voodoo
氷点下の荒野を、ブレンダンは力強く歩いている。
彼のトレードマークである茶色の皮の古ぼけたコートから水が滴っていた。見れば足元のブーツ、彼のブラウンの髪までびっしょりだ。濡れた茶色のガスマスク、大小様々な形の歯車と、頬に月と星の紋章が刻み込まれたマスクからだけ、彼の肉体を温める真っ白な呼気が漏れていた。濡れ鼠のような体を荒野の冷気が襲ったが、寒気はブレンダンの歩みを止められない。彼の目的地はもうすぐだからだ。
地下通路を脱出すると、予想通りの光景が広がっていた。爆発のパニックで住民の何人かはすでにVOODOOを静脈に打ち込み、ゾンビへと変貌していった。消火の合間にゾンビ達が襲ってくる。パニックは更に大きくなる。静脈注射は即効性があるが、服用したものも数時間かけてゾンビ化するだろう。そしてそれもまたパニックの一因となる。叫びながら右往左往する人々の群れを横目に、ブレンダンはまず火災から肉体を守るため湖に飛び込んだ。彼を止めるものは一人もいなかった。そのまま湖を泳ぎ切り、生い茂る森の中に張り巡らされている有刺鉄線を切って村を脱出した。自分の姿を見たものは誰もいなかっただろう、とブレンダンは歩きながら反芻したが、ふとジャニスが言っていたフェーンという人物とだけ目が合った事を思い出した。ジャニスが言った通り彼は裸で、実に無垢な動物的な瞳でブレンダンを見つめた。その敵意のない瞳にブレンダンは小さく微笑み返して、この場所まで歩いてきた。
顔を上げれば澄み切った空に鮮烈な星々が瞬いていた。新月の所為で星々はいつになくはっきりと存在している。振り返れば夜の暗闇の奥、オレンジ色に燃え盛るギーガービレッジの影が目に入った。振り向いてブレンダンは足を出す。東の果ては白み始めていた。
石と砂を踏むブレンダンのブーツの先で、何かがざらつき始めていた。身体中を覆う水分は冷気にて凍り始めている。それもすぐに溶けるだろう、彼の行先には夜明けがあり、仲間が居る。
そのまままた数十分歩いた。目的地である枯れた岩山のそばに、不釣り合いな赤いロッドスターが停車している。所有者の男の声は静かな砂漠でよく響く。ちょうどいい高さの岩に腰を下ろした足の長い銀髪の男が、咥えタバコでブレンダンに声をかけた。
「流石に時間通りだな」
暗闇の中でもバロンの銀髪はよく映えた。彼の姿を認めたブレンダンは歩きながら彼に返す。
「まあ、全て滞りなく上手くいった。これから後はボーナスみたいなもんだ」
バロンのそばの岩に足をかけて、ブレンダンの体が伸び上がる。バロンの隣に立って燃えるギーガービレッジを眺めた。もう随分離れているのに、人を焼く匂いはここまで届いていたし、燃え盛る炎の赤さも視認できた。
「よく燃えてんなぁ」
そう言ってバロンは笑った。「景気のいい話だ」これにはブレンダンがほくそ笑んだ。
暫く二人は空を舐める火の粉を無言のまま眺めていたが、寒さを感じたのだろうバロンが一度肩を震わせてブレンダンを促した。
「じゃあ撤退だ。こんなクソ寒いところさっさとおさらばしようぜ」
腰を浮かして移動しかけたバロンを制してブレンダンが言う。
「待て」
バロンはブレンダンを見た。ブレンダンの絞られた目がギーガービレッジを見つめている。視線に込められていたのは愛情にも似た信頼だった。炎を見つめたまま、ブレンダンは続けた。
「外部協力者にこの場所を伝えてある。功労者だ。彼女を待とう」
バロンは訝しげに燃え盛るギーガービレッジを再度眺めた。しばらくそれを眺めて、ブレンダンの揺るがない横顔に吐き出した。
「待つって……あそこから来るのか?ここまで?」
バロンは燃え尽きていく小さな村を指差した。そんなバロンを真っ直ぐに見つめたブレンダンは力強く彼にこう返す。
「来る。彼女は必ず来る。だからもう少しだけ待ってくれ」
ブレンダンの力強い確信を聞いたバロンの尻がまた冷えた岩にくっついた。お前がそう言うんなら、そう口ごもりながら寒空の下で腕を組む。ブレンダンは目を細める。薄青に染まり始めた世界の中で、彼女という熱を探す為に。
◇◇◇
呼吸は、もう随分前に止まってしまった。
乾いていく口内が段々と固まっていくのがわかった。腕も中々上がらない。握りしめているバッグが何のためのものか、ミナにはもうわからなくなった。痛みの消えた足を引き摺り出して、体を軋ませながら歩いている。最初に死んだのは視神経、何もかも白くぼやけて見えにくい。赤を目指せ。男性の声が響く。だから赤を目指した。赤は確かにそこにあった。何かに括り付けられた赤い印。それを目指していけばいいと思った。何故?疑問は湧くと同時に忘れ去られた。記憶も自我も、一歩足を踏み出すごとに、腐敗していく脳細胞と共に崩れていく。けれどミナはそこに行かなければならないのだ。何故だかそう感じる。そこに行く事が目的だ。今の自分を動かしているのがなんなのか、ミナにはもう判別できない。身体中から痛みが消え、感覚が消えた。右足を支える軸がなくなってしまった様でバランスが悪い。だから足と体を引き摺りながら明るい方へと歩いている。
途中から赤い何かが消えた。だから何処へ行っていいかわからなくなった。白く濁った瞳で周囲を見た。あそこだ、あそこに赤がある。それは明け始めた大地に登る朝日の鮮烈な赤。あの赤だ、あの赤に飛び込まねばならない。踏み込んだらバランスが崩れた。額の右側に何かがめり込んだ気配がしたが、それが何か認識できなかった。右側が真っ暗になってしまったけれど、何故だかまだ体が動く。だからまだ曲がる足を励まして、腕で体を引き起こした。また歩き始める。
そうして歩いて行った先、誰かの声が聞こえた。
「すげえな」
笑っている様だった。男の声だ。
「ゾンビになりながらここまで歩いてきたのか」
ゾンビとは何だろう。自分は何かとても大切な事を誰かに届けねばならないのだ。けれど周囲は真っ白な世界になっている。もしかしたら赤の中にたどり着いたのだろうか。なら言う言葉はたった一つだ。
モートンに。口を動かそうとしたけれど、干からびた口の中は動かなかった。無理やり口を動かしたら何処かが裂けて口の中に血の味が滲んだ。
「ああうあ……」
ミナはバッグを差し出した。あの人の声が答えた。ずっと聞こえていた声だ。赤い方に来い。東の果てに。彼の声に導かれてここまできたのに固まった指先がバッグを離さなかった。
「……必ず届ける」
彼の声が詰まった。そういえば感情的な彼の声を聞いた事がなかった事を思い出した。そのせいだろうか?ミナの肉体を蝕むケミカルな多幸感が一瞬、その威力を弱めた。脳に滲み出たのは、達成の幸福。それは静かに、そして揺るぎない何かとしてミナの中に満ち満ちていく。幸福と言える感情が、ミナの死んで固まった表情を緩めて笑顔を作る。
「あんたは立派だった。敬意を表すぜ。英雄」
白い視界に滲むのは黒服の誰かだ。その男がそう呟いた。そして銃の安全装置が外された音がした。乾いた発砲音が残響しながら響いてくる。脳細胞が砕かれる最後の瞬間、ミナ・クレーバーはある女性の笑顔を思い出した。浅黒い肌をして水晶の様な大きな目をしていた。深い彫りに二重を刻んだ、勇壮で勇ましい女性傭兵だ。彼女の名前は何だっただろう?でも消えてしまう意識の刹那、彼女は確かにミナに向けて笑いかけていた。
次回。最終話。




