8話「契りを交わす」
「それは……その…」
しゅうは手をもじもじとさせ、視線を逸らした。
「この店を見回ってから」という約束のはずが、どう見ても歓迎ムード。
まるで薫がこの店に就職することが決まっているかのような視線が突き刺さる。
「……そんなに僕を引き止めたいんですか?こんな真似してまで……」
薫を引き止める理由は何だろう。
口止めのため?使い捨ての駒を増やすため?……それとも、自分にしかない何かを狙っているとか。
考えれば考えるほど現実味のない答えばかりが浮かんでくる。
視線を逸らし、何も言わないしゅう。
その態度に、薫は徐々に怒りが込み上げてくる。
「なんとか言ったらどうな──」
薫が声を荒げかけたそのとき、パンッと乾いた音が響いた。
誰かが手を叩いた音。
視線を音の先に向けると、そこには”リト”が立っていた。
ついさっき、あの中年男性をボコボコにしていた張本人だ。
リトは、にこやかに薫の肩へ手を置き、甘い香りと共に囁く。
「薫くん、これはね──しゅうくんなりの優しさや気遣いなんだよ。」
「……は、はい?どういうことですか……?」
リトは、笑顔を崩さず、薫に優しく語りかける。
「俺ね、最初はちょっと驚いたんだよ。こんな店に、自分から足を踏み入れる子がいるなんてさ。
でも…君はこの店のこと、何も知らなかったよね?」
リトの問いに、薫は小さく頷く。
不思議だ。さっきまで胸を満たしていた怒りが、彼と話すうちに薄れていく。
代わりに、説明できないざわめきが胸を覆い始めていた。
「ここで働くバニーのほとんどはね──“買われた子”なんだよ。
でもね、拘束や監禁みたいな物理的束縛はしてない。
…だからこそ、この店を出ていく子も、もちろんいた」
淡々と語りながらも、リトの笑みは一度も揺れない。
その笑顔が、恐ろしくも美しくて、薫は目を逸らせなかった。
「でもね──出ていった子と、連絡が取れたことは一度もないんだ。
……簡単に言えば、死んだんだよ、みんな。」
リトの声色が一瞬だけ低くなった気がした。
薫の背筋を冷たいものが走る。
「だからさ──この店に足を踏み入れた時点で、もう“外”はない。
分かるよね?薫くん」
笑顔のまま、シアンの瞳が真っ直ぐに薫を射抜いた。
その瞬間、薫の全身を恐怖が侵食していくのを、はっきりと感じた。
「じゃあ…なんでしゅうさんは、そのことを黙っていて…」
薫は、震える声で問いかける。
「言ったでしょ。それが、しゅうくんなりの“優しさ”」
リトは、ことさら柔らかい口調で続けた。
その“優しさ”という言葉が、耳の奥でゆっくりと反響する。
薫の視界の端で、リトの笑顔が揺らいだように見えた。
だが瞬きをした瞬間には、もう元の優しい笑顔に戻っている。
現実が、軋んでいく音がした気がした。
出口は……どこにも、ない。