柵の向こうの君と僕
予定よりも仕事が長引き、後ろ倒しになってしまったお昼の休憩を取るために僕はビルの屋上にやって来た。
休憩時間外の屋上に人影はなく広々としている。まるで貸し切りのような空間に少しテンションが上がった僕は、簡易的な花壇の横にあるベンチにビニール袋を置くと中からカップラーメンを取り出し、それとは別に持ってきていた自前の水筒からお湯を注ぐ。
むわっと立ち昇る湯気が僕の鼻を抜け、自分がお腹が空いていたことを思い出させてくれる。
鼻をくすぐる薫りがふっと風に吹かれ揺らぐと少し強めの風が僕の体を撫でて去っていく。首からかけている社員証に付いているストラップが風のせいで変に曲がったのが気になって直す。
仕事中は大体身に着けていて見慣れているはずの『渡舟恵人』と名前と硬い表情の自分の写真が載っている社員証を改めて見て、映っている自分の顔が面白くて苦笑いしてしまう。
『わたりふね けいと』それが僕の名前なわけだが、よく変わった苗字だと言われる。実際僕もそう思っているけど思っているだけである。
どうでもいいことを思考していると、ぐう~っと鳴くお腹が生の実感を与えてくれ同時に立ったままなのを思い出し、カップラーメンが出来上がる数分の時間を堪能しようとベンチに座り、いつの間にか開いてしまったカップラーメンの蓋を手で押える。
オフィス街の空を見ようと何気なく前に目をやったとき、本来ならば絶対に合うはずのない場所で目が合ってしまう。
なぜかカップラーメンを手に持ってしまった僕は立ち上がると目の前にいる少女と目を合わせ続ける。
やや栗色がかった髪を風になびかせる少女は秋の装いをまとい僕をじっと見つめている。揺れる髪の色に負けない綺麗な栗色の瞳を僕に向けてる少女はビルの柵の向こう側に立っていた。
つまりビルの端に立っていて一歩でも後ろに下がれば落下は免れない状況。
「き、きみ……なんでそんなところに」
自分でも笑っちゃうくらい震えた声で僕は柵の向こうにいる少女に話しかける。しかも「なんでそんなところに」なんて間抜けな質問を投げかけるオマケつきだ。
波打つ声が届いたのかわずかに瞳を揺らした少女が僕のことをより深く見つめてくる。しばしの沈黙が流れ、柵を握るわけでもなく縁に立っている少女はゆっくりと人差し指を僕に向ける。
「カップラーメン、落としましたよ」
少女に言われて僕は自分が持っていたはずのカップラーメンが落ちて足下に無残な姿をさらしていることに気が付く。
「そ、そんなことよりもきみの方が、ほら、あれだ……危ない」
説得力どころか語彙力すらない言葉を投げかけた僕に対し少女は表情を変えることなく見つめてくる。
「もったいない……」
「え? いやいや。今大事なのはそこじゃなくてきみがそこに立っていることが問題だ」
ようやく本題に沿った言葉っぽいのが僕から出たことで少女は自分の足下を見て首を左右に振って自分の周囲を見渡す。その行動にやっと気づいてくれるかとホッとしたのもつかの間、次の不安が湧き上がってくる。
少女が自分の置かれている状況を認識してしまうことで、恐怖から足を滑らせ落ちてしまうのではないかと言う不安に駆られた僕は焦って足を一歩前に踏み出す。
「あっ、麺踏んだ」
だが少女から発せられた言葉は僕が予想すらしなかったもので、思わずズッコケそうになる。
「ほら、踏んだら滑って危ないから注意したのに」
決してラーメンを踏んでこけそうになったわけではなく、本当の原因である少女が呆れたような声を出す。
「いや、危ないのはきみの方だろ」
ムッとした僕がやや強めに反論し少女に目を向けると、少女は少し目を大きく開き口元を押えてショックを受けたような表情を見せる。
「あ、いや……怒ってないから……ごめん」
自分の言い方が少しきつかったかもと弁明をする。彼女を刺激し万が一にでも飛び降りるようなことがあったらいけないと、感情的になった自分を叱責する。
「それ、もしかしてお肉マシマシのやつ?」
だが少女からは相変わらず僕の思惑と関係ないことを話し続ける。お肉マシマシなど今はどうでもいいことなのだが、まずは柵からこっちへ戻って来て欲しいゆえに変に刺激してはいけないと、僕は少女が指摘した足下に視線をやる。
少女の言う通り期間限定のお肉マシマシのカップラーメンは、その名に恥じず僕の足下で麺に負けず劣らずゴロゴロと転がり存在感を示している。
お肉と麺に絡まったスープが奏でるハーモニーは湯気となって立ち昇り、目に見えないほどに霧散してもなお僕の鼻から入り空腹を刺激する。
こんなときだと言うのに呑気にお腹が空いたと小さく鳴く。小さな音に気づかれていないかと少女を見るが当の本人は僕の方をじっと見つめている。
聞かれている訳もないかと安堵したとき背後から風が吹き抜ける。
今が春だったと思い出せてくれる爽やかな風は僕と落ちたカップラーメンを撫でると、柵の向こうにいる少女の髪をも撫で栗色の髪をふんわりとなびかせる。
足下が不安定な場所にいるにも関わらず目を細めて気持ちよさそうに風を受ける少女がなんだか儚くも綺麗だと感じてしまう。
「お腹空いた」
儚さとはほど遠い言葉が少女の口からこぼれ、小さな鼻をスンスンと可愛らしく動かす。
柵に置いた手に力を入れた少女はほんのわずかに屈むと大きく跳ねて柵を飛び越える。
一瞬何が起きたか分からないけれども少女がふんわりと宙を舞う姿が綺麗だと、そう感じたことだけは確かだった。
足音も聞こえないほどに華麗に着地した少女は自分の周りを見渡すと、ほんの少し表情を緩める。
「越えれた……」
小さな声で呟いた言葉と、少女が自分と同じ場所に立ってくれたことに安堵のため息をつく。
「無事で良かった。きみ、怪我はない?」
僕は少女に声を掛け一歩前に出たときだった。僕の背後にある屋上と建屋をつなぐ扉が開く。音と気配に反応した僕が振り返るとそこにはビルのメンテナンスをする作業着を着たおじさんが立っていた。
僕を見て一瞬だけ驚いた表情を見せたおじさんだが、すぐに僕の足下を見てため息交じりに話しかけてくる。
「なんだい、こぼしたのかね。掃除しておくから帰っていいよ」
「あ、いや掃除は僕がします……それよりも!」
僕は少女のことを思い出し慌てて振り返る。
「あれ?」
ついさっきまでいたはずの少女はそこには存在しておらず、僕の脳裏にある懸念がよぎり柵まで駆け寄ると下をのぞき込む。
柵に阻まれて覗きづらいが金網の跡が付くほど頬を寄せて見る世界は、道路を挟んが正面のビルと道路を走る車に歩道を行き交う人々と言う代わり映えのない日常。
人が落ちたのであればもっと騒ぎになっているはずだと自分に言い聞かせた僕が振り返ると、怪訝そうな顔をしたおじさんがじっと見ている。
「あっ、あの……ここに来るまでに誰かとすれ違ったりして……ませんか?」
「すれ違う? いやぁ~屋上に来るまでお兄ちゃん以外誰とも会っておらんよ」
僕の質問に更に怪訝そうな表情で見てくるおじさんの視線に耐えられなくなった僕はもう一度辺りを見回して少女の存在を確認する。
いくら見渡しても少女の存在どころか痕跡すらなく、本当にいたのかどうかすら自信がなくなってしまう。
キツネにつままれた。まさにそんな言葉がピッタリな今の僕はフワフワした頭のまま落としたカップラーメンを片付け、手伝ってくれたおじさんにお礼を述べる。
午後からの仕事もどこかフワフワした感じで終えた僕はすっかり暗くなった道を歩き家路へと着く。
今年で32歳、世間ではおじさん扱いされる年齢だが、僕自身その実感は薄く中身は小学生のころからあまり変わっていないように思う。子供のころは30歳の大人といえば立派な、それこそ雲の上の存在だったがなってみるとこれが大したことがなく、むしろ純粋さと可愛げがなくなった分たちが悪いかもしれない。
そんなおじさんである僕は小さなアパートの階段を足音がしないように注意しながら昇ると見慣れたドアに鍵をさして開ける。
年季の入った古臭いアパートの玄関でなんの飾り気も目新しさもないが、長年住んできてお互いに馴染んで落ち着く空間。帰ってきたと感じホッとする空間で僕は手に持っていた鞄を落としてしまう。
「鞄、落としましたよ」
目の前には柵の向こうにいた少女が立っていて「カップラーメン、落としましたよ」と同じ声のトーンで指摘してくる。




