表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

「S」の続き

作者: 未定
掲載日:2026/04/23

  一


 二人はもうだいぶ酔っていた。居酒屋の個室に向かい合わせに座った彼らは、次から次にジョッキを空けた。

 宗一は酒に強いほうだった。だから酔っているとはいっても、やや饒舌になるくらいのものだった。心配なのは宗一の後輩の奏だった。彼女は目が据わり、さっきから一往復の会話も成立しなくなっていた。そうして何か宗一に聞き取れない大きさの声でぶつぶつつぶやいていた。

「そろそろ帰るか」

「いえ、まだまだですよ……」

 不思議とこのやり取りだけはさっきから何度も成立するのだった。


  二


 この日、宗一は相談があると言われて飲みに来たのだった。が、その相談というのは奏の部屋のカーテンを何色にするかというものだった。宗一は黄色がいいんじゃないかと答えた。金運が上がりそうだからと言ったが、それは取ってつけた理由で、本当は目の前のビールを見てそう言ったに過ぎなかった。奏はそのとき、いいとも悪いとも言わなかった。そうしてそれからビールを鯨飲し始めたのだった。

「なあ小山、本当は別の相談があるんじゃないか?」

「ありま……しぇんよ……」

 奏の目はうっとりしていた。念のため、宗一はそれをあまり見ないよう心掛けた。


  三


 そのうち奏はテーブルに突っ伏してむにゃむにゃ言い始めた。

「おい、寝るなよ」

「寝ませんよ……寝ません……寝ま……」

 宗一は奏の肩を揺すった。そのとき宗一の手に奏のやわらかな髪が触れた。宗一は少しぼうっとした。それから手で自分の頬を叩いた。

「少し酔いが回ったか……」

 しかし彼が酔いのせいにしようとしているものは、シラフのときから彼を悩ませていないこともなかった。……


  四


 突然顔を起こした奏は、ほぼ空っぽのジョッキの底にわずかに残ったビールを飲んで、何か言おうとした。が、開いた口は彼女の白い歯を少しのぞかせただけで、すぐに閉じてしまった。

 歯がのぞいた?

 それはたしかに、彼女が「S」の音から始まる何かを言おうとしたために、上下の歯が閉じていたからにほかならなかった。宗一はしかし、それには気づかなかったふりをすることに決めた。……


  五


 ――あのときあの「S」の続きを強引にでも聞いておいたなら、と宗一はいまでも思わないではない。

 宗一はあれから転勤をして、あのまっすぐな目をした後輩に会うこともなくなっていた。風の噂で、最近もといたオフィスの後輩同士が結婚したという話を聞いた。「S」の続きは別の誰かの耳に入ったことだろう。

 酒ならいくらでもいける宗一が、それまで飲めなかったブラックコーヒーを好んで飲むようになったのは、もしかしたらその話を聞いたころからかもしれない。


  六


「主任、小山さんって人知ってます?」

「小山? 小山奏か?」

「ああ、やっぱりご存知でしたか」

「K支社のだろ。昔の後輩だよ。それがどうかしたか」

「なんか退職したそうですよ」

「そうなのか。いまどき寿退社なんて時代でもないだろうが……」

「ことぶき? いやいや、なんか自分で会社作ったとかって聞きましたけど」

「はあ?」

「それで主任に話してみてるんですよ。ほら、うちって将来性あんまりじゃないっすか。知ってるなら紹介してもらおうかなとか、――主任?」

 宗一はなんだか急にコーヒーがかつてのように苦くなった気がした。


  七


 宗一は正月、久しぶりに実家に帰った。前年に緑内障の手術をしたという母は目薬を差しながら器用に喋った。

「あんたもいい年ね」

「そりゃ年も取るさ。人間だもの」

「人間なのになんで恋人ができないのかね」

 宗一はこたつに入ってミカンを剥いていた。

「恋人なんかいなくてもミカンはおいしいよ」

 そう言いながら口のなかに放り込んだひと房は、しかしかなり酸っぱかった。宗一は口をすぼめた。それを見て母が鼻で笑った。

「やっぱり恋人がいないからだわ」


  八


 宗一の実家にはかつて彼の同級生だった何人かの人々から年賀状が届いた。そのなかには子供の写真を載っけているものもあった。宗一はやはり子供は親に似るんだなと当然のことを思った。そうして一瞬、彼が知っているまっすぐな目をミニチュア化して脳裏に浮かべそうになったが、それはかなり危険な空想だったので、頭を振って打ち消した。

 外には雪がちらついていた。彼はちょっとその下を歩いてみたくなった。


  九


 母校の小学校の前を通りかかったとき、誰かが宗一の名前を呼んだ。振り向いてみるとくりぼうだった。栗林という名前のかつての同級生だ。

「そうちん、里帰りか」

「その呼び方は懐かしすぎて死ぬ」

 くりぼうの足元には三歳くらいの女の子がしがみついていた。

「くりぼうにそっくりだ」

「かわいそうなことに……って、誰がかわいそうだ!」

「言ってねえよ」

 彼らは一緒に花の蜜を吸ったころのように打ち解けて話した。しばらくすると、退屈した子供が父の足を引っ張り始めた。帰ろう、帰ろうと言う。

「そうちん、暇ならうち来いよ。母ちゃんもそうちんに会ったら懐かしくて泣くと思うわ」

「いや、おれは……」

 宗一はしかし、断るほどの用事が自分にないことを思い出した。


  十


「ふーん、じゃあ宗一君は仕事と結婚したのね」

 現況を話すと、くりぼうの母親は当時と変わらないしゃがれた声で言った。宗一はそんなありふれた片付けられ方がちょっと不満だった。

「別にそういうわけじゃないんですが……」

「じゃあいい人はいたの?」

「まあいないこともなかったですが……」

「じゃあ逃しちゃったの?」

「逃すというほどの仲でもなかったですが……」

 宗一は相変わらずずけずけと聞いてくるくりぼうの母親に懐かしさを覚えて、ちょっと安心した。しかし彼の言葉はどこまでも歯切れが悪かった。彼の前に出された焼き餅と同程度に。……


  十一


 帰り際、宗一はくりぼうの母親から一つの袋を半ば強引に持たされた。

「それ、おいしいから食べて。パンなんだけど」

「どうもすみません」

「K市に新しくできたのよ。店長さんがかわいらしい人でね――」

 その話は長く続きそうだったが、くりぼうが「そうちん、これからマッチングアプリで知り合った子と会うんだよな」と謎のパスを出して助けてくれた。

「そうそう、加奈子ちゃんと」

 宗一はどこからともなく現れた加奈子ちゃんに会うためにくりぼうの家をあとにした。そうして実家に帰ってくると、本当にマッチングアプリを入れるべきかどうかと少し考えた。が、その考えは間もなく中断された。パンのおいしそうな匂いで、彼の腹が鳴ったためだ。

 彼の母が袋を開いた。

「このパンどうしたの」

「くりぼうに会ってさ、くりぼうの母ちゃんからもらった」

「ちゃんとお礼言ったんでしょうね」

「小学生じゃないんだから」

 しかし彼は自分がちゃんとお礼を言ったか、正直なところよく覚えていなかった。が、ことさらにお礼を必要とするような仲でもないだけに、深く反省はしなかった。そうしてさっそくパンを食べ始めた。

 母は袋の表示を見て言った。

「パン工房こやま――聞いたことないわね」

「…………」

 宗一は些細な一致に反応しすぎるようだった。


  十二


 仕事がまた始まると、宗一は自分のデスクにかじりついた。休憩のとき、そこに載っている小さなウサギのフィギュアを眺めた。それは昔とあるお菓子についていたおまけだった。そしてそれは自分で引き当てたものではなかった。

「そういえばこれ、先輩っぽくないっすよね」

 後輩のそのフィギュアの取り上げ方は無造作だった。覚えず宗一はそれを激しい手つきで奪い返しそうになった。が、それを取り戻しても、何かを取り戻したことにはならないということは明白だった。そのことが彼には苦かった。


  十三


 宗一はK市に来ていた。母がいつだったかのパンを気に入り、彼に買いに行くように頼んだのだった。――いや、そうではない。買いに行こうかと申し出たのは実のところ彼のほうだった。何か淡い期待を胸に抱きながら。……

 そこは内装の落ち着いた少し値の高いパン屋だった。背の低い女性店員が一人カウンターに立っていた。彼はいくつかのクリームパンを買った。それを袋に入れる女性の手は、彼の出会ってきたどの女性の手よりも小さかった。

 彼はふとその袋にウサギのロゴが入っているのに気がついた。

「最近ロゴをつけたんですよ。うちの店長がウサギ好きで」

 しかし彼は、その店長についてとうとう何も聞けなかった。


  十四


 宗一は仕事上の付き合いから、ある一人の女性と親しくなった。彼女はバツイチになったばかりで、もう結婚は懲り懲りだと言っていた。そのくせ独り身は寂しいものだということもよく語った。彼はどちらにもうんうんとうなずいた。

「結局、言わないことで自分を守ってきた人は、言えないことで苦しむようになるのよ」

 なぜかはわからないが、彼女のその言葉が彼の胸に長くとどまった。


  十五


 宗一はもう次はないというつもりで、いつかのパン屋に行った。冬の寒さの和らいだ時期だった。彼がドアを開けて入ったとき、相変わらず背の低い店員と、もう一人の女性が何かを話していた。が、その会話は客の前でするほどのことではなく、ましてや、もといた会社の先輩を前にすることでもなかったらしかった。

「久しぶりだな」

 彼はなんとかその言葉を口にすることができた。再会したら言おうと考えていたすべての言葉を忘れてしまいながら。……


  十六


 いつかのように居酒屋で向かい合ったとき、宗一はなんだか時間が巻き戻ったような気がした。しかしそうではないということは、今回この元後輩がビールを頼まなかったことから認識させられた。

「あのときはぐでんぐでんに酔ってたな」

「はい。カーテンの色がどうしても決められなくて」

 そうして始まった飲みの席は、思っていた五分の一ほどの盛り上がりもなかった。あの日酒のせいで話せなかった彼らは、この日酒のないせいで何も話せなかった。互いに料理をつまむだけの時間が続いた。


  十七


 宗一が酒を頼みだした。それはビールではなく、もっと強いものだった。酒に強い彼が、それでも酔うほどだから、かなり飲んだには違いなかった。小山奏は一滴も飲まずそれを見ていた。

 彼はついにテーブルに頬をつけた。そうして、どれだけ酒を入れても言えないことは言えないということを知った。

「帰りましょうか」

「いいや、まだまだ……」

 彼はいつかのような会話を逆にしながら、そのときの後輩の苦しさを感じていた。


  十八


 いつか、宗一は眠ってしまったようだった。

 ふと目が覚めたとき、タクシーのなかにいた。まどろみのなか、彼はいつだったか後輩を送り届けたときの車中を思い出していた。そのとき後輩は彼の手を取ろうとして、シートベルトばかり握っていた。彼はそこに明確にある答えを見過ごした。彼はその臆病さをやさしさと呼びかえようとした。ついに呼びかえに成功したとき、彼のなかには何も残らなかった。

 彼はそのときの苦さを思い出しながら、また眠りに落ちた。


  十九


 宗一は何か温かなものが頬に触れるのを感じた。それに拭われることで、彼は自分の流す涙をようやく自覚した。その涙の由来というのもまた自覚しないではいられなかった。……


  二十


 次に目を覚ましたとき、部屋はすっかり朝の光に満ちていた。そしてそこはどうやら宗一の部屋ではないようだった。彼はその光を受け入れるために開かれているカーテンが黄色であるのをはっきり見た。その色はビールの色よりもっと淡かった。金運よりも生活感を大事にした色だった。

 やがてその部屋のドアが開かれた。

「先輩、コーヒー飲まれますか?」

 彼はなんだか自分のほうから「S」の続きを言ってもいい気がした。そして、そうした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ