婚約破棄された悪役令嬢は、隣国の王子に白い結婚を申し込まれたが――本気で溺愛されるなんて聞いてません!
「――リリス・アルヴェイン。君との婚約は、今日をもって破棄する」
公衆の面前でそう告げたのは、第一王子にして私の婚約者、アレン・ラザフォードだった。金髪碧眼の、絵に描いたような王子様。だが、今この瞬間、彼の腕には一人の少女が抱き寄せられている。
「私は本当に愛する人を見つけたんだ。だから……すまない」
すまない、だと? その“本当に愛する人”が、つい最近まで私の侍女だったエミリアだということは、知っている。
私は微笑んだ。
「承知いたしました、アレン様。ですが、一つだけ言わせてください」
会場が静まり返る。
「ご心配なく。私は“浮気者に捨てられた可哀想な令嬢”ではありません。むしろ……この瞬間を、心から待ちわびておりました」
私はにっこりと笑い、アレンとエミリアの顔色が変わっていくのを、優雅に眺めた。
ーーー
私は公爵令嬢。だが“悪役令嬢”という名を好んで着ていた。貴族社会の理不尽を押し返すためには、従順な“良家の令嬢”ではいられなかったからだ。
アレンとの婚約も、家の力を背景に結ばれたもの。愛など初めからなかった。彼は“お飾りの婚約者”でしかない。
それでも私は忠実であろうと努めた。だが――
「……エミリアを私の後釜に据えるつもりだったの?」
あの夜、私の部屋に忍び込んできた二人の姿を、私はバルコニーから見下ろしていた。浮気の現場を、確かにこの目で。
その瞬間、私の中の何かが静かに、冷たく凍りついた。
「ならば、その通りにして差し上げましょう。ただし……地獄の玉座に、ね」
復讐の準備はすでに整っていた。
ーーー
「リリス様、まさか本当に婚約破棄を受け入れるとは……!」
その声に振り返ると、隣国の王子、ノア・セイランが立っていた。黒髪に紫紺の瞳。整った顔立ちと無表情の仮面が印象的な男だった。
彼とは以前、外交の場で少し言葉を交わしたことがある。その時も思ったが――感情が読めない。
「ええ、喜んで。これでようやく、自由ですもの」
「……ならば、僕と契約結婚をしないか?」
「は?」
ノアの申し出に、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「我が国でも貴族との政略結婚が必要だ。だが恋愛感情はいらない。“白い結婚”で構わない。君なら信頼できる」
「なるほど。利害一致、というわけね?」
私は唇に笑みを浮かべ、右手を差し出した。
「いいでしょう、セイラン王子。――契約成立よ」
ーーー
新天地、隣国の王宮。ここでは私は、王子妃として扱われた。表向きは政略結婚。だが――
「ノア様、それは……甘すぎます」
「君は契約上の妻だ。必要な礼節は尽くす」
「ベッドに紅茶と花束を運ばれるのが“礼節”なのかしら?」
一見クールで無感情な彼は、なぜか私にだけ異様に甘かった。人前では冷淡なふりをして、二人きりになると優しい。むしろ溺愛とすら呼べるほど。
私が風邪を引けば夜通し看病し、ふと寂しそうな顔をすれば、黙って腕を差し出してくれる。
――これは“白い結婚”じゃなかったの?
そう思い始めた頃、彼が静かに口を開いた。
「……僕は最初から、本気だった」
「……え?」
「君が婚約破棄され、心を押し殺して笑っている姿を見て……その時決めたんだ。君を、幸せにしたいと」
私は、何も言えなかった。ただ、頬を伝う涙を、彼の指先がそっと拭ってくれた。
ーーー
その後、私は復讐の最終段階に移った。
アレンとエミリアは、私の父のコネを失い、宮廷から追われ、結婚式の資金すら捻出できず困窮していた。そこへ――
「こちら、国際的な詐欺及び情報漏洩の証拠です」
ノアの使者が渡した証拠で、彼らは完全に終わった。アレンの爵位は剥奪され、エミリアは身分剥奪。
彼らを最後に見たのは、追放される馬車の中だった。
エミリアは泣いていた。アレンは私を睨みつけていた。
だが私は、何も言わなかった。
ただ、手を握ってくれたノアの隣で、初めて“心からの自由”を手にした。
ーーー
あれから一年。
私は、ノアの正式な妃として式を挙げた。契約ではなく、心で結ばれた結婚。
「これが、本当の……白い結婚、ね」
「違うよ。これは、“純白の愛”だ。君の全てを受け入れて、僕は誓う」
静かな誓いの言葉の後、彼の唇が私に落ちる。
私はこの手を、もう二度と離すまいと誓った。
――悪役令嬢と呼ばれた私が、今ようやく幸せを手に入れたのだから。
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「リリス。……この手紙、見てくれ」
ある日の朝、ノアが私に差し出した手紙は、王宮に届いた一通の密書だった。
――《アルヴェイン家の令嬢、リリスは隣国の王子を誘惑し、国家転覆を企てている》
「……随分と下手な作文ね」
私は苦笑しながら手紙を読み終えた。筆跡は幼稚で、内容はくだらない妄想そのものだったが、問題はこれが“貴族会議”の議題に取り上げられたことだ。
「差出人は不明だが、裏に何者かがいる」
ノアの声は低く、冷えた氷のようだった。その目の奥には、私を守ろうとする強い意志がある。
「放っておいていいわ。むしろ、相手の出方を見ましょう」
私は静かに微笑んだ。
――これだから“悪役令嬢”の肩書きはやめられない。
ーーー
数日後、王宮である噂が流れ始めた。
「リリス様は前の婚約者を捨てて、隣国の王子を手玉に取ったらしいわ」
「もともと策略家だったそうよ。“白い結婚”も、実はノア様を籠絡した結果だとか――」
くだらない、取るに足らない雑音。だが、私を貶めようとする者たちが確かに動いている。
「リリス、僕が全部処理しよう。君は何も気にする必要は――」
「だめよ、ノア。それじゃ、私が“庇護されるだけの女”になってしまう」
私は彼の頬に触れた。
「私は“悪役令嬢”。自分の敵は、自分で片付ける主義なの」
ーーー
その夜。私はかつてアレンとエミリアを追い詰めたように、宮廷の情報網を使って密かに動いた。
やがて浮かび上がった名前――
「……エミリア」
使用人として潜り込んでいたのは、あの元侍女だった女。アレンとともに国外追放されたはずの彼女が、顔を変え、名を偽って王宮に潜入していたのだ。
そして彼女の後ろには、アレン本人もいる。
「どうやら、復讐を仕掛けに来たのは向こうのようね」
かつての復讐者たちが、今度は自分を標的にしてきた。――面白い。
ーーー
数日後、王宮の舞踏会で“事件”が起きた。
宴の最中、ひとつの薬がワインに混入され、狙いは私だった。
「陛下、妃殿下が!」
騒ぐ周囲をよそに、私はふらつきながらも静かに立ち上がった。
「……残念ね。毒に耐性があるって、知らなかった?」
周囲が凍りつく中、私の後ろからノアが現れ、剣を抜いた。
「侵入者は、そこだ」
隠れていたエミリアが引きずり出され、怯えた目で私を見つめていた。
「な、なぜ……あんな国で王妃にまでなれたのに……あなたが……!」
「簡単なことよ。私は誰にも媚びなかった。ただ、自分の誇りを捨てなかっただけ」
ノアが私の隣に立ち、言った。
「そして僕は――そんな君を、誰よりも愛している」
ーーー
事件の全貌は暴かれ、アレンとエミリアは再び国外追放。今度は他国からの正式な手配もつき、二度と戻れない。
事件後の夜、私は静かな寝室でノアの胸に顔を埋めた。
「……怖くはなかったか?」
「少しだけ。でも……あなたがいたから、大丈夫だったわ」
彼の腕が、私を包む。
「リリス。契約から始まったけれど、今の僕たちは、形じゃなく“心”で繋がっていると思ってる」
「ええ。私も、そう思う」
「だから、もう一度、ちゃんと伝えるよ。僕は君を……心から、愛している。何があっても、絶対に離さない」
私は微笑んだ。
「それじゃあ、私も答えないとね」
「……?」
「この“悪役令嬢”リリス・セイランは、あなたの愛を、すべて受け入れるわ。――ずっと、ずっと一緒にいてね」
そして、二人の影が月明かりに溶けていく。
それは確かに、“真実の愛”の証だった。
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「――ノア。最近、少し……気分が悪くなるの」
春の朝、王宮の窓辺で紅茶を手にした私は、遠くを眺めながらそう呟いた。
「食べ過ぎか? それとも昨日の夜更かしのせいか……?」
「……たぶん、どちらでもないと思うわ」
彼の視線が鋭くなった。
「もしかして……」
「ええ。おそらく……赤ちゃんよ」
その瞬間、ノアの紫紺の瞳が大きく見開かれた。
「……本当、に?」
私は微笑んで、そっと彼の手を自分の下腹部へ添えさせた。
「まだ、ほんの小さな命だけど……確かに、ここにいるの」
彼は言葉もなく、ただ私を優しく抱きしめた。
彼の体温が、かつてないほどの幸福感を運んできた。
ーーー
王宮は一気に祝賀ムードへと包まれた。
“隣国の悪役令嬢”と揶揄されていた私が、今や正式な王妃であり、王子の第一子を身ごもっているのだから。
「リリス様、つわりは大丈夫ですか?」
「少し匂いに敏感だけど……これくらい、平気よ」
しかし、体調の変化は容赦なかった。
眠れぬ夜、味覚の変化、情緒の不安定――私は強がりながらも、ひとつずつ乗り越えていった。
そしていつも、ノアが隣にいた。
「お前は何もかも一人で抱え込もうとする。……頼ってくれていいんだぞ」
「私、強いから」
「……それでも、君は僕の妻で、僕が守るべき存在なんだ」
その言葉が、何よりの支えになった。
ーーー
穏やかな日々に、またもや陰が差す。
――王妃に呪詛が仕掛けられた。
それは古代魔術による禁術で、腹の子に悪影響を与える可能性があるという。
調査の結果、犯人は国外から雇われた呪術師だった。背後にいたのは、やはり――
「……アレン」
元婚約者であり、かつて追放された男。国を出てもなお、私を恨み続けていた。
「許さない」
ノアの声は氷の刃のように鋭かった。
「リリスを、そして子を傷つけようとした罪。――二度と、陽の下を歩かせはしない」
彼は即座に軍を動かし、関係者を拘束。そして犯人一味は、すべて法の下で裁かれた。
「……怖かった?」
「いいえ。むしろ、私を守ろうとするあなたが誇らしかったわ」
私はお腹に手を当て、優しく微笑んだ。
「この子は……きっと強く、そして優しい子になる」
ーーー
十月十日が経ち、春がまた巡ってきたある夜――
「う……っ……!」
激痛が、波のように私を襲った。
「リリス! 医師を呼べ、すぐに!」
分娩室に運ばれた私は、苦しみの中で、ノアの声を聞いた。
彼は終始、私の手を握っていてくれた。
「君なら大丈夫だ。強いから、乗り越えられる」
「……あなたがいるから……負けない……!」
痛みに叫びながらも、私はその言葉を支えに、最後の力を振り絞った。
そして――
「オギャァアアアア!」
産声が、夜の静寂を切り裂いた。
「おめでとうございます。お元気な男の子です」
我が子を胸に抱いた瞬間、全ての痛みが報われたような気がした。
「……かわいい」
「君にそっくりだ」
ノアが笑いながら、そっと我が子の頬に触れる。
「この子は、どんな名に?」
私は一瞬だけ迷った末、ゆっくりと口にした。
「“レオ・セイラン”。――強く、気高く、優しく育つように」
ーーー
数年後。
庭園では、幼い金黒の髪を揺らす少年が無邪気に走り回っている。
「お母様! 見て見て、鳥さんが!」
「まあ、すごいわね、レオ」
「父上に教えてもらったんだよ!」
ノアはベンチから微笑み、レオの元へ歩いていった。
私は、その後ろ姿を見つめながら思う。
かつて“悪役令嬢”と呼ばれ、全てを失ったあの日。
私は愛も未来も信じられなかった。
けれど今――
隣には最愛の夫がいて、胸には最愛の子がいて。
私は、確かに幸せの中に生きている。
「ねえノア。私、幸せよ」
「……僕もだ。君と出会えて、心からよかったと思っている」
彼の手が、私の手を包む。
その温もりに包まれて、私はそっと目を閉じた。
――白い薔薇のように、静かで純粋な愛。
それが、私たち家族のすべてだった。
そして物語は、優しい余韻と共に幕を閉じる。