった。彼女の紡ぐ言葉の、一音になりたかった。
「……とても、綺麗です。お姉ちゃんみたい」
私がそう呟くと、お姉ちゃんは少しだけ驚いたように目を見開き、それから困ったように微笑んだ。
「ワカハは、私を買いかぶりすぎよ。私なんて、ただの言葉の迷子なんだから」
そう言って彼女が私の頭を撫でる。その指先の温度、かすかに香る都会の匂い。
私は目を閉じ、それら全てを自分の細胞の一つ一つに吸収しようと努めた。
この時間が永遠に続けばいい。
シィカお姉ちゃんと私の、二人だけの静かな、墨色の夏。
けれど、その静寂は、庭から響いてきた「異質な音」によって、あっけなく破られることになる。




